銀河の生きもの係

中学生編

10.厄災満載体育祭 (後編)



 体育祭当日の昼食は、教室に戻ってお弁当を食べることになっている。
 各自の椅子は校庭に運び出してあるので、机をすべて隅に押しやって、床にシートを敷いて食べるのである。それがなんとなくピクニック気分なのと、祭りの途中でみんな少し興奮していることもあり、教室中はいつもの数倍は賑やかに盛り上がっていた。
 史緒もそうだ。一緒に食べている瑠佳に向かって、ずーっとぺらぺらと喋りまくった。お弁当のおかずをポイポイと口に放り込みながら、それを上回るスピードで舌も動かした。
 話題は卯月のことから最近話題のアニメのこと、近所で起きた出来事から近頃の世界情勢、過去のことと未来のこと、脈絡なんてあったもんじゃない。とにかく思いついたことを端から端まで、オタクの父に鍛え上げられた弁舌で、瑠佳が口を挟む隙もないほどに話し続けた。
「あの……フミ、ちゃん?」
 最初目を丸くして、ただひたすら聞き役に徹していた瑠佳は、そのうちだんだん心配そうな表情になってきて、気遣うように史緒の顔を覗き込んだ。
「あの、どうかした?」
「どうかって?」
 間を置かず無表情で問い返す史緒に、瑠佳が戸惑ったように眉を下げる。
「何かあったんじゃない?」
「なんにもないよ、まったく全然これっぽっちも」
「そ……そう」
 瑠佳は困った顔で曖昧に言って、うろうろと視線を教室内に彷徨わせた。どこにどう話題を見つけたものか迷っているらしい。
「えと、そういえば、高遠君はすごい活躍だったね」
 ぴた、と史緒の手が止まる。
「高遠?」
「うん、おかげで赤ブロックの優勝はほぼ確実だって……」
「誰、それ」
「え」
「瑠佳の知り合い?」
「え、あの、フミちゃん、高遠君……」
「わたし、そんな人、ぜんぜん知らないし」
「…………」
 瑠佳はそれ以上なにも言わなかった。


          ***


 午後の最初の種目は、二年生の全体競技である騎馬戦だ。
 四人一組で、一人が騎手、三人が馬になる。それの一クラス分が一チーム。男女別に分かれて戦い、頭のハチマキを奪われた騎手は、その時点ですみやかに馬から降りる。最後まで生き残った騎馬の多いチームから点数が与えられる。ルールはごくごく単純明快。
 まずは男子から競技が行われるのだが、大本命はもちろん高遠が騎乗する馬だ。普通は背が低かったり体重が軽い人間が騎手になるものだから、そんなところとは無縁の理由で選ばれた高遠は、他の騎馬と比べると明らかに抜きんでて目立っていた。騎馬戦はみんな裸足になって行われるので、滅多に晒されることのない王子のサラリと長い素足に、女子たちの視線は釘付けである。
 対抗馬としては、サッカー部のキャプテンを務める田中君が馬になっているところか。こういうことが根っから好きらしい田中君は、めちゃくちゃ張り切った顔で他の馬に檄を飛ばしたり、騎手に向かってあれこれと作戦を伝えたりしている。てめえ簡単にハチマキ取られやがったりしたら後でシメんぞ、高遠にだけは負けんなよ絶対だぞ、などと脅しているものだから、気の毒に、騎手は始まる前から泣きそうだ。
 大穴は、一組の四人組。これといって運動神経の優れた人はいない騎馬だが、馬がなぜか全員柔道部。騎手は学年でいちばん背の低い男子。バランスがとれているんだかとれていないんだか判らないが、意外と強いのではないかという評判である。だってちょっとやそっとじゃ馬が壊れそうにないし、ねえ。
 女子のほとんどは高遠にばかり目が行っているが、全体としてはなかなか面白そうな組み合わせで、騎馬戦は開始された。
 猪突猛進で突っ込む田中君の騎馬や、他を跳ね飛ばすような勢いの柔道部の騎馬を尻目に、高遠の騎馬はえらく優雅な動きで周囲を巡っては、長いリーチを活かして後方からひょいひょいと他のハチマキを奪い取っていく。「君、次はあっちへ行ってくれたまえ」 とでもいうように馬に指図している高遠に、大きな歓声が沸き上がった。
 ちょっと落ち着いて見てみれば、やっている戦略はけっこうセコいのだが。


「ねー、塚原さん」
 そんな中、史緒は隣のクラスの女の子に話しかけられた。
 男子の競技中、女子は後方で座って応援しながら待機することになっている。ざらっとした砂の感触と、伝わってくる生温かさに早くもうんざりしていた史緒に、彼女はくすくすと意味ありげな笑いを向けてきた。
「…………」
 女の子のこういう笑い方とこういう目つきは、言葉にすると、「いい気になってんじゃねえぞお前なんかいつでもやっつけられるんだからな」 というのと大差ない (と史緒は思っている)。こんな時、空気中には女子同士にしか伝わらない独特の成分がねっとり流れ、そこかしこでピリピリと不穏な静電気が弾け飛んでいる。あくまで目には見えないので、男子には永遠に判らないと思うけど。
「なに?」
 メガネちゃんの忠告を思い出し、ますますうんざりが募っていくのを我慢して、史緒はなんでもないように応じた。内心は、ああもう面倒くせえ、という不満でいっぱいだ。後ろで瑠佳がハラハラと見ているようだったが、そちらは振り返らないようにした。
「アキラ君と喧嘩してるって、ホント?」
 周りの女子たちの耳が一斉にこっちを向いたのが感じられた。それには気づかないフリをして、史緒はとぼけて首を捻る。
「アキラ君ってのは誰のことかな」
「ええー、なに言ってんの、アキラ君でしょ。高遠君とはずっと仲良かったじゃない?」
「ああ、高遠君ね。別に喧嘩もしてないし、ずっと仲良くもしてないよ」
「ええー、でもおー」
 彼女はくすくす笑ったまま、すぐそばにいる仲間たちと顔を見合わせた。
「よく一緒にいたのに、最近は違うじゃない? どうしたの? 嫌われちゃった?」
 そう言って、気を合わせたように数人が可笑しそうに噴き出した。やっだーそんなハッキリ言っちゃ可哀想ー、とか、ねえ何して嫌われたか聞いてみなよー、とかの声があちこちで漏れてくる。どれもこれも、楽しく獲物をいたぶる口調だった。
 くすくすくすという途切れることない笑い声。同情と、憐みと、いい気味だ、という視線が向かってくる。
「…………」
 史緒は黙ってその様子を見ていた。
 しばらくして、口元に薄っすらと笑いを浮かべた。
 面倒くさいことは大嫌いだ。高遠について一方的にあれこれ言われるのだって慣れているから気にしない。いちいち相手をしているよりは無視をしていた方が断然楽に決まっている。そうだ、いつもはそれで済ませていたし、問題もなかった。
 ……が。
 史緒だって、いつもいつも太平楽な性格を保持していられるわけではないのである。思春期真っ只中の中学生なのだから、ちょっとしたことが非常に癇に障ってしまうことだってあるのである。極度の面倒くさがりという性質が大部分を占めている史緒の人間性の中で、たまに覗くものすごく短気で勝気な部分が、全面的に表に出てしまうことが止められない場合だってあるのである。
 自分でもわけの判らない苛々を持て余している時に、地雷の上でスキップするようなことをされて、ぷつんとキレてしまったりすることも、あるのである。

 よっしゃ、その喧嘩、買った!

「──で、それが何か?」
「は?」
 静かに問いかけると、女の子の笑いが引っ込んだ。史緒の顔を見て、なんか変なスイッチを押してしまったらしい、ということに気づいたようだ。
 しかし史緒はそれには構わない。すうっと息を吸って、吐くと同時に言葉を一気に吐き出した。
「別に喧嘩はしてないけどたとえば実際に高遠君とわたしが喧嘩をしてるとして、それはあくまでわたしと高遠君の問題だと思うんだけど違うの? 他の人があれこれ口を出してくるようなことじゃなければ、ましてやへらへら笑ってからかいの種にするようなことじゃないとも思うけどその件についてどう考えてるのか聞いてもいい? そうやって笑うことによって優越感を持とうとしてるらしいけどその優越感は何がどう勝ったということなのか、ちょっと冷静に考えてみたほうがいいんじゃないかな。わたしと高遠君の仲は全然まったく良くなんてないけどたとえばそれが今よりも悪くなったとして、それはイコール高遠君と自分が仲良くなれるってことではないでしょ、だったらその優越感は勝利ではなくてただ単にざまあみろ的な気持ちから来てるってことだよね、それって自分的にはどうなの虚しくないのホントに楽しいの? そうやって笑う前に、とりあえず自分自身の内面をじっくりと見つめて自我とか意識とか観念とかどこからどうして今の気持ちが発生しているのかもう一度考えてみたらどう? その上で理屈を立てて攻撃してくるのならいつでも相手になるけどやる?」
 それだけを怒涛のように言い切ると、あっという間に周りが静かになった。相手の女の子も、その仲間たちも、周りで見物に徹していた女子たちも、ぴたりと黙り込む。
 あー、すっとした。
 その時、競技終了を告げるピストルの音が鳴った。
 男子の騎馬戦は、下馬評通り、高遠組の圧倒的勝利に終わっていた。柔道部組はなんとか残っていたが騎手がよれよれ、田中組の騎手は途中で落馬したらしく、田中君は機嫌悪そうにふてくされていた。


          ***


 ……もちろん、史緒とて、自分の行動が正しかっただなんて思っちゃいない。
 むしろ、どちらかといえば、最悪の対応だったと言ってもいい。ちょっとした意地の悪さから言葉をかけてきた相手に、全力でやり返すなんてことは、しちゃいけなかった。知らんぷりしていればそのまま素通り出来ていたものを、正論に見えてその実かなり露骨に皮肉ってバカにした言葉を返したのでは、向こうの怒りを数十倍に増幅させるだけである。残念ながら、言い負かしたほうが勝ち、などという単純な図式は、もう中学生には当てはまらないのだ。
 でもしょうがないじゃないか、やっちゃったもんは。どうしても黙っていられなかったんだから、後悔はしていない。
 ……と、思ったものの、女子の競技がはじまって、さっきの相手から執拗な攻勢をかけられた時には、やっぱりちょっぴり後悔した。だって鬼のような顔してこっちに手を伸ばしてくるんだもん。怖いよ!
 伸ばす先は、もうすでにハチマキなんかじゃない。髪を引っ張られ、肩を押され、目潰しまでかけられそうになっては、史緒も自分を守るのが精一杯だ。後ろが手薄になっていると思われたのか、それとも同じく史緒の存在が目障りだからこの機会にちょっと痛い思いをさせてやれと思われたのか、次々に他の騎馬からも狙われる。終いには、数騎対一騎、というよりは、一騎集中攻撃、のようになって、観客からもざわめきが出るほどだった。
「おい、お前ら、いい加減にしろよ! なにやってんだ! そんなもん騎馬戦じゃなくてただのイジメだろうが!」
 男子の中からそんな怒声までが飛んできた。この声、田中君だなと思ったが、史緒はもうそちらに顔を向ける余裕もない。いっそハチマキを取られたほうがこれを終わらせられるんじゃないかという気がするものの、頭をガードしていないと引っかかれたり殴られたりするため、なかなかハチマキが外れない。
「あっ!」
 もみくちゃにされて、馬の一人が足でも踏まれたのか、悲鳴を上げた。
 馬同士で握っていた手が離れ、史緒の身体を支えていた手も離れる。バランスが崩れた。あ、これ、落ちる、と思った瞬間、最後の一押しとばかりに、背中を思いきり突き飛ばされた。
 史緒は勢いよく、頭から地面に落っこちた。


 一瞬、意識が飛んだらしい。
 ふっと気がついたら、周りがしんとしていた。土煙だけが残る中、あれだけ激しかった動きも止まっている。騎馬戦の選手たちばかりだけでなく、後方で見ている男子たちも、それどころか観客席までもが沈黙に包まれているではないか。
 なに……?
 地面に倒れたまま、痛む頭を手で押さえたら、にちゃっとした嫌な感触があった。
「え」
 慌てて掌を目の前にかざしてみると、真っ赤なものがべったりと付着している。ウソでしょ、とまた気が遠くなりそうになった。
 流血してるじゃん。しかもなんかえらく大量に出ちゃってるじゃん。こめかみにつつーっと液体が流れてる感じがするの、ぜんぶ血ってことじゃん。頭打って出血ってこれ戦闘アニメの典型的死亡パターンじゃん。
 混乱のあまりじゃん語を乱発して、くらくらする。そりゃ喧騒も止むはずだ。凍りついたように立ち尽くす女の子たちの顔が、どれも蒼白になっている。
 先生たちがグラウンドの外から慌てて駆け寄る足音がした。こんな風に学校中に注目されるのは、史緒がもっとも避けたいことである。とりあえず上体を起こそうと思ってふらふら手をついたら、
「動くな」
 という落ち着いた制止の声がかかった。
「頭を打って、もともと少ないまともな思考能力を失ってしまったのか。こんな状態で動こうとするのがどんなに愚かなことか、いくら圧倒的に脳味噌の足りない君だって判りそうなものだ」
 そう言って、上から覗き込んできたのは、高遠だった。
「…………」

 いつもと変わらない口調、いつもと変わらない見下し発言、いつもと変わらない整った顔。

 青い空を背景にそれが目に入った瞬間、史緒は痛みも流血も忘れて、ぶん殴りそうになった。
 このアホが!
「よくもあんな無様で滑稽な落ち方が出来るものだな。僕はてっきり君が曲芸でも始めるのかと思った。猿やオットセイだって、あれよりは綺麗な動きをする」
 平然とした顔で、ムカつくことをずけずけと言い続ける高遠は、地面に片膝をついて、じっと史緒の頭から足のほうまでを観察するように眺めている。史緒からだと、太陽を背にした高遠の顔は影に覆われてよく見えない。額に巻いた真っ赤なハチマキが、風になびいてさらりと空中に流れていた。
「疫病神のくせに、正義の味方みたいに……」
 思わずぶつぶつと文句を言うと、高遠が首を傾げた。
「何を言ってる。それはうわ言か? 意味不明なことを言いだすのは危険な兆候だぞ。意識が混濁している様子はないと思ったが……吐き気はないか? 自分の名前を言ってみろ」
「塚原史緒十四歳天漢中学校二年四組好きな食べ物はアイス嫌いな食べ物はしいたけ」
「よし」
 高遠は頷くと、史緒の身体の下に両腕を差し入れて、そのまま軽々と持ち上げた。
 観客席から、キャーッ!! という大音響の叫び声が噴出する。
 周りの二年女子たちは、かえって毒気を抜かれたように、全員揃ってぽかんとしていた。ただただ、ぼーっと魂が宙に浮いたように高遠と史緒を見ているだけである。その中にはちらっと瑠佳と結衣ちゃんの姿も見えたが、そちらは、史緒を心配するような、どこかホッとしたような表情を浮かべているみたいだった。
「つ、塚原、大丈夫か? 担架に乗せたほうが……」
 今になって駆けつけた担任がオロオロして言ったが、高遠は素っ気なかった。
「僕が保健室まで運びます。先生方は生徒を静めて競技を続行させてください」
 この大地を轟かすような阿鼻叫喚を静めることは果たして可能なのか。しかもこの雰囲気の中、騎馬戦なんて再開できるものなのか。史緒を抱きあげてスタスタと歩いていく高遠は、そのあたりまったく興味がないらしく、後ろを振り返りもしなかった。
 群集にキャーキャー言われるのを背にして、二人で退場。
 どうだメガネちゃん、少女漫画風なベタな展開が、現実に起こることだってあるんだぞ。
 ちっとも嬉しくないけどね! いっそこのまま気絶したいくらいに恥ずかしいけどね!


          ***


 頭を打ったということで、史緒は病院に連れて行かれることになった。
 保健医の先生は、史緒の頭にガーゼを当てて、そのまま押さえていなさい、と指示をした後で、やれ病院に連絡だの、やれ親に連絡だの、やれ運ぶ車の手配だのと、忙しそうにこれからすることを数え上げては目を廻しそうになっていた。ちょっと待っててね! と怒鳴り、風のごとくドアを開けて飛び出して行ってしまう。
 保健室には、史緒と高遠だけが残された。
「ああまで慌てふためくなんて、緊急時のマニュアルが徹底されていないな」
 高遠は肩を竦めてそう言うと、勝手に消毒一式を取り出し、史緒の手当てを始めた。
 よくよく気づいてみれば、頭の怪我以外にも、膝と肘をすりむいていて、鏡を見たら頬にはやたらと大きな傷が出来ていた。これだと当分は痕になって残るだろう。ひょっとしたら一生消えないかもしれない。成分少なめとはいえ、女の子なのに。あーあ、パパが卒倒しそうだ。
「内出血はしていないようだし、大したことはないだろう。頭は血管が多いから出血量が多くなるが、命に関わるほどの傷じゃない。そうやって押さえていればじきに止まる」
 高遠は消毒綿を摘んだピンセットを動かしつつ、医者みたいなことを淡々と言った。
「なんで内出血してないって判るわけ」
「まず第一に」
「あ、なんかもういい」
 面倒くさい説明がはじまりそうなので遮った。高遠は一旦口を噤んだ後、下を向いたまま、再び静かに言葉を続けた。
「……でも、下手をすれば首の骨が折れている危険もあった。そうなったらさすがに僕でもどうしようもない。落ちるならもっと上手に落ちろ」
「そんな器用なこと出来ないよ」
「体育祭なんてただの学校行事だぞ。身体を動かし、協力する力を身につけさせたり、団結して連帯感を覚えさせるのが趣旨に過ぎない。そんなことで怪我をするなんてバカげているとは思わないか」
「思うよ。心の底から思うよ。大体、誰のせいでこんなことになったと……」
「誰のせい?」
 椅子に腰かけている史緒の膝の傷を消毒していた高遠が、きょとんとしたように視線を向ける。こちらを見返すその顔が、全然わかっていないのが腹立たしい。
「──……」
 ムカムカした。急に、胸が塞がったような気がした。息を吸おうとして余計に乱れた。なんでこいつ、何もなかったような顔してこんな風に話してるわけ?
 今まで、ずっと冷たかったくせに。
 ちっとも話しかけても、寄ってもこなかったくせに。
 歯を喰いしばる。いやダメだ。無理だ止められない。

 ぱた、と涙が落ちた。

 一粒落ちたら、あとはもう続けざまに出てきた。ぽたぽたぽたと目から零れる滴が、砂に汚れた体操服を濡らしていく。
 高遠が少し眉を寄せた。
「……痛むのか?」
「痛くない」
 ウソだ。痛い。頭も痛い。膝も、肘も、頬っぺたも痛い。
 心もだ。
「……っう」
 片手で頭のガーゼを押さえ、もう片手でぼろぼろ流れる涙を拭った。拭っても拭っても、ちっとも止まらない。頭の中に、ぱんぱんに何かが詰まったみたいだ。なんでわたしがこんな思いをしなきゃいけないの、という言葉が喉の手前まで出かかった。
 なんでこんなやつのために、痛い思いをしたり、悲しい思いをしたりしなきゃいけないの。
「……高遠のアホ」
「いきなり罵声か」
「い、いきなりはそっちじゃん。理由も言わないで、突然わたしを避けるようになったじゃん。なんか怒ってるなら、そう言えばいいのに。ちゃんと言ってくれれば、わた、わたしだって、考えるかもしれないのにさ。こっ、こんなやり方されて、なんとも思わないでいられると思ってんの?」
 誰だって、友達だと思っていた相手に、わけもなく冷淡にされたら、傷つくに決まっている。
 もしも瑠佳が、結衣ちゃんが、田中君が、ある日突然、史緒のことを透明人間のように扱ったら、ショックだし、悲しい。今まで普通にお喋りしていた人が、こちらを見向きもしなくなったら、寂しい。まったく好きでもなく嫌いでもない相手にはどう思われようが構わないが、大事な人たちに冷たくされたらつらい。そんなの、当たり前。当たり前のことではないか。
 どうして判らないんだ?
 しゃくり上げる史緒を見て、高遠はしばらく無言だった。
「──怒ってなんか、いない」
 やがて、ぽつりとそう言った。
「君が何かをしたという事実はない。あくまで僕は僕の個人的事情で、少し君と距離を置いていただけだ。君がそれをどう受け止めるかということまでは、考えが至らなかった」
「こ……個人的事情って、なに」
 史緒の問いに、また黙る。
 少しの間を置いてから、ゆっくり口を開いた。
「これからのことを想定してみて、僕は自分がどう行動すべきなのか、よく判らなくなったんだ。だから、ちょっと時間をかけて考えてみなければならないと判断した。君の言葉で迷いが生じたのだから、君と距離を置いて考えなければ、いつまでも結論は出ないままだと思って」
「わたしの言葉って?」
「……未来が楽しみだと言っただろう」
「?」
 今度きょとんとしたのは史緒のほうだ。高遠は珍しく苦々しい顔つきをしている。
「まあいい。それはあくまで僕の個人的事情だから。地球人が感情を基にして行動することを失念していたのは、確かに僕が迂闊だった。そのことと今のこの事態がどう関係しているのかはやや不明だが」
 そう言って、史緒の頬に手を伸ばして触れた。
「涙は目を消毒する役割があるとされているが、傷の消毒までするかどうかは疑問だぞ。沁みて痛くないか」
「痛いよ」
「まったく君は考えなしだ」
 ヤレヤレというような腹立たしい態度で首を振りながら、高遠の指が濡れた頬を撫でるようにするりと往復する。相変わらずひんやりとしていたが、気持ちよかった。気のせいか、ヒリヒリとした頬の傷の痛みが引いていく感じがする。
「……冷たくした覚えはない。君を傷つけたのなら悪かった。僕は、君が泣くのを見るのは、あまり好きじゃない」
「…………」
 すんと鼻を啜り、史緒は高遠を見た。生きもの係をやっていた時からこいつは全然何も変わっていないと思っていたが、これ以上水分を外に出すな、とは言わないようになっただけ、小学生の頃に比べて成長したらしい。
 そして自分も、今になってちょっと恥ずかしくなってきた。もう中学生になったのに、こんなことで泣くなんて。
 ごしごしと拳で涙を拭い取る。照れ隠しに、むっと唇を突きだし、高遠を真似てふんぞり返った。
「じゃ、今日の体育祭で絶対に赤ブロックを優勝させなよ。最優秀選手賞もね。それで許してあげるよ」
「僕が負けるわけないだろう」
 高遠がそう言って、意味が判らない、という顔をしたので、史緒はちょっと笑ってしまった。


 それから病院に連れて行かれて、みっちり頭部の検査をしたが、結果は異常なしということだった。
 かなり大きなものだったはずの頬の傷が、病院で診てもらった時にはすでにほぼ消えかかっていて、かすり傷だねと医者に言われたのが不思議といえば不思議だ。頭から流れる血と混同したのかな? まあ、痕も残らないということなので、結果的に大したことじゃないといえばそうなのだけれども。
 ──途中不参加となった体育祭で、赤ブロックと二年四組は天漢中学校の歴史に残るような大勝を果たし、高遠は堂々と最優秀選手賞を獲得したそうである。



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