はるあらし・番外編

春の章(後編)



 菊里商事に入社した俺の、最初で最大の目標が、「菊里春音という女にギャフンといわせてやること」 に決まった。
 とにかく、あの生意気な態度とニコニコ顔を崩してやらないと気が済まない。絶対にあいつを見返して、俺のプライドを粉砕させたことを謝らせてやる。ここよりも条件のいい会社に転職できる目途が立ったら、明日にでも辞めてやろうと思っていたが、その目標を達成するまでは先延ばしにすることにした。
 菊里春音が社長の娘だということは、周りの話を少しまともに耳に入れるようにしてみたら、すぐに判った。姓が社名と同じなのは単なる偶然だろうと思っていた俺は、正直、かなり驚いた。なんで社長の娘がこんな忙しない部署にいるんだよ。
 しかしもちろん、これはかなりのウィークポイントには違いない。あの女を言い負かす、格好の材料だ。俺はその事実を掴むと、意気揚々と菊里春音に向かって嫌味を言ってやることにした。
「菊里さんは、社長令嬢なんだそうっすね」
 ニヤニヤ笑って、大いに含みを持たせた口調で確認した俺に、彼女は一瞬キョトンとしてから、「まあ」 と少し意外そうな声を出した。
「今頃それですの? 当然とっくにご存じだと思っておりましたから、わざわざその点については説明しませんでしたのに。この情報化社会で、驚嘆すべき乗り遅れっぷりですわね。私、本気で心配になってまいりましたわ」
 憐憫の眼差しを向けられた。イラっとしたものが込み上げてくるのを必死で耐える。落ち着け。ここで怒ったら、またこいつのペースだ。
「つまり、コネ入社なんですよね? 就職活動もしなくていいんだから楽でいいっすね、親が社長だと。ま、それにしたって、なにも社長令嬢がこんな中小企業に入らなくてもよさそうなもんですけどね。他の企業に入るだけの能力も人脈もなかったってことですかね」
 俺は言い募ったが、相手はまるで顔色も変えず、こちらを見返しているだけである。そのことにますます腹が立って、口を動かし続けた。
「そんなお嬢さんが、お遊びのように仕事をしたって、周りも迷惑なだけなんじゃないっすか? 気を遣うし、下手なことしたらすぐ父親にチクられそうだし。あ、それとも、実は陰でこっそり嫌がらせでもされてるとか。気の毒っすねえ」
 口の端を吊り上げてわざとらしく同情を混ぜてそう言って、俺は勝った! と思った。大きな瞳をこちらに向けてじっと黙っている菊里春音は、ぴくりとも身動きしない。どうだ、俺と同じ惨めさを、少しは味わうといい!
 しばらくして、片手を動かした彼女は、その細い指をそっと目元に当ててこらえきれずに泣き出した──わけではなく、口許に添えてまた 「まあ」 と言うと、うっとりと視線を虚空に投げた。
「素敵ですわね。陰での嫌がらせ、壮絶ないじめ、社内での孤立……お茶に雑巾の絞り汁を入れられたり、朝出社したら席がなくなっていたり、旅行のお土産を一人だけ渡されず倉庫で悔し涙をこぼすという、アレですわね?」
「……は、あ?」
 ぽかんとする。アレってなんだ。俺はそこまで具体的な例なんて、まったく頭に浮かべてもいなかったんだが。
「残念ながら、今のところ、そういうことをされたことはないんですけど」
 本当に残念そうな顔をして、溜め息をついている。
「いつでも受けて立ちますので、遠慮なくおやりになって。その通り、私はコネ入社の社長令嬢で、世間を舐めたお嬢様で、特権を利用して海外事業部に配属された、傲慢極まりないワガママ娘ですの。ですから、同い年の後輩にも、上から目線で仕事を言いつけてやったりするんですわ」
 そう言って、菊里春音は、俺のデスクの上に、ドサドサと膨大な量の書類を積み上げた。
「このデータをすべて打ち込んで、項目別にファイリングして、同じ系統に分けて色別に整理しておいてくださいな。分類の仕方は、以前の資料に目を通していれば判るはずですけど。当然、そのくらいのことはもうとっくにおやりになってますわよね?」
「…………」
 俺は押し黙って、目の前の書類の山を見る。どれくらいの時間がかかるんだ、これ──以前の資料を調べるところから始めるとすると、とても今日中に済むとは……
「今日中にお願いしますね」
 ニッコリと言ってから、自分の席に戻りかけ、菊里春音は思い出したようにこちらを振り返った。
「そうそう、先日提出していただいたレポート、もう一度やり直してください。あれでは論旨がぐらぐらで要点がさっぱりまとまっていませんわ、ブレ田君」
 遠ざかるヒールの足音を耳に入れながら、俺は書類の山を思いきりバンッと手で叩きつけた。
 ちくしょう!


 あの手この手で探ったが、あの変な女をヘコませてやる方法を、俺はまったく見つけられなかった。
 本人はああ言っていたが、実際には、職場での彼女は他の社員たちとまったく変わりなく働いていた。特別扱いをされているわけでもないし、与えられる仕事だって、俺から見て 「雑用」 の類のものも混じっている。それに対して反発もしなければ不満も言わない。淡々と命じられたことをこなして、同僚の要求や頼みにもイヤな顔ひとつしないで引き受ける。あの特異なキャラで、少々遠巻きに見られているようなところはあるが、それでも疎外をされるわけでもなく、普通に馴染んでいるという感じだった。
 ここでようやく、俺は気づいた。
 あの女を見返すには、個人的なことで攻めたって無駄なのだ。精神的なダメージを与えてやるには、あの性格は、一般と違いすぎているのである。普通のやり方なんて、通じるわけがない。
 仕事だ。
 前にも言われたが、さっさと一人前以上の仕事が出来るようになって結果を出し、認めさせてやることでしか、俺に下剋上のチャンスはない。菊里春音に、仕事面で頼られるようになった時こそ、本当の意味での俺の勝ちということだ。
 そこに気がついてから、俺は格段に身を入れて仕事をするようになった。もう屈辱だとか恥だとか言っている場合じゃない。あの女にやり込められっぱなしでいるほうが、よっぽど我慢できない。判らないことは周りの人間に片っ端から声をかけて教えを乞い、自分でも進んで勉強するようにした。
 会議の資料を一人で作れるくらいになってやるのだ。役職を与えるように進言してやる、というあの口約束なんて、俺の頭からはもうとうに吹っ飛んでいた。菊里春音を驚かせてやれれば、それでよかった。
 もともと頭の出来は良いほうなのだから、やる気になれば吸収するのも早かった。覚えていくにつれて、仕事というのは、知識よりも経験のほうが重要だということも判ってきた。こればっかりは自分だけではどうにもならないので、部署内の人間の言うことに素直に耳を傾けるしかない。体験談としていろんな話を聞くのは、目新しい発見や奥深さもあったりして、正直なところ、かなり面白かった。
 そういうおれの変化に伴い、周囲の雰囲気も柔らかくなってきて、人間関係もそれなりにスムーズに運ぶようになった。


 いきなり、社内の別の部署の人間に話しかけられたのは、そんな頃のことだ。
 食堂で昼食を食べていたら、隣に座った人間に、「海外事業部の新人だろ?」 と言われたのである。胸につけている名札を見てそう言ったのだろうが、俺はそいつの顔も名前もまったく知らなかったので、ただ怪訝そうに、はあ、と返事をする他にない。
 ──男の名札には、「水原」 と記されてあった。
「な、あんたの指導係、菊里春音なんだろ? 彼女、どんな感じ?」
 上半身を寄せられて声音を抑えて問いかけるその男に、俺はどうにもいい感情を抱けなかった。見たところ、三十歳前後か。黒縁メガネをかけて、年齢の割に若者向けのネクタイをしている。当人は洒落者を気取っているようなのだが、言わせてもらえば似合っていない。少しずんぐりむっくりとした体型と、にやにやした締まりのない顔つきは、どちらかというと漫画に出てくるセクハラ上司を連想させた。
「どんな感じ、っていうと」
 意味が判らずに問い返すと、水原はいかにももどかしそうに、ちっと小さく舌打ちした。
「やっぱり、中身も外見通りの大和撫子みたいなのかって話だよ。美人で、育ちもよくて、言葉遣いも上品でさ。立てば芍薬座れば牡丹、歩く姿は百合の花、っていうのを体現してるじゃないか。さぞかし毎日、優しく教えてもらってんじゃないの。まったく、新人は役得だよなあ」
 はあ……? と鼻で笑いそうになった。大和撫子なんて死語、一体どこから持ってきた。美人で育ちもいい、ってところは否定しないが、あの言葉遣いは上品というよりある意味凶悪だ。姿だけは確かに芍薬だったり牡丹だったり百合だったりするのかもしれないが、中身はトリカブト並みの有毒植物である。
「すげえ毒舌家で、どっちかっつーと間違いなくS気質で、意地悪や嫌がらせには、大喜びで数十倍にしてやり返すような人っすよ」
 俺は本当のことを正直に教えてやったが、水原は一瞬ポカンとしたマヌケ面をして、それから噴き出した。
「なんだよそれ。そんなわけないじゃん。なに、ひょっとして、牽制のつもり? やめとけやめとけ、お前みたいなのが到底落とせる相手じゃないって」
 バカにしたように、ひゃひゃひゃという声を出して笑う。俺の言葉を、頭から信じていないらしいその態度に、さすがにむっとした。なにこいつ。
 どうやらこの男の脳内では、「完璧なお嬢様」 としての菊里春音がしっかり出来上がってしまっていて、それを壊す気も修正する気も、本人にカケラもないらしいと判った。だったら最初から聞かなきゃいいのに。人の意見よりも、自分で作り上げた幻想のほうを優先させるなんて、中学生か。いいトシして気持ち悪い。
「ひとつ忠告しときますけど」
 俺は空になった皿の載ったトレイを持ち、席を立った。
「菊里先輩は、初対面の相手を、あんた、とか、お前、とかって呼ぶような人間は大嫌いっすよ」
 それだけ言って、とっととその場を離れる。胸の中がムカムカして、食堂のカウンターにトレイを置く手つきが、つい乱暴なものになった。


 口止めされたわけでもないし、内緒にするつもりもなかったので、部署に戻ってから、そのことを菊里春音に話した。少し考えるような顔をして、「確か営業の……」 とぶつぶつ呟いたところからして、これまでに話しかけられたり会話を交わしたりしたことくらいはあるのだろう。
「なんか、舌なめずりして狙ってるみたいな感じでしたけどね」
 水原の悪印象が消し去り難く、敢えてそういう表現をした俺に、彼女の反応はどこまでもあっさりとしたものだった。
「私、私のことをまるで見ようともしない男性には、興味がありませんの」
 その言葉に、わずかにほっとする。やっぱりこちらにも、あの夢想癖野郎のイタさは伝わっていたらしい。
「まあ、見た目だけは綺麗ですもんね」
「そうなんです。よく、思ったのと違った、とガッカリされますわ」
 菊里春音は真顔で言い切った。不覚にもちょっと笑いそうになりながら、同時に、それもなんか変だよな、と思う。
 彼女は確かに見た目と中身が違うし、中身はいろいろと問題が多い気がするけど──ガッカリ、っていうのは、なんだか変じゃないのかね。
「自分だけの幻の世界を作って楽しむのも、時には結構なことなのかもしれませんけど。でも、それで現実世界をすべて否定してしまうのは、つまらないんじゃないかと、私は思います。目をしっかり開けて周りを見てみれば、ちゃんと楽しいことや面白いことは、たくさんありますのに」
 独り言のように彼女は言ったが、その言葉はなんとなく俺の胸にも刺さった。
 一流企業でバリバリと働くことに憧れていた自分──でもそれは、考えてみれば、ただの幻だったのかもしれない、と思ったのだ。どの会社でも、どんな仕事でも、悩みや苦労はあるに決まっている。俺はそれらをすべてすっ飛ばして、いい会社に入れば、それだけで自動的に幸福も手に入るものと思い込んでいたんじゃないだろうか。
 ここでの仕事が楽しくなってきた俺とは逆に、一流と呼ばれる企業に就職した大学時代の友人の中には、すでに退職してしまったやつもいる。思っていたのと違ったから、と。
 俺たちは一体、どんな夢や幻を抱いていたんだろう。


 ──結局、三カ月ほどで、菊里春音は俺の指導係を外れた。
 今回は匙を投げられたわけではなく、「基本は一通り教えましたから、あとは一人で頑張ってくださいね」 ということらしい。まだまだ独り立ちというわけではないものの、みっちりと付き添って指導する必要はなくなったということだ。ギャフンといわせる、という目標は達成できなかったわけだが、すでにその時には、俺自身がそんなことを忘れかけていた。
「……ありがとうございました」
 そう言って頭を下げた俺に、彼女は朗らかに笑ってくれた。
 指導係という立場でなくなれば、俺と彼女はただの同僚でしかない。仕事上で少し言葉を交わしたりはするが、それ以上の関わりはないまま、日々が過ぎた。
 二月に入ってからしばらくして、社長が体調を悪くして入院したと上司から伝えられた。
 ペーペーの俺にとっては、マトモに姿を見たのは入社式の時くらいだが、社員からは慕われる社長であるらしい。過労、という説明に、それならまたすぐ元気に、とみんなが安堵しているようだった。
 社長代理となった跡継ぎ息子は、俺から見てもなんとも頼りなさげなお坊っちゃんタイプの男だったが、福々とした身体でいつも忙しそうにバタバタと社内を走り回っていて、女子社員に 「癒し系のクマ」 とくすくす笑われていた。


 四月に入った頃、俺はまたしても水原に捕まった。
「なあ、知ってる? 社長の容体、あんまり思わしくないみたいだぜ」
 は? と問い返す。社長の入院がずいぶんと長引いて、社内にいろんな噂が立っているのは俺だって知ってる。でもそれは、そんなにもニヤつきながら嬉しそうに口に出すような内容ではないだろう。
「春音さんから、何か聞いてない?」
「知りませんね。あの人、もう俺の指導係じゃないですし」
 俺は素っ気なく返した。春音さん、という馴れ馴れしい呼び方が無性にムカつく。こいつ、彼女にまるで相手にされてないってこと、ぜんぜん自覚してないのか?
「もしも社長がいなくなったら、どうなると思う?」
「どうなるって……息子が社長になるんでしょ?」
 声を潜めていても、そんな内容は社内で話すべきじゃない。しかも、そんな楽しそうに。
 こんな話がもしも菊里春音の耳に入ったら、と、こいつは想像もしていないのだろうか。自分勝手な空想はしても、肝心の想像力が欠けている。この水原という男には、どこか人間として大事な部分が抜け落ちているのではないかと思うと、少し背筋がひやりとした。
「あんな能無しが社長になってどうすんだよ。お偉いさんたち、今頃目の色変えて、娘の結婚相手を探そうと躍起になってるぜ。血の繋がりはなくたって、娘の夫ならこの会社を継いでも問題ないからな。役に立たない息子よりは、能力のある他人、ってことだよ。つまり春音さんと結婚すれば、彼女だけでなく、次期社長の座も手に入るってわけだ」
 くつくつと喉の奥で笑いながら耳打ちされた内容に、俺は思わず相手の顔を見返した。話の中身が信じられない、ということではなく、そんなことを嬉々として喋り、なおかついかにも自分が結婚相手の候補にでもあがっているような言い方が信じられなかったのだ。
 こいつ、おかしいんじゃないか?
 俺はそう結論付けると、適当に返事だけして水原から離れた。離れても、あの厭らしい笑い方が耳に残っているようで、ずっと気分が悪かった。


 そんな時、たまたま久しぶりに、菊里春音と二人で話す機会があった。
 仕事を終えて家に帰るために電車に乗りかけたところで、スマホを会社に忘れたことに気づき、Uターンして取りに戻った時のことだ。正面玄関は閉まっているから裏口から守衛に声をかけて中に入り、海外事業部の部屋に入ったら、彼女が一人、ぽつんと窓際に佇んでいた。
 外は真っ暗で、室内にはもう誰もいない。部屋の電気も半分落とされて、薄暗い中、窓に向かって立つすらりとした後ろ姿は、どこかひどく疲れているようだった。
「……どうしたんすか?」
 思わず声をかけると、ゆっくりと振り返った彼女は静かに微笑み、「忘れ物ですか?」 と問いかけてきた。
「あ、はあ、ちょっとスマホを。残業なら、手伝いますけど」
 そう申し出たが、ふふ、と笑われただけだった。その笑顔も、いつもと違ってなんだか妙に頼りない感じがする。心ここにあらず、というか。やっぱり、水原の言っていたことは本当だったのかな、と俺は思った。
 ──会社の将来のために、誰か適当な男と結婚しろとせっつかれているのかな。
「少し、考え事をしていたんです」
「……考え事っすか」
 こくりと頷き、そのまま目を伏せた彼女は、ぽつりとした調子で、「私ね」 と言葉を落とした。
「この会社も、自分の仕事も、大好きなんです。その気持ちは、ずっと変わりないものと思っていましたの。守り続けようという決心も、この先、何があっても変わらないって、そう思っていました。だからこの会社に入った時点で、諸々の覚悟も背負うつもりでいたんです。自分で選んだことですものね。……でも」
 でも?
 俺は黙って待ったが、彼女はその先を続ける意思はないらしかった。また窓の外へ視線を向けてしまう。
 小さく息をついて、俺は自分のスマホを取ると、じゃあ、と部屋を出た。
 去り際にちらっと見ると、菊里春音の手の中にも、大事そうに彼女のスマホが握られていた。誰かと電話をしていたのかもしれない。


 社長急死の報が入ったのは、それからすぐのことだ。
 しばらくしてから、新しく社長として立ったのは、前社長の息子ではなく、娘の結婚相手でもなかった。社長変更に伴い社名が変わり、菊里商事と書かれた看板は撤去された。
 ──菊里春音とその兄は、揃って会社から姿を消した。



          ***


「水原さん、会社を辞めたんすよ」
 俺がそう告げると、桜庭さんは少し驚いたように目を見開いた。
「辞めた……いつ頃ですか?」
「さあ、正確には俺もちょっと……多分、二、三カ月前だと思うんですけどね」
 前社長が亡くなり社長と社名が変わってから、しばらくの間、会社内はやることがありすぎてしっちゃかめっちゃかの状態が続いていた。そんな時に、何度か海外事業部にやって来た水原が、菊里春音の連絡先を教えろとあちこちに談判していたことは、はっきりと覚えている。
 自宅の番号か、携帯の番号。あるいは現住所。同じ部署の人間なら、誰か知ってる人間がいるだろうというわけだ。総務にも掛け合ったが当然ながら断られ、こちらに来たらしい。
 社員たちはただでさえ多忙続きで殺気立っていたし、菊里春音には同情する向きが多かった。ましてや彼女は元の同僚だ。たとえ知っていたとしたってこんなやつに教えるか、ということで、俺を含め、みんなは水原を徹底的に冷淡にあしらった。課長も部長も同じだ。しまいにはやつが所属する営業のほうにも厳重注意が通達された。周りに叱責され、冷ややかに扱われ続けて水原は居づらくなり、自主退職したと聞いている。要は、すべてあの男の自業自得だ。
「二、三カ月ね……うん、なるほど。それから彼はどうやってか調べて、ハルさんの現在の状況を知ったということか」
 考えるように口許に手を当て桜庭さんが呟く。物腰は落ち着いているが、俺はちょっと背中に嫌な汗をかいた。あの男が、現在の菊里春音に婚約者がいるということを知ったら、どうするか。どうしたって穏便な方向には進まないような気がする。
「菊里先輩、あいつにつきまとわれてるんですか」
「いや、つきまとわれているのは、おれです」
「は?」
 さらりと言われて目を瞬く。桜庭さんは俺を見て、少し苦笑した。
「ハルさんは、おれがあらゆる手を使って完全に隠してますからね。彼としては、ハルさんと接触を持つ手段がない以上、婚約者であるおれのほうに近づいてくるしかない。それでまあ、何かとやいやい言ってくるわけです。それこそ、そんな人間に会わせたらハルさんが危ないということくらいは判るので最初は無視してたんですけど、それもそろそろ限界になってきたものですからね、どうしようかなと」
「…………」
 どうしようかなって、そんなノンキなこと言ってる場合じゃないだろ。
 ひょっとして、水原は今、相当に自暴自棄の状態になっているんじゃないか? 身勝手な妄想を膨らませて、それが上手くいかないからといって怒りを余所に向けるのは常人の思考ではないが、やつならいかにもそうなりそうだと納得できる。
 ……それって、かなり、ヤバいんじゃないか。
「大丈夫なんすか? 警察には相談したんですか」
「いや……それが」
 ここで桜庭さんがわずかに言い淀んで、ちらっと隣の彼女を見た。
「水原という人物は、あの会社の社員だと聞いたものですから、警察沙汰にするのを迷ってたんです。もしも何らかの犯罪にでも発展した場合、会社まで巻き込まれる恐れがあるでしょう? 報道されたり、ネットで悪い噂が出回るケースもあり得る。あの会社には、少しでも傷をつけたくないんですよ、出来ればね」
「え……」
 俺は意味が判らずボケッとしていたが、桜庭さんは、その点について説明するつもりはないようだった。
「でも、もう辞めたということなら、安心しました。呉田さんに会いに来た甲斐がありましたね。これから警察に行ってこようと思います」
 にこりと微笑まれて、そうっすよそうしたほうがいいっすよ、と俺も力強く同意しようとした──瞬間。
 最悪の出来事が起きた。


 桜庭さんと菊里春音の背後から、猛烈な勢いで突進してくる男に気がついたのは、そちらに顔を向けていた俺が最初だった。
 あ、という形で口を開けた俺に気がつき、二人が同時に後ろを振り返る。そして見えただろう。走ってくる男の血走った目、ぼさぼさになった髪、明らかに尋常じゃない顔つきが。それは、幻だけを追い求め、現実世界を見ようとも受け入れようともしなかった人間の成れの果ての姿だった。
 その手には、きらりと光る何か──それはまっすぐ、桜庭さんへと向いている。
 情けないけれど、俺はこの時、固まったまま、その場をまったく動けなかった。舌も凍って、危ない、とも、逃げろ、とも叫べない。水原の握っているナイフの切っ先が、ずぶりと桜庭さんの胸に入っていく光景が瞬間的に頭に閃いて、ざあっと血の気が引いた。
 菊里春音は、俺よりもよほど勇敢だった。彼女は向かってくる人物とその手にあるものを目に入れると、すぐに狙いが自分の婚約者のほうだと察したらしい。彼を庇おうとしてか、だっと足を動かして、前に立ちはだかろうとした。
 ここで、いくつかのことが、めまぐるしい速度で起こった。
 俺はそのすべてを把握しきれなかった。きっと、菊里春音でさえ同様だろう。桜庭さんはまず、水原の姿を認めると、駆け寄ってきた彼女をくるりと廻し、背中を手の平全体でとんと押した。軽く突いただけのように見えたのに、細い身体は結構な勢いで飛ばされて、ようやく硬直から解けた俺が、慌てて抱きとめた。
 桜庭さんに向かってナイフが突き出される。見ていた俺はひゅっと息が止まりそうになったが、桜庭さんはそれをひょいと避けて、手刀で叩き落とした。すぐさま腕を掴み、と同時に、するりと脇の下を通って背後に廻る。掴んだ腕はそのまま、もう片方の手で後ろから肩を押した──かと思うと、水原の身体はあっという間に前のめりになって沈み、アスファルトの地面に叩きつけられてしまった。
 ……この間、ほぼ数秒の出来事だ。


「え……えええええ?!」
 一拍の間を置いて、俺は叫んでいた。
 だって、そりゃそうだろ。こんな穏やかそうな人が、表情ひとつ変えずに、難なく自分よりも図体のでかい男を倒しちゃったんだぞ。しかも、まったく迷いのない、滑らかで素早い動きで。目の前では、呻き声を上げてみっともなく地面に腹這いになって倒れている男と、関節技を決めたまま肩の上に膝を乗せて身動きを封じている男の姿がある。それを見ても、未だ現実として脳が処理できない。
 大体、今、どうやって倒したんだ? 速すぎて、ぜんぜん判らなかった。肩を押しただけに見えるけど、足技も使ってたんだろうか。え、なにそれ、格闘技?
「て、哲秋さん!」
 はっと我に返った菊里春音が、勢いよく俺の腕から飛び出して、自分の婚約者のほうへと走った。
「大丈夫ですか?!」
「ぐぎゃあっ!!」
 ちょっ、踏んでる! 踏んでる! 水原の背中、ヒールの先で思いきり踏んづけてるよ!
「ハルさん、駄目ですよ。そんな風にハルさんに踏みつけられて、この人が快感を覚えるようになったりしたらどうするんです」
 桜庭さんも、今真顔で窘めるべきはそこじゃないよ?!
「お、お怪我は」
「いえ別に。ハルさんこそ、大丈夫ですか。つい手加減せずに突き飛ばしてしまいましたけど」
「まあ、何を仰ってるんですか! そんなことを心配されてる場合じゃないでしょう! 私……私がどんなに」
「はい、すみません」
 泣きそうな菊里春音と、苦笑して謝る桜庭さんは、今にも人目を憚らずベタベタと抱き合いかねない雰囲気を醸し出していた。俺の目にも、二人の間を舞い飛ぶハートの大群の錯覚が見えたくらいだ。ちなみにこの場合、二人によって下敷きにされて地面に潰れている水原のことは双方ともにガン無視である。
「呉田さん、警察を呼んでもらえますか」
「は、はい!」
 桜庭さんに声をかけられた俺もようやく茫然自失から抜け出して、スマホを取り出した。110番通報し、つっかえながらも状況をざっと説明する。
 そうしてから、そろそろと足を動かして彼らのほうへ近寄った。桜庭さんはまだ水原を拘束したままだ。異変に気がついた通行人たちも、足を止めたり、わざわざこちらへ見に来たりするものだから、このあたりを中心に円になって人だかりが出来つつある。警察、頼むから早く来てくれ、と俺は心の中で願った。
 身体を押さえつけられて、それでも水原は往生際悪くもがいていた。じたばた暴れて、ぎゃあぎゃあという叫び声も出しているので、桜庭さんはちょっと顔を顰めた。
「うるさいですね。これ以上力が入ると、腕が折れちゃうかもしれないんですけど、どうしましょうか、ハルさん」
「頭をヒールで踏んづけて潰してやれば、静かになるんじゃありません?」
 そこ、二人で物騒な相談しない!
 水原はぴたりと大人しくなった。
「あの……強いっすね、桜庭さん。実は武道の達人だったりするんですか」
 俺はおそるおそる問いかけたが、桜庭さんは、こちらを見上げて、きょとんとした顔になった。
「強くなんてないですよ。おれ、喧嘩はまったく得意じゃないです」
「え、でも、今の……」
「護身術くらいは身についてますから。呉田さんも、この程度なら出来るでしょう?」
「出来るわけないじゃないっすか!」
 当然のように言われて、仰天した俺が大声を出して否定する。桜庭さんはますます不思議そうに首を傾げた。
「習いませんでした?」
「習いませんよ!」
「でもそれじゃ、誘拐されそうになった時の対処が……」
「ゆ、誘拐?!」
「…………」
 桜庭さんはそこで口を噤むと、おもむろに頭上に目をやり、「……今夜は月が綺麗で愉快ですねえ」 と言った。
 誤魔化した! 誤魔化したよ、この人! それもなんかすごくヘタクソに!
「……ど、どういう人なんすか、この婚約者さんって」
 菊里春音に顔を寄せて、こっそりと訊ねてみると、彼女はニッコリ笑って言った。
「ちょっと、変わった人なんですの」
 お似合いだ、と俺は心の底から思った。


 やがて警察が来て、水原を連行していった。
 まあ、これでさすがにあの男の幻想も壊れたはずだから、相応の罰を受けた後は、もう菊里春音には関わらないでいるだろう。
 一通りの事情説明はしたが、警官に、署のほうで調書を作りたいので一緒に来て欲しいと言われた。やれやれと思いつつ同意する。ここまできたら腹を括るしかないよな。
「呉田さんまで巻き込んでしまって、すみません」
 と桜庭さんに謝られたが、いやいやと笑って手を振った。こんな形で新人時代の恩を返すことになるとは思わなかったが、多少は役に立てるのなら、俺の胸も軽くなる。
 パトカーに乗ろうとして歩き出したが、二人はそこから動かない。
 後ろを振り返ると、彼らは並んで、少し離れた先にある会社のビルを眺めていた。
「…………」
 何を思って見ているのだろう。もうすでに、以前の 「菊里商事」 とはかけ離れた外観になったあの会社。灰色ではなく、すっきりとモダンになった見た目、横文字の混じる新しい会社名。
 ……二つ並んだ背中は何も語ってはくれないけど、そのビルを見ている現在の菊里春音の隣に、彼女を支えてくれる存在があることに対して、俺は何かに感謝したい気持ちになった。



 いつか、俺がもっと偉くなって、社員たちに説教できる立場になったら、春になって入ってくる新人たちに、胸を反らして得意げに語ってやろう、と思っている。
 俺がバカな新人だった頃のこと。今夜のこと。おかしな二人のこと。
 ──あの会社を深く愛していた、一人の女性のこと。



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