猫の手貸します

case by case.3

誰が為に鈴は鳴る(3)




 ──あの頃、時子の家で、何があったのか。
 結局、佳奈子はそれを知ることのないまま、中学を卒業して、高校へと進んだ。時子とはあれきり話をする機会はなく、いや正確に言えば、佳奈子のほうからそれを避け続けて、別れることになった。時子はやっぱりかなり成績の良い生徒であったらしく、進学先は、佳奈子の高校よりもずっとレベルの高いところだったようだ。
 卒業式の時に、ちらりと目にした彼女のそばには、母親の姿も父親の姿もなかった。
 もしかしたら、佳奈子はもっときちんと踏み込んで訊ねてみるべきだったのかもしれない。せめてそうやって吐き出す場所と時間が、時子には必要だったかもしれない。そうすることによって、少しは彼女の負担を軽く出来たかもしれない。
 でもそれは所詮、後の祭りというものだ。佳奈子は何も知らず何も出来ないまま高校生になり、自分の環境を整えることで精一杯だった。時子のことを忘れたことはないけれど、彼女を思い出す時には、いつも苦い後悔と後ろめたさがつきまとっていて、時子は今頃どうしているだろう、と思うことも申し訳ないような気がした。
 それらをなんとか心の一部として沈めていこうとしていた矢先、その報は、近所に巻き起こったセンセーショナルな事件という形で、佳奈子の耳へと届いた。



 それを最初に教えてくれたのは、佳奈子の母だった。
 陽気でお喋り好きな母親は、佳奈子と違って、交友関係も広い。近所の奥さん連中、パート仲間、ママ友たちなどの、個別に広いネットワークを持っている。
 そこから情報を得て、新聞には、「線路に飛び降り、自殺の可能性として警察が調査」 としか書かれていなかった内容を、数日後には詳細な事情まで把握してしまっていた。新聞には書かれていなかった女性の名前も、その時にはもう、多くの大人たちは知っているようだった。
 夕飯を食べながら、母に、あんたと同い年の娘さんがいるって聞いたけど、知ってる? とその姓とともに屈託なく訊ねられて、佳奈子は自分の顔から血の気が引くのが判った。
「……なんで、その人、死んじゃったの?」
 母は身近で起きたこの出来事に、少し興奮していたのだろう。そう問い返した娘の顔色が青くなっていたことにも、声が弱々しくなっていたことにも気づかなかった。
「どうも、ずっと旦那さんと揉めてたらしいわね。まああんたももう高校生だから言っちゃうけど、旦那さん、愛人が出来て、奥さんと離婚したがってたんだって。けど奥さんが頑として離婚しないって言い張って、大分ゴタゴタしてたみたいよ。大きなおうちに住んでたのに、時には言い争う大声が、外まで聞こえてきたっていうんだから、相当よね。それでとうとう旦那さんのほうが我慢できなくなって家を出て、その翌日くらいに、奥さんが線路に飛び込んだんだって」
 母の口調は、まるで、今日の昼に見たワイドショーの中身を話しているかのようだった。
「……お父さん、家を出る時、子供を置いていったの?」
「そりゃ、愛人のところには、連れて行けないでしょう」
「お母さんは、子供がいるのに、自分だけ死んじゃったの?」
「そうよねえ、どっちも、親として無責任よね。残された子はどうすんのかしら。まだ高校生なのにね」
「…………」

 無責任?
 それっぽっちの言葉で片付けてしまっていいの?
 父親にも母親にも捨てられた娘は、今、どこで何をしているのだろう、とは思わないの?
 ……たった一人で、何を見ているのだろう、と。

「でも、お通夜に行った人の話では、娘さん、ずいぶん気丈に振る舞ってたみたいよ。泣きもしないで、ずっとおばあさんを支えるように喪主の代わりを務めてたって。旦那さんと愛人も来てたみたいだけど、そっちは一般の弔問客と同じ席の端っこに、居心地悪そうに座ってて、娘さんはそっちのほうはちらりとも見もしなかったんだって。そりゃあそうよねえ、どのツラ下げてノコノコ来たんだって思うわよね」
 母はそれからもぺらぺらと夫と愛人に対しての憤懣を言い続けていたが、それらの言葉はほとんど佳奈子の耳を素通りしてしまっていた。
 ──母親の通夜で、泣きもしなかったという時子。
 それはそうだ。当たり前じゃないか。その席には、母親の死を悼む人よりも、興味を抱いてやってきた 「観客」 のほうが多かっただろう。自殺した妻、彼女を死に追いやった夫と愛人、残された娘と祖母を、好奇心に満ちた目で見比べていたに違いないのだから。
 時子には見えていたのだ、きっと。表には出なくても、人々の中にある、クスクス笑いを。他人の不幸を面白がり、楽しまずにはいられない、無邪気な残酷さを。上っ面の同情で塗り固めた、醜く歪んだ優越感を。
 そんなものを向けられたら、泣くことも出来なくなるに決まっている。佳奈子がそうであったように、能面のような無表情で、ひたすらやり過ごすしか、自分の心を守るすべはない。どれほどぺしゃんこに押し潰されそうにつらくても、悲しくても、苦しくても、悪意に反応してはいけないのだ。
「……あらっ、やだ、佳奈子、どうしたの」
 佳奈子が箸も茶碗も放り出して、テーブルに突っ伏したことに気づいた母親が、ようやく狼狽するような声を出した。
「ごめん、ごめん、あんたにはまだこんな話、早かったわね。お母さんが無神経だったわ」
 母の謝罪も無視して、佳奈子は声を殺して泣いた。
 無神経さを詫びるべきなのは、佳奈子ではない、時子だ。母をはじめとして、誰も、時子への仕打ちを悪いことと思っていない。周囲の人々の、その無自覚さ、鈍感さは、これからどれだけ時子を傷つけていくのだろう。悪いことと思っていないから、後悔もなく、反省もなく、罪悪感もなく、時子を追い込んでいく。佳奈子はそれに対して、何もしてあげられない。
 泣けない時子のために、ただ、いつまでも涙を流し続けた。



 時子はその後、祖母に引き取られることになったらしい。
 父親は逃げるように海外へ移住することになったと聞いた。佳奈子は何度も時子に会いに行こうかと迷ったが、意を決して住んでいた家に行った時にはもう、そこは空き家となっていた。転居先は、近所の人も知らないという。
 大体、会ってどうするつもりなのか、自分でも判っていない。同情めいた言葉は、時子は必要としないだろう。それに、そもそもほんの二週間程度、お昼ご飯を一緒に食べただけの佳奈子を、時子が覚えているかどうかも判然としない。友達、とも呼べない関係の佳奈子が、簡単に出しゃばっていい問題とも思えなかった。
 でも、時子を取り巻く環境が、今、どうなっているのかと思うと、気が揉めて仕方がない、というのも本当だった。対象にする人々がいなくなったにも関わらず、噂はほとんど沈静化もせず、どちらかというと、あらぬ方向に暴走をしはじめていたからだ。

 あれは本当は自殺ではなく、離婚に同意しない邪魔な妻を排除するために、夫が殺したのではないか、とか。
 あるいは愛人が共謀して、保険金目当てに自殺に追いやったのではないか、とか。
 ……通夜でも葬式でも涙ひとつ見せなかった娘も、それに加担しているのではないか、とか。

 そんな根も葉もない、面白半分のひそひそ話が、興味本位の人々を駆り立て、ネットという媒介を通して広がっていくさまを、佳奈子は手をこまねいて見ているしかなかった。こんな話が時子のもとに届きませんようにと、祈ることしか出来ない。歯がゆくて、もどかしくて、自分が情けなかった。
 時子は、高校には通っているのだろうか。そこではどんな毎日を過ごしているのだろう。佳奈子の耳に入ってくるのはいつも、独り歩きをしている噂の中にいる 「時子」 で、それは佳奈子の記憶にいる彼女の姿とはかけ離れたものばかりだった。
 そうして、ずっと悶々とした鬱屈を抱えていたある日。
 佳奈子は、本物の時子と再会した。



 時子の母が亡くなってから半年ほど、中学を卒業してからは一年近くが経過していた。
 中学の頃のようなポニーテールではなかったし、制服も変わっていたけれど、一目で彼女だと判った。佳奈子と同じく、学校帰りなのだろう、電車の中で、扉のすぐそばに立って、窓から流れる景色を眺めている。
 時子は、あの頃よりもずっと、雰囲気が大人びた少女になっていた。
 声をかけようか、どうしようか、とこの期に及んでもぐずぐずと迷う佳奈子を見限るように、時子は振り向きもせず、駅で電車を降りて行ってしまう。佳奈子が降りる駅よりもひとつ手前の駅だったが、えいっと踏ん切りをつけて、自分もそこで降りた。
 時子の新しい住まいは、この駅の周辺にあるらしい。すたすたと迷いのない足取りで歩く時子の後ろ姿は、普通に 「家に帰る高校生」 のそれだった。引っ越した、といっても、そこは以前の家からそんなに離れた場所ではなかったのだ。
 声をかけるきっかけが掴めないまま、佳奈子は時子の後ろを数メートル離れて追うような形になった。これではまるで尾行じゃないか、と恥ずかしくなる。思いきって、足を速めようとした時、後ろから佳奈子を追い抜いていった自転車の男の子が、時子のすぐ近くまで寄ると、ブレーキの音を軋ませて止まった。
 あ、知り合いかな、と佳奈子も足を止める。同じ高校生くらいだし、友達かな──と思ったのは、最初だけだった。
 すぐに、そんなのではない、と気がついた。
 男の子が浮かべているのは、とても友人に向けるようなものではない薄笑いだ。声音を抑えて何かを喋りかけているけれど、時子はそちらを一顧だにせず、歩みも止めたりはしない。透明人間がまとわりついている、という態度で、完璧に無視しきっていた。
 時子がまったく相手にならないのに、男の子は執拗だった。自転車をゆっくり漕ぎながら、時子の隣をキープし続け、口を動かし続ける。

 ……風に乗って、お前の父親、とか、愛人、とか、母親を殺して、とかの言葉が切れ切れに聞こえてきた瞬間、佳奈子の頭に血が昇った。

 昇った血がそのまま沸騰したように頭が熱くなって、何も考えられなくなった。普段の佳奈子からは想像もつかないことだが、ダッシュして突進し、男の子を自転車ごと、思いきり突き飛ばした。
 いい加減な乗り方をしていた男の子は、突然の攻撃に、身をかわすこともかなわず、自転車もろともひっくり返った。何かの叫び声を上げたようだったが、それも聞こえないくらい、佳奈子は興奮しきっていた。
 うるさい、うるさい、許さないから、と甲高く罵って、持っていた鞄で男の子をばんばん叩いたところが薄っすらと記憶にあるくらいで、自分が何を言って何をしているのかもよく判らなかった。
「佳奈ちゃん、待った待った」
 と慌てて時子が止めに入ったのと、男の子が、なんだよこいつ、アタマがおかしいんじゃねえか、と捨てゼリフを吐いて、それでもどこか怯えたように、倒れた自転車を急いで起こして逃げ去って行くのが、ほぼ同時だった。
「……すごいね、佳奈ちゃん。武勇伝だね」
 小さくなっていく男の子の背中を見送りながら、時子が言うのを聞いて、佳奈子はようやく我に返った。
 恥ずかしさと、時子はちゃんと自分のことを覚えていてくれたという安堵で、ぱっと顔を赤くする。
「ご、ごめんね、余計なことして」
「ううん。助かったよ。なんかね、名前も顔もよく知らない相手なんだけど、付き合ってって言われたのを断ってから、やたらしつこく絡まれることになっちゃって」
 つまりは逆恨みか。一目惚れして交際を迫ったのか、それとも前々から一方的に想いを寄せていたのか、それは判らないが、だからってあんな風にネチネチと嫌がらせをするなんて。佳奈子はますます腹を立てたが、時子は特に感情を表に出さなかった。
 怒りもしないし、怖がりもしない。助かった、とは言っているけれど、時子はあの男の子のことは、本当に目に入っていなかったんじゃないか、と思うくらいの関心のなさだった。
 黒々とした瞳が真っ直ぐ佳奈子のほうに向けられたが、そこには何も映されていない──そんな感じがした。
「……咲月さん」
 背筋をひんやりとしたものが駆け上がる。呼びかけながら、佳奈子は確信していた。

 あの頃の、「咲月時子」 は、もうここにはいない。

「今はね、逢坂時子、っていうんだよ。おばあちゃんと一緒に暮らしてる」
 時子は微笑んだが、そこには、一年前、佳奈子の心を捉えたものは、何も存在していなかった。何ひとつ。
「お……おばあちゃんと? そうなんだ」
 知っているのに、はじめて聞くような顔をする佳奈子を、時子はどう見ているのだろう。声が震えているのだけは、気づかれたくなかった。
「そういえば、昔からおばあちゃんっ子だったって、言ってたもんね」
「うん、そうだね。子供の頃から、大好きだった」
 時子は返事をしながら視線を外し、さっきからまったく変わらない微笑のまま、前方に顔を向けた。
 多分、その先には、「おばあちゃん」 の待つ家があるのだろう。
「──大好きなもの、大事なものは、ひとつだけでいい。これからも」
「…………」
 ぽつりとそう言うのを聞いて、胸が詰まった。
 佳奈子のことを大好きだと言ってくれたあの笑顔は、もう失われてしまったのだ。咲月時子という少女を形づくり、凛とした強さと優しさを備えさせていた 「何か」 は、もうすでに、粉砕され、跡形もなく破壊され尽くした後だった。
 荒涼とした瓦礫の中に、時子はただ、立ち尽くしている。たったひとつの大事なものだけを、胸に抱いて。
 そのためだけに、時子は今、この世界に存在しているのかもしれなかった。
 中学生の時子の笑顔を見た時よりもずっと、寂しくて、悲しくて、心が痛かった。佳奈子にはどうにも出来ない。佳奈子には、どうやっても、時子を救ってあげられない。そのことだけははっきりと判って、判ったことが余計に居たたまれなくて、自分もまた、逃げるようにその場を去った。
 時子と会うことはもうないだろう。最後に見る彼女の顔が、今もなお胸の中に大切に保存してあるあの眩しい笑顔を上書きしてしまうことが、あまりにも切なくて、泣いた。



          ***


「……うーん」
 佳奈子の長い話を聞いて、鈴鹿所長は複雑そうに首を傾げた。
 いきなりこんな思い出話を聞かされて、困惑しているのだろう。佳奈子も少し恥ずかしくなり、今になって、首を縮める。
「でも、さっき見かけた時子さんは、楽しそうに笑っていましたから。彼女は、私なんかが勝手に思っていたよりも、ずっと強い人だったってことですよね」
「うん、それはそうだね。多分ね、今の時子君は、佳奈子君が想像しているよりもずっと、図太くなってると思うよ」
 さらりとひどいことを言って、鈴鹿所長は、もう一段階深く、首を傾けた。
「──でもね、それはもちろん、時子君一人の力で立ち直った、ということではないよ」
「それは、そうですよね」
 佳奈子は頷いた。時子が顔を向けていた相手は、彼女の恋人なのだろう。そういう存在が、強い支えになったに決まっている。
 大好きなもの、大事なものは、ひとつだけでいい、と言い切っていた時子。
 佳奈子はあれからも何度もその言葉を思い返しては考えた。だったら、それ以外の 「大事なもの」 が出来た時、時子はどうするのだろう、と。
 迷うだろうか。悩むだろうか。どちらを選ぶべきか、逡巡するだろうか。自分を責めはしないだろうか。
 それとも、大好きなものも、大事なものも、いくつあってもいいのだと、考えを変えられるだろうか。

 ──それは決して、悪いことなどではないのだと、気づいてくれるだろうか。

「うん、あのね、佳奈子君が言ったとおり、時子君の中のいろんなものが、壊されてしまったことは、確かにあったかもしれないんだけどね」
 そういうことは、世の中によくあることかもしれないんだけどね、と鈴鹿所長は続けた。
「でも、全部が全部、壊れてしまったわけではないんだよ。きっとね、時子君の核となる、最も重要なものは、ちゃんと残っていたんだよ。それだけは傷もつかず、もとの形を崩さずに、綺麗なままで、残っていたんだよ」
 自分で言って、自分でうんうんと頷いている。
「それはどうしてかっていうと、佳奈子君みたいに、本当に心の底から時子君のことを大事に思ってくれる人たちがいたからだよね。怒って、心配して、時子君のために泣いてくれるような人が、そういうものをきっちり作り上げていたから、それだけはちゃんと、壊れることなく、残った。だから、時子君は、その残ったものを中心にして、また新しく、たくさんのことを立て直したり、作り直したりすることが出来たんだと思うよ」
「──……」
 穏やかに微笑まれて、佳奈子は思わず下を向いた。急に、瞼が熱くなったからだ。
「……私、いつも時子さんの大事な時に、見捨てるような真似ばかりしました」
 ずっと後悔していた。ずっと胸の片隅が重かった。思い出すのがつらすぎて、時子のことは記憶の下に押し込めてきた。こうして偶然に見かけるまで、ずっと。
 逃げてばかりだ。
「けどねえ、君は、ちゃんと時子君のことを覚えてたじゃないか。ほんのわずかな繋がりを、長いこと大事に持ち続けて、外に放り出すことはしなかったじゃないか。だから、ここにも来たんでしょ。僕は、そういうのは、『見捨てる』 って言わないと思う。時子君も、きっとそう思うよ」
「……そう、でしょうか」
 時子は、許してくれるだろうか。いちばん苦しい時に、手を差し伸べることも出来なかった自分を。
「うん。本人に聞いてごらんよ」
 え、と顔を上げると、ドタバタという賑やかな足音が外から聞こえてきた。
 バターンとドアが開けられる。
「ただいま帰りましたー! 所長、聞いてくださいよ、今日の仕事で、環君がね……」
 開けると同時に騒々しく話しはじめた時子は、鈴鹿所長の向かいのソファに座っている佳奈子を目に入れて、きょとんと瞬きした。
「佳奈ちゃん?」
 すぐに、そう言った。
 あれからもう何年も経ち、佳奈子も今では二十一歳の専門学校生になって、外見だってあの頃からは変わっているのに。
「久しぶり! 元気だった?」
 にこっと笑った。
 その笑い方は、中学生の時子のそれと同一のものではない。けれど、高校生の時に見たものでもない。現在の時子の、心からの笑顔だった。

 「咲月時子」 という少女は、もうこの世界にはいない。
 でも、時間をかけて、彼女は新しく、「逢坂時子」 という魅力的な女性になった。

「久しぶり。……時子ちゃん」
 少しぎこちなく、もじもじしたけれど、佳奈子は時子をそう呼んだ。本当は、中学の時から、自分はこう呼びたかったのだ。仲の良い友人として。
「あっ、環君環君、こちら、佳奈ちゃんよ。中学の時からの、私の友達」
 のっそりとドアから入ってきた背の高い男性に、時子がなんのためらいもなく、佳奈子をそう紹介した。
 彼は時子を見て、それから佳奈子を見ると、ほんのわずか目元を和ませて、軽く会釈をした。大慌てで自分もぺこりとお辞儀をする。見た目ほど、怖い人ではないらしい。
「で、佳奈ちゃん、今日はどうしたの? 所長にナンパでもされた?」
「僕がそんなことするわけないでしょ! ドアを開ける時、ぶつけちゃったから中に入ってもらったんだよ!」
「あ、私がボンヤリ突っ立ってたから……」
「なるほど、それで慰謝料の相談をしてたのね。いくらにする? 十万? 二十万?」
「ちょっと時子君、心臓に悪い冗談やめて! そんなに支払ったら僕も事務所も干上がるよ!」
「なに言ってんですか、女の子のおでこをこんなに赤くして。きっちり取り立てますよ。責任を逃れようたって、そうは問屋が卸しませんからね」
「言い方、古っ! 大体、君、どっちの味方?!」
「いえ、あの……」
 わいわいとものすごいスピードでやり合う二人に、ついていけなくてまごつく。環君、と呼ばれた人物は、まったく我関せずで道具の片づけをしていたが、電話が鳴って手を止めた。
「トキ、電話」
「はいはーい、ちょっと待ってね、佳奈ちゃん」
 時子が佳奈子に向かってそう言い、電話へと走る。う、うん、と目が廻る気分で返事をして、ふう、と息をついた。
 忙しなく、落ち着きもなく、ついでに言うとどこか妙ちくりんな事務所だけれど、ここは不思議と居心地がいいな、と佳奈子は思った。ここにいる人たちの笑顔は、どれもが率直で、歪みがない。
 時子はきっと、この場所で、たくさんのことを立て直したり、作り直したりしたのだろう。そうするに相応しい、温かい空気が満ちていた。
 電話の音が、軽やかな鈴の音のように事務所内に響く。

 その音はまるで、誰かを祝福している楽しげな笑い声のように、佳奈子には聞こえた。



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