猫の手貸します

case by case.4

この素晴らしき、人生を(3)





 妻とは見合い結婚だった。
 基本的に大人しく、あまり口答えもしないような性格をしていた。高校、短大と女子校で、そこで築いた世界観を大人になっても持ち越してきたのかと思える、どこか少し浮世離れしたところと、そして半面、現実世界の汚濁に染まらぬ純情さと潔癖さをも抱き合わせていた。
 彼女は良き妻で、良き母だったと思う。男は妻の家事能力について不満を覚えたことなど一度もなかったし、娘の養育についても安心して任せていた。時々、あれこれとお喋りをはじめると止まらないこともあったが、それだって専業主婦で、近くに住む実の母親以外には大した話し相手もいない彼女にしてみれば、やむを得ない成り行きであったろう。
 たとえそれを聞くのが、仕事が忙しくて毎日のように帰るのが遅く、家では食事と風呂と睡眠しかとらないような夫、どれだけ妻が一生懸命話をしても、ほとんど生返事ばかりでろくに心に留めようともしない薄情な夫であってもだ。
 それでも男は、妻の口から不満や愚痴というものを、ほとんど聞いたことがない。他人に向けたものもそうだし、自分に投げつけられたこともなかった。その時は、家とスーパーの間を往復するくらいで、あとはゆったりと家の中のことをするだけの人間に、そうそう感情の波立つこともあるはずがないと思っていたが、今思い返してみれば、それは男の勝手な独りよがりであったに違いない。
 彼女はきっと毎日、いろんな感情を抑えつけていたのだ。まだまだ手のかかる幼い子供のこと、スーパーで遭遇した不愉快な店員のこと、近所の噂好きな奥さんのこと。心に溜まるモヤモヤはおそらくたくさんあったのだろうに、彼女はそれを自分の胸の中に押し込めて、夫に話すのは、庭で咲いた綺麗な花のことや、新しく買った服を着てどこに行くか、ということばかりだった。

 ──それが、彼女が頭に描いていた 「幸福な家庭」 の在り方だったからだ。

 彼女は半分現実世界を生きていて、半分は夢の中を漂っていた。彼女の中の理想像には、帰宅の遅い夫をガミガミと叱る妻や、近所のゴシップを自慢げに披露して喜ぶ妻の姿は入っていなかったのだろう。だからいつもニコニコして、良き妻、良き母であろうとしていた。
 男はそれにまったく気づいていなかった。自分の妻が、実はいろんなものを吐き出すことを、自らに戒めていたことも。彼女の裡にある 「幸福な家庭」 というものが、どれほど頑固に根っこを下ろしているのかということも。そのために彼女が自覚なく無理を重ねているということにも、まったく。
 男は妻を配偶者として、娘の母として、尊重しているつもりだった。愛情も抱いているつもりだったし、大事にもしているつもりだった。自分は 「そのつもり」 だったというだけで、妻が実際どう思っていたのかは判らないのだが。
 娘だってもちろん可愛かった。仕事の手が空いたら、なるべく関わるようにもしていた。天真爛漫な性質で、頭がよく、年のわりにしっかりしている娘は、男にとってもなによりの自慢だった。
 このまま、ゆっくりと齢を取って、娘が結婚したり、子供を産んだりして、形を変えながら、それでも家族は家族として続いていくのだろう──そう思っていた。
 それを完膚なきまでに破壊し尽くしたのは、男自身。

 他に好きな人が出来た、別れてくれ、と話を切り出した瞬間、妻はそれまで抑え込んでいたすべてのものを爆発させた。



          ***


 町内運動会には徒競走などというものはないので、その気になればオリンピックだって狙えるかもしれない時子自慢の脚力 (本人談) は、おもにリレー競技で発揮するしかなかった。
 しかしなにしろ舞台は町内運動会、リレー選手の面子は子供と、昔はどうか知らないが今は運動に縁のなさそうな成人女性と、少々お腹の出かけた成人男性くらいである。小学生の男の子くらいならともかく、あとのメンバーはなんとも心許ない顔ぶればかりだ。いくら時子が頑張ったところで、リレーの最初のほうで半周近くも引き離されてしまっては、その差を挽回するのは難しかった。

「もうー、三等の洗濯ネットしかもらえなかった! くやしいー!」
「まあまあ時子君、ほぼ周回遅れになりそうだったのを、最後にあそこまで追い上げたんだから立派なもんだよ」

 バタバタと暴れている時子を慰めるのは、鈴鹿の役目である。
 本来この仕事を担うべき環は現在、若くて体格がいいのを見込まれて、なんだかんだと裏方の作業を手伝わされているからだ。便利屋稼業で培った器用さで、壊れてしまった器具なども手早く修理してしまうので、あっちこっちに引っ張り回されているらしい。時子は余計におかんむりだが、町内会長、つまり大家さんの命令だから仕方ない。

「なんでこんなに団体競技ばっかりなんですか!」
「そりゃ町内運動会だから」
「私はスタンドプレーでこそ輝くタイプなんです」
「町内の親睦を深める趣旨にまったくそぐってないね! 時子君もそろそろ大人なんだから、協調性を身につけようよ」
「つまんないつまんないつまんない、環君はちっとも競技に出てくれないし!」
「ハタチを越えた娘がダダをこねない!」

 とはいえ、一位賞品の米五キロを狙っていくつかの種目に出場するうちに、時子の 「体育の成績は5以外取ったことがない」 という自慢は、どうやらあながちウソではないらしいということが証明された。
 いくら団体競技でも、そういう存在は目立つ。さほど時間を置かずして、同じチームの人たちも、何かというと時子を頼りにして寄ってくるようになった。

「時子ちゃん、障害物競争に出る予定だった人が転んで怪我しちゃったから、代わりに出てくれる?」
「はーい、いいですよー!」
「時子おねーちゃん、小中学生のリレーにアンカーで出てよ」
「いいわよ! じゃ、私は中学二年生ってことにしてね!」
「時子ちゃん、次、綱引きなんだけど」
「あっ、はいはい、行きまーす!」
「いやいや、そっちのオジサンが出ることになって……あの人、時子ちゃんの何?」
「あの人は私のマネージャーです!」
「君、上司に向かってなに言ってんの?!」

 というような次第で、午前の部を終える頃には、時子はすっかり町内会の一員として周りに溶け込んでいた。いや、町内会の人間ではないのだが。
 しかしとにかく、鈴鹿がひそかに期待していた、「この機にスズカ便利屋の名前を広めて顧客を増やそう」 という目論みは、今のところ、まったく実を結んでいないようである。



 昼休憩の時間になって、ようやく環が戻ってきた。
「もうー、何やってたのよ、環君! 半分以上競技終わっちゃったじゃない! せっかく環君の走る姿をカメラに収めて特大ポスターにして部屋に飾ろうと思ってたのに!」
「そうか、悪いな」
 時子にぶうぶう怒られて環は謝ったが、鈴鹿はその愛想のない顔が心なし緩んでいることに気がついた。実はものすごくホッとしてるよね、不破君。
「そんなことを言ってはダメよ、時子」
 ニコニコしながら蓋を開けたお弁当を差し出し、時子の祖母がおっとりと窘める。丹精込めて彼女が作ったという、美味しそうなおかずがずらりと詰め込まれたお重は、まことに壮観だ。なぜこのDNAは時子にまったく受け継がれなかったのか。人体の神秘であろう。
「不破さんは忙しくお仕事されていたんだから。ねえ、所長さん?」
「そうですよねえ」
「それで所長さんは、どの競技に出られたんでしたっけ?」
「皮肉ですか?! 確かに何も出ていませんが!」
 結局、自分が出る予定だった種目は、二つとも時子に譲ったのだ。出たかったのは山々だが、涙を呑んで譲ったのである。本当である。
「いやあ、時子ちゃんのおかげで、今年のうちのチームはいい成績がとれそうだよ」
 祖母の作った煮物に、目を細めて箸を伸ばしながら、川又さんが嬉しそうに言う。時子は不満げに頬を膨らませた。
「いい成績じゃ意味がないですよ、勝たないと! そして米五キロをゲットしないと!」
 拳を握って熱弁をふるうと、「そりゃあいいね!」 と威勢のいい合いの手が入った。
 ん? と視線を移せば、町内会長こと大家さんが、腰に手を当て、どーんと立っていた。本当に、どーん、という擬音がつきそうなくらいの威圧感に、時子がこっそりとシートの上でお尻を動かし後じさったくらいだった。時子が苦手とするものがこの世にあったことに、環は内心でびっくりだ。
「まだ午後にも競技があるからね! 出場して一等を狙うといいよ! あたしも出るからさ!」
「大家さんも出るんですか。えーと、午後の競技というと……」
「年の差リレーってやつ! 二人ペアになって、いろんなことをしながら走るんだよ!」
 大家さんの説明ではさっぱり判らなかったのでパンフレットを見たら、年の差リレーというのは二十歳以上齢の離れた者同士がペアになり、第一走者は二人三脚、第二走者はラケットで挟んでボール運び、第三走者は紐で 「電車ごっこ」 の要領で走ってゴールを目指す、という趣旨の競技らしかった。
「ペアだって! じゃ環君、一緒に出よう!」
「お嬢ちゃんなに言ってんだい。だから 『年の差リレー』 と言っただろ。ペアは二十歳以上差がないとダメ。つまり、親子や孫のためのリレーなんだよ」
「なーんだ」
 時子がつまらなさそうに唇を突き出す。
「けど、別に親子じゃなくても年が離れてりゃ問題ないからね。どうだい、不破君、あたしと出ないかい? 二人三脚で」
「俺ですか」
 時子の祖母が作った大きなおにぎりを三口で食べきった環が、ちょっと喉に詰まったような顔になった。その返事を待たずに、「だめだめ! だめですよ!」 と時子が血相を変えて叫ぶ。
「環君が私以外の女の人とぴったりくっついて二人三脚なんて! 神さまが許しても私は断固許しません! 環君が大家さんの肩に手を廻して身体を密着させているところを見せつけられたら、私、嫉妬のあまりどう暴れるか自分でも予測がつきません!」
「……時子君のヤキモチって、全人類に対して平等なんだねー」
 鈴鹿はすっかり感心した。どう考えたって、この大家さん相手に環が欲情に駆られるとは思い難いのだが。というか、この身長差、この横幅で、そもそも環の腕を大家さんの肩に廻すという難事業が可能なのか、そこからして怪しいくらいなのだが。
「大家さんの豊満な肉体に環君がムラッとすることがないともいえないし」
「ないよ。どう考えてもないよ。大体、この二人が二人三脚なんて、いろいろ無理がありすぎでしょ。それくらいならまだ、僕と時子君とで組んだほうが」
 マシなんじゃ、と言いかけて、鈴鹿はヒッという息と共にその続きを呑み込んだ。環に睨まれたからである。無言なのに、その視線は明らかに 「てめえふざけんなよマジで」 という恫喝を含んでいて超怖い。ただのたとえ話なのに! 一応上司なのに!
「……え、えーと、ととととにかく、その話は置いといて」
「置いといてどうすんだい。じゃあ、家賃の値上げの話でもしようかね」
「じょ、冗談はやめてくださいよ大家さん!」
「そういえば、あのビルのお家賃っていくらなんですか? それだけは所長、教えてくれないんですよ」
「おや知らないのかい、あのビルはね……」
「ちょっ、ダメですよ! そういうことは知らなくていいの!」
「あのあたりも最近は、地価が上がってきたからねえ。僕のところもアパートにしないかって話が来て」
「まあ、そうなんですの。だったら時子もバイト代はなかなか上がらなさそうねえ」

 川又さんと時子の祖母も加わり、五人で賑やかに騒いでいるうち、ふと気づいて時子が振り返ると、いつの間にかそこに環の姿はなくなっていた。



         ***


 そろそろ午後の競技がはじまるらしい。お弁当を囲んでいた人々が、再び動き始めた。
 ──もう町内運動会も終盤にさしかかる頃合いかな、と男は思う。
 しかし誰も帰ろうとする人はいない。そこかしこで談笑をする顔は、どれも楽しげに輝いている。
 小学生とその父親。主婦仲間。老人同士。近所に住んでいるにもかかわらず、今日ここではじめて顔を合わせたのかもしれない、働き盛りの男性たち。
「……見ているだけで、いいんですか」
 後ろから声をかけられて、男が振り返ると、ハチマキとゼッケンをつけた若者が立っていた。
 背が高く、体格のよい青年だ。全体的にのっそりとした感じなのは、やり場のない両手をしょうがなくジーンズのポケットに突っ込んでいるような格好が、そういう印象を他人に与えるのかもしれない。よくよく注意深く見れば、彼の目にはちゃんと鋭い光があり、引き締まった口元には意志の強さもあるのだが、それらを気づかせず微妙に周囲の空気と馴染んでしまうような不思議さを、彼は持っているようだった。
 正体不明で胡散臭い、でもどこか、この人なら大丈夫かもと思わせる安心感がある──と、桐子は言っていたのだっけ。
「もちろんです。わざわざこの機会を作っていただき、ありがとうございました。不破さん」
 男は──時子の父親、咲月聡一は、そう言って頭を下げ、穏やかに微笑した。


 普段、時子がどういう日常を送っているか、時子自身には気づかれずに見てみたい。
 そんな身勝手な聡一の依頼を、スズカ便利屋の所長と所員は、ちゃんとこうして叶えてくれた。
 時子の運動会を見学するのなんて、一体何年ぶりのことだろう。元気に走る姿、跳ねるように喜ぶ姿、生き生きと話して、怒って、笑う時子を見て、柄にもなく胸が上擦りっぱなしだ。
 二人には、とても感謝している。
「顔を合わせて何かを言われるのが、怖いんですか」
 そう問う環の声には、疑問も憤りも何も含まれていなかった。ただ、淡々としている。その顔と声だけで判断すると、本当にこの件について興味がないのではないか、としか思えない。
 聡一は少し苦笑してしまった。話に聞いていた通り、時子の恋人はちょっとした変わり者であるらしい。
 ……実際になんの関心もないのだったら、こうしてわざわざ聡一のところまでやって来て、話しかけてくることもないだろう。
「怖いのではなく、僕にはもう、その権限がないと思うからです」
「自分が捨てていった娘だから?」
 厳しい言葉だが、そこに責めるような響きはなかった。不躾なくらいの言い方なのに、腹も立たない。「いや」 と答えて、さらに苦笑を深くした。
「……捨てられたのは、僕のほうだから、です」


          ***


 夫婦間で収拾のつかない争いをしている間、時子に 「お父さんは私とお母さんを捨てていくの?」 と訊かれたことがある。
 聡一は、そんなことはない、と否定した。事実、その時の彼は本気でそう思っていたのだ。元夫として、父親として、これからもその責任は放棄したりしない。金銭的にはいくらでも支えるつもりだったし、どんな条件だって呑むつもりでいた。時子の将来のこともちゃんと考えよう。それは、「捨てる」 ということではない、と。
 ──だからもう、いい加減、この泥沼から解放してくれないか、と考えていたのも事実。
 聡一は相当、疲弊していた。追い詰められていた。結婚していながら他の女性に心を寄せた自分に非があるのは判っている。愚かだとも思う。ましてや相手は、妻の親友だった人だ。
 でも、恋に落ちてしまったものは、仕方ないではないか。
 どうしても、止められなかった。自分でも自分が判らなくなるくらいだった。妻に感じたことのない激しい情熱に身を灼かれ、この恋のためならすべてを投げうってもいい、とすら思ってしまったのだから。
 こんな熱を抱えながら、今までのように妻と娘を守り、家族としての体裁を保ち続けていくのは無理だと思った。もう、以前のようには戻れない。妻子に対する愛情は変わらずあっても、それは優先順位の一番上にくるものではないと、聡一自身、気づいてしまった。
 もう戻れない以上は先へ進むしかない。そのためならどんな困難があろうと覚悟していた。何の落ち度もない妻には悪いが、気持ちが変わった以上、何事もなかったように暮らしていくのは不可能だ。なんとか説得して、そのことを理解してもらいたかった。
 しかし一年にも及ぶ話し合いは、こじれていくばかりだった。妻は頑なになる一方で、こちらの話に耳を傾けもしない。その中で、聡一の心に、彼女を疎む気持ちがまったく生まれなかったと言えば、やっぱり嘘になる。

 早く解放して欲しい。
 こうなったらもう夫婦仲を修復することなんて出来るはずがないのに、何がこうまで彼女を石のようにさせているのか。
 意地か。競争心か。それとも、彼女が抱える、「幸福な家庭」 への執着か。

 そして事態は最悪な結果へと辿り着いた。
 衝撃だったし、罪悪感も抱いたし、身が切り刻まれるような悲痛も味わった。当然だ。けれど──それでも、心の片隅で、ほんのわずか、これで終わったと安堵する気持ちがあったのも否定できない。最低な、人でなしだ。聡一は自分を恥じた。
 妻の葬式で、聡一は時子に声をかけた。こうなったからには、どれだけ非難を浴びようと、娘は自分と桐子の元に引き取るつもりだった。責められ、怒鳴られ、詰られるのは承知の上で、「時子」 と名を呼んだ。
 ……が。
 時子はまったく返事をしなかった。それどころか、聡一を見もしなかった。母親の遺影の前で、彼女が目を向け、話しかけるのは、泣き崩れている祖母だけだった。
 完全に──完璧に、最初から最後まで、時子は聡一の存在を無視した。
 怒りから故意にそうしたというわけではなく、その目には、本当に聡一の姿が映っていないようだった。
 その時、判ったのだ。自分がこの娘を捨てたのではない。自分こそが、娘に捨てられたのだと。時子はもう、「父親」 という存在の一切を心の中から消し去って、カケラも必要としていなかった。時子の心は、死んでしまった母親と、生きている祖母だけに占められて、それ以外のすべてを外に弾きだしてしまっている。
 「捨てられる」 とはこういうことか、と抉られるように理解した。
 自分は、妻と娘に、これと同じ思いをさせていたのかと。
 その時になってようやく、全身を苛む強烈な後悔に襲われた。


          ***


「それ以降は時子も普通に話をしてくれました。ちゃんと顔をこちらに向けて、落ち着いた大人の態度でね。私はおばあちゃんと暮らす、お父さんは桐子さんと暮らせばいいよ、と冷静に言い渡された時には、まるでこちらのほうが諭されているような気分でした」
 聡一に対しても、桐子に対しても、時子はなんら感情を揺らさず対応していた。それは、それだけ時子にとって、二人が 「他人」 だから、という意味に他ならなかった。
「桐子は時子を引き取って、三人でアメリカで暮らしたいと考えているようだけれど、僕はそれは無理だと思っています。それはね、無理なんです。どうやっても、壊れてしまったものは、元には戻らない」
 壊したのは、聡一だ。自分はこれからもその罪を背負って、長いか短いかも判らない残りの人生を歩んでいくしかない。
「……元には戻せなくても、また新しく作ればいいんじゃないですかね」
 ぼそぼそとした環の言葉に、つい、笑みが零れた。こういうのは性に合わないと考えているのか、環はなんとなく落ち着かなさげにジーンズのポケットに入れた手をもぞもぞと動かしている。いかにも、間がもたない、というようなその様子を見て、思い出した。
「君は大変なヘビースモーカーだと伺っていましたが」
「やめたんですよ。……まだちょっと、無性に吸いたくなくなることもありますが」
 渋い顔で返されて、噴き出してしまう。
「禁煙ですか、そりゃあいい。酒と煙草は百害あって一利なしだと僕は思っているのでね。長生きしたければ、その二つは手を出さないに限る」
「長生きしたいなんて思ったことはないんですがね」
 環はそう言って、ふいと視線を逸らし、別の方向に目をやった。
「──まあ、ちょっと、気が変わったというか。人生ってやつを、なるべく長く楽しんでみてもいいかなと思うようになったもんで」
 その視線の先には、トラックの内側で、なにやら紐を手に言い争っている時子と鈴鹿の姿がある。結局、「年の差リレー」 に二人で出ることにしたらしい。二人三脚ではなく、電車ごっこのほうだが。
「……そうですか」
 聡一も同じ方向を見ながら、静かに返事をした。
 こうして見ると、あの二人こそが本当の父と娘のようだ。文句を言っていても、時子の目には、はっきりとした愛情と信頼の色がある。
 今日、ずっと時子を見ていて判った。あの子は本当に今、幸せなのだ。苦しみと悲しみを乗り越えて、あの手の中にいっぱいの大事なものを抱え込んで、ああやって笑えるようになった。
 生きるのを、心から楽しんでいる。
 そうなったのはきっと、あの便利屋と、二人の力が大きい。

「──時子があなた方に出会えたのは、幸運なことでした。本当に、奇跡のように、素晴らしい幸運でした」

 聡一がそう言うと、環は肩を竦めた。
「あなたの周りにだって、幸運はいくつも転がってる。あなたはそれを、見ようともしていない、というだけの話だ。足を出せば前に進めて、手を出せば何かを掴めるかもしれないのに。いつまで自分一人だけ、止まった時間の中にいりゃ気が済むんです?」
 と、その時。
 鈴鹿とお喋りをしていた時子が、ふいに顔を上げ、きょろきょろと視線を巡らせはじめた。どういう理由があったのか、もしくは理由なんてなかったのかは、判らない。
 とにかくそれは、偶然で、たぶん、幸運だった。
 時子は観客の向こうに、頭ひとつ分飛び出ている、長身の環を見つけた。
 そしてきっと、その隣にいる人物も。
 こちらを向いた鈴鹿も気づいて、軽く会釈をした。
 表情を止めたのは一瞬で、時子はすぐに手を挙げた。
 それから、大きく振った。
 目を細め、笑っている。
 その口が、ゆるやかに動くのが見えた。
 おとうさん、と。
 周囲の景色が滲んでぼやけた。



 ──どうか、素晴らしい人生を。



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