猫の手貸します

case by case.4

この素晴らしき、人生を(2)





 日曜日、男がグラウンドに足を運ぶと、もうすでに準備がきっちりと整っていた。
 そこは普段は、子供がサッカーの試合をしたり、草野球チームが練習をするために使われる場所なのだろう。「施設を利用される場合は事前に許可が必要です」 と注意書きのされた地域住民のためのグラウンドが、今日は出入り自由で開放され、大勢の人々で賑やかにごった返している。
 入口に設置された看板は、周りが紙の花で飾られ、中央に 「町内運動会」 の大きな文字。
 ざわざわと行き交う人波に遮られて、その先が見通せないが、雰囲気を盛り上げようと鳴り響く音楽と、歓声や笑い声が、外にまでよく聞こえるほどだった。

 バタバタと走り回る町内会の役員らしき人たちに混じって、男もその中に足を踏み入れた。

 町内運動会というだけあって、家族連れも多いが、老人の姿もまた多い。小学生くらいの男の子とその祖父らしき男性が、同じハチマキをつけて、競技についてあれこれと意見を交わし合っている姿は、きっとこういう場でしかお目にかかれないものだろう。
 そういうものを眺めながら、人混みの周囲を巡るようにゆっくりと歩いていくと、真ん中のトラックを中心に、いくつものテントが張られていた。町内の区域ごとにチーム分けされて、それぞれがひとつのテントを与えられているらしい。
 しかし一言に 「区域ごと」 と言っても、そこがマンション立地区だったり、商店の立ち並ぶ場所だったりで、人数に不均衡が生じる場合もあるのではないかと思うのだが、そのあたりはどうしているのかな、と男は首を傾げた。なにしろ、「町内運動会」 なるものをこの目で見るのは初めてなので、よく判らない。
 ……いや、そもそも男は、町内会というもの自体を、よく知らなかった。そういう存在のことはもちろん知っているが、自分自身が関わったことはないからだ。
 その手の細々としたこと全般、近所付き合いや、町内で行われるゴミ拾いや除草作業などの行事も、男は常に妻任せにしていて、自分はその話の断片を、彼女の口から聞くだけだった。
 そしてそれさえも、真面目に耳に入れていたかどうか、今となっては怪しい。その時はちゃんと聞いているつもりだったし、相槌も打っていたが、それらの内容で、現在の男の記憶に残っているものはほとんどない。ということは、きっと耳に入れたとしても、すぐに不必要な情報としてすぐに外に出してしまっていたのだろう。
 夫婦間での日常的なやり取りや、他愛ない会話は、たくさんあったはずで、本当は、そういうものをこそ、いちばんよく覚えていなければならないのかもしれないのだが。
 なんでもない平和な日々は、すっかり遠く、曖昧になりつつある。

 ──もう、妻の笑った顔さえ、思い出せない。

「…………」
 人々の間を縫うようにして歩を進めていた男は、そこでぴたりと足を止めた。
 視線の先に、探していた人物の顔を見つけたためだ。


          ***


「ちょっと不破君、その格好ってどうなの。なんだかちっともやる気が感じられないなあ!」
 腰に手を当て、憤慨するように言う鈴鹿に、環は 「そうですか」 と素っ気なく返した。
 その格好、というのは要するに、いつもと同じ格好、ということである。Tシャツと洗いざらしのジーンズ、そしてスニーカー。いつもスズカ便利屋の事務所に出勤する時、そしてついでに言うなら休日も、寝る時以外の環はほぼこの姿だ。
 ドレスコードがあるわけでもなし、別にこれで全然問題ないだろうと思うのだが、鈴鹿にはお気に召さなかったらしい。
「周りを見てごらんよ、ちゃんとみんな運動用の服装をしてるじゃないか。やっぱり社会人としてその場その状況に合わせたTPOって重要だと思うな。僕なんてこうしてわざわざ、今日のためにトレパンを用意したっていうのにさあ」
 今どき、トレパンなんて言葉を使うかな、と環は少し疑問に思ったが、鈴鹿の姿を上から下まで一瞥して、その疑問を呑み込んだ。うん、この人が着れば、確かにそれは 「トレパン」 だ。
「所長、知ってます? 今はトレパンって言うと、一般的には幼児がトイレトレーニングのために履くパンツのことを指すんですよ」
 しょっちゅう古くさい言葉遣いをする時子にまで、「トレパンなんて言い方はダサい」 とダメ出しされて、鈴鹿は大層なショックを受けたようだった。
「ええー。じゃあ、他の人たちが着ているのは何なのさ」
「あれはトレーニングウェアですね」
「時子君のは?」
「高校の時のジャージです」
「いや買おうよ! 君もトレーニングウェアを!」
「じゃ、経費で買っ」
「うん、やっぱりそのジャージがよく似合うね! そういうのを着ていると、時子君はまだ高校生で通用するなあ!」
 ころっと意見を転換してから、鈴鹿は改めて首を傾げた。
「……で、時子君、聞くのも無駄と思うけど、さっきから何やってんの?」
「それはもちろん」
 さっきからずっと、口を動かしながらも、時子の視線は別方向にのみ据えられている。その手にあるスマホは、パシャパシャというシャッター音を鳴らせっぱなしだ。
「カッコイイ環君を撮っているに決まってるじゃないですか。風になびくハチマキ、はためくゼッケン、色気に溢れて気絶しちゃいそうですよ。所長もそう思うでしょ?」
「ぜんぜん」
 もう一度言うが、環はいつもと同じ格好、なのである。Tシャツとジーンズとスニーカー、あとは付属物として白のハチマキと、数字の振られたゼッケンが、余分にくっついているだけなのである。普段の環とは、休日版の新聞に載っている間違い探しクイズくらいの、些細な差しかないのである。
 恋人に偏執的なほどの勢いで写メを撮られて、環はすっかり諦観の顔つきで腕を組んで立っている。何も知らない目で見れば、ボーッとした風貌をしているくせに、若くて可愛い女の子を彼女に持ち、他の男性から嫉妬と羨望混じりの陰口を叩かれたりする立場にある環なのだが、鈴鹿は時々、この部下がちょっと不憫になる。
「けど、それなら時子君も、もうちょっとそれらしい恰好をするように、不破君に勧めればよかったのに」
 環のやる気の感じられない服装にまだ不満の収まらない鈴鹿がそう言うと、時子はようやくスマホを操作する手を止め、ふんと鼻息を吐いた。
「なに言ってるんですか、所長はちっともわかってないんだから! これがいいんです、この格好で颯爽とリレーのアンカーでふっちぎり一位を取ったりするのが、猛烈にカッコイイんでしょ!」
「え、いや、俺は別に、リレーに出る気は」
「ええー、でもこの格好だと、ムカデ競争の時は他の参加者の中に埋没しちゃうんじゃないかなあ」
「ムカデ競争に出るなんて、聞いてませんけど」
「そんなことないですよ、大縄跳びでも、アンパンくわえていても、環君は他の誰より輝いて、ひときわ目立つに決まってます!」
「お前はどうしても俺をパン食い競争に出場させたいらしいな」
「いややっぱりね、花形選手には、花形選手としての、あるべき服装というものがある、という話だよ」
「特別ルールでの登録選手枠外からの飛び入り参加、ですよね?」
「社会の枠組みや堅苦しい決まりに縛られない自由な生き方が環君らしいんです! 所長の好きなフィリップ・マーロウが運動会できっちりジャージを着込んでスプーン競争をしますか?!」
「トキ、そうやってどんどん話を脱線させていくのはお前の悪い癖だとあれほど」
「フィリップ・マーロウは運動会に出たりしない! 時子君はハードボイルドのなんたるかをちっとも理解してないよ!」
 話の中心であるはずの環を完全に無視して、時子と鈴鹿はバチバチと火花を散らしていがみ合っている。周囲では、「あれ何?」 「ほら、あそこの便利屋の」 「ああ、あのしょぼくれた……」 とひそひそ話が交わされていて、地域住民との親睦を深めるどころか、溝は深まる一方だ。

「ちょっとあんたたち、何してんだい」
 そこに、野太い声が割って入った。

 ん? と目を向けてみれば、お腹の肉を揺らしながらのしのしと近寄ってくるのは、非常に恰幅の良い六十代くらいの女性だった。
 目にも鮮やかなどピンクのトレーニングウェアを着ているが、よくこのサイズがあったな、と感心するくらいの横幅がある。
「あ、これは大家さん」
 途端に鈴鹿が卑屈になってぺこぺこと頭を下げて挨拶する。時子は、え、と目を丸くした。
 大家さんって、女性だったのか。
「鈴鹿さん、あんたんとこには期待してるんだからね! 頑張ってよ!」
 身体つきだけではなく、声も顔も迫力のある大家さんは、激励するようにそう言って、ばんと鈴鹿の背中を叩いた。
 貧相な体格の鈴鹿が前方に吹っ飛ばされ、危うく競技前に全身打撲で棄権するところだった。この二人、身長は同じくらいなのに、体重は数倍も違いそうだ。
「不破君もね! 若い男は貴重だからね! どんどん参加してもらうから!」
 続けて、環の背中をばんと叩く。環はさすがに鈴鹿のように飛ばされることはなく、よろめきもしなかったが、「はあ」 という返事と一緒に、ゴホッと咳き込んだ。
「それからお嬢ちゃん、あんたもね!」
「はい、頑張ります」
 ささっと素早く環の背後に隠れ、時子が顔だけ覗かせて言った。
 よっしゃ! と意気込んで、はははと笑いながら大家さんがまた去っていく。
「わあー……」
 時子は環の背中に張り付きながら、ぽかんと口を丸く開けて、その後ろ姿を見送った。
「豪快な人ねー。実は、ああやって競技前に参加者を再起不能にするのが目的の、工作員なんじゃないの?」
「いや、町内会長だから」
「すごくいい音がしたけど、大丈夫?」
「力士の張り手くらいの威力があったな。お前はやられなくてよかった」
「背中に手形がついていないか、あとで確認してあげるね」
「ベッドで?」
「やっだー、環君のエッチ!」
 イチャイチャじゃれ合うバカ二人を、「こらっ、公衆の面前で!」 と赤い顔をした鈴鹿が叱る。引き潮のごとく後ずさっていく周囲の人々との距離は、一向に縮まる気配がない。
「やあ、みなさん、お揃いで」
 今度そこへニコニコしながらやって来たのは、便利屋常連の川又老人だった。事務所と同じ町内に住んでいるため、当然、ここの町内会に入っているのだ。
 川又さんは、年に一回、この運動会の時にしか箪笥から出さないんだろうなあ、と思われる、年季の入ったジャージを履いていた。
「こんにちは!」
「こんにちは、時子ちゃん。可愛らしい格好をしているね。学校の体操服かい?」
 ぴょこんと頭を下げる時子に、川又さんはにこやかに言った。大学に体操服が必要であると考えているのか、それとも時子がまだ高校生だと考えているのか、今ひとつ定かではない。
「川又さんも、何かに出られるんですか?」
 鈴鹿の問いに、目を細めてうんと頷く。
「僕は、ザル引き競争に出るよ」
 ボールの入ったザルに紐をつけ、落とさないようゆっくり引っ張って進む、という老人向けの競技である。
「所長さんも、それに出るのかな?」
「ザル引き競争は六十代以上の人限定の種目でしょう?! 僕はまだ四十代です!」
「そういえば所長は、何に出るんです?」
「玉入れと綱引き」
「やる気ない!」
 一体何のために、わざわざトレパンを用意したのか。時子はぶうぶう文句を言った。
「まあまあ、時子ちゃん、こういうのは参加することに意義があるんだよ」
「勝負事にそんな甘いことを言ってる場合じゃありません。私は一位の賞品の米五キロを、五つか六つは頂くつもりで来ました!」
「そんなに取っても、持って帰れないだろ」
 ぐっと拳を握って決意表明する時子と、冷静に突っ込む環に、川又さんははははと穏やかに笑った。細かいことを気にしない、大らかな人なのだ。だからこそ、スズカ便利屋の常連、なんてものをしていられるのである。
「あ、そうだ」
 ふいに、時子が思いついたように手を叩いた。
「川又さん、よかったらお昼を一緒に食べませんか?」
 お昼? と川又さんは微笑んで首を傾げたが、聞き捨てならないことを聞いた鈴鹿の表情はぴしりと引き攣った。
「いや時子君、それはやめたほうが……ほら、お年寄りなのに、運動して、さらにその上奇天烈な料理を食べさせたら、大惨事になりかねないし……犠牲者は不破君一人に留めておくべきだよ」
「なんか失礼なことを言ってますけど、お弁当を作ったのはおばあちゃんですから」
 その言葉に、おや、と川又さんが目を瞬く。
「時子ちゃんのおばあさんか。今も来ているのかい?」
「あとで来るそうです。時子の運動会を見るのなんて小学生の時以来、って張り切ってましたから、きっと山のようにいっぱいお弁当を持ってきますよ」
「そうかそうか、楽しみだなあ」
「そうかそうか、よかったなあ」
 うんうんと頷きながら、嬉しそうに笑う川又さんとは対照的に、鈴鹿はあからさまに安堵した顔つきで、ふー、と額の汗を拭っている。
 時子はぷっと頬を膨らませた。
「もう、失礼しちゃう!」
「よかった……」
「環君、横を向いてボソッと言っても聞こえてるから! 次は絶対に私がお弁当を作ってやるんだからー!」
 きいっと怒って、時子が地団駄を踏んで叫んだ。



          ***


 離れた位置から、男はその様子を眺めていた。
 何を話しているのか、声までは聞こえないが、楽しそうな雰囲気は十分伝わる。
 男は、自分の口許がいつの間にか綻んでいることに気づいて、すぐにそれを引き締めた。
 自分までが楽しんではいけない。もちろん、笑うことなんて許されるわけがない。
 ……男には、もう、その権利がない。



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