猫の手貸します

case by case.3

誰が為に鈴は鳴る(2)




 中学三年生の一時期、佳奈子はイジメに遭っていた。
 暴力的なものではなかったし、物を隠されたり壊されたりすることもなかった。金品を脅し取られるようなことは一切なく、「キモい」 とか、「死ね」 とかの乱暴な言葉を投げつけられることもなかった。
 ──ただ、笑われるだけのイジメだった。
 話しかけても、誰からも返事をされない。勇気を出して女の子たちの輪の中に入っていっても、巧妙に無視をされて、そのうち知らん顔で佳奈子だけを外して場所を変えられる。そして、離れたところで、ひそひそ、こそこそ、と何人かが囁きを交わして──
 笑う。
 クスクスと、可笑しそうに、楽しそうに。何を喋っているのかは決して聞こえない。けれどもその笑いの内容は、昨夜のテレビのことだったり、授業中に起きた愉快な出来事に関わるようなものではないことだけが、はっきりと判る。チラ、チラ、と佳奈子のほうに視線を向けては、すぐに頭を寄せ合って、クスクス笑うからだ。
 何がきっかけでそういうことになったのか、佳奈子のどこにそうされる原因があったのか、何度考えても心当たりがなかった。いいや、きっと、理由なんてなかったに違いない。その頃、そういうことはよくあったからだ。佳奈子の前には、数人の女の子たちが、同じことをされていることは知っていた。たまたま不運にも今回廻ってきた 「ターゲット」 が佳奈子だった、という、それだけの話だったのだろう。
 そういう幼稚で意味不明なイジメの対象にされても、大体数週間くらいでけろりと元に戻るのが通常だ。その期間、ひたすら辛抱していれば、また的は、他の女の子へと移る。そのことが判っていたから、佳奈子は歯を喰いしばり、残酷な悪意のこもるクスクス笑いに、じっと耐え忍んだ。
 ずっと永遠に続くわけじゃない。これは彼女たちにとって、他愛ないただのゲームでしかない。ほんの少し頭を低くして目立たなくして、我慢していれば、この息苦しい波はいつか自分の上を通過していくはず。
 何度もそう自分に言い聞かせたけれど、つらかった。
 つらくて、苦しくて、いつでも泣きそうだった。ついこの間まで仲良くしていた女の子たちさえ、今は佳奈子の近くに寄ってもくれない。こんな時、上手に繋ぎをとって穏便に事の収拾を図れるようなリーダーシップのある子や、優等生たちを頼ればよかったのかもしれないけれど、もともと友達の多いほうではなく、器用に付き合いをこなせる性格ではない佳奈子には、それも難しい。ぽつんと一人きり、席に座って下を向いているしかなかった。
 ここで机に身を突っ伏したり、怒ったり、泣き出したりしまっては、クスクス笑いはさらに大きくなるだろう。「ゲーム」 の期間がもっと長くなってしまうかもしれない。こちらが反応すれば、女の子たちの目が獲物を見つけたように輝きだすことも判っていた。
 こんな時は、ただ人形のように、動きを止めて、息を潜めているしかないのだ。そうしたら、いつかは飽きる。標的が変更される。次の子はあのクスクス笑いをしているグループの中から見つけ出されるのかもしれないし、そうではないかもしれない。誰だっていいのだ、きっと。楽しければ、面白ければ。
 そう思って、佳奈子は唇を噛みしめ、虚空に視線を据えつける。身じろぎもせずに、教室のあちこちで湧き上がるひそやかな笑い声を聞き流す、必死の努力を続けていた。


 それでも、授業中や休み時間はまだよかった。終業後も、一人でそそくさと帰ればいいのでまだしも気が楽だった。でも、なによりつらかったのは、昼食の時だ。
 みんなが机を寄せ合って、きゃあきゃあと楽しげに笑っている中、たった一人、離れ小島のように隅っこに置いた机で、黙々と箸を動かしお弁当を食べなければいけないのは、拷問のような苦行だった。
 だからある日、佳奈子は決心をして、チャイムが鳴ると、そっとお弁当を持って教室を出ることにした。
 誰もいない静まり返った廊下を、とぼとぼとお弁当を手に歩く佳奈子に追い討ちをかけるように、廊下に面した教室からは、賑やかな喧騒が響いてくる。惨めでたまらなくて、目に涙をいっぱいに溜めながら、校舎の外に出た。
 散々うろうろして探し回り、ようやく見つけたのは、校舎裏の非常階段の下だった。校舎の窓からも、校庭からも死角になっていて、誰にも見つからない。校舎と、学校をぐるりと囲む塀とに挟まれて、日当たりは最低に悪かったけれど、静かで、人っ子ひとりいなくて、ほっとした。
 これからここでお弁当を食べよう、と思いながら、佳奈子は包みを開けた。自分の娘が、現在学校でこんなことになっているなんて何も知らない母親は、いつもと変わらず華やかで可愛らしい彩りのお弁当を作ってくれている。以前は、佳奈のお弁当って美味しそうー、と友達に羨ましがられていたのにと思うと、情けなくて、申し訳なくて、また泣けてきそうだった。
 プチトマトに箸をつけて、ぼそぼそと口に運んでいた時、いきなり、「あれっ」 という、素っ頓狂な声が耳に飛び込んできた。
 びくっと全身で驚いて、ぱっと目を上げきょろきょろしたが、誰もいない。
 え──と戸惑うと同時に、また声が聞こえた。
「こんにちはー、お食事中失礼しまーす」
 明らかに佳奈子に向かって話しかけている声は、頭上から降ってきた。一瞬、天から聞こえてくるのかと錯覚しそうになったが、もちろんそんなわけはなくて、声の主は人間の女の子で、しかも塀の上にいた。
「え……」
 それを目に入れて、今度は声が出てしまった。女の子はセーラー服姿、つまりスカートを履いているにも関わらず、どうやってか学校の向こう側から塀によじ登り、しかもこちらに飛び降りようとしているではないか。
「ごめんね、着地した時に砂が飛ぶかもしれないから、お弁当に蓋をしてもらえる? あ、あとついでに目をつぶってもらえる?」
「え、と、あの」
「早く早く、誰かに見つかる」
 女の子は佳奈子の当惑にもお構いなしで、急かすように言った。わけが判らないながら、どうしていいかも思いつかずに、とりあえず言われるがまま、お弁当に蓋をし、ぎゅっと目をつぶる。
「どーもありがとー」
 軽い調子の声がしたと思ったら、すぐに、ズザッという砂を擦るような音がした。目を開けた時には、彼女はもう地面にすらりと立っていたので、佳奈子は着地をした際のスカートの中身を目撃して赤面する羽目にならずに済んだ。
「ど、どうしたの」
 いろいろと訊ねるべきことはあったかもしれないのだが、佳奈子の口からはそんな質問しか出ない。目を白黒させるより他に、どうしようもなかったのだ。
「パン買ってきたの。今日、ちょっと寝坊しちゃって、朝、買っていくヒマがなかったのよね」
 女の子はにこっと笑ってしれっと答えた。
「え……外に買いに出たってこと?」
「うん、そうよ」
 平然と肯定されて困惑する。
「昼休みに外に出てもいいの?」
「いいわけないじゃない。だから、わざわざこんな労力をかけてるのよ。塀を登り降りするの、けっこう大変なんだから」
 なぜ、そんな風に威張っているのか、よく判らないし。
「どうして学校のパンを買わないの?」
 この学校は基本、「昼食は弁当」 ということになっているのだが、事情があってお弁当を持ってこられない生徒のために、数種類のパンが学校で販売されている。
「あそこのパン美味しくないでしょ? 毎日毎日だと、さすがにゲンナリするのよね」
 そう言って彼女が見せてくれたのは、学校の近くの、美味しいと評判のベーカリーの袋だった。確かに学校のパンは不味いが、だからって、学校を抜け出してまでパン屋に買いに行く中学生の女の子がいるとは思わなかった。
 そんな規則破りの行為を平気でするわりに、彼女は服装が乱れているわけでもなく、先生の目を盗んでこっそり化粧をしたり、ケータイを持ち込んだりするような軽薄なタイプには見えない。真っ黒な髪はきっちり後ろでポニーテールにして、スカートもそんなに短いわけでもない。可愛い顔立ちだが、どちらかといえば、頭の良さそうな優等生のような外見をしていた。
 毎日ってことは、お母さんにはお弁当を作ってもらえないのかな、と佳奈子はちらっと思う。仕事が忙しいとか、入院しているとか、そういう理由があるのかもしれない。でも、初対面でそんなことまで口に出すわけにもいかず、佳奈子は曖昧に、そうなの、と返事をするに留めた。
「よかったら、私もここで食べてもいい?」
 女の子に笑いかけられて、驚いた。
 一人こんな物陰でひっそりと身を潜めてお弁当を食べている佳奈子を見て、彼女がどういう風に思っているかくらいは想像がつく。ひょっとして、同情されているのだろうか、と思うと恥ずかしいような気もしたが、それでも、孤独に押し潰されてぺしゃんこになりかけていた時だったので、佳奈子の心はじんわりとした。
 うん、と頷くと、女の子はにっこりして佳奈子の隣に座った。早速袋からパンを取り出し、もぐもぐ食べはじめる。美味しそうな、焼き立てパンのいい匂いが漂ってきた。
「何年生?」
 と女の子に訊ねられた。
「三年生」
「あれ、一緒だ。じゃあ今まで、同じクラスになったことがなかったのね」
「あ、私、二年生の時に転校してきたから」
「ああ、そうかあー」
 やり取りとしては、そういう、ひどく他愛のないことばかりだったが、佳奈子は嬉しかった。こうやって誰かと普通に話が出来るなんて、何日ぶりだろう。
 女の子は、人と人との間の距離を容易く縮めてしまえる才能を持っていて、打ち解けた態度は、すでに以前からの友達同士だったように思えるほどだった。イヤな感じはまったくしない。佳奈子の名前を聞いて、「佳奈ちゃんって呼んでもいい?」 と言われた時も、ほっこりとした喜びしか感じなかった。
「私、咲月時子。佳奈ちゃんの好きなように呼んでね」
 彼女は笑顔でそう言ってくれたけれど、この子もやっぱり今の佳奈子の立場を知れば、もう近寄ってはこないのだろうな、と思えたから、遠慮がちに、「咲月さん」 と呼ぶことしか出来なかった。


 けれど驚くことに、時子は次の日から、毎日非常階段の下にやってきて、佳奈子と一緒にお昼を食べるようになった。
 もしかして、時子もクラスで孤立しているんじゃないか、と思ったこともあったが、たまに廊下などですれ違ったり、教室前を通り過ぎた時に見る彼女は、いつでも大勢の友達に囲まれていた。少しがっかりしたものの、余計に疑問が募る。どうして佳奈子に付き合ってくれるんだろう? 同情? 親切心? 憐れみ?
「いつも私と一緒にお昼食べて、友達に何か言われない? 教室で、みんな、咲月さんのこと、待ってるんじゃない?」
 嫌味っぽいかなと思いながらも、確認せずにはいられなくて、そう問いかけてみたら、時子はきょとんとした。
「あ、ごめん。私、ジャマ?」
「ジャマなんて……ことはないけど」
 もごもごと小さな声で言って俯く。ただ、時子がしょうがなく、仲間ハズレの可哀想な子、の相手をしてくれているのだとしたら、どうにも切ない気分になってしまうだけだ。
「あのね、私のうち、今ちょっとゴタゴタしてて」
「え……うん」
 時子はさらりと言ったが、目線は自分の持つパンに向かっていた。彼女が毎日お昼に食べているのは、必ずコンビニのおにぎりやパンだ。
「お弁当を用意できるような状態じゃないの。包丁もナイフも凶器になりそうなものは全部隠してあるから、台所も使えなくて」
「……う、ん」
 何か今、すごいことを言ったような気がするのだが、時子の淡々とした口調に、佳奈子は質問を挟めない。
「これまでずっとお弁当を持ってきてた人間が、毎日パンやコンビニおにぎりばっかり食べるようになったら、いろいろと心配されるよね? ちょっと、そういう事態は避けたいなあって思って、このところ昼休みは教室から離れるようにしてるの。みんなには、ダイエットのために昼は抜き、って言ってある」
「じゃあ、私が来るまで、ここで一人で食べてたの?」
「なんにも食べなきゃお腹が空くじゃない?」
 けろりとして時子は笑ったが、佳奈子は何を言えばいいのか思いつかず、黙り込んでしまった。ということは、この場所はもともと、時子が先に見つけていたのだ。あとからやってきた佳奈子が、「どうしてここに来るのか」 などと言える立場ではなかった。
「ごめんね、割り込んで」
「あはは。私こそ、佳奈ちゃんのお弁当タイムをうるさくしてごめんね。私は佳奈ちゃんと一緒に食べるの楽しいけど、佳奈ちゃんが一人で静かに食べたいのならどこか他のところを見つけるよ」
 佳奈子はぶんぶんと首を横に振った。赤い顔で、「私も、咲月さんと一緒に食べたい」 と言うと、時子が安心したように、よかった、と顔を綻ばせた。
 それを見て、佳奈子は決意した。
 時子の家にどんな事情があるのかを、訊ねることだけはしないでおこう。聞いたら、もしかしたら答えてくれるのかもしれない。けれど、その時はきっと、なんでもないような顔で、なんでもないことのように、時子はそれを口にするだろう。
 ……それだけは、させてはいけないような気がした。


 時子はいつも、明るい女の子だった。
 可愛い顔をしているのに、遠慮というものがなく、教師や男の子たちに対して、よくズケズケときついことも言った。冗談も好きだし、普通に流行りものも好きなわりに、「おばあちゃんの豆知識」 みたいな変なことをよく知っている。佳奈子はお腹が痛くなるくらいに笑い転げて、時子とお喋りしていると、教室での暗い出来事もすっかり忘れてしまうくらいだった。
 一度、母親に頼んで、お弁当を二つ作ってもらい、時子に手渡したことがある。少し差し出がましすぎはしないだろうかとヒヤヒヤしたが、時子は大喜びでそれを受け取った。
「すごい! 美味しそう! 可愛い! キレイ!」
 あまりに大絶賛するので、かえって気恥ずかしくなる。
「食べようよ、咲月さん」
「もったいなくて食べられない」
「腐っちゃうよ」
 何度も勧めると、ようやく惜しそうに食べ始めたのだが、一口ごとに 「美味しい」 を連発するので、やたらと時間がかかる。
「味は、普通だと思うけど……」
「そんなことないよ、すごく美味しい。市販のお弁当に入ってる卵焼きじゃない卵焼き食べたの、久しぶりだなあ。甘さ控えめで、ふんわりしてる。お母さん、卵焼きの達人?」
「普通だから。うちのは、砂糖じゃなくて、みりんで味付けするから、甘さが控えめなんだよ。咲月さん、卵焼きは作ったことある?」
 言ってから、しまったなと思った。現在の時子が、どうやら、昼だけではなく、朝も夜も、手作りの食事とは縁のない環境に置かれているらしいことは薄々察せられるのに、余計なことを言ってしまっただろうか。
「私、目玉焼きも作れないんだけど」
 しかし、時子の返事に仰天して、そんなことも吹っ飛んだ。
 ええー! と口を真ん丸にする。
「え、目玉焼きでしょ?」
「うん」
「フライパンに卵を落として焼くだけでしょ?」
「なぜか、白身も黄身も真っ黒になるの」
「な、なぜか?」
「なぜか」
 時子は大真面目な顔だった。違う意味で、この問題は追及しないことにしよう、と佳奈子は心に決めた。なんだか、人智では解明できない謎に突き当たるような予感がする。
 卵焼きをゆっくりと味わって、時子は、ふー、と息を吐いた。
「美味しいね。おかあさ」
 と言いかけて、一瞬、口を噤む。
「……佳奈ちゃんのお母さん、料理が上手だね」
 もしかしたら、最初に言いかけた 「お母さん」 は、佳奈子の母親のことではなかったかもしれない。うちのお母さんの卵焼きは、と言おうとしたのかもしれないが、時子はそれを呑み込んだ。
 そこに気づいて、佳奈子は慌てたように、そうかなあ、と相槌を打った。
「私は、卵焼きよりも、スクランブルエッグのほうが好きだなあ」
「…………」
 時子は佳奈子のわざとらしい方向転換に、目元を緩めた。
「──佳奈ちゃんは、優しいね」
 ふわりと笑う。
「私、佳奈ちゃんのこと、大好きだよ」
 そう続けられた言葉に、佳奈子はふいに、泣きたいような気持ちになった。


 ──でも、結局、時子と二人で昼休みの時間を共有したのは、ほんの二週間程度のことだった。
 クラスメート達が、ゲームに飽きて、佳奈子へのイジメをぱったりと止めたのだ。いつもよりも期間が短かったのは、佳奈子が時子と一緒に時間を過ごすことで、目に見えて明るさを取り戻したからだろう。時子が校舎内で会うたび、「佳奈ちゃん」 と気さくに手を振ったりしてくれたことも大きかったかもしれない。佳奈子のクラスの女の子たちは、それを見て、驚いたように目を見開いていた。
 とにかく、思ったよりもつまんなかったから、もうやーめた──ということらしかった。
 今までの陰険な態度がウソのように、女の子たちは佳奈子に対して、普通に話しかけたり、接したりするようになった。もちろんほっとしたが、少々複雑だ。その目には、まったく罪悪感というものはない。佳奈子がどれだけ苦しく、傷つけられたか、彼女たちは想像してみたこともないのだろうか、と思うと、なんとなく背中が冷たくなる。
 反省も、後悔もない。だから、これから何度も、同じことをし続ける。ということは、また佳奈子に 「順番」 が回ってくる可能性だって、大いにあるということだ。
「ねえ佳奈、今日のお昼、一緒に食べようよ」
 と三人グループに声をかけられ、佳奈子は迷った。
 佳奈子が行かなければ、時子はあの場所で一人で食べることになるのだろうか。たった一人で? そんなこと、させられない。時子のおかげで、佳奈子はどれだけ救われたか判らないのだ。
 でも、断れば、今度こそもっとタチの悪い 「イジメ」 が自分に降りかかってくるのかもしれない。ゲームではないもっと本格的な疎外を受けたら、佳奈子は耐えられる自信がない。あのクスクス笑いだって、十分死にそうに苦しかったのに。
 迷った挙句、昼休みになる前に、時子に会いに行った。
「あの……あの、今日のお昼なんだけど」
 俯き、困惑し、泣きそうな顔で口ごもる佳奈子の肩を、時子はぽんと軽く叩いた。最後まで言わせずに、頷いた。
「うん、わかった」
 怒りもしなかった。何があったか聞いたりもしなかった。時子は最初から最後まで、佳奈子に何も聞かなかった。寂しい、とも、よかったね、とも、言わなかった。
 ただ、最後に、
「お弁当、美味しかった」
 とだけ言って、にっこり笑った。
 クラスメートに、クスクス笑われ続けるのはつらかった。笑うというのは本来、心が弾むような楽しいことであるはずなのに、人を追い込むために浮かべる笑顔は、どれもこれも、怖いくらいに厭らしく歪んで見えた。
 でも、時子のその笑顔は違った。
 真っ直ぐで、透き通っていた。優しくて、凛としていて、健全だった。眩しいほどに。
 これでもう、時子と自分との関わりは消える、という絶望的な気持ちと共に、佳奈子はその顔を見た。時子は態度を変えたりしないだろう。でも、自己保身のために時子を切り捨てる身勝手さに対する恥ずかしさと後ろめたさで、佳奈子にはもう、こちらから話しかけるような勇気は出せない。きっと、逃げてしまう。
 それはとても心が痛く、涙が出そうなほどに悲しい。
 ──けれど。
 忘れない。
 ずっと、忘れない。
 これからも、この時子のやわらかな笑みを、宝物のように大事に大事に、胸の奥深くにしまい込む。
 佳奈子は強く、そんなことを思った。

 中学を卒業して一年後、変わり果てた彼女に再会するまで、そう思っていた。



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