月の花

extra3.告白指南(後編)




 ただいまー、と言いながら雪菜が自宅の玄関ドアを開けると、途端に、ふわりとした甘い香りが漂ってきた。
「わ、いい匂い」
 鼻腔をくすぐるバターの濃密で優しい香りは、このところの試験勉強で疲れ切った頭をほっと和ませる。三和土に、姉の靴と並んで、男物のスニーカーがあることへの腹立たしさをとりあえず外へと追いやって、雪菜はそわそわと自分の靴を脱いだ。
「おかえり、雪菜」
 リビングから顔を出して自分を迎えてくれた鏡花に走り寄り、「お姉ちゃん、何か作ってるの?」 と訊ねる。その顔がすでに期待で満ち満ちているのが可笑しかったのか、鏡花はほのかに微笑んだ。
「ケーキ、焼いてる」
 その返事に、やったー! と雪菜は浮かれて手を叩いた。姉の作るケーキは、抜群に美味しい。腕もいいが、どこからどこまでも、完全に雪菜の好みに合わせて作られているからだ。
「わあ、久しぶり! 今日、なんかの日だっけ? 拓ちゃんの誕生日?」
「なに言ってんだ、俺の誕生日は先月だっただろ。ショートケーキ買ってきて、三人で食ったじゃん」
 続けてリビングから顔を出した拓海に呆れたように言われ、そういえばそうだった、と思い出す。あの時はたまたま家のオーブンの調子が悪くて、ケーキを焼くことが出来なかったのだ。それでわざわざ電車に乗って、美味しいと評判のケーキ屋まで買いに行き、この家で三人で食べたのだった。値段も高いだけあって、あれはあれで美味しかったが。
「オーブンも直ったことだし、今日で私たちも雪菜も試験が終わったし、ケーキ焼いてみるのもいいかなって。雪菜、ずっと勉強ばっかりで疲れたでしょう」
 雪菜の通う中学と、鏡花の通う高校では、偶然にも日程が重なって、今日がお互いに期末試験の最終日だったのである。どちらかというと、大学受験を控えた鏡花の方がよっぽど 「勉強ばっかり」 なのだが、自分に向けられた労いの言葉に、雪菜は容易く有頂天になった。
「てことは、拓ちゃんの誕生日より、試験を頑張ったあたしへのご褒美の方が、お姉ちゃんにとってウエイトが高いってことね。市販のケーキより手作りケーキよ」
 勝ったわ、とふふんと笑う。拓海はますます呆れた顔になって、「バーカ」 と言った。
「お前、キョーカちゃんの言うこと、ちゃんと聞いてたのかよ。今日のケーキは俺への 『試験お疲れさま』 でもあり、俺の誕生日の仕切り直しでもあんの。つまり、占めるウエイトは俺への愛情の方がずっと多いだろ」
 やれやれ、というように肩を竦めるその態度だけは大人ぶっているが、内容は全然大人じゃない。
「あのね拓ちゃん、もう高校生なんだから、いちいち小学生みたいに張り合うのやめなさいよね。こっちの方がバカバカしくなるわ」
 雪菜はがっくりと肩を落とした。自分は半分冗談のつもりだったのに、拓海は絶対、まるっと本気だ。いくら雪菜といえど、さすがに付き合いきれないものがある。
「それに俺、誕生日には、キョーカちゃんにすげえいいもの貰ったし」
「すげえいいもの?」
 上機嫌な顔で続けられた言葉にきょとんとする。鏡花が拓海にあげた今年のバースデープレゼントは、確かマフラーだったはずだ。金額的には多少奮発したかもしれないが、どうしてそれで、拓海がここまでデレているのか、よく判らない。
「マフラーでしょ?」
「うん、マフラーも」
 も?
「他にも何か貰ったわけ?」
「貰った。すっげえ、いいもの」
「はあ?」
 首を捻って鏡花の方を向くと、姉はすでにこちらに背中を向けてキッチンに入っていくところだった。後ろから覗くその耳が、真っ赤に染まっているように見えたが、一瞬だったので定かではない。
「……?」
 よく判らないが、まあいいや、と雪菜は思うことにした。ちょっと前までは、こういう、二人にしか通じないやり取りは非常に苛々させられたものだが、最近では諦めの境地に入りつつある。
 もちろん、鏡花へ向ける愛情や思慕は変わらない。お姉ちゃんをあたし一人だけのものにしておきたい、誰かに取られるのはイヤだ、という子供じみた気持ちも、自分の中にはしっかりと残っている。けれど。
 ──雪菜は、最近、やけに昔のことを思い出すのだ。
 制服のままリビングに入って、ソファに腰かけながら、ふ、と小さなため息を落としたのを、拓海は見逃さなかったらしい。向かいのソファに自分もすとんと座ると、いつもの軽薄な顔つきと、軽薄な口調で、いきなり切り出した。
「サッカー部のモテ男に、告白されたんだって?」
「…………」
 咄嗟のことで、誤魔化すことも出来なかった。あのお喋り、と心の中で罵ったが、こういうケースも、当然予測しておかなければならなかったかもしれない。仏頂面で、肯定する。
「……まあね」
「道明がグダグダと悩んでたぞ。あいつ、一旦悩み始めると、陰にこもるっつーか、とにかく鬱陶しいよな。おかげで俺はキョーカちゃんと愛を育むための貴重な時間を減らされて、えらい迷惑した」
「……なんで、ミッチーが悩むわけ」
 ぼそりと言うと、拓海は口の片端を上げ、にやりと笑った。意地の悪そうなこの顔は、間違いなく鏡花の前では見せないものだ。拓海がわりと他人に辛辣な部分がある、ということを、鏡花は知っているのだろうか。
「道明を悩ませるために、わざと言ったんだろ? 本当は、サッカー部の男なんて興味ないから、ソッコーで断ったんじゃないの? それを黙って、『どうしよう?』 なんて相談持ちかけるフリするなんて、道明も気の毒だよな」
「…………」
 面白がるような言い方よりも、いちいち決めつける口調の方が癇に障る。当たっているから、なおさらだ。胸に刺さった棘が、ちくちくと疼いて痛かった。
「なんなのよ。拓ちゃん、あたしが断る現場でも見たの? なんでそんなしたり顔してんのよ」
「だって、雪菜は嫌いだろ、そういう男」
「そういう男って?」
「今までずっとサッカーばっかやってて、雪菜に対して興味のある素振りも見せなかったくせに、引退して暇になったからって、『じゃあ彼女でも作ろうかな、それならちょっとでも見た目のいい女の子にしよう、中身は別にどうだっていいや、俺ってモテるし』 っていう考えがミエミエのまま、受験前だってのに、それに気遣うこともなく、ねえねえ俺と付き合わない? なんて軽く言い出すような、低能で無神経な男」
「………………」
 むっと口を閉じていようとした。が、つい、噴き出してしまった。
 拓海の長ったらしい説明が、告白してきたサッカー部の男とあまりにもドンピシャリで当てはまったためだ。まさに、その通りのやつだった。ひょっとして、拓ちゃんてエスパー? と思うと、余計に可笑しくてしょうがない。ソファに突っ伏して、クッションをばんばんと手で叩き、笑い転げた。
「よく、そこまでズバリと言い当てられるよね、拓ちゃん」
 まだ笑いが収まらないまま、目尻の涙を拭って感心しながら言うと、拓海は 「ま、人生経験の差ってやつ?」 と涼しい顔をした。鏡花の隣にいる時の拓海は、とても人生経験を積んでいる人間には見えないのだが。
 ひとしきり笑ったことで胸のつかえが下りたのか、ひとつ息を吐いてソファに座り直した時には、雪菜から意地を張るような頑なさは抜けていた。手に持っていたクッションを胸元に引き寄せ、抱きしめる。
「ま、そう。あたしはそういう男って大っ嫌いだから、すぐに断った。しばらく相手が立ち直れなくなるくらい、こっぴどく」
「ちょっと気の毒だよなー」
 とか言いつつ、拓海の顔にはまるきり同情心は浮かんでいない。どうでもいい、と思っているんだろう、きっと。拓海は鏡花以外のことは、大概、「どうでもいい」 のである。
「で、なんで、道明にはあんなこと言ったんだ? けっこう傷ついてたぞ、あいつ」
「…………」
 口を噤み、雪菜は床へと視線を落とす。しばらくして、ぽつんと小さな声で言った。
「……ミッチーって、優しいよね?」
「そうか?」
 拓海が首を傾げ、「道明の場合、優しいのと気が弱いのは紙一重だと思うけど」 と答えたが、雪菜はそれを聞き流した。
 道明は優しいのだ。それは雪菜の中では揺らがない真実である。時々、腹が立つほどに。
「そういう優しい人がさ、あたしを好きなのって、どうなのかなあって」
「そこはバレバレなわけね、やっぱり」
「いつもあたしのことを一番に考えてくれるんだよね。あたしのワガママに付き合って、嫌な顔ひとつしないで、ニコニコ笑ってるんだよね。なのに自分が困ってる時は、あたしにそういうの見せようとしないで、ひっそり悩んでるんだよね。……そういうのって、なんか、さ」
 抱いているクッションに、顎を埋めた。
「……なんか、お姉ちゃんみたいだなって」
「要するにお前の好きなタイプってことだろ? だったらいいじゃん、それで」
 無責任な言い方にむっとして、目だけを上げて睨みつける。腕を組み、長い脚を組んで座った拓海は、まったく平然とした顔をしていた。そりゃ拓ちゃんはいいでしょうよ、と思ったら、ますますムカムカする。
「拓ちゃんは、いいわよね。昔からお姉ちゃんのこと、ちゃんと判ってあげてたんでしょ。あたしなんかさ、あたしなんか、なんにも判ってなくて、ただお姉ちゃんに甘えるばっかりでさ……」
「いや、お前、なに言ってんの? 話がキョーカちゃんのことにすり替わってるぞ。今の本題はお前と道明のことだろ」
 拓海が言ったが、雪菜はもうそんな声、耳に入らない。このところ溜まっていたものが一気に湧いてきて、歯止めがかからなくなった。道明とぎくしゃくして、最悪の精神状態のまま試験勉強を続けていたのも悪かったのだろう。疲弊した脳味噌が思考をまとめさせず、ただ感情だけが次から次へと溢れ出してくる。
「ちっちゃい頃、お姉ちゃんがあたしの勝手にどんだけ振り回されたかとかさ……そのことにあたしがちっとも気づいていなかったことも、拓ちゃん、ホントはずっと怒ってたんでしょ。お姉ちゃんも、拓ちゃんも、なんにも言わないからさ……あたし一人、バカみたい」
 じわ、と瞳に涙が滲んだ。喉が詰まって、言葉がすらすら出てこない。拓海の前で泣き出すなんて屈辱的なことは嫌だったのに、どうしても止められない。昔とおんなじだ、雪菜は泣き止むことも自分の意志では操れない。鏡花のようにはどうしても出来ない。
 雪菜は子供だ。昔も、今も。
「お……お姉ちゃん、泣いてても、困ってても、あたしなんか何も気づかなくてさ……い、いちばん、お姉ちゃんに迷惑かけてたの、あたしだったのに、自分ばっかり、お姉ちゃんを独占していい気分になっててさ……」


 公園で、ひっそりと泣いていた鏡花。
 あの時、雪菜が友達と遊んでいる間に、鏡花が男の子たちに苛められていたなんて、ちっとも気づかなかった。
 雪菜が毎日毎日べったりとくっついているから、鏡花が他の友達からの遊びの誘いをすべて断っているなんて、知らなかった。
 つらいことがあった時、鏡花がいつも隠れて泣くのは、自分を心配させないためだなんて、思いもしなかった。
 向けられる優しさの上にふんぞり返って、それを返すことなんて頭にも浮かばなかった。愛情は与えられて当たり前、と傲慢に信じ切っていた。自分にしたいことがあるように、鏡花にだってしたいことはいくつもあっただろう。雪菜も幼かったけれど、鏡花だって十分に子供だった。それなのに、雪菜はたった三つ年上なだけの姉を、母親の代わりにして頼りきり、「自分を庇護してくれるもの」 として扱うことに、なんのためらいもなかった。ひとり、こっそりと涙を流す時間が鏡花には必要だったにも関わらず、それさえも奪い取って、平気な顔をしていた。
 拓海はちゃんと、気づいていたのに。
 鏡花は優しい。道明も優しい。二人とも大好きだ。でも、だからこそ、雪菜は自分の無知と身勝手さを痛感して苦しくなる。
 どうしてこの人たちは、こんなにも雪菜のことばかり大事にしてくれるんだろう。こんな優しい人の傍に、自分みたいな人間がいても、いいんだろうか。だって、雪菜はその優しさに返すものが何か判らない。どうすればいいのか判らない。
 判らないまま、また、振り回して、踏みにじってしまうだけかもしれない。悲しい思いをしていても、気づいてあげられないかもしれない。愛情を貰って、ただそれだけで満足してしまうかもしれない──
 優しすぎるの、二人とも。ねえ、あなたたちのその優しさに、あたしはどうすればいい?


 ぽろぽろと泣き出した雪菜を見て、拓海は慌ててソファから立ち上がった。珍しくうろたえてる、と思ったら、
「バカ、泣くなって。こんなとこキョーカちゃんが見たら、俺が泣かしたって思われて、怒られちゃうだろ」
「そっちか!」
 泣くのも忘れて怒鳴ってしまう。
 可愛い女の子が泣いているというのに、慰めもしないでこの態度。拓海はやっぱり鏡花中心にしか物事を考えない男なのだった。これはこれで、雪菜とは違う意味で身勝手だ。
「──つまり」
 ひとつため息をついて、拓海が、ぽん、と軽く雪菜の頭のてっぺんを叩いた。いや……撫でた、と言ったほうが正しかったかもしれない。子供の頃、鏡花がそうしてくれたみたいに。
「雪菜は、道明にワガママを通して欲しかったんだな。自分に気を遣ってばっかりじゃなくて、道明の意志を前面に出して、もっと怒って欲しかったんだ。雪菜の気持ちばっかりを優先させようとする道明の優しさが、少し、しんどかったんだな」
「……そう、かな……」
 ちょっとだけ素直な気持ちになって、雪菜は呟いた。すん、と鼻を啜る。
「あのさ、雪菜」
「うん」
 拓海を見上げると、彼は苦笑じみた顔をして、首を傾けていた。
「……キョーカちゃんは、すごく幸せだったんだってさ、子供の頃」
「え?」
 瞳を瞬いたら、拓海はわずかに目を伏せ、少し笑った。
「お前や俺が、無邪気に笑っているのを見るのが、なにより好きだったって。俺たちが楽しそうにしているのを見るだけで、ものすごく勇気を貰える気分になったって。雪菜がいて、俺がいて、一緒に遊んでいたあの頃、毎日が本当に幸福だったって──そう言ってた」
「…………」
 もう一度、拓海がぽんぽんと優しく頭を手の平で叩いた。上から降ってくる声は、ひどく柔らかい。
「だから、『迷惑かけた』 なんて言って、泣くのはやめな。キョーカちゃんが、悲しんじゃうからな」
「……うん」
 ごしごしと手の甲で目を擦る。鏡花がもうすぐリビングに戻ってくるかもしれない。雪菜と拓海のために作ったケーキを持って。
「道明もさ、多分、そうなんじゃないの。お前が笑ってるところを見ると幸せだから、どうしたら笑ってくれるのかって、そればっかり考えてるんじゃないの。あいつもアホだからね、このままだと、グジグジ悩みすぎて溶けちゃうかもしんないぞ。お前の思ってることを、ちゃんと道明に伝えてみな。……道明にも、そう言っておいたから」
 しばらくの間じっとうな垂れて、雪菜は、うん、と頷いた。



          ***


 日曜日の繁華街は、行き交う大勢の人々で賑わっている。

「──で、なんでお前らここにいんの」
 拓海は非常に嫌そうな顔をしてそう言ったが、道明はニコニコ顔のままである。
「雪ちゃんが、お茶を飲みたいって言うもんですから」
「行けよ、お茶飲みに。喫茶店もファミレスもドーナツ屋も、この近辺では腐るほどあるだろ。そっち行けよ。なんで、俺とキョーカちゃんがデートをしてる場所に、わざわざ現れるんだよ」
「偶然ってすごいわよね、ミッチー」
「本当だよね、雪ちゃん」
「ウソつけ! わざとらしいんだよ!」
 このセルフサービスのコーヒーショップは小さな店で、そんなに目立つ場所にあるわけではない。拓海と鏡花が座っていたのは、店の奥の四人掛けの席である。二人の姿が窓から見えるわけでもないのに、迷わずずかずかと一直線にやってきて、図々しく相席してきたくせに、何が偶然だ、と拓海はぶつぶつと文句を言い続けた。
「また人のデートを尾行しやがって。お前らめでたくカップルになったんだろ、俺たちの邪魔しないで、二人でデートしろよ」
「それはそれよ」
 カップル、と言われて道明はぱっと顔を赤らめたが、雪菜はけろりとしていた。
「いろいろと考えたんだけど、あたし、やっぱりお姉ちゃんのことが好きだもん。もう、悩まないことにしたのよね」
 と、隣に座る鏡花の腕に、べったりと抱きつくように自分の腕を絡ませる。その姿を見て、微笑ましいなあ、と道明は思ったが、拓海はまったくそうは思わなかったようだった。
「開き直ったな。お前ら二人のバカバカしい悩み相談に乗ってやった俺に対する感謝はないのか。脅されて時間を取られて慰めた俺は丸損か。つーか、俺のキョーカちゃんにベタベタくっつくな」
「俺の、とか気安く言わないで」
「気安くもなにも、事実だから。キョーカちゃんの何から何まで俺のだから」
「拓ちゃんも、ちょっとはあたしみたいに謙虚に悩むべきよ」
「なにが謙虚だ。お前はただの妹、俺は最愛の恋人。そもそも立場が全然違うだろ」
「ムカつく……。ねえ、お姉ちゃん、こんな拓ちゃんとあたしのどっちが大事?」
「そうだ、キョーカちゃん、この際はっきり言ってやってよ、雪菜より俺の方が好きだって」
「え……」
 いきなり理不尽な選択を迫られて、気の毒に、鏡花は動揺している。
「……あの、雪菜も大事だし、拓海も好きだし……」
「ほら見なさいよ! あたしの方が大事だって言った!」
「お前なに聞いてんだ! 俺の方が好きだって、はっきり言ったろ!」
「どっちも正確じゃないですよ」
 道明は冷静に突っ込んだが、二人はちっとも聞いていなかった。子供のように言い争いを始めた雪菜と拓海に、店内の視線が集まる。もちろん恥ずかしいが、まあいいか、と道明は手にしたカフェラテをのんびりと口に運んだ。
 こういう時間も、嫌いじゃないし。
 なにより、雪菜が楽しそうだから、それでいい。
「この変態シスコン娘!」
「なによ、ストーカーの変質者!」
 しかし、その不穏当な言葉の応酬はどうにかならないものか。いや、どっちもそう間違ってはいないのだが。こちらに向かってくる他人の視線に胡乱なものが滲みはじめ、道明は少々耐えかねて、カップに口をつけたまま目を逸らした。
 すると、その先にいた鏡花が、口許に手を当て、わずかに俯いている。
 やっぱり恥ずかしいんだなあ、としみじみと同情したが、よくよく見ていたら、違うことに気がついた。
 恥ずかしがってる、んじゃない。
(……笑ってるんだ)
 ぎゃんぎゃんとやかましい拓海と雪菜のケンカの陰で、鏡花はくすくすと笑っていた。綻ぶ口元を手で押さえ、静かに優しく、けれど、ものすごく楽しそうに。

 ──その笑顔は、とても幸福そうだった。



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