猫の手貸します

case by case.2

便利屋はBARにいる(2)




 一瞬、息が止まりそうになった。
 はじめての店ではない。確かこの店が開店したばかりの一年ほど前、一度だけ来たことがある。繁華街というわけではなく、そんなに大きな駅の近くというわけでもなく、高級マンションなどはあるが、ほぼ住宅街に囲まれた静かな場所に、ぽつんと建っているバー、というものに興味があって、好奇心混じりに覗きに来たことがあった。
 その時カウンターの中にいたのは、確かもっと年配の、いかにも人当たりのよさそうな穏やかな風貌のバーテンダーだったはず。
「いらっしゃいませ」
 ドアのすぐそばでぼうっと突っ立っている万里に、黒服をまとった彼は、グラスを拭きながらわずかに頭を下げてそう言った。見た目だけは、年月の経過をきちんと反映して完全に幼さが抜けているが、態度はあの頃とまったく変わらない、愛想のカケラもない無表情だった。
「お好きなお席にどうぞ」
 と声をかけられ、ようやく我に返り、うろたえながら店内を見回した。カウンター席以外にも、ボックス席がいくつかある。
 テーブルとテーブルの間は贅沢なくらいに空間が取られていて、観葉植物や花が飾られ、店内全体が落ち着いた雰囲気に包まれていた。だからなのか、そこにいるのは酒を楽しみながら和やかに談笑している客ばかりで、酒場というのに静かなものだった。以前来た時も思ったが、ホテルの最上階にあるような趣のバーである。かつて彼が勤めていたような場末の小さなバーとは、まったくの別物だ。
 少し迷ってから、カウンターの端に腰かけた。
 ボックス席の方にも何組かの客はいたが、カウンターにも先客がいた。L字型のカウンターの、万里が座ったところとは対角になるような位置に座っていたのは三人組の客だった。
 どことなく貧相な中年男二人と、学生のような若い女の子、という奇妙な組み合わせ。
「ご注文は」
 慣れた仕草で、長い指がテーブルの上を滑らせるようにコースターを置く。
 ほんの束の間、目が合ったけれど、彼の表情にはまるで何の変化もない。目も眉も、万里の顔を見ても、まったく反応を示さなかった。忘れているのか──。いや、あれから何年も経っているのだから、忘れているに決まっている。万里の外見だって、数年分の時間が上乗せされているのだし。
「え、と、じゃあ、ギムレット」
 適当にぱっと思いついただけの、ジンベースのカクテルを注文すると、承知しました、という返事があった。この素っ気ない言い方はあの頃と同じだと思うと、ふうっと意識が数年前に引き戻されそうになって、くらりとした。
 タイムスリップでもしたかのような気分になる。
 思わず、不破君、と呼びかけそうになった。

 ねえ、あたしのこと覚えてる?

 その言葉が外に出る前で止まったのは、カウンターの向こう端に座っていた中年の男性客が、はしゃいだような声を上げたからだ。
「そういえばね時子君、ハードボイルド小説の中の有名な台詞に、『ギムレットには早すぎる』 っていうのがあってね」
「ああ、『生きるべきか死ぬべきか、それが問題だ』 ってやつですか」
「ハムレットじゃなくて、ギムレット! 時子君さっきからコーラしか飲んでないのに、なんでそんな酔っぱらいみたいなこと言ってんのさ」
「なんで私がコーラしか飲んでいないのかというと、あそこにいるバーテンさんが私の注文を片っ端から無視してコーラしか出してくれないからです。もう私のお腹は炭酸ばっかりではちきれそうですよ」
「それは君が強いカクテルばっかり注文するから……。マティーニとかいきなり注文したら、そりゃ不破君じゃなくたって止めるよ」
「だって私もうハタチですもん。大人がお酒飲んで何が悪いんですか。バーテンさん、マルガリータください」
「……。承知しました」
 シェイカーからギムレットを静かにグラスに注ぎ入れながら、彼はそう返事をしたが、そのグラスを万里の前に置いてから、次にグラスに入れたのはどう見てもマルガリータではなく牛乳だった。
「よかったねえ、時子君。今度は炭酸じゃないよ」
「…………」
 宥めるように中年男が言ったが、女の子はむっとした顔で目の前の真っ白い液体を睨みつけている。
 それから、くるりともう片方の中年男を振り向いた。
「どうなんですか、オーナーさん、こういうの。客の意志がないがしろにされてますよ。プロであるからには、公私混同はすべきじゃないと思うんですけど。せめてカルーアミルクくらいは出してくれたっていいと思いませんか」
「そうだねえ」
 もう一方の中年男のほうは、どこか余裕のある態度で、にこにこと笑って女の子に同意した。中年男二人はどちらも背広姿だったが、着ているものの質が悲しいくらいに違う。オーナー、と呼ばれているところからして、この男があとの二人の雇い主ということなのだろうか。
「私のイメージに合うようなカクテルを作ってください、ってお願いしないだけ、私は節度を弁えた客ですよ。なのにこの扱いはどうなんですか。カンパリすら飲ませてもらえないって、バーとしての存在意義の危機ですよ。ここはもう、ビシッと叱るとか、給料を減らすとかしたほうがいいんじゃないですか」
「そうだねえ」
「ちょ、時子君、余計なこと言わないで! 不破君への報酬が減らされるってことは、それだけうちの事務所の売り上げが減るってことなんだからね!」
「私は別に構いませんけど」
「僕が構うの! 言っとくけど、売り上げ減は、不破君の給料にも時子君の時給にも直接関係のあることなんだよ!」
「これ以上減ったら、それはもう時給じゃなくて、オジサンから貰うお小遣いですね」
「なんか胡散臭い言い回し!」
 中年男と女の子の漫才のようなやり取りに、高級な背広の中年が顔を俯かせて肩を震わせ、くつくつと笑い続けている。グラスに口をつけながら、聞こえてくる会話をなんとなく耳で拾っていた万里は、まったく意味が判らなくて混乱するばかりだ。この三人は一体どういう関係で、彼とはどんな繋がりがあるのだろう?
 あの女の子は、彼の妹か何かなのだろうか。
 いや、まさか。

 ……「家族」 のある男が、あんな人間になるとは思えない。

「それにしても時子君は、意外とカクテルの種類を知ってるんだねえ。つい最近まで未成年だったはずなのにねえ」
「…………」
 オーナーと呼ばれた人物ににこやかに指摘され、女の子のよく動く口は、そこで一旦、ぴたりと停止した。
 その代わり、カウンターの中にいた彼の唇がかすかに動く。憮然とした顔つきで、声はほとんど漏れなかったものの、どうやら、「まったくだ、なんでだ」 と呟いているらしい。
「世の中のことで、私に知らないことはあんまりないんですよ」
 女の子はものすごく大風呂敷を広げたことを堂々と言ったが、視線は明後日の方向へ飛んでいた。
 中年男二人が、目を見交わしてにやりとする。
「そりゃまあ時子君だって大学生なんだし、付き合いくらいはいろいろとあるよね、コンパとかコンパとかコンパとか。不破君の知らないところで」
「そうだよねえ。僕もよく知らないけど、若者には若者の付き合いがあるらしいからね。合コンとか合コンとかね。不破君には言わないところで」
「ちょっとやめてくださいよ二人とも、人聞きの悪い。合コンは行ってませんよ」
「へえ……合コン 『は』?」
 ぼそりとした彼の呟きは今度ははっきりとした声になっていたが、女の子はそれをつるっと無視した。
「そういえば、ここ、ホステスさんはいないんですか?」
 と、まったくなんでもない顔で、唐突に関係ない話を振る。中年男たちは慣れているのか、戸惑いもせずにころりとその話題転換に乗っかった。カウンターの中で一人、彼だけが仏頂面だ。
「時子君、ホステスさんが接客するような店は、普通、クラブって呼ばれるんだよ。バーは純粋にお酒を楽しむための場所。だからハードボイルドでも出てくるのはバーばかりでしょ」
「へえー、そうなんですか。ハードボイルドはどうでもいいですが」
 女の子は素直に感心している。カクテルのことくらいは知っていても、酒場の種類も知らないあたり、本当に普段はこういう商売とは縁遠い生活を送っているのだろう。彼女がまとっている空気は、健全な堅気そのものだ。万里からすると、あまりにも世界の違いすぎる人種としか思えない。

 ……自分にもこんな時があっただろうか、と一生懸命考えてみたけれど、どうしても思い出すことが出来なかった。

「まあ、でも今はいろいろだからねえ。バーっていっても種類が多すぎて、僕でさえ何がなんだかわからないくらいだよ。昔はもっと単純だったんだけどねえ」
 高級背広を着た中年男はそう言って、なんとなく自嘲気味に笑った。こちらは、女の子と違い、万里とよく馴染んだ匂いがするなと思った。
「ああ、今は、ガールズバーとか、メイドバーとか、いろいろあるらしいですもんね」
「そういう余計な知識はあるんだね、時子君」
「はは、時子君くらい会話が上手なら、そういう場所でも充分働け……いや、うん、冗談。冗談だから。怖い目で睨むのやめてくれるかな、不破君」
 いつの間にか、彼は三人組の真ん前に立ち、とんとんと黒い革靴で包まれたつま先で床を叩いていた。万里のところからは背中しか見えないが、中年男たちの表情からして、顔つきで威嚇しているらしいことが窺える。
「……所長、そろそろ」
 と彼に抑えた声音で言われて、さっきからハードボイルドを主張し続けている方の中年男が慌てたように何度もうんうんと頷いた。
 この男が所長?
「そ、そうだよね。そろそろ帰ろうか、時子君、ね?」
「だってまだお酒一口も飲んでない……」
 女の子は口を尖らせて不平を言っている。
「コーラと牛乳それだけ飲んだらもうお腹一杯でしょ。不破君の仕事の邪魔になるし」
「私たちは私たちで楽しんでいますから、お構いなく、バーテンさん。こちらは気にせず、どうぞお仕事に励んでください」
「…………」
 女の子にあっさりと言われ、彼は無言のままだ。相変わらず万里からは顔は見えないのだが、少しだけさっきよりも肩が下がったような気がした。
「……いつまで根に持ってんだ」
 ぼそぼそと聞こえてくる声は低い。女の子はわざとらしいくらいにきょとんとした。
「根に持ってる? 私が? まーさーかー。別にいいのよ、お仕事だもん。急病になったバーテンさんの代わりをオーナーさんに頼まれて、受けたのは所長でしょ。なんでそれを私に黙ってんのかな、って思ったけど、怒ってなんてないわよ、全然。仕事だもんね」
「…………」
「言っとくけど、僕が喋ったんじゃないからね、不破君。君に口止めされたから、僕、ちゃんと時子君には内緒にしてたんだからね。バラしたのはオーナーだよ」
「…………」
「いやあー、ごめんごめん、まさか不破君がこの件について時子君には内緒にしてるなんて思いもしなくて、訊ねられるまま、話しちゃったんだよー。まさかそんなことを黙ってるとは思わなくてねえー、あっはっは」
「…………」
「ぜーんぜん、怒ってないのよ。普通に話してくれれば私だって、こんな風に予告もなく所長とオーナーさんと一緒に店に来る、なんてことはしなかったと思うけど。でもそれは別に、怒ったからってわけじゃないのよ。うん、ホントにね」
「…………」
「ここは素直に謝った方がいいんじゃないかなあー、不破君」
「男は潔さが肝心だよねえー、不破君」
「…………。なんで、俺が」
「そうよね。そんなもう、謝る必要なんて全然ないのよ、バーテンさん。お仕事だもんね。ここに来て欲しくないなら、それはそれで言ってくれればいいのにって思うけど。そんなことすら話す手間も省こうとするなんて、ちょっとどうかと思うけどね。黙ってなきゃ、私だって、こんな風にバーテン姿を隠し撮りなんてしなかったと思うけど、それは怒ってるからじゃないのよ、別に」
 と、テーブルの上に出されたスマホを見て、彼の後ろ姿が固まった。
 中年男二人が興味津々でスマホを覗き込む。二人とも完全に、無責任に面白がる顔をしていた。
「うわー、時子君、いつの間に隠し撮りなんて」
「さっきトイレに行った帰りに」
「いやー、最近の携帯はよく出来てるねえ。男前がばっちり映ってる。で、時子君、この写真どうするんだい?」
「そりゃもちろん、等身大のパネルにして、事務所の壁にどーんと貼り付けてですね」
「俺が悪かった」
 女の子の言葉を遮るように、速攻で彼が謝った。
 ここでもう我慢がならなくなって、万里は思わず、噴き出してしまった。
 彼と三人組に一斉に振り向かれ、慌てて口に手を当て頭を下げる。
「ご、ごめんなさい。楽しそうに話してるのが聞こえて、つい」
 口をついて出た言い訳に、三人は揃って笑みを零した。一人は照れたように、一人は大人の分別とともに、そしてもう一人は、朗らかににっこりと。
 彼だけは笑わなかったけれど、三人は誰一人としてそれを気にかけるようでもない。
「いやあ、すみません、騒々しくして」
「お一人で静かにお酒を楽しんでいらっしゃるのに、申しわけない」
「私たちもう出ますから、これからゆっくりしていってくださいね」
 女の子はそう言うと、カウンターチェアから立ち上がった。
「……帰るのか?」
 帰って欲しそうだったのに、実際に女の子が帰ろうとすると、彼は少し複雑な表情になった。うん、と頷いて、女の子が笑顔で手を振る。
「じゃあ、お仕事頑張ってね、環君」
 グラスにかけていた万里の指が、ぴくりと揺れた。

 ──環、というのか、彼の名前は。

 そんなことさえ、万里は知らなかった。
 あの頃の万里には、彼の下の名を知ろうという気もなかった、ということだ。
「……ああ」
 彼は一言だけそう返事をしてから、少し上体を傾けた。
 カウンター越しに、女の子の耳に何かを囁く。女の子が、ちょっと目を瞬いて、それから思わずというように噴き出した。
 笑いながら小声で返事をする女の子の顔は、はっきりと恋する女のそれになっていた。こうなるともう、実際の年齢なんて関係ない。万里から見ても、その場にいるのは立派に一人の女だった。
 それで判った。妹、なんかではない。彼女はれっきとした彼の恋人なのだ。
 彼がゆるりと目許を緩めて微笑する。
「…………」

 ああ、そうか。
 そういう顔を、するようになったのか。
 彼はそんな表情を、自分が守るべき女の子に向けるような人になっていたのか。
 数年という年月の間に。

 賑やかな三人組が店を出て行くと、カウンターはひどく静かになった。
「もう一杯、同じもの頂戴」
 と万里が頼むと、彼はまた最初の無表情に戻り、承知しました、と返事をした。あの優しい顔は、どうやら彼女限定で向けられるものらしい。
 ちょっと悔しい気もするが、しょうがない。
 ジンのボトルの蓋を開ける長い指をぼんやりと見つめる。この店のギムレットは甘味が抑え目だ。本来のここのバーテンの作り方がそうなのか、そのあたりは彼に任せられているのか、どちらなのだろう。昔、彼に作ってもらったカクテルの味を思い出そうとしたけれど、徒労に終わった。そもそも、あの頃の万里には、酒の味なんて、ほとんど判ってはいなかったのだ。
「……ねえ」
 コースターの上にグラスが乗せられた時を狙って、なんでもないように問いかけた。
「このあたりで、いちばん夜景が綺麗に見えるビルって、どれかしらね?」
 彼は少しだけ眉を寄せたように見えたが、気のせいだったかもしれない。



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