猫の手貸します

case by case.1

桂馬の休日(2)




「あの女、誰よ」
 約束の三十分遅れでファミレスに到着し、すでに待ち構えていた女と向き合って座った途端、噛みつくようにそう言われた。
「あの女って?」
 あまりにも予想通りの成り行きに、驚くフリをしてやる気にもならない。大体、寝起きの悪さから来る不機嫌さは、今もまだ継続中なのである。つまらなさげに紋切り型の問い返しをしながら、コーヒーを注文するためウェイトレスを目で探す。
「とぼけないでよ、あたし、見たんだからね。昨日、誰か他の女と歩いてたでしょう」
「ああ、昨日の女ね」
 まるで印籠を振りかざすかのように鼻息も荒く事実を突きつけた女は、桂馬が何でもないように認めたことに対して、明らかに拍子抜けしたらしかった。
 女が口を噤んだ隙に、桂馬は通りがかったウェイトレスを呼び止め、コーヒーを注文した。
 いかにも学生っぽいバイト店員は、向かいに座る女から発せられる険悪な空気に少し戸惑ったような顔をしたが、桂馬がにこっと笑いかけると、ぽっと頬を赤らめて控えめに笑顔を返してきた。なかなか可愛い。
 すぐにお持ちします、と応えて、本当に飛ぶように厨房へと向かう彼女の後ろ姿をなんとなく眺めていたら、「ちょっと!」 と、目の前の女が苛ついたような声で言って、ばんとテーブルを叩いた。あ、こいつがいたんだった、と思い出し、桂馬はそちらへと顔を戻す。
「真面目に話してるのよ。あの女、誰なのよ」
 確かに、怖いくらいに大真面目な顔つきだ。目と眉は吊り上がり、赤い口紅で彩られた唇はぐうっと力強く引き結ばれている。
 その顔を見て、般若みたい、と咄嗟に浮かんだ感想に、自分で噴き出してしまいそうになった。脳裏をぱっと過ぎったあの面が、あまりにも自分の前にいる女の顔とそっくりだったからだ。
 角をにょっきりと生やし、ぎょろりと目を剥いて、鋭い牙で男を食い殺そうとする顔。
 般若面というのは、そもそも、嫉妬や恨みで浅ましく変化した女の顔なのだった。なるほど、まさにピッタリだ。
「えーと、先週知り合った女。名前は確か、リカだかリカコだったかな。悪い、忘れた」
 詰め寄ってくる女の迫力とは対照的に、桂馬はのんびりと質問に対する答えを口にした。名前に関する記憶がいい加減なのは、本当に頭から抜けてしまっていたからだ。リカちゃん、と呼んでいたから、本名がどうだったか忘れてしまった。まあ、別にどっちでもそう問題はないだろう。
「な──何よ、それ」
 女は桂馬のセリフを聞いて、ぽかんとした顔をした。一瞬怒りを忘れたように、口を半開きにして桂馬を唖然として見つめている。
 この鬱陶しいやり取りを、いつまで続けなきゃいけないのかな、と桂馬は早くもうんざりしてきた。
「先週知り合った女って。桂馬、それで、そんな女と会って、何してたのよ。なんなの、デートでもしてたってわけ?」
 その質問の仕方は、次に桂馬の否定が当然あるべきものとして出されているもののようだった。デートだって? まさか、そんなことあるわけないじゃん、と返されることを、当たり前のように期待しているその鈍感さに、ますます億劫さが募る。
「そうだよ」
 あっさり頷いたら、女は絶句した。
「食事して、ちょっとドライブして、キスして、って流れを 『デート』 って呼ぶんでしょ、普通。ホテルにまでは行ってないけど」
 行く? と誘いをかけたら、初めてのデートでそこまではしない、と断られた。外見も中身もどう見たって軽いのに、ここでホイホイとついていったら自分の価値が下がる、とでも思っているみたいだった。面倒くさいので、もう誘う気がしない。そう正直に付け加えたら、言葉を失っているこの女は安心するのだろうか。
 女が黙っている間に、ちょうどいいタイミングで、ウェイトレスが水と注文したコーヒーを運んできた。
 テーブルの上に置きながら、ちらっと女を一瞥して、桂馬に同情めいた視線を向ける。ハタから見ると、いきり立っている女のほうが悪者に、そして、それに対して落ち着いて答えている男のほうが被害者に見えるものらしい。少し愉快だったので、困ったね、というような目くばせをしておいた。
 ウェイトレスが立ち去ると、女はようやく我に返って、再び眉を上げた。桂馬はカップを持ち上げ、運ばれてきたコーヒーを口に含み、少し顔を顰める。不味い。しかも薄くて、これではまったく目が覚めそうにない。
 ──時子ちゃんのコーヒーが飲みたいなあ、と心の中で呟いた。
「ど、どういうことよ、桂馬。あんた、わかってんの? なんでそう平然と、そんなこと言えるのよ。浮気したってことじゃない、あたしがいるのに」
 女の声が震えているのは、泣きそうになっているからではなく、怒鳴り出すのを何とかこらえようとしているからだ。
 女というのは、こういう時、必ず真っ先に怒りが出るのはどうしてなんだろうなあ、と桂馬はその様子を冷静に眺めた。

 悲しむよりも、嘆くよりも先に、まず怒る。

「ていうかさあ」
 桂馬はカップを唇から離し、いかにもダルそうに言った。
「そもそも、あたしがいるのに、っていう意味がわかんない」
「……は?」
 桂馬の言葉に、女の表情が固まった。いつものこととはいえ、どうして桂馬と女の間では、こうも意識に差が生じてしまうのか、本心から不思議になる。

 ……この女は、自分に一体 「何」 を求めているのだろう?

「だからさあ、『あたしがいるのに』、って、どういう意味?」
「な、なに言ってんの? だから、あたしっていうちゃんとした彼女がいるのに、他の女と」
「彼女ね。うん、定期的に時々会って、セックスする関係を、『彼女』 って呼ぶんでしょ。おれは一応今のところ、あんたをそういう風に扱ってるつもりなんだけど、何が不満なの? 食事の時は金も出してやってるし、可愛いリングが欲しいって言ったら買ってやってもいるよね。それなりに優しくしてもいるはずなんだけどな。なのにどうして、他の女と遊んだくらいでぎゃあぎゃあ怒るのか、さっぱりわかんない」
「な──」
 女は目を見開き、ついでに口もぽっかりと開けた。本人も自慢に思っている、綺麗な顔が台無しだ。
「なに、言ってんのよ、桂馬」
 その顔を今度はおかしな角度で歪め、女が泣きそうな声を出した。あまりの会話の噛み合わなさに、すっかり混乱をきたしているらしい。
「だって、彼女でしょ。あたしたち、付き合ってるんでしょ。桂馬が優しくしてくれるのは、あたしのことが好きだから、なんでしょ。なのにどうして」
「ああ、うん、わかった、それだ」
 桂馬が納得したように頷くと、女がわずかに安心したように口を閉じた。わかってくれたの、という期待で、こちらを見返す瞳に力がこもる。
 桂馬は正面からその視線を受けて、にっこりした。

「──おれ、あんたに好きだなんて言ったこと、一度もないと思うんだけど」

 優しいくらいの口調に、女の顔からさあっと血の気が引いていく。
「だっておれ、他にちゃんと好きな子がいるしさ」
 続けて言うと、女がさらに顔色を失った。どうして今さらそんなことで驚くのか、桂馬にとってはそっちの方がよっぽど理解不能だ。
「その子以外には、『好き』 って言葉は使わないようにしてるんだよね。羽毛布団の中身よりも軽い、って言われないように。おれって、誠実でしょ?」
 いろんな女と遊びはするが、誰に対しても、「好きだ」 とは言わない。時子と会ってから、そこがいちばんの大きな変化だ。事実、付き合っているとはいっても、ぜんぜん好きでもない女ばかりだし。それにそんな言葉がなくたって、いつだって女と身体の関係を持つのはごくごく容易かった。
 女は金魚のように、口をぱくぱくと開いたり閉じたりしていた。桂馬の言葉を否定しようとして、けれどよくよく考えてみたら、実際に一度もその言葉は聞いた覚えがなかった、と、ようやく思い当たったようだ。
「そんな……ひどい」
 ぽろりと女の瞳から涙が零れる。
「…………」
 桂馬はその涙を見ても、なんとも思わなかった。むしろ腹でも立てればいいのかもしれないのだが、心は冷え切ったまま、ことりとも動きを見せようともしない。本当のところ、退屈だな、と欠伸をかみ殺すのでやっとだった。
「だったら、あたしとのことは完全に遊びだったってことじゃない。け、桂馬が、こんな人だったなんて、思わなかった。信じられない、ひどい」
「──ふうん」
 泣きながら責められて、桂馬は口元に冷然とした笑みを乗せる。
 いい加減、もうこの茶番には飽きが来た。
「じゃあさ」
 穏やかに問いかける。こちらに向けられる瞳には、裏切られた、傷ついた、あたしが可哀想、という自己アピールばかりがあって、正直、見るのもイヤだったが、我慢した。
「こんな人だったとは思わなかったって、じゃあ、おれってどんな男なわけ? 教えてくれる?」
「……え」
 女は一瞬、かなり戸惑ったような表情になったが、すぐにキッと強気を取り戻した。彼女にとって悪いのはすべて桂馬で、自分には何の非もないのである。その強い視線には、ちょっとでも退く素振りを見せたりするもんか、という決意が露わだった。
「だって、ずっと優しくしてくれてたじゃない。あたしの言うことはなんでも聞いてくれたじゃない」
「うん、そうでしょ。あんたが望むままチヤホヤしてやってさ、おれって、自分で言うのもなんだけど、『いい彼氏』 だったと思わない? あんたも、けっこう楽しい思いしたはずなんだけどな。別れるからって、今までの食事代金とプレゼント代返せ、なんてこと言わないしさ。なのに、なんで文句を言われる筋合いがあるのかなあ」
 いつも思うのだが、納得がいかない。桂馬は、女の前では、その女が希望するような 「いい彼氏」 の役割をちゃんとこなしている。求められたものを差し出してやっているのに、どうしていざ別れるとなると、それを悪いことのように言われるのだろう。
「ベッドの中で優しくするみたいに、おれのすべてが 『そんな風』 であると勘違いしたのは、あんたの勝手な思い込みってやつでしょ? 食事代も全部出してもらって、プレゼントもしてもらって、可愛いね綺麗だねって持ち上げてもらってさ、あんたはそれだけで満足してたんでしょ。その上他の女には手を出しちゃいけないとか、いくらなんでも図々しいってもんじゃない? ひょっとして、自分は美人だから、そうされて当然、とでも思ってたの? おれが軽い奴だってことは知ってたはずなのに、自分は特別だ、とでも思ってた? 都合の悪いことからは目を背けて、人に自分の身勝手な理想像を押しつけておいて、こんな人だとは思わなかった、ひどい、幻滅した、なんて──そりゃ、あまりにもお門違いだよ。話にもならないね」
「…………」
 冷笑とともにそう言い切ると、テーブルの上で握られていた女の拳がブルブルと震えた。自尊心の高いこの女には、相当のダメージだったろうとは思うが、興味がないからその心中まで推測しようという気持ちも起きない。
「……す、好きな子って、どこの誰よ」
 しばらくの無言の後、真っ青な顔で、絞り出されるような言葉が唇から出てきた。
「昨日一緒にいた女? それとも、他にもいるってわけ?」
「あんたには関係ない」
 そんなところまで立ち入ってこようとする女の無遠慮さに少しばかり本気で腹が立ち、桂馬はすげなく返した。時子のことについて、無関係の女にずかずか踏み込まれるのは不愉快以外の何物でもない。
 しかし、「関係ない」 の一言は、女の中の何かに一気に火を点けてしまったらしい。ここにきて、はじめて女が声を荒げた。
「なによ、言いなさいよ! 馬鹿にして──絶対に、絶対に許さないんだから! なにが好きな子よ、何が何でもその女、見つけ出して、めちゃめちゃにしてやるわよ! それでも」
 ガン! と桂馬が思いきりテーブルの裏を膝で蹴り上げた。その音に、女はぴたりと口を噤み、店中もしんとした。
「……うるせえよ」
 低い声で言って、目の前の女を睨みつける。愛想のいい笑いも、皮肉な嗤いも消し去って、感情のない眼を向けると、女の表情が恐怖に引き攣った。
「あの子に手を出したら、お前を殺す」
 桂馬の口調には、一片の迷いもためらいもなかった。


          ***


 女が逃げるように店を出て行った後、桂馬も悠然と席を立った。
 レジにいたのはコーヒーを持ってきた若いバイト店員だったが、もう決して、伝票を出す桂馬とは目を合わせようとはしない。金額を言う時も、ありがとうございました、と言う時も、びくびくと怯えたような小声で、視線を逸らしていた。
 桂馬はまったく気にしないで駐車場に出て自分の車に乗り込み、早速スマホを取り出した。今から行くとちょうど昼前だなー、と鼻歌混じりに考えて、スズカ便利屋の番号を呼び出す。
「はい、スズカ便利屋でっす!」
 元気な声がスマホから飛び出して、思わず笑みが零れる。気だるい日曜の午前中だってのに、このエネルギーはどこから湧いて出るのだろう。
「あ、時子ちゃん? おれだけど」
「オレオレ詐欺には引っかかりません」
 と言うや、ソッコーでガチャンと電話を切られた。絶対に電話の主が桂馬だと判っているくせに、ほんの一秒も躊躇というものがなかった。
 くっそ、と罵りながら、メゲずにもう一度かけ直す。
「こちら、オレオレ詐欺とナンパ男はお断りの、スズカ便利屋でーす」
「おれだってば、桂馬だってば! 時子ちゃん、電話をかけるたび、そういう意地の悪いことするのやめてくれる? 時間の無駄だから」
「仕事の依頼以外の電話をかけてくる人の相手をするほうが、よっぽど時間の無駄です。切っていいですか」
「待ってよ、まだ用件も話してないじゃん! 仮にもバイト先にかかってきた電話を、私情でブチ切るって、どうかと思うよ、おれは」
「じゃあのんびりお喋りなんてしてないで、早く本題に入ってくださいよ。私、今、所長と重大な話をしていたところだったんですから」
「本題に入る隙を与えてくれなかったのは時子ちゃんでしょ。どうしてそう理不尽な性格してんのさ。おじさんと重大な話って何?」
「賃上げ交渉です」
「それ以上に無駄な話って、この世に存在しないよ」
 電話で交渉が打ち切られたことに、心底ホッとしている鈴鹿の顔がありありと浮かんだ。だったらここは、感謝されてもいいところだよなあ、と思う。
「おれさ、今からそっちに向かうからね。コーヒー淹れて待っててくれる?」
「仕事の依頼で?」
「時子ちゃんを、ランチに誘おうと思って」
「そうですか、じゃあ、今この場できっぱりお断りします。用件はこれで終了しましたので、もう来なくてもいいですよ」
 時子はとことん冷たい。対応ばかりでなく、声音も冷たい。見えないけれど、受話器を当てながらきっと冷たい顔をしているのだろう。この雪女、と内心でちょっと毒づく。
「いいじゃん、どうせ仕事なんて入ってないんでしょ」
「どうせとは何ですか、失礼な」
「入ってんの?」
「入ってるわけないじゃないですか」
 この上なく堂々とした返事である。電話のそばで、きっと鈴鹿が泣いている。そんな状態で、よく賃上げ交渉なんて出来るよなあ、と桂馬はむしろ時子の強心臓に感心した。
「だったらいいでしょ、行くからね」
「来たって、午前中のお茶菓子はもうありませんよ。所長と私で食べちゃいましたから」
「いや、そんなのは心の底からどうでもいいし。……っていうか、仕事もないのにおやつはしっかり出るって、どういう職場なんだよ」
 桂馬だって決して真面目な会社員とは言いがたいのだが、この事務所のダラケっぷりよりはマシだ、と思えてしまう。
「じゃあ、後でね」
 と言って、通話を切った。やれやれ、と溜め息をつく。
 エンジンをかけながら、どこかで手土産でも買っていこうかな、と考えた。
 時子はどんなケーキが好きなのだろう。一個だけ買うのもなんだし、しょうがないから、あと二つか三つ、適当に見繕うか。鈴鹿はともかく、不破は絶対に甘いものが嫌いだろうから、歯が溶けそうに甘ったるいケーキを買ってやろう。
 そして、少しだけ笑った。
 来なくてもいい、とか、何しに来るのだ、とか冷淡なことを言っても、時子は絶対に、「来るな」 とは言わない。
 あの事務所に行く前に電話をしてしまうのは、案外それを確認するためなのかもしれないなあ、と思うと、こんな自分が健気に思えてくる。スマホ越しの不毛な会話でさえ楽しいと思えるとは、本気で驚きだ。
「さて、行くか」
 ひとりごちて、アクセルを踏んだ。
 もう、桂馬の中からは、起きた時の不機嫌さはすっかり抜けていた。
 ──ついさっき別れたばかりの女の、顔も、名前も、綺麗さっぱりと。



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