猫の手貸します

case by case.4

この素晴らしき、人生を(1)





 ──その小さな便利屋は、古ぼけたビルの一階にあった。


 男は車道を挟んだ向かいの歩道から、それを眺めていた。
 どこにでもあるような、灰色の薄汚れたコンクリートの四角い建物。五階建てで、六枚分ガラスの嵌めこまれた窓が並んでいるだけの、殺風景な造りだ。窓のいちばん端には、それぞれ縦長の細い看板が控えめにくっついている。
 その看板に書かれているのは、個人の会計事務所もあるし、名前だけでは何をしているのかまったく判らないものもある。おそらく、どこも社員数名ほどのささやかな職場なのだろう。外から見る限り、中の広さは二十坪あるかないか、というくらいだ。
 建物の前面は共同駐車場となっていて、おもにこのビルに勤める人々が、自分用かあるいは来客用に借りているものと思われる。平日の午前十一時現在、そこは二台の乗用車と、黒光りする大型バイクが置かれてあるだけだった。
 ぽかっと切り取るようにして口を開いた入口の向こうには、そのまま上階へと通じる階段が見えた。入ってすぐの右手の壁面に、看板と同じ名前が書かれた灰色の郵便受けが並んでいる。そんなものが離れた位置からでも見えるほどに、この建物の出入り口は開放的なのだ。どうやらビルの持ち主は、セキュリティーという点に、あまり関心がなかったらしい。
 階段の脇には薄暗く細い廊下が続き、そこを進んだ左手壁に、今どき珍しいくらいの薄そうなドアがある。
 ドアは上部三分の一くらいがすりガラスになっていて、その真ん中には、文字の書かれたプラスチックのプレートがぺったりと貼り付けられていた。
 「スズカ便利屋」 と。
 男はしばらくその場に佇んでじっとビルを眺めていたが、やがて足を動かし、歩きはじめた。


         ***


「運動会ぃ?」
 出勤した途端、所長の鈴鹿からそんな話を聞かされて、時子は 「おみくじを引いたら大吉と凶の両方が書かれていた」 というような──要するに、「まったく意味がわからない」 という顔と声で言った。
「なんですか、それ」
「いやだなあ、時子君。運動会だよ。駆けっことか、綱引きとか、障害物競走とかで爽やかに汗を流して順位を競う国民的行事だよ」
 あっはっはと笑いながら、場を和ますための冗談のつもりで鈴鹿はそう言ったのだが、時子はひややかに応じるだけだった。
「ぜんぜん面白くないので、さっさと話を進めましょうよ。なんですか、運動会って。小学校でもあるまいし」
 いつもは自分が率先して話をどんどん別の方向に逸らしていくくせに、楽しくないと思えばばっさり切り捨てる。時子のお笑いの基準は非常に厳しく、かつ冷酷だ。
「あのさ時子君、君ももう大人なんだし、そろそろ、『迎合』 とか 『柔軟』 とか 『たまには上司に愛想を振ってみる』 とかのスキルを身につけたほうがいいんじゃないかな」
「続きをどうぞ」
「……うん。だから町内運動会だよ。今度の日曜に、近くのグラウンドで行われるんだって」
「ああ」
 そういえばと思い出して、時子は声を上げた。最近、駅からこの事務所までの道のりの途中、あちこちの電柱に 「町内運動会」 と書かれたポスターが貼ってあるのを、よく見かけたっけ。
「このあたりでは、まだそんなことやるんですねえ」
 時子がかつて住んでいた地域ではそういうものがなかったので、感嘆するようにそう思うしかない。町内会自体はあったが、子供の数がさほど多くなかったから、お祭りで法被を着ておみこしを担ぐ、というようなイベントもなかった。
「いやー、年々どこも廃れていくみたいだね。僕が住んでいるとこも、以前はあったけど、数年前になくなってそれっきりだよ。ほら、アパートの一人暮らしの人なんて、そもそも町内会に入らないしさ。町内会に入っていても、なかなか参加者が揃わないらしくって」
「地域住民の親睦を深める、いい機会なんでしょうけどねえ」
「こんなことだから近所同士がお互いに無関心になっていくんだよねえ」
「現代社会の問題点ですよねえ」
 二人して、頬に手を当て、しかつめらしい顔でうんうんと頷いている。自分の机でこのやり取りを見物していた環は、「井戸端会議をしているおばさんたちみたいだな」 と、決して上司と恋人に対して抱いてはいけない感想を抱いた。
「──で?」
 と、唐突に時子が通常モードに戻って訊ねる。時代と共に無味乾燥になっていく日本の未来を憂えていた鈴鹿は、時子ほど切り替えが早くないので、「は?」 と首を傾げた。
「だから、その町内運動会が、どうしたんですって?」
「あ、ああ。そうそう、そうだった」
 すっかり忘れていたらしい。
「うん、だからつまり、この町内でも、運動会はなんとか開催を維持するのがやっと、というのが現状らしいんだよね。このあたり、会社とかアパートとかが多いから。マンションに住む若夫婦は、こういう行事にちっとも興味を示してくれないし」
「まあ、そうでしょうね」
「それで町内会長がね、もうこの際だからと腹を括って、規約を緩めることにしたんだよ。本来なら運動会に出場できるのは、ここに住んでいて、町内会に入っている人たちに限られているんだけど、今年から、とにかくこの町内に関係している人なら誰でも出場可、っていうように」
「…………」
 時子は思わず首を捻ってしまう。出てくれるのなら誰でもオッケーって、それはもはや、「町内運動会」 とは呼べないんじゃ? そういえば電柱に貼られているポスターには、出場選手募集中! と熱いメッセージがデカデカと書かれていたが、あれはとにかく誰でもいいから来てね! という、魂からの悲痛な叫びだったのだろうか。
「で……もしかして、所長も出るんですか、それに」
 目の前の椅子に座っている人物をまじまじと見ながら、時子は問いかけた。
 話の流れからしてそういうことだろうとは思うのだが……しかし、言ってはなんだが、この小柄で体格が貧相でしょっちゅう腰が痛いとコボしている中年男が、誰でも参加可能の運動会に、ラッキーとばかりに喜んで申し込みをするタイプにはまったく見えない。まるっきり今の姿からは想像も出来ないが、ひょっとして若い頃はスポーツが得意だったとか?
「あー、うん、まあ」
 鈴鹿がわずかに視線を外し、曖昧に言葉を濁したところで、時子はピンときた。ダテに時子だってこの事務所でバイト経験を積んできたわけではないのである。その経験は、おもに仕事上のことではなく、この頼りない所長の取り扱い、という方面で特に効力を発揮する。

 要するに、「またロクでもないことをやらされる」、とピンときたわけだ。

「さっ、お掃除しよっと」
 というわけで、時子はくるりと思考と身体を方向転換して、すぐさま鈴鹿のデスク前から離れることにした。掃除して、コーヒーを淹れて、昨日の経費の計算をしないと。あー忙しい忙しい。
「待って待って時子君、僕の話を聞いて?」
 鈴鹿が大慌てで椅子から飛び上がり、追いすがるように時子の前に廻り込む。すでに両手を合わせてお願い態勢になっている彼から、時子はすげなく目を逸らした。
「やです」
「そう言わずに! 時子君、運動は得意でしょ?」
「個人のプライバシーに関わることはお教えできません」
「そんな大げさな! ていうか君、聞きもしないのに、よく 『昔から体育の成績は5以外取ったことないんですー』 って自慢してるじゃないか!」
「そうでしたっけ?」
「そうだよ! そのスポーツ万能な時子君を見込んで、頼むよ!」
 鈴鹿は両手を合わせたまま頭を下げて、拝む真似をした。

「時子君も町内運動会に参加して!」

 やっぱりロクでもないことを言われたか。
「やですよ。興味ないし、関係ないし」
 時子は腕を組み、ぷいっとそっぽを向いた。
「君、さっきと言ってること違うんだけど! 地域住民との親睦を深めようよ! 僕の一生のお願い!」
「所長の一生のお願いは、一体何回あるんです。残り少ない人生のために、もうちょっと大事に取っておいたらどうですか」
「残り少なくないよ! まだたくさんあるよ! とにかく時子君、頼むよ、僕だってイヤだけど参加するんだからさあ」
「僕が参加するから君も出て、という理屈がさっぱり理解できません。イヤなら出なきゃいいじゃないですか。そもそも所長はここの町内会とはなんの関係もないんだから」
「うん、僕は関係ないんだけど」
「だけど?」
「ビルの大家さんが町内会長なんだ」
「…………」
 そんなことだろうと思った。
 ますます口を曲げた時子に、鈴鹿が、えへ、と笑う。テヘペロのつもりらしいが、まったく可愛くない。というか、余計に腹が立つ。
「ほら、大家さんにはいろいろお世話になってるしね。その人から、『人数が足りないからどうしても出ろ』 って脅さ……いや頼まれちゃ、僕も断れなくって」
「大家さんって、私は顔も見たことないんですけど、そんなにお世話になってましたっけ?」
「なってるよ。たまに、家賃を払うのを待ってもらったり」
「それは、所長が一方的に大家さんに迷惑をかけている、と言うんです」
「戦力になる人間を出場させられたら、来月の家賃は八パーセント割引してくれるんだって」
「消費税分で所員を売る気ですか」
 頼むよー、頼むよー、とまとわりつく鈴鹿を邪険に追い払いながら、時子はすたすたと掃除道具が置いてある物置へと向かった。こんなアホらしい会話を続けるよりは、床にモップをかけているほうが数百倍有意義だというものだ。
「大家さん、すごい負けず嫌いだからさ。町内会長として運動会を問題なく執り行うっていう義務や責任とは別に、自分のとこのチームを絶対に優勝させたいって息巻いてるんだ。だから注文も厳しくて」
 鈴鹿はまだ諦めずにぐだぐだと言い募っている。

「やる気のない不破君一人じゃ今ひとつ心許ないし、大家さんの手前、確実に活躍できそうな人材を確保したいんだよねー」

 動かしていた時子の足が、ぴたっと止まった。
 口を噤み、鈴鹿を見て、それから顔を動かし、環を見る。
「……環君も、出るの?」
「仕事だから」
 自分の椅子に座り、指の間にボールペンを挟んでぶらぶらと揺らしながら、環がさらりと答えた。何かを持っていないと落ち着かないのか、煙草を吸うのをやめて以来、癖になっているらしい。
「仕事って……けど、別にこれは便利屋への依頼じゃないでしょ?」
「町内運動会に参加して欲しい、という旨の、大家からの依頼だ。報酬は、家賃の八パーセント分。そうですよね、所長?」
 環が確認するように言うと、少しきょとんとしてから、鈴鹿は急いでうんうんと何度も首を縦に振った。
「そう、そうなんだよ。これは便利屋の仕事。だから僕は所長として、所員の不破君と時子君に命令してるんだ。町内運動会に参加して良い成績を収めることが、君たちに課せられた任務である!」
 偉そうに胸を張ってびしりと人差し指を時子に突きつけたのはいいが、その後で、「だよね、不破君?」 と腰を低くしてお伺いを立てていては、台無しだ。

「そういうわけだから、時子君も出」
「出ます!」

 鈴鹿が言い終わるのを待たず、時子は右手をまっすぐ天に突き上げ、きっぱりと高らかに宣言した。目がキラキラと輝いて、頬が紅潮し、今にも会場へと突進していきそうな勢いだった。
「環君がハチマキとゼッケンつけて、リレー選手になったり、綱引きしたり、アンパンをくわえて走ったり、馬になったりするなんて! そんな貴重なものを、見逃すわけにはいきません! どうしよう、何を持っていけばいいですか! スマホとデジカメとビデオカメラと、あと何が必要です?!」
「それだけあれば十分だから。大体、町内運動会で騎馬戦なんてないから。時子君て、本当にブレないよねー」
 どう考えても、環が運動会で颯爽と活躍するとは、鈴鹿には思えないのだが。しかし時子は興奮しきって、環君の勇姿を写真に撮らなくちゃ、望遠レンズ付きのカメラを誰かに貸してもらわなくちゃと、うわ言のように口走っている。まるで我が子がはじめて幼稚園の運動会に出る時の母親みたいで、ちょっとドン引きだ。
「じゃあ、時子君も来てくれるんだね?」
「行きますよ! 出場もします! こうなったらすべての競技で一位を取って賞品を総取りしてみせます!」
「いや、そこまで張り切らなくてもいいんだけど」
 しかしとにかく、これ以上はないくらいのはっきりとした確約を取りつけた、ということだ。鈴鹿はホッと安堵のため息をついた。やれやれ。
「頑張ろうね、環君!」
 打って変わって陽気にはしゃぐ時子に、環もちょっと苦笑して、しかし目をやわらかく細めた。
「そうだな。まあ、ほどほどにな」
「お弁当もいっぱい作って持っていくから! みんなで食べよう!」
「……いや、それはいいから。本当にいいから。心の底からいいから」
 真面目にご辞退申し上げたが、きゃっきゃと浮かれて日曜の予定を立てている時子の耳には入っていないらしい。おもに鈴鹿のために救急箱が必要かなと思っていたのだが、この分では、胃薬も持っていったほうがいいかもしれない。
 ……まあでも、これでとりあえず、約束は守れそうだ。

 環と鈴鹿は、時子に気づかれないように、ちらっとお互いの目を合わせた。



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