猫の手貸します

case by case.1

桂馬の休日(1)




 アラームの音で、目が覚めた。
 とはいえ、まだ、まったく目が開けられない。緩慢な手の動きだけで枕元のスマホを探りだし、音を止める。くぐもった唸り声を発しながら、ようよう重たい瞼を上げて確認すると、時刻は午前八時を示していた。
 なんだよもう、と不機嫌な顔で、桂馬は悪態をつく。
 今日は日曜日で、会社は休みじゃん。なんでおれ、せっかくの休日に、こんな早起きをしなきゃなんないわけ?
 アラームを設定したのは自分で、その時間に起きたのは、女と会う約束をしているからだ。それは承知の上なのだが、寝起きの悪い桂馬にとっては、いちいちが腹立たしくてしょうがない。あいつのせいだ、と、会う予定になっている女の顔かたちを八つ当たり気味に思い出して、またむかむかする。
 約束なんてすっぽかしてこのまま二度寝に突入しようかな、という誘惑にかなり負けそうになったものの、桂馬は腹の底から大きな息を吐き出して、なんとかむくりとベッドの上に上半身を起こした。おれって偉い、としみじみ自画自賛だ。
 欠伸をしながら、ぼさぼさの髪、Tシャツに短パンというだらしない格好で、階下へと降りる。
「あら、桂馬。今日は早いのね」
 広いリビングのソファで、飼い犬の白いポメラニアンを膝に乗せて優雅に寛いでいた母親が、驚いたような声を出した。んー、と適当な返事だけをして、桂馬は母親と目を合わせることもせずLDKの中のキッチンへと向かう。
「朝ごはん、食べる?」
 と問いかけながらも、母親はソファから動こうとはしない。桂馬から、「いや、いい」 という答えしか返ってこないことを、よく判っているからだろう。普段から、桂馬には、朝食を自宅で食べるという習慣があまりない。
「いや、いい」
 そう言いながら、冷蔵庫を開けて牛乳を取り出す。ついでに中を見たら、そこには、父親が好きなワインと、母親がわざわざ取り寄せているミネラルウォーターと、酒のつまみの高級チーズしか入っていなかった。ここで、おれが 「食べる」 と答えたら、母親は一体どうするつもりなんだろう、という好奇心が一瞬湧いたが、その好奇心はほんの束の間通り過ぎていっただけで、すぐに霧散して消えてしまった。

 ──どうだっていいや。

 あっという間に、頭からも心からも、母親という存在を放り出し、コップに注いだ牛乳をキッチンに立ったまま飲む。飲みながら右手に持っていたスマホに視線を落とし、素早く器用に指で操作した。
 女友達からのメールが複数件入っていた。次から次へとざっと目を通し、読んだそばから削除していく。
 付き合う女の中には、勝手に桂馬のスマホを覗いて一方的に怒り出すようなのもいるから、桂馬のその行動はほとんど毎日の通常業務みたいなものだ。別に見られようがどうしようが構わないし、怒るのも女の勝手だが、そういうやり取りを何度も繰り返さないといけないのは、ひたすら煩わしい。
 煩わしい、という同じ理由で、桂馬のスマホには、現在周囲に蔓延しているチャット形式のメッセージ送信アプリは入っていない。大して興味も持っていない相手から一方的にくだらない内容のメッセージを送られて、読んだらすぐ返事をしろ、というような強制は、心底ぞっとする。メールにだって、よほどのことでなければ返信したりしないのに。
 誰であろうと、そして媒介がどんなものであろうと、束縛されるのは真っ平だ。
「桂馬、今日はどこかへ出かけるの?」
「ああ」
 母親に訊ねられて、返事をした時も、桂馬の視線は手元のスマホに行ったままだった。目を上げる必要を感じないのだから、仕方ない。
「夕飯は外で食べてくる? お母さん、今日は午後から出かける用事があって、食事の用意ができないんだけど」
 まるで毎日食事の用意をしているような言い方だな、と桂馬はスマホに目をやったまま、ちらりと皮肉に唇の端を上げた。用事ったって、どうせ習い事とか、スポーツジムとか、近所の奥さん連中との食事会とか、そんなことだろう。しょっちゅう家を不在にする母親は、まともに食事を作る日のほうが少ないくらいだ。
「外で食べるからいいよ」
 内面の嗤いを完全に隠して、桂馬は穏やかなくらいの口調で返事をした。返事をしても意識の大半はスマホに向けられているわけだが、母親のほうも気にする素振りはない。
「遊びに行くの? お小遣いは足りてる?」
 その質問には、ちょっと考えた。足りない、と桂馬が言えば、母親はためらいもなく二、三枚の万札を渡してくれるだろう。
「いや、今のところ足りてる」
 と答えたのは、社会人になっても親から小遣いをもらうことの体裁の悪さを思ったわけでもなく、いつまでも子供扱いされる自分を顧みて恥じたわけでもない。素直に手元の資金を思い浮かべ、素直にまだあるな、という結論を出したに過ぎなかった。多少なりとも不如意になれば、素直にねだって素直に受け取る。桂馬はずっと昔から、そういう環境で育ったので、親から金を貰うことを疑問に思ったこともなかった。
 牛乳を飲み終えると同時に、メールを削除するのも終え、そこでようやく桂馬は本日はじめて母親の姿をまともに自分の視界に入れた。
「父さんは?」
「ゴルフよ」
 桂馬の質問に、母親の返答は素っ気ない。リビングのテレビに向けられたままの横顔は、父さんて、誰、それ、とでも言いたげな関心の薄さだった。
 まあしょうがないか、表面的に取り繕ってはいるけれど、父親と母親の夫婦関係は数年も前からとっくに破綻しきっている。ゴルフなんて言って、愛人のところに入り浸ってんじゃないの、とでも考えているのだろう。そしてそれは、あながち的外れの邪推というわけでもない。
 この母親の妹で、桂馬にとっての叔母、鈴鹿の妻にあたる女性は、いつも、一流企業の部長職にある夫を持った裕福な姉のことを羨ましがっている。でも、この冷えきった内実を知ったら、あんな風に子供みたいに、いいわねえ、とも言っていられないだろう。あそこの夫婦は、二人して、根っからの単純人間なのだ。
 ──鈴鹿の顔を頭に浮かべたら、そういや最近あの事務所に顔を出してないな、と思いついた。
 二週間くらい、足を運んでいない。時子ちゃんもバイトに戻ってきたことだし、今日あたり行ってみようかな。けどその前に、女と会わなきゃいけないんだっけ。ああもう、面倒くさい。
 溜め息を吐いて、出かける準備をするために足を踏み出す。一人の女のせいで、自分がとんでもない不利益をこうむっているような気がしてならなかった。なんでせっかくの休日を、あんな女のために潰さないといけないのか。
 リビングから出ようとドアの手前まで行ったところで、母親の膝から飛び降りたポメラニアンに、甲高い声で吠えかかられた。
 息子と一緒で、母親から甘やかされることしかされていないこの小型犬は、桂馬に対して敵意を抱いているらしい。この家に飼われてから三年ほどが経つが、滅多に家に居着くことがない若い男を、未だに侵入者とでも認識しているのかもしれなかった。
 桂馬はそちらに目を向けることもしないで、通りざまに犬を足で蹴っ飛ばした。キャン、という哀れっぽい鳴き声に、さすがに母親が顔を顰めて息子を咎める。
「まあ、桂馬、何するの。可哀想でしょう」
 桂馬は、その母親に、にっこりとした綺麗な笑顔を向けた。
「ごめん。モップと間違えたんだ」
 そのまま、リビングを出て洗面所へと向かう。
 廊下を歩きながら、そういや、あの飼い犬、名前はなんていうんだっけ、とぼんやりと考えた。


          ***


 そもそも 「日曜日の午前中」 なんていうのは、いちばん女と会うのに不適格な時間帯である、と桂馬は思っている。
 そのままホテルに直行することも出来ないし (してもいいが、「カラダだけが目的なの」 とかめんどくさいことを言われる可能性が大)、ランチを一緒にとったりしなければならない。その上、買い物にまで付き合わされたら最悪だ。これから落とそうとしている相手ならともかく、すでに現在付き合っている女と、そんなことをする意味が判らない。
 なのにどうして、一応つきだが 「今の彼女」 に要請されて、桂馬が会うのに肯ったのかといえば、昨夜の電話の切羽詰まった調子からして、ここで了承しないとさらに厄介なことになりそうだ、というのが目に見えていたからだ。

 どうしても会って話したいの。そう、すぐに。今日が駄目なら明日。夜? イヤよ、そんなに待っていられない。来てくれないっていうんなら、あたしが桂馬の家まで行くわ。今からでも。それでもいい?

 いいわけない。
 その時点で、大体 「話」 の内容の見当はついた。舌打ちしそうになるのをなんとかこらえ、ようやく、じゃあ翌日の午前九時に、ということで納得させたのである。行きたくないのは山々だが、放置しておいてストーカーに変質されても困る。
 そんな成り行きなので、家を出て、車を運転し、待ち合わせ場所のファミレスに向かう桂馬の態度は、どこもかしこもダルダルだった。ああー、めんどうくせえええー、という低い呟きが、無意識のうちに何度も形のいい唇から零れ落ちる。
 片手でハンドルを持ちながら、もう片方の手でダッシュボードから煙草を取り出した。あまり吸うことはないが、むしゃくしゃした時などは、気分を落ち着かせるために、煙草は効果的だ。
 火を点け、すう、と吸いこんでから、口からゆっくりと煙を吐き出した。数センチ開けた運転席の窓から、白い薄っすらとした煙が外部へと逃げていく。
 桂馬が煙草を覚えたのは、かなり昔のことだ。まだ高校に通っていた頃で、周りには、「煙草を吸うことで自分が大人だと誇示したがる馬鹿」 もたくさんいたが、それとはまったく理由が異なる。
 時々襲ってくる、破壊衝動を誤魔化すため、というのが、多分いちばん大きかった。
 なぜなのかは、自分でもよく判らない。
 小・中・高校と、桂馬は表面的には常に優等生としての仮面を上手にかぶり続けてきた。親も、教師も、友人も、どいつもこいつも頭が悪いとしか思えないほど、あっさりと彼のその表向きの顔に騙された。裏で何をしていようと、周りの人間たちは拍子抜けするくらい簡単に、桂馬が作り出した嘘を信じ込む。どうしてなんだ、と桂馬自身が不思議に思えてしまうほど。
 要するに、人間というものは、自分の見たいようにしか、ものごとを見ようとはしないのだ──と気がつくのに、時間はかからなかった。

 人は、自分が信じたいように、事実のほうを捻じ曲げる。無意識に、無自覚に。

 桂馬は幼い頃から知恵が廻って、気が利いて、愛想がよく、笑顔も可愛らしい子供だった。大人も子供も、それだけで、この子は良い子だ、と判断してくれた。そう思いたいし、信じたいからだ。誰もそれ以外を見ようともしないし、気づこうともしない。だって、所詮は他人、血の繋がりがあったとしたって結局は自分ではない別の人間だ、どうしてそれ以上のことを知る必要があるだろう?
 良い子、というレッテルを貼ってしまったほうが、彼らにとって楽だった。だから、親も、教師も、友人も、桂馬に対してそれ以外の情報を求めようとはしなかった。甘やかして、褒めて、持ち上げて、それでおしまい。なんの問題もない。桂馬自身も別にそれでいいと思っていたし、お互いに満足ならかえって平和的なくらいだと思っていた。
 ──けれども、時々。
 なぜか、ものすごく、苛つくことがあるのである。
 ふいに、何もかもをめちゃくちゃに壊してしまいたい、という強烈な衝動に駆られることがある。破壊して、切り刻んで、歪ませたい。心の中で、そんな暴風が荒れ狂う瞬間があって、そういう時は制御するのが非常に難しい。
 そういった気持ちを落ち着かせるために、煙草を吸うことを覚えた。実際には、これまでの二十数年の人生で、桂馬が暴れたことなど一度もない。昔よりは、破壊衝動のこみあげる回数もぐっと減った。しかしそれでも、ほんの時たま、無性に煙草に手を伸ばしたくなることがあるのも本当だ。
 運転しながら流れる煙を見るともなく見ていたら、桂馬に比べて格段に喫煙量の多い無愛想男の顔が自然と思い出されて、くすっと笑った。
 あの男の喫煙歴も相当長いのでは、と桂馬は見ているが、実際のところはどうなのだろう。間違っても自分の過去をべらべらと喋るような性格ではないので、便利屋の所員になる前は、どんな生活をしていたのかさっぱり知らない。まあ別に、興味もないけど。
 あの無口でぬーぼーとした男にも、破壊衝動、なんてものがあるのだろうか。

 ──意外と、婉曲な自殺行為だったりして。

 そう考えて、今度は声を立てて笑った。意外と、というか、十分にあり得る。いかにもやる気のないあの男らしい。
 生きていくのも、自分で自分を殺すのも、どっちも面倒だ、と思いそうだ。
 桂馬は、あの男が大嫌いである。あっちも、自分のことを嫌っているのだろうが。そりゃあそうだろう。「ちょっと形を変えただけで基本的には自分と同質な人間」 を好きなやつなんて、ただの阿呆か、よっぽどのナルシストに違いない。桂馬はそのどちらでもないから、実を言うと、あの男を見るたび、ムカムカする。
 ……どうしてそんなに、似ている、と思うのだろう、と桂馬は少し不思議にも思う。
 なんとなく、なのだ。なんとなく、ああ、この男は自分と同じ種類の人間だ、とピンときた。タイプは違うが、確実に共通する何かがあるのを感じ取った。
 一歩間違えば、簡単に犯罪者になりそうな。眉一本動かさず、平気で他人を傷つけたり、殺したりすることも出来そうな。
 成長の過程や環境も、そりゃ影響しているのだろうけど、本当のところ、どれだけ関係があるのかも判らない。同じような条件で育っても、こういう人間になるとは限らないのだろうし、こんな風に、まったく異なる場所に育ったのに、根っこの部分が酷似している人間と出会う場合もある。
 とにかく、世の中にはたまに、こういう人間がいるのだ。百人に一人、あるいは千人に一人くらいの割合で、ぽろりと誤って出来てしまうのだ。
 そうとしか、言いようがない。

 自分も他人も、愛することも信じることも出来ない、人格欠損者。
 生きていることにまったく意義を見いだせない、心もない、中身もない、異端な存在。
 深い深い淵に立ち、いつも真っ暗な底を覗き込んでいるような人間が──

 空虚な笑みを口元に浮かべ、桂馬はアクセルに置いた足に力を入れた。
 ぐん、とスピードが加速する。前方を走っていた車が、いきなり距離を詰められたことに驚いたのか、慌てて車線変更をして道を空ける。くわえ煙草のまま、さらにアクセルを踏んで、その車を追い越した。
 追い越しざま、ちらっと横を見たら、車のドライバーが、どこか怖れるような顔つきでこちらを見ているのが判って、笑いを深める。
 ……もしここで事故ったとして、死ぬ瞬間、おれは誰の顔を思い浮かべるんだろうなあ、と考えた。
 少なくとも、今から会う女じゃないことは確かだ。血の繋がりはあっても他人も同然の両親でもない。今まで付き合ってきた女に至っては、もうすでに全員が記憶からすっぱり抜けている有様である。
 もしかしたら、だーれもいないのかもしれないなあ、と思うと、また笑えた。



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