はるあらし・番外編

春の章(前編)



 ……その春、「菊里商事」 という会社に入社した俺は、いたく不機嫌だった。


「呉田俊樹です」
 だから、一カ月の研修期間を経て配属された海外事業部で、課長に言われて挨拶をした時も、不本意、という内心をほとんど隠しもしない仏頂面だった。自分の名を名乗る声だって、低くて小さく、その場にいた部員の半数くらいは聞き取れなかったくらいかもしれない。
 しかしそれでも、俺はそういう態度を改める必要性をまったく感じなかった。別に、こんな会社に勤めるような連中と仲良くなるつもりなんて毛頭ない。ましてや挨拶とはいえ、ぺこぺこ頭を下げるような真似をするのは、真っ平御免だ。
 こちらのそういう気持ちは伝わりやすいものなのか、部署内の全員が、どこか白けた表情で俺を見返している。新人を歓迎してやろう、などという空気は微塵もなかった。「よろしく指導してやってくれ」 という課長の締めの言葉に、パチパチというおざなりの拍手をして、すぐに背を向け各々の仕事に戻る。
 よろしくなんてしてもらいたくねえよ、と心の中で毒づきつつ、俺も課長に言われて自分のデスクに行き、椅子に腰を下ろした。
 机の上には各種マニュアルや資料、そしてパソコン。こんなヘボい会社でも、一応これくらいの設備は整っているらしい、と皮肉に口の端を上げる。座った椅子が、ギシギシと軋むような音を立てるのが、無性に癇に障った。もっといいやつにすればいいのに──こんな前近代的なオフィスで、やる気なんて出るもんか。これだからセコい中小企業はイヤなんだ。
 ち、と小さく舌打ちして、さりげなく周囲を見回す。
 電話をかけたり、パソコンの画面と向き合っていたりする部員は、みんなもうこちらを見向きもしない。部署の社員は男女が七:三程度の割合で、年齢層は全体的に高めだった。二十代は俺を含め数人、というところか。
 それなりに忙しそうにしているし、海外事業部という性質上、英語もチラホラと耳に入ってくるが、場所が場所だけに、まったく洗練されている気がしない。俺からすると、ここにいる誰もかれもが、愚鈍に見えてしょうがなかった。
 だって実際そうだろう、この中で、俺の出身大学よりもレベルの高いところを出たやつなんて、ほとんどいないに決まっている。

 ──こんなところに入るつもりは、全然なかったんだ。

 そう考え、屈辱と羞恥でたまらない気分になり、俺は奥歯を噛みしめて目を伏せる。
 俺の予定では、今頃は、もっと上のランクの、一流と呼ばれる企業の洒落たオフィスで、希望に満ちた顔つきでバリバリと仕事をしているはずだったのだ。
 現実に、俺の大学時代の友人は、そういうところに入ってるやつも多い。銀行、航空会社、自動車メーカー、派手なところではテレビ局に就職したなんてのもいる。どこも名を聞けば、あああそこ、と憧れの目で見られるようなところばかりだ。菊里商事、なんて、誰に言ったって怪訝な顔をされるだけで、恥ずかしくって自己紹介も出来やしない。俺はもう、二度と大学の同窓会には顔を出せない立場になってしまった。
 せめて、この会社の上にある証券会社や不動産会社に入れればよかったのに。そこなられっきとした一流企業だし、オフィスは全面ガラス張りの大きな建物だ。周りにも面目が立つ。同じグループ内ではあるものの、そこの社員からは間違いなく格下に見られるであろう今の自分が、惨めでたまらない。
 いや、実を言えば、それらの企業の入社試験は受けたのだ。俺の基準をクリアできる企業は、業種を問わずに受けまくった。俺は大学での成績も悪いものではなかったし、筆記試験でもそこそこの結果は残せたはず。いくら就職戦線が厳しいといったって、そのうちのいくつかは内定が取れるだろうと、俺は高を括っていた。
 ……なのに、軒並み、落っこちた。
 どういう理由なのか、未だに俺には判らない。面接でだって、下手なことは言っていない。ちゃんとマニュアル通りの受け答えをした。あの時の人事担当者が目の前にいたら、胸倉を掴んで問い詰めてやりたい。一体俺の何が気に入らなかったんだと。
 このままでは就職浪人、という可能性が出てきて、俺は焦った。一流の大学を出た俺が、フリーターになんてなれるはずがないじゃないか。家族や友人に対してもカッコがつかない。内定を取って喜ぶ同級生たちを横目に、手当たり次第に就職先を探した挙句、ようやく採用通知が届いたのがこの菊里商事だった、というわけだ。
 どんなところでも、正社員には違いないんだから、と俺を慰める両親の瞳には、はっきりとした失望の色があった。あの大学を出て、就職先がこんなところか、という気持ちがどうやっても抑えきれないらしい。そんなことは誰より俺自身が思っていたことだったから、腹立たしさは増大する一方だった。情けなくて、みっともなくて、大学の友人とは卒業してから一度も連絡を取っていない。
 ──春からずっと、俺が不機嫌なのも、判ってもらえるだろう?


 そもそもがそういう成り行きだったので、最初から、仕事への情熱なんてものはカケラも湧かなかった。
 適当にダラダラと研修期間をやり過ごし、海外事業部に配属されてからも、俺はふてくされたままだった。海外事業部、なんて聞こえだけはいいけれど、こんな中小企業だから、世界を股にかけての事業展開、なんてスケールの大きさは望むべくもない。せいぜい、海外の工場や取引先とやり取りをするくらいだ。この程度のことに、大層な部署名だなと、嘲笑してやりたいくらいのものだった。
 そういう気分でいるからか、人間関係はもう最悪だった。一応指導係という名目で男性社員がついたが、一カ月もしないうちに、必要最小限しか話されなくなった。何を言われても、俺がムスッとして 「はあ」 という一言の返事しかしなかったからだろう。だって仕方ない。そいつがやけにエラそうに、いかにも、さあ教えてやるぞ、という態度を取るから悪いんだ。俺よりも下の大学を出てるくせに、なにを威張ってんだよと思うと、ムカムカするばかりで、そいつの顔を見るのもイヤだった。
 女性社員とも、わりと険悪だった。コピー取りを命じられた時に、俺が、「そういうことをするために、女の事務員がいるんじゃないっすか」 と言い返したら、はあ?! という顔で一斉に睨まれたのだ。なにか間違ったことを言ったか。どうして俺がコピー取りなんてしなきゃならない。バカバカしい。
 そんなこんなで、俺は次第に部署内で孤立していった。仕事をすりゃ文句はないんだろと思うのに、肝心のその仕事をなかなかやらせてもらえない。やらされるのは雑用のようなことばかりで、イライラばかりがたまっていく。こんなんじゃなくてもっとちゃんとした内容の仕事をくれと課長に頼んでも、なに言ってんだ新人のくせに、と鼻先で一蹴されて終わりだ。
 そんな時、指導係が変更になった。
 前のやつも俺より三つほど上なだけの若い男だったが、今度のはそれよりもさらに若かった。しかもその上、男でもなかった。
「菊里春音です」
 と、その若い女はニッコリして言った。


 年齢を聞いてみたら、今年の四月で二十四になったところだという。俺と同い年で、驚いた。
「てことは、あんたも新人?」
 目を丸くして声を大きくした俺に、彼女は朗らかに笑った。
「まあ、同期の人間の顔も覚えてらっしゃらないなんて、とんだ抜け作ですわね」
 は? と目が点になった。
 空耳か?
「今、抜け……」
「今年の新人は全部で八人。それくらいの人数、名前と顔を覚えていて当然じゃありません? 私はその八人の中に入っておりません。ひとつ先輩に当たるのに年齢が同じなのは、そうですわね、どうしてですかしら。私も四大を出ておりますけど。不思議ですわね」
 またふふっと笑う。俺は少し顔を赤らめた。同期じゃないのに年齢が同じなのは、俺が一年浪人をしているためだ、と暗に指摘されていることに気づいたからだ。
「どこの大学? どうせすぐに入れるようなところだろ」
 だから浪人もせず簡単に入れたんだろ、俺の出身校はずっと難関なんだ、と続けようと思ったら、その前に笑顔のままの彼女に、ぴしゃりとした口調で遮られた。
「大学の話はまたの機会にいたしましょう。どこを出ようが、会社に入れば社員はみんな同じ立場だということをまず理解なさって。そして年齢に関係なく、社内の先輩にあたる人間には、敬語を使っていただきます」
 俺はふっと唇を歪め、目の前の若い女を見返した。
「なにそれ。今どき上下関係が厳しいところなの、この会社? やっぱり体質が古くさ……」
「一般の社会人としての常識ですわ。ご自慢の出身大学では、そういったことを教わらなかったかもしれませんけれど、世間ではそれが普通ですの。普通や常識にとらわれないフリーダムな生き方がなさりたいということでしたら、今すぐここを辞めてインドでも放浪なさってきたらいかがかしら」
「…………」
 ニコニコ顔でズケズケ言われて、さすがにぐっと詰まった。
 同じ部署の菊里春音は、淑やかな雰囲気を持ち合わせた美人で、その飛び抜けた容姿に、俺も最初から興味は持っていた。こんなつまらない会社にいるのだから、せめて女遊びくらいはしたって構わないだろう、というつもりでちょっと狙いをつけていたこともある。しかし話しかけようにも機会がなく、それとともに本人にまったくスキというものがないので、こうして面と向かって話したのはこれがはじめてだ。こんなおかしな言葉遣いで、歯に衣着せぬ物言いをする女だとは、思ってもみなかった。
「……なんで、あんたみたいなのが、俺の指導係なわけ。新人じゃなくても、新人に毛が生えたくらいのもんだろ。しかも、女」
 ぼそぼそと文句を言ったものの、相手はまったく動じない。けろりとした答えが返ってきた。
「あなた、匙を投げられたんですわ」
「は?」
「本来の指導係である松本さんが、自分にアイツは手に負えません、と課長に直訴したんですの。二カ月やそこらでネを上げるなんて正直根性が足りないと思いましたけど、今その気持ちが少し理解できました。幼児の相手は独身男性には確かに荷が重いですわね」
 前の指導係だった松本のほうを見ると、彼は苦笑しながら、観劇でもするかのようにこちらを眺めている。
「幼児って誰のことだよ」
「まあ、あなた以外のどなたがいらっしゃいますか? 受験戦争に勝ち抜いて難関を突破したのが誇りだというのなら、せめてこちらの言ったことくらいは理解するよう努めてくださいな。私も自分の仕事がありますし、その合間を縫ってあれこれ一から仕事の手順を教えなければならないのは少々手間ですの。ですから言ったことは出来るだけ一度で覚えてくださいね。覚えられなかったら、メモを取ってください。よろしいですか、先輩社員に対しては敬語。それから、あんた、なんて呼び方も厳禁です。私はあなたの友達でもなければ彼女でもありませんの。ちゃんとした挨拶と礼節、最低限それくらいはしていただかなければ、いつまで経っても幼児から脱却できませんわよ?」
「…………」
 しばらくの間、黙り込んだ。言い返そうにも、また何倍にもなって返ってきそうで、迂闊に言葉を出せない。
 結局、口をへの字にして 「……わかりました」 と低い声で言った。屈服させられたようで、怒りばかりが腹の下のほうに沈殿していく。
「わかっていただけて嬉しいですわ」 
 菊里春音は澄ました顔でそう言うと、手に持っていた書類の束を俺のデスクの上に置いた。
「それではまず、これを五十部ずつコピーして、ホチキスで留めて会議用の資料を作ってくださいな」
「はあ? なんで俺が、そんなこと」
「なんでって、新人だからに決まってるじゃありませんか。私は新人に毛の生えた程度、かもしれませんけど、あなたはまだ毛も生えていないツルツルの新人なんですもの。小学生だって最初は 『あいうえお』 からはじめるんですのよ、何事も基本からということですわ」
「こんなの、基本じゃなくて、ただの雑用だろ……ですよね?」
「あら、それではあなたに、この資料並みのものが今すぐ作れますか? 海外の現在の情勢を調べて統計を作り、わかりやすいグラフにして、英文に直し、取引先に納得してもらえるちゃんとしたプレゼンが出来ますかしら」
「…………」
「コピーしている間に、一度、この資料に目を通してごらんになって。ここには、この部署の人たちが、一週間必死の努力をして作り上げた見事な結果があります。それを見た上で、同等のことが自分一人で出来ると自信満々に言い張って、実行できたのなら、上のほうに掛け合って、あなたに役職なり何なり与えるように進言いたします」
「……本当ですか」
 思わず睨むような上目遣いになって確認する俺に、彼女は平然と頷いた。
「ウソをつくのなら、もっと面白い内容にします。けれど出来なければ、そちらもいい加減、その拗ねた態度をおやめになっていただけます? 意に沿わぬ就職先であろうとも、入ったからにはやることをやっていただかないと、他の人間にとっても迷惑なんですの。まあ一言で申しますと、給料分は働け! ってことですわ」
 しゃらっと言って、綺麗な笑みを浮かべた。俺はむっと口を結んで、目を逸らす。
「……別に、拗ねてなんか」
「そうですか? いかにも、こんなところには来たくなかったんだーってやさぐれた気持ちがミエミエなんですけど。それだからあなた、グレ田君、などと呼ばれたりするんですのよ」
「グ……誰が、そんなことを?」
「おもに、私ですわね」
 あんたか!
 さりげなく聞き耳を立てていたらしい周囲から、こらえられなくなったようにクスクス笑いが洩れはじめる。俺は顔を赤くして立ちあがり、憤然とデスクの上の書類をひっつかんで、部屋の隅のコピー機へと足取り荒く向かった。見てろよ、絶対この女のニコニコ笑いを剥ぎ取ってやるからな!
 ──が、結局。
 ムカムカしながら俺が取ったコピーは、そこかしこが斜めになっていたり歪んでいたりして、すげなくやり直しを命じられる羽目になった。
「コピー取りくらいはきっちりやってくださいな、ズレ田君」
 と菊里春音にニッコリ言われて、俺が地団駄を踏んだのは言うまでもない。

 もちろん、その資料は、俺には五分の一も理解できない、ちんぷんかんぷんのシロモノだった。



          ***


 ──久しぶりに、俺が菊里春音と再会したのは、彼女が会社を辞めてから半年以上が経過した、冬のはじめの頃だった。

 仕事を終えて会社を出たところで、女の声で名を呼ばれ、ん? と顔を向けたら彼女だった。足が止まるのと同時に、思考も止まった。もう二度と会うことはないだろうと思っていたからだ。
 彼女は、見知らぬ男と一緒にいた。
「お久しぶりです」
 以前とまったく変わらないニッコリとした笑顔に、俺は胸がじんとなる。複雑な思いは多々あるが、とりあえずこの時俺の頭にのぼったのは、元気そうでよかった──という、ただそれだけだった。
「こんなところで、どう──」
 どうしたんすか、と言いかけてその先を呑み込む。
 夜の繁華街に、男女が二人で歩いていれば、普通はデートに決まっている。何も、自分の元の勤務先の近くをデート先として選ばなくてもよさそうなものだとは思うが、この女性の好みが一般と少々変わっているのは今にはじまったことじゃない。
「哲秋さん、こちらが……」
 彼女がややトーンを落として、隣の男に顔を向ける。男はそれにやんわりと微笑して頷いた後、俺のほうを向いて、軽く会釈をした。
 ──これが彼氏か、と俺も会釈をしながら心の片隅でちらっと思う。
 身なりの良い、清潔感のある男、というのがぱっと浮かんだ第一印象だった。着ているスーツは、落ち着いた色合いではあるものの、とりあえず安物ではないことがはっきりと判る。こういうスーツを嫌味な感じにはならずに自然に着こなせているということは、無理をして買った一張羅、というわけではないのだろう。
 多分、俺よりも年上。まあまあ背が高く、顔立ちも整っているのだが、際立ったイケメン、というほどでもない。全体的な雰囲気は、穏やか、という一言で言い表せそうだった。優しそうだが気弱そうでもない、かといって自己主張の強そうなタイプでもない。個性の強い菊里春音が選んだにしては、わりと普通の、常識的な大人の男──そんな感じだった。
 俺がざっと観察をして、そんな結論を出すのを待っていたかのように、ちょっとだけ間を置いてから、男は改めて挨拶をした。
「はじめまして、桜庭哲秋と申します。お話はかねがねハルさんから伺っています、グ……呉田さん」
 今、グレ田って言いかけただろ。
 まったく、この彼氏にどんな話をしていたか、それだけで察せられるというものだ。どうせ、新人時代のアレコレも耳に入れているのだろう。あの当時のことは、俺だって思い出すだけで顔が火照るくらいなので、正直、気まずいといったらない。

 ……まあ、しょうがないけどね。あの頃、俺は本当に最低の社員だったから。

「はじめまして。菊里先輩に何かとお世話になった、手のかかる後輩です」
 俺が頭を下げて挨拶をすると、桜庭という男はくすくすと笑った。菊里春音に至っては、「まあ、先輩なんて呼び方、はじめてされましたわ」 と大喜びだ。中身もちっとも変わっていないらしい。
「彼氏さん、カッコいいっすね」
 若干の社交辞令も含め、彼女に向かってそう言うと、ふふっ、と嬉しそうに笑われた。
「彼氏じゃありません」
 え、と焦る。彼氏じゃないのか。でも二人の間の距離感、どう見ても──と頭に疑問符を乱舞させていたら、彼女は続けてしゃらっと言い切った。
「私のダーリンですの」
 一瞬、頭が真っ白になった。
「……え、なんて?」
「ダーリンですわ。ダーリン。ダージリンじゃありませんのよ?」
「いや、わかってますけど」
「マーリンでも、スターリンでも、ガガーリンでも、ボーリングでもありませんの。カーリングでも」
「わかりました、もういいです!」
 慌てて止める。そうしないと、この人は嬉々としてずっとこれを続けるだろう。当惑しながらおそるおそる桜庭さんを窺うと、彼はちょっと笑って、「照れてるんですよ」 と言った。
「…………」
 ああ、うん、普通の常識人、なんて判断をした俺がやっぱり間違っていた。これを 「照れ」 と言ってのけて、なんでもなく受け流してしまえる鷹揚さは、どう考えても特異な才能が必要だ。だって俺には絶対無理だもん。
「えーと、つまり、彼氏というほど軽い存在ではない、ってことっすね」
「婚約者なんですの」
「最初からそう言ってくださいよ!」
 しれしれと答えられ、どっと疲れが押し寄せる。桜庭さんは相変わらず楽しそうに微笑んだままだ。この人、温和なように見えて、実はものすごく図太いんじゃないだろうか。
「……とにかく、ご結婚が決まったんすね。おめでとうございます」
「まあ、立派なご挨拶ができるようになって」
 ふふふと目を細めて褒められた。嬉しくない。
「あ、じゃあ、もしかして、会社の誰かにそれを報告に来たんすか。この時間だから、もうあんまり残ってないと思うけど……」
 背後を振り返って、会社のビルを見る。つい半年ほど前に社名の変わった会社は、看板を替えるついでに外壁の塗り替えもして、一見したところ、新築ビルのような外見になっている。並んだ窓は、いくつかはまだ明かりが点いているものの、すでにほとんどが暗かった。
「いや、君を待っていたんです」
 桜庭さんに言われて、俺は驚いた。
 個人的に結婚の報告をされるほど、俺と菊里春音は親しい間柄だったわけじゃない。関わったのは新人のはじめの頃くらいで、それ以降は同じ部署の同僚として接していただけだ。
「……俺に、何か」
 眉を寄せ怪訝な表情で訊ねる俺に、桜庭さんは隣の彼女と一旦目を合わせてから、こちらに正面から向き直った。
「──実はね」
 と、真面目な表情になって、彼は言った。
「最近、ある人物からしきりと接触を求められていまして。それがね、なんというか、かなり強引な感じがするもので、このままだとハルさんの身に危険が及ぶ可能性も出てきたんです。それでこちらも、出来るだけ手を打っておいたほうがいいだろうと思って、いろいろと調べているところなんですよ。君は信頼できるとハルさんが言うので、ちょっと話を伺えたらと」
 俺はまた驚いた。話の内容よりも、菊里春音が、俺を 「信頼できる」 と評したという点について、なによりびっくりした。
 思わず彼女の顔を見ると、ニコリと笑われた。
「え……と、要するに、ストーカーに狙われてるってことっすか」
「私、たまにあるんですの、こういうことが」
「……まあ、見た目は綺麗ですもんね。中身はめちゃめちゃキツいけど」
 しみじみしながら俺が頷くと、桜庭さんがぷっと噴き出した。
「多分、君のそういうところを、ハルさんは信頼しているんだと思いますよ。話を続けても?」
「あ、はあ。わかりました。それは大変っすね……わざわざ俺に、ってことは、そのストーカーは会社の誰かなんすか」
 と訊ねながら、俺の頭には、はっきりと一人の男の顔と名前が浮かんでいた。そんなことをしそうな人間の心当たり、そいつしかいない。
「水原、という人なんですけどね」
 桜庭さんの言葉に、俺は溜め息をつきながら、やっぱりねと頷いた。



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