猫の手貸します

case by case.2

便利屋はBARにいる(1)




 万里はその頃、まだ二十代前半の若い娘だった。


 どうしてだろう。
 小学生を卒業するまでは、ずっと頭のいい優等生として通っていた。何事にもきびきびとした性格で、はっきりとものを言う万里は、先生にも信頼されていたし、学級委員だって務めたことがある。
 それなのに、どういうわけか、中学に入ってからいきなり勉強についていけなくなった。
 あれ? と自分でも首を傾げつつ、しかしまだ最初のうちは、さして気にしてはいなかった。だって小学生の頃は、別にこれといった勉強はしなくとも、テストで良い点を取ることが楽に出来ていたのである。授業がよく判らないのは、中学生になってちょっと浮ついた気分でいたためなのだろう。今まで勉強しなくても出来たのだから、もう少し真面目に勉強すれば、あっさりと順位なんて上がるはずだと、高を括ってもいた。
 万里は自分自身のことを、器用で、知恵も廻る子供だと信じ切っていた。顔も可愛らしく、快活で、よく喋り、よく笑う。大人にもウケがよかったし、友達だってたくさんいて、誰とでも表面上仲良くするすべを心得ていた。こんな自分だもの、本気を出せばなんだって出来るはずだ、ということを、その時はまだ疑いもしなかったのだ。
 そんな風に思っていたのは両親だって同様で、中学に入ってはじめのうちは、万里が持ち帰った試験結果を見ても、ちょっと苦笑するくらいで済ませていた。もう小学生じゃないんだから、ちゃんと家でもお勉強しないとね、という注意だけに留めていたのは、少し勉強さえすれば自分の娘はすぐに上に行けるに決まっている、という思い込みがあったからだ。
 やれば出来るんだから、と笑いながら、万里も、親も、その状況を受け流してしまっていた。
 ──やれば出来る、ということは、やらなければ出来ない、という当たり前の事実をろくに見もせずに。
 そうして日々だけが着実に進んでいったが、万里は相変わらず、友達と楽しく遊び、ようやく買ってもらったケータイにのめり込み、アイドルに夢中になり、男の子に恋をして、勉強以外のことで忙しい中学生活を送っていた。楽しいことがたくさんあって、勉強などのイヤなことは、いつか真面目にやればいいや、とどんどん後回しになっていった。
 その結果として。
 万里の成績はどん底まで落ちた。授業を聞いても、教師の言っていることがさっぱり理解できない。学校にこっそりケータイを持ち込んで、授業中に教師の目を盗んでいじりまわしてばかりだった万里は、二年生の半ば頃にはもうすでに、教科書を読む、という簡単なことすらまともに出来なくなっていた。
 親が自分を見る目が、期待と信頼から、失望と焦りに変わるのが、はっきりと見て取れた。
 そうなるともう、親と話すのも億劫になり、ますます関係はこじれるばかりだった。顔を合わせれば勉強勉強とうるさく責めたて、喧嘩ばかりになってしまう母と一緒にいるよりは、友達と明るく騒いでいるほうがよっぽど楽しい。だから母が口を開こうとすると、ぷいっと外に出てしまうようになった。

 それからは、まるでコースを辿るように一直線。

 叱られるだけの家庭。家に帰りたくないばかりに街中を深夜徘徊するようになり、外の世界での遊び仲間を見つけた。服装は派手になり、学校は休みがちになり、子供っぽい同級生たちとは接触を断つようになった。
 ネットをたぐれば、お金を得る手段はいくらでも転がっている。罪の意識もなく身体を売り、盗みをやり、あちこちの仲間の家を転々とするようになって、気がついたら、万里に行ける高校なんて、どこにもなくなっていた。
 十五の時、お前の顔なんてもう見たくない、と、親にきっぱりと言い渡された。
 あっそう、と万里はそれを聞いて思った。自分の思った通りに育たなかったというだけで、あっさり子供を捨てる親が、心底憎かった。こっちだって見たくねーよバーカ、という捨て台詞を残して家出して、当時仲良くしていた年上の男の子のところに行き、彼の勧めもあって年齢を誤魔化して水商売の世界に入った。
 寂しいとも、悲しいとも、思ったことがない。万里はその仕事に向いていた。毎日が楽しくてしょうがなかった。
 ちょっと愛想よくしてあげれば男たちは鼻の下を伸ばしてチヤホヤしてくれるし、お金も落としてくれる。顔と身体は万里だけの個人財産だ、それを有効利用して何が悪いというのだろう。同年代の女の子には手の届かないような高価なブランド物を身にまとって、平日の昼間からデパートをブラブラするのも気分が良かった。
 生きていくのなんて、バカみたいに簡単だ、と笑いが止まらないほどだった。
 そのうちきっと、お金持ちのいい男に見初められて、結婚するんだ。高級車を乗り回し、カードでバンバン買い物をして、セレブ生活を満喫するんだ。自分は器用で知恵が廻るのだから、きっと可愛くていい奥さんになれる。親だって同級生だって見返してやれる。あたしはやれば出来るんだ。
 そうやって数年、万里はその考えを変えないまま、二十二歳になった。



 ある日、気紛れに立ち寄った小さなバーで、彼に会った。
 バーテンとしてカウンターの中で黙々とカクテルを作っていた彼は、かなり若い見た目にはそぐわないほどの、落ち着いた雰囲気を持っていた。白いシャツ、黒いベスト、黒いエプロンも、まるで違和感なく馴染んでいる。
 話しかければ返事はするけれど、そうですね、とか、そうですか、とかの、短い一言だけしか返さない。それもほとんど気のない感じの口調で、万里は最初、この子こんなんで大丈夫なの? と疑問に思ったくらいだった。
 しかしどういうわけか彼は、女性客にひどく人気があった。
 カウンターを占領しているのは、万里と似たような年齢の、万里と同じ水商売系の女性ばかりだったが、誰もが彼に好意を持っているようなのが伝わってくる。酒を注文し、一方的にぺらぺらと話しかけて、返事が少なくても特に気に留めるようでもない。時々、これプレゼント、と何かの品物を差し出すような女性もいて、彼はちょっと黙ってから、どうも、とだけ返して受け取り、無造作にカウンターの棚に置いていたが、彼女たちはそんなことさえ喜んでいるようだった。

 不破君、と、彼は女性たちからそう呼ばれていた。

 万里は当初、女性たちのそんな言動を少々冷ややかな目で眺めているだけだった。確かに見た目としては悪くはないけれど、所詮はバーテンである。万里と同じで、二十代前半、という建前にはなっているが、実際はもう少し若いかもしれない。下手をすると、十代の後半という可能性もある。お金を持っているわけでもあるまいし、なんでそんなに入れ込むことがあるのだろう。
 そう思いながらも、何度かそのバーに通って、彼の作るカクテルを飲み、年下の男の子をからかうつもりで、時に笑い、時に甘えて、言葉をかけたりして。
 ……そうして、いつの間にか。
 万里はかつて自分が皮肉に嘲笑っていた女性たちと、まったく同じことをしている自分に気がついた。
 返事が最小限でも気にせず話しかけ、何杯も酒を注文して店に居座り、せっせとプレゼントを渡して、主人に忠実な犬のように、ひたすら彼のリアクションを待っている。
 そのことを自覚して、ようやく理解した。どうして女性たちがあの手この手で彼を落とそうとするのかを。

 ──だって、あまりにも。
 あまりにも、彼が自分に関心を持ってくれないから。
 完全に興味のない目を寄越すだけで、ちらりとも心を動かしてくれないから。

 どうしても、意地になってしまうのだ。
 水商売の女たちは、誰もがそれなりのプライドを持っている。これまでずっと、自分の手練手管で、男たちを振り回してきたという自負がある。笑いかければ、必ず何かしらの反応があるはずだという確信がある。そうやって、お金を稼いでいるのだから、当然のこと。
 なのに、彼はまったくそれに乗ってくれない。クールさを装っている、というのとも違う。女に対して興味がない、というのとも少し違う。なんの感情も映さない瞳は、人間に対してだけ向けられるものではないからだ。彼は、お金にも、お酒にも、仕事にも、同じ距離を崩さない。
 そうしたら、どうしても、その目をこちらに向けさせてやりたいと思わずにはいられなくなるのだ。何に対しても関心を持たない男を振り向かせることが出来たのなら、自分がすべての頂点に立てるんじゃないかという、たまらない誘惑に抗えない。人よりも優越感を持てるという魅力に、頭の芯が痺れてしまいそうなほど。
 それで万里は、彼にどんどんのめり込んでいくことになった。目的は彼の関心を惹くこと、であって、そこにどれほどの好意や恋心があったのかは、自分でもよく判らない。それまでずっと、自分にとっての快楽を求めて手に入れることにしか興味のなかった万里は、そんなことを考えるのも、とうの昔に放棄してしまっていた。
 その店にも、彼にも、多くのお金を消費した。彼には彼でなんらかの線引きがあるらしく、ある時点でプレゼントはきっぱり拒否されるようになったが、それでも構わなかった。高価な腕時計などを買っては店の従業員に押しつけ、彼に渡しておいてと伝言した。それらの品物を、彼が実際に身につけるのを一度として見たことはなかったけれど、受け取っているものと信じていた。だって、口ではなんと言ったって、貢ぎ物をされて、本気で迷惑だなんて思う人間がいるわけがない。男も女も、その点は違わないはずだ。
 そのうち、彼を狙っている他の女たちが目障りになり、言い争うようになった。図々しい、と心の底から腹立たしかったのだ。あんた鬱陶しいのよ、と牽制のつもりで言ったら、口汚く罵ってきたので喧嘩になった。口喧嘩で済んでいるうちはよかったのだが、ある日、つい興奮して頬をビンタしてやったら、やり返され、終いにはお互いの服を引っ掴んでの揉み合いとなった。バーの中、他にも何人か客のいる前でである。
 カウンターの中にいた彼は、その時はじめて、はっきりとした溜め息を吐き出した。
「他のお客様の迷惑になるんで、帰ってもらえませんか」
 一言だけの返事以外に、ようやく長い言葉を聞いたと思えば、それだった。
 絶対に万里よりも年下のくせに、口調はどこまでも醒めていた。冷淡なほどの素っ気ない声音と、無機質じみた視線が刺さる。
「なによ、だって、この女が」
「あんたのほうこそ──」
 万里と相手が口々に文句を喚きはじめると、彼はもう一度溜め息をついた。
 そして、まるで氷のような感情のない目を向けて、
「出て行け、邪魔だ。二度と来るな」
 と、はっきりと言った。



 邪魔だ、とこれ以上ないくらい明確に面と向かって拒絶されて、万里は怒り狂った。
 彼への執着心が、あっけないくらい、憤りに変わった。要するに、万里は彼への気持ちよりも、自分のプライドのほうに、よほど重きを置いていたのだろう。でも、そんなこと、どうだっていい。
 自分が、この自分が、こうまで尽くしたのに、あの仕打ちは何だ。自分が女によく言い寄られるからって、いい気になっているだけに決まっている。勤める店では、若くて可愛い万里を、まるで女神のように崇める男だってたくさんいるというのに。中には、一流企業のお偉いさんだって、バリバリの実業家だっている。その万里を袖にするなんて、ただの若いバーテンのくせに、身の程知らずもいいところだ。
 許せない、と思った。
 この屈辱、なんとしても思い知らせてやらないと気が済まない。あの傲慢な男に、痛い目を見させてやらなければ。
 そう決意してから、行動するのに、まったく時間はかけなかった。あの無表情な顔を歪ませてやろう、と思ったら、とてつもなく楽しみになった。これに懲りて、少しは態度を改めるだろう。あの男が、万里に対してすみませんでしたと頭を下げるところを想像するのは、あまりにも愉快だった。
 以前から知り合いだったチンピラに連絡し、ねえちょっと、気に入らない奴がいるから、少しだけ痛めつけてやってくれない? と持ちかけたら、あっさりと了承された。ああいいよ、どいつ? けど金は貰うよ、というような軽さだった。よほどそういったことをやり慣れているらしいのが、言葉の端々に滲んでいた。その男にも、万里にも、罪悪感などというものは微塵も存在していなかった。
 チンピラは、万里の依頼通り、彼の勤務が終わるのを待って、私服姿で店から出てきたところをすかさず路地裏に引きずり込んで、いきなり殴りつけた。
 万里は路地の出口のところに隠れて立って、その様子をこっそりと眺めて楽しむつもりでいた。これでちょっとは反省すればいいのだ。薄暗い路地で情けなく倒れているところを優しく介抱でもしてやったら、さすがにあの男も自分に気持ちを傾けるだろうか。
 しかし、少ししてからそっと中を覗きこんだ時、その笑顔が凍った。
 彼を殴ってボコボコにするつもりでいたチンピラは、確かに、数発は拳を叩き込むことに成功したようだった。彼の頬が腫れている。腹を殴られたのか、態勢が若干前のめりだ。
 けれど彼は、そこから素早く立て直した。
 もう一度腹部に向かって蹴り上げられようとした足を、直前になってぱっと避けた。勢い余ってバランスを崩しかけたところを、流れるような動きでするりと後ろに廻って、膝裏を狙い正確に蹴りつける。チンピラがぐわっと呻いて、たまらず地面に折った膝をついたら、今度はその背中に鋭い回し蹴り。膝をつくだけでなく上半身も倒れると、抵抗させる間も与えずに、すぐさまその身体の上に乗っかった。
 左の肩に自分の膝を、右の二の腕の上に自分のスニーカーを履いた足を乗せ、しっかりと動きを封じる。
 形勢逆転まで、一分もかからないくらいの出来事だった。
「な、なにすんだよ?!」
 チンピラが喚いている。その不穏な体勢で、彼がしようとしていることを察したのか、顔は恐怖で引き攣っていた。
 彼のほうは、まったく表情が変わらない。眉ひとつ、動かさなかった。
「中途半端なことをすると、また報復に来たりするだろう? こういう時は、徹底的にやっておくことにしてる」
 淡々と言う彼の顔は、いつもとまるで同じだ。万里や他の女たちに向けていたのと同じ。興味のなさそうな目、興味のなさそうな口調。他人に対して暴力を振るうことになんとも思わないチンピラにだって、お金に対してや自己顕示の欲があるというのに、彼にはそれさえもない。
 万里は勘違いをしていた。

 彼は女や仕事に対して興味がないんじゃない。
 自分に対しても、自分の生に対しても、いいやおそらく、この世のすべてに対して、まったく興味がないのだ。
 その顔には、怒りもない、恐れもない、愉悦もない。だからこそ残酷な。
 だからこそ、怖い。

「……面倒なんだ」
 こんな時でさえ、彼は何も変わらなかった。
 心底、ぞっとした。
 チンピラが意味不明な言葉を叫んでいるのに、その声も耳に入らないように、彼は足で押さえつけた腕を手に取った。そこらにある棒切れを取るのと、なんら変わらない仕草で、感情のない瞳で。
 そして迷いもなく、躊躇もなく、あっさりと、彼はその腕をぐいと持ち上げた。本来、腕が曲がる方とは、逆方向に。
 ぼき、と骨の折れる不気味な音がして、チンピラの絶叫が路地裏に響き渡る。通りにも聞こえるくらいの大きな声だったが、バーやソープやキャバクラが立ち並ぶこの界隈では、誰一人としてこちらに注意を向ける者もない。知らん顔で客引きを続けたり、厄介ごとは御免だとばかりに店の中に入ってしまうだけだ。
 自分の腕を押さえてのたうちまわるチンピラを放って、彼はさっさと立ち上がり、歩き出した。乱れのない歩調ですたすたとこちらに向かって歩く彼を目に入れて、万里は震えあがって身動きも出来ない。
 路地を出る手前で、ぺっと口の中の血を吐き出したが、足を動かす以外に彼がしたのはそれだけだった。
 歩みも止めず、万里に声をかけるどころか、一瞥を向けることさえしなかった。
 彼はそのまま、雑踏の中に姿を消した。



 それきり、万里は彼に会うことはなかった。
 噂によると、そのバーは辞めて、他の店に移ったらしいということだ。クビになったのか、自分から辞めていったのかも、定かではない。
 ……ただ、その店で彼が使っていたロッカーからは、女たちが渡したたくさんのプレゼントの包みが、すべてそっくり残されていたのだという。
 ただのひとつも、封を切らないまま。


          ***


 もう、何年も前の話だ。
 万里は現在、三十に近い年齢になった。
 そして、とあるバーで、バーテンをしている彼を見つけた。



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