はるあらし・番外編

秋の章(前編)



 久しぶりにその部屋を訪れた俺を、親友である哲秋はどよんとした暗い顔で迎え入れた。
「よく来たな、葵。……まあ、上がれよ」
 と哲は言ってくれたが、それを聞いた俺は正直、今すぐこの玄関先でUターンして帰りたくなった。それくらい、顔だけでなく声までもが暗かったからだ。
 家主が一人で黒いオーラを背負っているため、なんとなく部屋の中までもが暗い感じになっている。まだ真っ昼間で、さして広くはないマンションの一室とはいえ、南側の窓からは明るい陽射しが差し込んでいるというのに、気分はまるでこれからオバケ屋敷にでも入っていくみたいだ。女の子と一緒ならともかく、男二人でオバケ屋敷にいたって楽しくもなんともない。帰ろうかな。
「あのさあ、哲……」
「上がるだろ?」
「……うん、オジャマします……」
 やっぱ俺帰るわ、と言いかけたのを察したのか、リビングに向かいかけていた哲が、顔だけで振り返って脅し……じゃない、促した。表情も声のトーンも変わらないのに、なんか怖い。俺は渋々、靴を脱ぐ。イヤな予感しかしないんだけど。
 リビングに入ると、そこは相変わらずすっきりと片付いていた。家具がそんなに多くない、ということもあるが、お坊っちゃん育ちにしては、哲はわりとまめに掃除とか洗濯とかをするほうなのである。男の一人暮らしにはやや上等、しかし実家の桜庭家に比べると、物悲しいくらいに狭いこの部屋を、哲は哲なりに、自分にとって居心地のいい空間に整えているのだった。
 そのリビングのソファに座り、当の本人はどこかぼんやりとした顔で、窓の外に視線をやったりしている。向かいに座る俺とお喋りを楽しもう、というつもりは、あまりないらしい。大体、まだお茶のひとつも出してもらってないし。
 お茶、というところで思い出した。
 そういえば、俺がここに来るといつも、哲と一緒に笑顔で出迎えて、あれこれともてなしてくれる人の姿がない。そうか、だから今日のこの部屋は、こんなにも暗く寂しく見えるんだな。
 そして多分間違いなく、目の前の友人がそれと同じ顔をしているのも、そこに原因があるのだろう。
「ハルさんがいないね」
 なるべくさりげなく口にすると、哲の肩が明らかに下がった。
 まあ、ここにハルさんがいないこと自体は、そんなに不思議なことじゃない。なにしろ、婚約はしているとはいえ、そしてすでにほとんど一緒に暮らしているような状態とはいえ、ハルさんはまだ正式には哲の奥さんというわけじゃない。それに奥さんだったとしても、哲は、女性を家に縛りつけて満足、というような古めかしい考えの持ち主でもない。
「……ハルさんは」
 哲の口からぼそっとその名前が出る。口調は怒っているものではなくて、なんというか、しょんぼり、としか表現できないものだった。雰囲気としては本当に、奥さんに出て行かれて途方に暮れた男の図、という感じだ。
 けっこう本気で心配になってくる。まさか本当に深刻な事態になってるんじゃないだろうな。
「最近、ここに帰ってこない」
「最近っていうと、一カ月? 二カ月?」
「五日」
「…………」
 そんだけか! と突っ込んでしまいそうになるのを、なんとか呑み込んだ。
 たかが五日とはいえ、哲はそのことが心底、コタえているようなのだ。迂闊なことを言うとさらに落ち込まれそうで、それも面倒くさい。ハルさんに関わることになると哲がおそろしいまでにアホになる、というのは今にはじまったことじゃないし。
 ぽりぽりと指で頭を掻いて、俺は短い溜め息をつく。
「……喧嘩した?」
 そう言うと、哲がなんとなく恨みがましい目をこちらに向けた。うん、八つ当たりしたいような気分なのはわかるけど、別に俺のせいじゃないからね。
「喧嘩というか」
「うん」
「見解の相違だ」
 同じだよ。
「何についての?」
「……そろそろ、真面目に式のことを考えようかって話になって」
 結婚式のことか。やっとそこまで進んだのか。ハルさんはいろいろ変わった趣味嗜好の持ち主ではあるが、「披露宴はせず、結婚式は、家族とごく親しい友人を招待するだけのこぢんまりとしたものを」 っていうのは、二人の共通の希望だと聞いてたけどな。
「ハルさんのお母さんとお兄さんは問題ないんだ、快く賛成してくれた。おれのところも、兄一家と妹は問題ない。スミさんも喜んで出席すると言ってくれた。父親はそもそもそんな時間がとれるかどうかも判らないから、とりあえず耳に入れておくだけでいい。──問題は」
「哲のお母さんだね」
 それは自明の理というか、あの人がそれをすんなり認めたらそっちのほうが驚きというか、まあそこで間違いなくゴタゴタとはするだろうな、というのは当事者でない俺だって容易に想像できていたけど。
「もちろん、反対された」
「だろうね」
 桜庭の息子がそんなみっともない式を挙げるなんて許しません──とか、いかにも言いそうだもんなあ。
「でも、それは予想できてたからいいんだ。おれはもう桜庭の家とは関係のない人間だから、面子や世間体なんてどうだっていい。桜庭の次男としてではなく、おれという一個人として、桜庭家の人間を招待するつもりだ、って説明した」
「でも、納得されなかったと」
「納得しないだけなら、よかったんだけど」
 哲はちょっと言葉を濁したが、どうやら彼女は、そんな勝手なことをと怒り出して、あまつさえその怒りの矛先を息子ではなく、その妻となるハルさんに向けたらしい。それも、かなりきつい調子で、菊里の家や会社のことまで引き合いに出して。
 それが、いつもは完全に隠されてしまっているはずの哲の逆鱗に触れた。
「だったらもう出席してもらわなくて結構です、ってはっきり言った。ハルさんはもちろん、あちらのご家族にまで不快な思いをさせるわけにはいかない。式は母さん抜きで挙げます、って──そうしたら」
「そうしたら? ますます激怒された?」
「怒った」
「だろうね」
「ハルさんが」
 は? と目を点にする。哲はますます両肩を下げた。
「母親よりももっと怒った。そんな放り出し方をして一体誰に何の得があるんです、って言われた。でも、しょうがないじゃないか。ああいう時の母親には、何を言ったって、通用しない。ハルさんは判ってないんだ」
 そこで二人は一旦、桜庭の家からここに戻って話し合いをしたのだが、それでも解決には至らなかったらしい。
 哲は自分の言ったことを撤回するつもりはなかったし、ハルさんも退かなかった。二人とも、時々意固地になってしまう性格であることは、俺も知っている。
 結果的に、言い争いになり、
「……ハルさんが、『実家に帰らせていただきます』 って」
 哲に向かって、きっぱりと告げたのだそうだ。
「実家? ハルさんち?」
 母親と兄が別の地に移住して、今はハルさんが一人暮らしをしているという家のことか。半分ここに住んでいるようなものとはいえ、そもそも彼女の現住所はそちらにあるのだし、その言い方って変じゃない?
 と首を傾げながら俺は訊ねたが、事実はもっと変だった。
 今度は肩だけでなく、眉も下げた哲が、こう言ったのだ。
「そこじゃない」
「え。じゃ、ハルさんのお母さんたちが住んでるとこ?」
「違う。おれの実家」
「はあ?」
 意味が判らず問い返すと、肩も眉も下げた哲は、大きな息を吐き出して唸るように言った。

「桜庭の家に泊まり込んで、こっちに帰ってこないんだ……! あの人はもう、ホントにわけがわからない!」
「…………」

 とうとうテーブルに顔を突っ伏してしまった友人に、そうだねその通りだね俺もサッパリわかんない、という同意の言葉をかける勇気は俺にはなかった。
 ただ胸に湧いてくるのは、ひたすら、感嘆と尊敬の念だけだ。
 この男をここまで振り回せるハルさんて、すごい。


          ***


 そもそも、桜庭哲秋という男は、昔から、何を考えているのかよく判らない男だった。
 俺と哲は、小学校から大学までずっと同じだ。そこからそこまでがエスカレーター式に続くのだから、同じで当然とも言える。途中で勝手に脱落したり、振り落とされるようなのもいれば、新しく入るのもいたりして、多少は変化もあるけれど、まあ大体は似たような顔ぶれと過ごす、狭い世界だった。世間的に、名門、と言われる私立校である。
 だから俺も、小さい時から哲の存在くらいは知っていた。でも、自分からは近寄りもしなかったから、中学まではほとんど言葉を交わすこともないまま成長した。金持ち学校に通う坊っちゃん嬢ちゃんなんてのは、大体が鼻持ちならない自己中でワガママなガキばっかりだが、ご多分に漏れずそうだった俺も、自分とタイプの違うやつとわざわざ仲良くしようなんて思考は持てなかったのだ。

 幼い頃の俺っていうのは、まあ──なんていうか、要領のいいやつだった。

 自分の容姿が人よりもいいらしい、っていうのはわりと早い段階のうちで気づいていたから、それを利用して人を動かすことも知っていた。女の子は年齢を問わず、同年代のまだハナが垂れているような男の子も、周囲の大人たちもだ。口も廻って、ウソをつくのも抵抗がなかった。嫌なガキだよね。自分でもそう思う。
 つまり、舐めきってたんだ。周りはみんなバカばっかり、なんてこともかなり本気で思ってた。それでまあ、そういうガキに寄ってくるやつってのも、似たようなのばっかりで。結局どうなるかっていうと、表向きはいい子ちゃんを演じながら、裏では悪どいことをして騙される大人たちを嘲笑う、タチのよくない集団が出来上がる。金にはあまり困ってないから、盗みや恐喝などの方面には進まなかった──という、それだけの話だ。
 そんなわけで、中学生になった時には、俺は仲間と一緒に、学校の男子トイレで煙草を吸いながら、次にやるイタズラの相談をするという、みっともない悪ガキに成り果てていた。「イタズラ」 の内容も、教師に対するちょっとシャレにはならないような嫌がらせとか、その類だ。
 ホントもう、恥ずかしい。そういうのがカッコイイ、と思ってたんだろうね。
 まあいい。とにかく、当時のアホな中学一年生の俺は、その日も仲間とつるんでトイレにこもり、煙を吐いていた。
 あいつ近頃生意気だから、大事にしてる愛車の窓ガラスを割って中にペンキをぶちまけてやろうか──なんてことを話していた時。
 突然、男子トイレの入口の扉がガラッと開いた。
 俺たちは一瞬、その場に凍りついた。放課後の校舎内に誰もいないことは確認済みだったので、つっかい棒で開かないようにしておくことも怠っていた。校舎を巡回するような仕事熱心な教師がいるとも思っていなかったし、事実、今まで見つかったことなんて一度もない。だから、すっかり油断しきっていた。
 いくらなんでも、この場を教師に見られたら言い逃れできない。金持ち学校だから規律は厳しくないかといえばそんなことはなくて、ルールを無視した者にはそれ相応の罰が与えられる。校内喫煙がバレたら、親の呼びだし、下手すりゃ謹慎処分だ。周りが自分たちを見る目もきっとガラリと変わるだろう。
 が、揃って青くなった俺たちに、落ち着いた声をかけてきたのは、教師じゃなくて一人の男子生徒だった。

「窓から煙が流れてる」

 それだけ言うと、そいつはまたピシャンと扉を閉めて、その場を立ち去った。
 急いで証拠隠滅をして、少しだけ開いていた窓も閉める。ここは三階で、トイレの窓は校庭や他の校舎からは見えない北側を向いている。だから高を括っていたのだが、あの生徒がここに来たのは、「他のやつにも見えてるぞ」 と忠告するためだったのだろう、ということくらいは俺たちも理解していた。
「……今の、誰だ?」
 ほんのちょっとのことだったので、ろくに顔も確認できなかった。俺が問うと、仲間のうちの一人が、「桜庭だったんじゃないか」 と言った。
「桜庭……」
「ああ、あの目立たないやつ」
「けど、あいつの家ってすごくデカいらしいぞ」
 とりあえず悪事が露見せずに済んでホッとした他の連中が、口々に言葉を出しはじめる。そう言われて、俺も顔を思い出した。しかも、今、同じクラスなのだったということも思い出した。そんなことすら意識にのぼらないほど、この時の俺にとって、その存在は自分とは遠いところにあるものだったのだ。
「桜庭ね……」
 これからさぞかし、弱味を握ってやったというしたり顔をされるんだろうさ、と俺は苦々しい気分で呟いた。


 けど、哲の態度はまったく変わりなかった。
 あんなことはもうやめろ、と説教してくるわけでもない。黙っててやるから言うことを聞け、と脅しをかけてくるわけでもない。大体、教室内では、俺と目を合わせることもなかった。かといってビクついてるかというとちっともそんな感じはしない。いや、そんな弱気なタイプなら、そもそもあんな風に言いに来たりはしないだろうけど。
 そう、よくよく考えてみたら、トイレは三階にあって、煙が見えたということは、その時哲は外にいたということなのである。それをわざわざ校舎内に戻り、階段を上って、そのことを教えに来るなんて、よっぽどのお節介かと思えばその後は知らんぷり。なんでそんな中途半端なことをするんだろう、と俺はこの時はじめて、その同級生に興味を抱いた。
 それからだ、俺がひそかに、哲をじっと観察するようになったのは。
 ──結果、気づいたことがある。
 仲間も言っていたし俺もそう思っていたが、実際の哲は、「目立たない」 のではなかった。
 「目立たないようにしている」 のだ。
 授業中でも、決して自分から発言したり手を挙げたりすることはない。でも当てられればすんなり答える。成績は上位のほうだったが、どの教科も似たような点数で、どれかが突出して良かったり悪かったりすることはなかった。運動でも似たようなものだ。手を抜いている、というわけではないんだろうけど。
 友人はそこそこいるようだったが、誰に対しても一定の距離を崩さなかった。男子でも女子でもそれは変わらない。たまに 「桜庭君のおうちってスゴイんだってね」 とおもねるようなことを言ってくるやつにだけは、「すごいのはおれじゃないから」 と素っ気なく返していた。
 親切というほど親切でもないし、冷淡というほど冷淡でもない。
 リーダーシップを発揮するようなところはないが、頼まれればどんな役割でもそつなくこなす。
 優等生ではないけど、道化役にはなろうとしない。
 なんとなく全体に受け入れられていて、なんとなく気づけばそこにいる。
 無難。うん、そんな感じだ。何もかもを無難に済ませるから、誰の記憶にも特別残るわけでもない。もっとやりようを変えれば、いくらでもクラスで目立つ存在になるだろうことはちょっと見ていただけの俺でも判るのに、哲はそういう道を選ぼうとしなかった。
 ──俺にはまるで、哲が自分自身を、「無難にまとめてみました」 というように作りあげているように見えた。


 結局、いつまで経ってもなんの反応も見せない哲に焦れて、俺は直接本人に、どうしてあの時いちいち言いに来たんだよ、と問いかけてみることにした。
 哲は少しの間、困ったような顔をして、
「見えたから」
 とだけ言った。
「先生に言いつけにいく、とかは考えなかったわけ?」
「そんなことをしたって、何の益にもならないじゃないか」
「俺たちに忠告しに来たって、お前のメリットにはならないじゃん」
「そういえばそうだ」
 そう言って笑う哲を見て、俺はますます判らなくなった。こいつはバカなのか大物なのか、どっちなんだ。
「バラされたくなきゃ俺の命令を聞け、って言うとかさ」
「そうまでして他人にやってもらいたいことってないから」
「さもなきゃ体に毒だからやめたほうがいい、って叱るとか」
「そこまでクラスメートの心配をする義理もないし」
「腹の中では俺たちのことバカにしてない?」
「ごめん、そんなに君たちに興味ない」
「…………」
 なんなんだ、と混乱する。クラゲかなにかを相手にしてるみたいだ。善意も悪意も感じられないっていうか──じゃあ人形みたいに何も考えていないかというと、さりげなく酷いことも言うし。
 で、結局。
 こいつは一体どういうやつなんだ、と近くをうろついたり、ちょっかいをかけたりしているうちに、俺と哲はだんだん仲良くなっていった。
 不思議と、哲の近くだと肩の力が抜ける。普通に喋ったり、笑ったり、時には悩みを洩らしたりも出来る。いつの間にか、哲は俺にとって、そういう対等の相手になっていた。
 そうか、これが 「友達」 ってやつか、と傲慢で無知な子供だった俺は、だいぶん後になってようやく気づいたのだった。


 ずっと、周りにいるのはバカばっかり、と思っていた俺だが、どういうわけか哲の言うことだけは素直に聞けた。
 哲は滅多に人の言うことに反対や反論をしない。俺がワガママなことを要求しても、大概は、「うーん」 と言いながら聞いてくれる。だからあまり品行方正ではない遊びにも付き合わせたりした。ちょっと反省してる。
 でも、一定の線を越えそうになると、哲は頑としてそこから動かなくなる。そこを強引に引っ張ろうとすれば、すっぱり俺との縁を切って去って行ってしまうのではないかという気がして、自然、以前までの悪い仲間とは距離を置くようになった。そちらに文句を言われるよりも、哲に見限られることのほうが怖かったからだ。
 昔の仲間の中には、そのまま道を踏み間違えて、退学になってしまったやつもいたので、哲との出会いは、俺の人生の転機、ってやつだったのかもしれない。
 ……俺がそう言うと、本人は、「大げさだ」 って、笑うんだけどね。


 付き合いが長くなっていくにつれ、俺もちょっとだけ哲の事情というものが判ってきた。
 「桜庭の家」 っていうのは、どうやら俺や他の連中が想像しているよりも、ずっと窮屈であるようなのだった。哲ははっきりとは言わないけど、長男は長男でプレッシャーが大きく、でも、次男は次男でいろいろとあるらしい。
 哲の行動のあれこれは、決して長男よりも存在を大きく見せないように、というのが基本にあるんじゃないかと、俺には思えてならなかった。しかも、どうも本人はそれを無意識にやっているみたいなのだ。哲はよく、「おれは桜庭の付属物だから」 というようなことを言うけれど、その言葉に、自分がいちばん縛られてしまっているんじゃないかという気がした。
 忘れもしない、あれは中二の秋のこと。
 哲が珍しく、文化祭の実行委員の責任者に選ばれたことがある。
 普段はなんだかんだいって委員長とかの役職にはつかないようにしている哲だが、文化祭くらいはいいか、と気軽に考えたのもあるのかもしれない。段取りをしたり、てきぱきと指図して仕事をこなしている姿は、ハタ目に見ていても楽しそうだった。
 実はこういうのが向いてるし、本人も嫌いじゃないんだろう。
 その時の哲は本当に、生き生きとしていた。
 俺も哲を手伝って、文化祭の準備は着々と進んだ。中学の文化祭といったって、なにしろ普段裕福な生活をしている生徒や親が、焼きそばやポテトなんかで満足するわけはないので、けっこう金もかけるし、本格的な飾りつけだってする。哲はあちこちから寄せられる要望や不満を忙しくさばいては、下級生から上級生までを上手に使い、落ち着いて全体のバランスを見ながら、しっかりと予定を組んでいった。
 きっと、そのままいけば文化祭はかつてない大成功で幕を閉じ、責任者の哲は大いに面目を施しただろう。俺はそれだけを楽しみにして、文化祭が来るのを指折り待ち続けた。
 ──が、文化祭まであと一週間をきった、というところで。
 哲はいきなり、責任者の座を下ろされた。
 説明も何もなく、学校側が急遽そう宣告してきたのである。生徒たちはもちろん驚いたし、俺は動揺を通り越して、その場に卒倒しそうになったくらいだった。
 方々から責められて、哲は弁解もせず、ただ、「ごめん」 と一言みんなに向かって謝った。


 理由は、俺だけに教えてくれた。
 ──母親が、学校に直談判したらしい、と。
 哲は今回のことを、家の人間には言っていなかった。それでもこういうことはどこからか洩れる。哲の母親は、他の生徒の母親の口からこのことを聞くや、直ちに学校に電話を入れたのだという。
 委員長や生徒会役員ならともかく、文化祭などというお祭り騒ぎの責任者に据えられるのは、桜庭の息子として不名誉なことである。そのようなことで悪目立ちしては今後にも差し支えるし、勉強の妨げにもなりかねない。よって、すぐにその役から外すように。
 いくら相手が大口の寄付をする家だって、その言葉の言いなりになってしまう教師たちにも腹が立ったが、哲の母親のやり口にはもっと腹が立った。それならせめて、まずは同じ屋根の下にいる自分の息子に直接言えばいいのに、彼女はその過程もすっ飛ばして、学校に命じるという方法を取ったのだ。
 本人に事情を聞くという最低限のことすらせず。説得するという手間も取らず。電話をした後だって、母親は哲に一言もそれを言わなかった。
 付属物だから、というのは、こういうことの繰り返しから引き出された結論なのだと俺は知った。きっと今までにも、何度も何度も同様のことがあって、哲はそれに慣れてしまったのだろう。

 そして、諦めることを覚えてしまった。

「葵、悪いんだけど、おれの代わりに責任者を引き受けてくれないか」
 いつもと変わらない顔でそう言う哲の頼みを、断れるわけがなかった。こういうことは嫌いだけど、そんなこと言っていられない。突然の責任者交代で、生徒たちの士気は一気に下がった。あちこちから、桜庭は無責任だ、という非難の声も聞こえる。なんとしても、文化祭は成功させなきゃいけないんだ、と俺は決意した。
「俺じゃいささか頼りないけど頑張るよ」
「ありがとう。葵なら、きっとみんなも言うことを聞いてくれる」
「お調子者だから、って言いたいんだろ」
「うん、否定はしない」
 誰もいない放課後の教室で、あはは、と俺たちは笑い合った。そうでもしなきゃ、少なくとも俺は、何かを思いきり殴ったり蹴飛ばしたりしてしまいそうだった。
 これまでの流れと、これからの予定をノートに書くから、と哲は静かに言った。
 今まで苦労して自分が作り上げたもの、これから完成させようとしたものを、誰かに渡すのは悔しいだろう。それは痛いほど判るから、俺はただ黙って、哲がそれらを几帳面な文字で真っ白いノートに綴っていくのを見守った。
 サラサラという、シャーペンを走らせる音だけが無人の教室内に響く。
「……葵」
 しばらくしてから、哲がぽつりと言った。
「うん?」
「──おれ、なんであの家に生まれたんだろ」
 口調に波はなかった。いつもと同じ、穏やかな言い方と声だった。怒ればいいのにと俺は思ったけれど、哲はそれさえせずに、ただ小さく控えめな疑問を口にしただけだった。誰かを責めることもしなかった。
 顔は下に向けられている。シャーペンの動きも止まらない。俺にはその時、哲がどんな表情をしていたのかは見えなかったし、見なかった。

 ……でも、ノートの白いページに、ぽつぽつと落ちる透明な滴が染みを作るのだけは、見えた。



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