月の花

extra3.告白指南(前編)




 おねえちゃん、と呼ぶ声は不安に揺れていた。
「お姉ちゃん……どこ?」
 その時の雪菜は、まだ小学校に入学したばかりの頃だった。幼稚園とは比べ物にならないほど大きな校舎も、小さな体に不釣り合いなランドセルも、学校までの道のりをバスではなく徒歩で行くことも、まだ何もかもが馴染めなかった。
 クラスには知った顔がほとんどなく、仲の良い友達とは学区が離れているから一緒に帰ることも出来ない。もともと気の強い子供であった雪菜でも、毎日が不安で心細くてたまらなかった。
 そんな雪菜が全面的に甘えて頼れるのは、三つ年上の姉の鏡花しかいない。学校でも寂しくなると鏡花のクラスに顔を出し、家に帰るとすぐに門の外に出て、自分よりも終業時間の遅い鏡花の帰りをじっと待ち続けた。
 どうせ家にいたって、誰もいやしないのだ。母は雪菜が幼稚園入園と同時に働き始め、最初は契約社員で三時には終わらせていたその仕事を、正社員となった今はみっちり六時過ぎまで詰め込んでいる。雪菜にとって、自分の面倒を見てくれるのは母親ではなく、おもに小学四年生の鏡花だった。
 鏡花が帰ってくると、雪菜はびったりとまとわりついて離れない。家で遊ぶのも、外へ行くのも一緒だ。鏡花はいつだって、嫌な顔ひとつせず、穏やかに妹に付き合ってくれた。宿題を根気よく教え、おやつを仲良く分け、公園に行きたいと言えば、すぐに連れて行ってくれた。
 その日も、そうして姉妹で公園にやってきたのだ。
 普段であれば姉にくっついて遊ぶその公園で、雪菜はその日たまたま、幼稚園時代の友達とバッタリと顔を合わせた。
 学校ではクラスが別れてあまり接点もなくなったけれど、以前はいちばんの仲良しだった。久しぶりに時間を共有できることが嬉しくて、彼女ときゃあきゃあと盛り上がって──挙句、雪菜はころりと姉の存在を忘れた。
 二人で遊具の間を駆け回り、ブランコに乗り、滑り台を滑り、その合間に途切れることなくお喋りを楽しんだ。久しぶりに気の置けない友達と遊ぶことが出来て、すっかり浮かれていた。
 はっと気づいたのは、空がもう薄暗くなりかけた頃のことだ。「もう帰る」 と友達に言われ、その時になってようやく、雪菜は姉のことを思い出した。慌ててきょろきょろと見回したけれど、視界に鏡花の姿はない。帰っちゃったのかな、と思ったら、泣きたくなった。
 おねえちゃあん……と、か細い声で呼びながら、うろうろと公園内を探し回った。他の子供たちは、一人、また一人と、母親や友人と一緒に和気あいあいと公園から去っていく。そんな中、ひとりぼっちで姉を探す自分があまりにも惨めで、瞳に涙が浮かんだ。
 一人で帰らなきゃいけないんだろうか、と思ったら、もう怖くて寂しくてたまらない。暗くなってきたっていうのに、なによお姉ちゃん、先に帰るなら言ってくれればいいじゃない、と腹立ちがもたげてきた。今まで姉の存在など忘れきっていた自分の非については、ちっとも頭に浮かばなかった。
 見知った顔を見つけたのは、そんな時だ。
「拓ちゃん」
 雪菜はほっとして、その人物に駆け寄った。
 公園内にある四角いトイレの建物の脇でじっと壁にもたれて立っている男の子は、よく鏡花と三人で遊ぶこともある拓海だ。彼は鏡花よりひとつ下だったけれど、こういう時に出会うと、非常に頼もしいお兄さんのように思えた。
 拓海は、自分に近寄ってくる雪菜に気がつくと、あからさまに顔をしかめた。その顔が、なんだかひどく怒っているように見えて、雪菜に続きの言葉を出すのをためらわせる。姉の傍にいる時の彼は、「キョーカちゃんキョーカちゃん」 と常に笑顔を絶やさないから、なおさら戸惑った。
「……あの」
 お姉ちゃんいないから、一緒に帰ろうよ、と雪菜は言おうとした。拓海の家は、雪菜と鏡花の住む家の三軒先に建っている。姉がいないのなら、手を繋いで帰るのは拓海でもよかった。
 けれどその時、かすかに耳に届いた声があった。いや、声というより、それは泣き声だった。しかも、ずいぶん抑えられた嗚咽のような。
 雪菜はその小さな声に聞き覚えがあった。抑えようとするのだけれど、どうしても漏れてしまう咽るような呼気に混じって切れ切れに出される声は、間違いなく自分のすぐ身近な人間のものだった。
「お、お姉ちゃん?!」
 雪菜は慌てて、建物の裏手に回った。立っている拓海の前を通った瞬間、彼がわずかに舌打ちした音が聞こえたが、その意味を考える余裕もなかった。
 飛び込んできた雪菜に、鏡花はびくっと顔を上げた。誰もいない、公園にいる誰からも目の届かない、その小さな建物の裏で、きっと一人でひっそりと泣いていた鏡花は、雪菜を認めると、すぐに手で顔を拭った。
 ぐいぐいと乱暴なほどに素早く拭きとり、次にその手が下に下ろされた時、鏡花の顔にはもう、涙はただの一粒だって残っていなかった。
「……雪菜、もういいの?」
 そう訊ねる鏡花の声は、いつも通りの穏やかなものだったので、雪菜は混乱した。今、確かに、泣いていたように思ったのだけど。
 あまり感情を表に出さない鏡花と違い、雪菜はいったん泣きはじめると、手がつけられないくらい大声で泣く。最初はそう悲しいわけではなくても、泣いているうちにどうしようもなくなってきて、なかなか自分の意志では涙を止めることが出来ない。そういう泣き方をする雪菜にとって、涙も泣き声もあっという間に綺麗に消してしまえる、というのは、理解しがたいことだ。
 理解できないのだから、単純な結論に至るしかなかった。
 ──泣いていたなんて、気のせいだったのかな。
「お姉ちゃん……大丈夫?」
 もぞもぞと訊ねると、鏡花は 「うん、大丈夫だよ」 と、まったくなんでもないようにそう言った。雪菜の近くまで寄って、頭を撫でる。
「暗くなってきたから、もう、帰ろうか?」
 うん、と頷きながら、半信半疑で姉の顔を見る。暗くなってきて、姉の目が赤いのも、その頬っぺたに涙の跡が残っているのも、よく見えなかった。でも、服に砂がいっぱいついているのは、雪菜にも見て取れた。
「……お姉ちゃん、お洋服が汚れてるよ」
「うん、ちょっと遊んでたら、汚れちゃった」
 鏡花のその言葉を、幼い雪菜は額面通りに受け取った。大人しいお姉ちゃんでもそんな風に服を汚して遊ぶことがあるのか、と少し驚きと共に思ったくらいだった。自分が遊んでいる間、鏡花は鏡花で誰かと遊んでいたんだなと、身勝手だけど安心した。
「拓ちゃんと遊んでたの?」
 そう訊ねると、鏡花はきょとんと瞳を瞬いた。
「拓海? ううん、会ってないけど……公園にいた?」
「えっ、だって、あそこに──」
 言いかけ、たたっと走って建物の脇へと行ってみたが、そこにはもう誰もいなかった。
「……?」
 よく判らないまま、首を捻った。判らないことばっかりだ。鏡花も拓海も、どうしてこんな場所にいたのだろう。拓海は、どうして一言も言葉をかけず、あんな所からこっそりと鏡花を窺うようにして立っていたのだろう。
「帰ろうか」
「うん……」
 けれど結局、雪菜はその解答を得られぬまま、鏡花と手を繋いで公園を出た。もう、頭の中のすべては、重なる手の温かさへの安心感の方に向けられていた。
 はしゃぎながら公園での楽しい出来事を話す雪菜に、鏡花はいつもと同じように優しく微笑んでいた。

 ──雪菜がその答えを知ることになるのは、もっとずっと先のことだ。



          ***


「拓海さん、おれ、ホントに悩んでるんです」
 道明の真剣な声に返ってきたのは、ふーん、という、ものすごく適当な返事だった。ただでさえ落ち込んでいる時に、その声は非常に癇に障る。自分から電話をしておいて、こんなことを言うのはなんなのだが。
「後輩が悩んでるんですよ? もうちょっと、よしよし相談に乗ってやろう的な、そうでなくても、せめてもう少しは真面目に聞いてやろうかな、っていう姿勢があってもいいんじゃないかと思うんですけど!」
 それでなくても最近鬱憤の溜まっている道明は、携帯の向こうの相手に、ほとんど八つ当たりのように文句を言った。そもそも少しネガティブなところのある少年なので、一度落ち込むとなかなか浮上できない。口調も自然、グチっぽくなる。一言で言うと、鬱陶しい。
「お前ねえ……」
 道明の八つ当たりの被害者となっている拓海は、露骨にうんざりした声を出した。顔が見えれば、きっと声よりももっとうんざりしているに違いない。拓海は彼の恋人とは違い、思ったことがそのまま顔に出る。
「俺は一体、なにが楽しくて、道明なんかと電話で長話しなきゃなんないの? こうしてる間にも、キョーカちゃんにキスのひとつでも出来るかもしれないのに、もう本気で時間の無駄だよ。切っていい?」
「ダメですよ! なに言ってんですか、おれの話はまだまだこれからが本題ですよ。それと、今のおれの前でキスとかいう刺激的な単語を使わないでください。泣けてきそうです」
 じめじめとした空気は、梅雨でもないのに湿度二〇〇パーセントくらいである。夜も更けたこの時間、携帯を耳に当てながら自室でひとり背中を丸めてうずくまり、本当に泣きそうな声を出して、カーペットの毛をぶちぶちと引き抜く姿はもう暗いったらない。だーもーうっとうしい! と拓海の叫ぶ声が聞こえた。
「おれだって本当は拓海さんなんかに相談したくないけど、他に適当な人がいないから、しょうがないんです」
「お前、夜にいきなりひとに電話かけてきて、なんなのその言い草。俺はねえ、これからキョーカちゃんにおやすみ前のラブコールをするところだったんだぞ。キョーカちゃんの声を聞かないと俺は安らかな眠りに入れないの。わかるか?」
「だからそういうバカみたいなことを恥ずかしげもなく言い切っちゃう拓海さんは、人間的にはいろいろと問題があるけど、それだけ恋愛における経験値が高いってことでしょう? それでおれは雪ちゃんのことを相談したいわけです」
「今、さりげなく悪態ついたよな? 知るかよ、お前と雪菜のことなんて。大体、経験値が高いとか余計なこと言うな。キョーカちゃんの耳に入ったら誤解しちゃうだろ」
 じゃあな、とすげなく通話を切られそうになり、道明はカーペットの毛をむしる手をピタリと止めた。すでに精神的にかなりやさぐれている状態なので、目つきもすっかり据わってしまっている。
「後輩を見捨てる気ですか」
「同じ中学ってだけで先輩も後輩もあるか。そんなこと言ったら、俺には百人単位で後輩がいて、これからも後輩が増殖し続けることになっちゃうだろ。俺、そんな大人数の後輩の相談事をすべて聞かなきゃなんないの? やだよそんなの」
「そうです。同じ中学です。なので、数年前あの中学にいた拓海先輩のことは、未だに伝説のように語り継がれていて、おれはそれを聞いて知ってるわけです」
 道明は意図的に口調を変えて、唐突に話の方向をずらした。普段は温和な性質の彼ではあるが、それも時と場合と相手による。
「はあ? 伝説? 俺が? なにそれ」
 とぼけているのではなく、拓海は本当に意味が判らないようだった。この人は、自分が通っていた中学内でどれだけ有名人だったか、自覚がないらしい。
「告白してきた女の子はすべて来る者拒まずで受け入れて、コロコロと彼女を入れ替えていたこととか」
「…………」
 拓海が押し黙った。
「二股三股は当たり前で、ヤッてすぐに捨てる時もあったとか」
「は?! いやいや待て、なにそれ、俺そんなことはしてないよ」
 ぎょっとしたように拓海が慌てて言ったが、道明は無視して続けた。
「彼女のお母さんにまで手を出しかけたことがあるとか」
「ちょっとちょっと」
「体育倉庫で女の子を押し倒してるところを見つかって、あやうく退学になりかけたとか」
「待てーーー!」
 拓海は悲鳴のような声を上げた。
「なんだそれ! 何その妄想めいた伝説! してないって、そんなこと!」
「人の噂って、怖いですね」
「怖いっつーか、マジありえない。なに、俺、中学ではそんな鬼畜みたいな男になっちゃってんの?」
「そうですね」
 しれっとして頷いたのは嘘ではない。多少、大げさに言っているところはあるが、中学時代の拓海が遊び人だった、ということは実際に 「伝説」 として残っている。誇大広告は世の習いというものである。
「でも、全部が全部、デタラメってこともないんですよね?」
「…………」
 確認するように問いかけると、肯定よりも雄弁な沈黙が返ってきた。それだけでもあまり同情の余地はない、ような気がする。
 道明はしみじみとため息をついた。これ以上なく、わざとらしく。
「おれ、わりと口は固い方だと思うんですけど、何かの拍子に、ぽろっとそういうのが出ちゃうかもしれないです。ほら、こういう話って、世間話のついでに出しやすいじゃないですか。たとえば、たとえばですけど、鏡花さんと話す時とか、おれだって緊張するし、共通の話題に困って、ついうっかり」
「わかった」
 拓海のきっぱりとした声が、道明の言葉を遮った。
「相談に乗ってやる。言っておくけど、この俺がキョーカちゃん以外の人間の相談に親身になって乗ってやるなんて、まずないんだからな? ありがたく思えよ」
 ちっとも自慢にならないことを威張りくさって言ってから、
「この野郎、覚えとけ」
 と、忌々しそうに付け加えた。


 ──道明と雪菜は、現在、友達以上恋人未満、といった関係である。少なくとも、道明はそう思っていた。
 お互いに受験生なので、放課後は二人で一緒に勉強したりもする。もっぱら、成績が上位にいる道明が、雪菜の勉強を見ている形だ。勉強自体があまり好きではない雪菜も、ぶうぶうと文句を言いながら、それでも成績が上がった時には嬉しそうに道明に報告をしてくる。たまーに、受験勉強の息抜きと称して休みの日に出かけたり、拓海と鏡花のデートの邪魔をしたりする。けれど、道明はそれで楽しかったし満足だったし、まだしばらくはこんな感じで続いていければいいなあ、と呑気に考えていたのだった。
 ところが、だ。
「雪ちゃん、最近、告白されたらしいんです」
 悄然とうな垂れて道明が言うと、拓海は軽く口笛を吹いた。本当に親身になって相談に乗ってくれる気があるのか、はなはだ疑問な態度である。
「へえー、ものず……いや、誰に?」
「同じクラスのやつです。三年になってもう引退したけど、ちょっと前まで、サッカー部のエースだったやつで」
「ふーん、サッカー部ね」
「顔もよくて、足も長くて、性格も明るくて、すごいモテるやつなんです。雪ちゃん、そいつに付き合って欲しいって言われたって、おれに 『どうしよう?』 って相談してきて」
 もう、その時の道明のショックはとてもではないが言葉で言い表せるものではない。そう言ってきた時の雪菜が、屈託のない笑顔をしていたのだからなおさらである。道明が思っていたほど雪菜は道明のことをなんとも思っておらず、自分が完全に 「友達」 としてしか扱われていないことを思い知らされて、ショックの二乗だ。うちのめされる気分だった。
「ふーん」
 と、拓海はもう一度素っ気なく言った。
「……で?」
 問われて、道明は途方に暮れる。
「で、って?」
「で、お前はなにを悩んでるんだよ」
「なに言ってるんですか」
 苛々しながら言い返した。やっぱり拓海はまともに話を聞く気がないのだと思うと、腹立たしさは倍加した。
「だから、雪ちゃんが、他のやつと付き合うことになるかもしれないって」
「他のやつもなにも、雪菜は別に、お前と付き合ってるわけじゃないんだろ? お前が文句を言う権利なんてあるか?」
「……ないです、けど」
 容赦なく言われ、道明の怒りは急激に萎む。言葉に詰まったまま、俯いた。
「大体、お前、雪菜に 『好きだ』 ってちゃんと言ったのか?」
「……いえ」
「話になんないね」
 もごりと否定した道明に、拓海は冷淡に言い放った。それはそうだろう、と道明だって思うから、反論できない。まだ告白すらしていない臆病な自分には、雪菜が誰と付き合おうと、それに対して何かを言うような権利はない。
 ──けど。
 道明は決然と顔を上げた。
「けど、それは、もうちょっと先に、ちゃんと言うつもりだったんです。もし告白してダメで、その時点で友達関係が壊れても。おれ、それは覚悟してました。人の気持ちなんて、自分の意志だけでどうにかなるもんでもないし、断られてもそれはしょうがないよなって、潔く諦める気でいました。でも、おれはそれでよくても、雪ちゃんにとっては、断ること自体が負担になるかもしれないじゃないですか。雪ちゃんはいい子だから、おれに悪いなって思うだろうし、それが受験にも影響するかもしれない。おれのせいで、そんなことになったら困ります。だから、告白するのは、高校に合格した後にしようって決めてたんです」
 道明は道明なりに男気を出してきっぱりと言ったが、携帯の向こうの拓海は呆れた声を出した。
「いや、一見カッコいいこと言ってるっぽいけど、なんかすでにフラれること前提にしてるってどうなの。……あのさ道明、『好きだ』 って言葉を先延ばしにするのは、あんまりいいことないぜ」
 後半の言葉は妙に自嘲めいていたが、現在の状況の道明の耳にはろくすっぽ届いていない。
「おれ、その決心を変えるつもりはありません。でも、雪ちゃんに 『どうしよう』 って訊かれて、どう答えていいのかも判りません。おれも雪ちゃんのこと好きだからやめて欲しい、とは言えないんです。だけど雪ちゃんが他の男と付き合うなんて嫌でたまりません。おれ、どうすればいいんでしょう、拓海さん。雪ちゃんにどう言えばいいんですか」

 ぐちぐちと同じところをループし続ける道明の 「相談」 は、その後三十分以上も続き、拓海はその日結局、鏡花の声を聞くことが出来なかったそうである。



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