銀河の生きもの係

高校生編

4.自由あるところに責任あり



 さて、試験も終わって、特にやることもなくなった一月下旬。
 天漢高校は、二月に行われる新たな行事のための、準備に入る。
 それは何かって? 「三年生お別れ会」 です。小学生でもないのになんじゃそりゃ、とお思いかもしれないが (史緒はそう思った)、あるのです、そういう行事が。
 これから大学生になったり専門学校生になったり社会人になったりフリーターや家事手伝いという名の遊び人になったりして、進路が散り散りになって別れゆく三年生たちのために、一年生と二年生の在校生たちが、そういう会を催すのである。そうして泣きながら別れを惜しんだり、賑やかに笑い合ったり、受験でお疲れの先輩たちに癒しを与えたりするのである。少なくとも教師はそう言っている。
 まったく、わけが判らない。
 大体、上級生と関わる機会なんて、普通、部活くらいしかないでしょう? 従って、部活に入っていない史緒には、別離を悲しんだり、新しい門出を祝いたい三年生など、一人もいない。個人的に親しい人もいなければ、名前を知っている人すらそうはいないのだ。そういう史緒にとって、お別れ会とは無意味な行事以外の何物でもないではないか。
 しかしまあ、意味があろうがなかろうが、学校行事として一年のはじめから決められている以上、参加しなければならないのは仕方ない、と割り切っているつもりでいた。部活以外のところで世話になった先輩や、憧れていた先輩との名残を惜しみたいと思う人がいるかもしれない、ということも理解していた。有志の劇やダンスやバンドなどを見て三年生たちが後輩の優しさにしんみりするかどうかはさておき、多少なり楽しくなれば、それはそれでよいことなのかもしれないとも思っていた。
 史緒とて別に、行事のいちいちに文句を言いたいわけではないのである。些細な疑問を追求していたら、学校生活など送っていられない。集団行動を乱すより、輪に混じって適当に合わせていたほうがずっと楽だ。白けた顔をして場の雰囲気を壊したりすることなく、大人しく椅子に座って静かに見て、みんなと一緒に拍手だって致しましょうとも。
 ……しかし。
 その行事のために、「実行委員」 なるものをクラスから一人選出しなくてはいけなくて、そんなかったるいもん誰もやりたくないないからってジャンケンで決めることになり、最後にパーを出してあっさり敗北してしまった日には、そんな行事を考え出したやつの首を締めたくなっても、無理はない、と思わない?
 ねえ、そう思うでしょ?
 というわけで、二年A組お別れ会実行委員、塚原史緒。
「あそこでグーを出していればこんな面倒なことにならずに済んだのにいいいー!」
 地団駄を踏んで絶叫し、「君は本当に小学生の時から進歩がないな」 と、心の底からしみじみとした口調で、高遠に言われたりする羽目になっているのだった。


          ***


 第一回目の実行委員会が、ようやく終わった。
 時計を見たら、すでに六時近くになっている。ウソでしょ、と史緒はげんなりした。
 委員会は、これからまだ数回予定されている。そのたびに、こんな時間まで居残りさせられるわけか。時間がかかったわりに、進行役が慣れていなくて段取りも悪く、仕事自体はほとんど進んでいない。この調子だと、追い込みの時期には、臨時の委員会まで召集されそうな予感がプンプンする。
 はあーっと大きなため息をつきながら、机の上に散らばった書類を片付けて椅子から立ち上がる。
 窓の外にちらっと目をやったら、もうどっぷりと暗かった。びゅうびゅうと冷たそうな風が、ガラスを叩くようにして吹きつけている。イヤだな、寒そうだな。
「うわっと」
 窓を見て眉を寄せていたら、すぐ近くから軽く声が上がった。
 ん? と顔を動かすと、男子生徒が書類をバラバラと床にぶちまけていた。揃えようとして、落としてしまったらしい。
 やれやれ。
 しょうがないので、拾うのを手伝って、ついでに順番に並べて手渡してやる。
「あ、どーもありがと」
 と礼を言う男子生徒に、どういたしましてと返してから、さっさと帰ろうと扉に向かったら、後ろから腕を掴まれた。
「待って待って。ねえ、ちょっと時間ある?」
「ううん、ない」
 すげなく言って足を動かそうとしたが、腕は離されなかった。史緒を引き留めている男子生徒が、はははと引き攣った笑い声を立てる。
「あのさ、そこは普通、なんで? とか、なあに? とか言うもんじゃないかな」
「そんなことを言うと、大体面倒なことを押しつけられるよね、普通」
「面倒じゃないよ、すぐ終わる」
「その言い方がすでに押しつけなんだけど」
「素直に手伝いをしてくれる女の子って可愛いと思うな」
「わたしは可愛いよりも楽をとる。じゃあ一人で頑張って」
「待って待って! 手伝ってくださいお願いします!」
 腕をぐいぐい引っ張って懇願された。
 彼を見て、ふー……と今度は深いため息を吐く。滅多にない親切心を出したらこれか。これからはもう二度と、床に落ちた書類は拾わないぞ、と史緒は決心した。
「……なに?」
「あのさ、見ての通り書類がバラバラのままだと大変じゃない? だから、ここにある次の委員会で渡す資料を、人数分に分けて、ホチキスで留めようと思うんだよね」
「うん、いいんじゃないかな」
 それは史緒も思っていたことだったので、賛同して頷く。
 実行委員会を仕切っているのは、生徒会役員ではなく、「自分たちの手でお別れ会を盛り上げたい!」 というやる気に燃えて立候補した、数人の一般生徒たちだ。しかし今ひとつ情熱が空廻っているというか、ところどころで手落ちや不備が目立つのである。委員会の最中、もうちょっとスムーズに進行できないかなあ、と思うこともたびたびだった。
「分けるの、手伝ってよ」
「ええー……」
 面倒だなあ、という顔と声を隠しもしないで渋ったのに、男子生徒はお構いなしで 「はいこれ」 とホチキスを史緒の手の中に押しつけてきた。
 こういうことをするのが幹部の仕事なんじゃないの? と思ったが、連中は教室の隅に固まって、今回の委員会の反省と今後の展望などを熱く語り合っている。もう遅いのに、この分だと追い出されるまで居残りそうだ。
 しょーがない、と史緒は肩を竦めた。あの真面目な顔つきを見たら、文句を言う気にもなれない。いろいろ抜けているけど、やる気はあるんだよなあ。
「じゃ、順番に一列に並べて、端から一枚ずつ取って渡して。わたしが揃えて留めるから」
「はいはい」
 軽く応じる男子生徒と一緒に、手早く書類を並べていく。
 簡潔な動作で綺麗にまとめた束をぱっぱと積み上げていく史緒を見て、男子生徒が感嘆するような声を出した。
「手際がいいねー」
「めんどくさいから」
「ごめん、会話の繋がりがよくわかんない」
 要するに、超がつくほどの面倒くさがりであるからこそ、与えられた仕事をどうこなすのがいちばん効率的か、ということを判断するのが得意なのである。面倒だから、とっとと片づけて早く帰りたい。やり直しで余計な時間を取られるのも御免だ。
「あんたみたいのが、人をまとめる仕事に向いてそうだけどね。今からでも幹部に名乗りを上げたら?」
「わたしが実行委員会のトップに立ったら、真っ先にこんなしょうもない行事を中止にするけど」
「いや、言ってることがよくわかんない」
 男子生徒はそう言ってから、ちょっと噴き出した。


 作業自体は、十分程度で終わった。
「思ってたよりずっと早く終わったなあ。ありがとね」
「どういたしまして。でももう手伝いはしないから、そこのところよく覚えておいてね」
 じゃ、と今度こそ出口に向かうと、「俺も帰ろー」 と男子生徒が上着に腕を通しながらついてきた。あれ? と後ろを振り返る。幹部の人たちはまだ侃々諤々と議論の真っ最中なのだが。
「あそこに入らなくていいの?」
「ん? なんで? 俺、ぜんぜん関係ないし」
 あっさり言われて驚いた。じゃあこの男の子は、幹部でもないのに、自主的にあんな地味な仕事を見つけてやっていたわけか。
 思わず、まじまじと相手の顔を見てしまう。
 これはあれか、ひょっとして、「善意の人」 というやつか。世のため人のためには自分の労を厭わない、という人種。つまり史緒とは別の世界に住む人間だ。
「だったらわたしを巻き込まないで、一人でコツコツ慈善活動に勤しんでればいいのに……」
「あんたって、いちいち反応が一般と違うよね。ここは、すごーい、とか、偉ーい、とか感心するところであって、そんな異物を見るような目を向けるところじゃないんだけど」
「感心されたかったのなら、次は別の人を誘うといいよ」
「ちがうちがう。そういうわけじゃないんだけどさ。……なんか、やりにくいよなあ」
 そう言ってから、ぶふっと噴き出して楽しそうに笑った。
「あのさ、俺、そもそも実行委員でもないんだ」
「は?」
 きょとんとして顔を見る。彼は、史緒と目を合わせてから、口許の笑みをイタズラめいたものに変えた。
「俺さあ、去年のお別れ会の、実行委員のリーダーだったんだよね」
「へ?」
 去年のお別れ会? リーダーは普通、その時の二年生が務めるはず。
「てことは、今、三年生?」
「そう。三年B組、水島ね。今年のリーダーやるやつがさ、どんな風に決めていっていいかさっぱり判らない、って言うもんで、ちょっと覗きに来たんだよ」
「ははあ……」
 それで黙って見学していたということか、と史緒は思う。去年のリーダーからしたら、あの進行にはいろいろと思うところもあっただろうが、とりあえず目に余るところだけを改善したと。
「だったら、なおさら、あの話し合いに加わって意見なり助言なりしたほうがいいのでは?」
 史緒がそう言うと、水島先輩はわずかに苦笑した。三年生だと知ってしまえば、確かに言動のあれこれに、多少、大人びた雰囲気を感じる。
 彼は後ろを振り返って、暗い廊下に明かりが漏れる教室の扉を見た。
「や、けど、あの場に三年生が出張っていくってのも、変な話だからね。あとでリーダーのやつにだけ、去年の経験を交えて話してやればいいかなと。……それに、いろいろ失敗とかを重ねながら、四苦八苦してなんとか進めていくってのが、こういうものの醍醐味じゃん?」
 なるほど、文化祭や体育祭のノリだな、と納得した。
 揉めたり、討論したり、励まし合ったり、汗を流したり、連帯感を深めたり。祭りが終わった後には、涙を流して手を取り、互いの労をねぎらって、輝かしい青春の一ページになったりするというアレ。
 史緒は、そういうのがものすごく苦手だ。
「……なんでそんな、『うんざり』 って顔してるんだろ。あんたってホントに面白いね」
 水島先輩は、くっくっくと喉の奥で笑いながら、お腹を片手で押さえて身体を折り曲げている。すみませんね、面白い後輩で。
「名前、なんていうの?」
「通りすがりの実行委員です」
「いや、名前聞いたからって、これからまた仕事を手伝わせようとか思ってないから。パシリにして便利に使おうとか思ってないから」
「……塚原です」
「塚原ちゃんね。よし、じゃあ、今日のお礼に、外の自販機で何か買ってあげるよ」
「そうですか。じゃ、ホットのミルクティー」
「うわ、一瞬も遠慮しないんだ。普通、こういう時は、ええーいいんですかあーやだ悪いいー、とか可愛く言ったりするもんなのに」
 すみませんね、可愛くない後輩で。
「水島先輩、ひとつ言っておきますけど」
「タメ口でいーよ。なに?」
「わたしは平凡で平均的で一般的な、ごくごく普通の女子高生です」
「…………」
 まっすぐ外の自販機を目指す史緒の隣を歩きながら、水島先輩はずっと笑い続けていた。


          ***


 ジャンケンで負けて面倒な仕事を振られてしまったとはいえ、実行委員会は毎日あるわけではない。当たり前だ、毎日あんなもんがあったら、史緒は多分登校拒否になる。
 翌日は何もなかったので、いつも通り、授業が終わってすぐに帰ることにした。
 ううーん、と思いきり伸びをしながら校門へと向かう。
 厄介な用事に煩わされることがなければ、窮屈な学校から解放される下校タイムは至福の時だ。グラウンドから流れてくる体育会系の部員たちの暑苦しいかけ声を耳に入れつつ、さっさと家に帰ってだらだらしようと思う。なんと気分のいいことか。
「君、さっさと家に帰ってだらだらしよう、と思ってるだろう。一体いつになったらその自堕落な生活態度を改めようという気になるんだ? 僕のこれまでの忠告は君の脳内のどこに納まっているのか、その頭を開いて調べてみたいという衝動に駆られるな。そんなことでは一年も経たずに身体上に問題が──」
 傍らを歩く高遠のうるさい説教も、寛大な気分で聞き流せる。自由って素晴らしい。
「人間って、何かに縛られることで、はじめて自由の喜びを知ることができるものなのかもしれないねえ」
 思わずそう漏らすと、高遠が、へえ、という顔をした。
「珍しく深いことを言うな。確かにその通りだ」
「でもわたしは常に自由でいたいから、誰か実行委員を代わってくれないかなって切望してるよ。高遠君、やらない?」
「誰がやるか。お別れ会などという行事自体はくだらないの一言に尽きるが、選ばれたからには任務を全うしろ。君に責任感というものはないのか」
「なにそれ、美味しいの?」
「今からみっちり講義してやるからよく聞け。いいか、責任というのは、自由な行為と選択に伴って必ず発生するもので、その両者は決して切り離せない関係にあるんだぞ。自由のないところに責任はなく、責任のないところに自由は」
「聞こえなーい」
 両方の耳を手で塞ぎ、あーと出していた声を、ぴたりと止めた。声を止めたついでに、動かしていた足も止める。
 門のところに、セーラー服の女の子が仁王立ちでいるところを見つけたからだ。

 ……またいるよ、あの子。

 メガネちゃんに負けないストーカーっぷりだな。ストーカーって、世の中にこうも蔓延しているものだっけ?
「あれは……」
 立ち止まった史緒の視線の先に目をやって、高遠が声を出した。
「覚えてる?」
「もちろんだ。以前、『付き合う』 の定義を述べた他校の生徒だろう」
「違うよ! いや違わないけど、その表現は間違ってるよ! せめて、高遠君に体当たり告白をしてきた女の子、って言いなよ!」
「何が違うのかよく判らない」
 ぶつぶつと言う高遠を置いて、史緒は一人すたすたと足を動かし、彼女の脇を通り過ぎようとした。もともとこの子の目的は高遠なのである。史緒には関係ない。
「ねえ、ちょっと!」
 が、やっぱりそういうわけにもいかないらしい。女の子に鋭く呼びつけられて、渋々足を止める。止まらないと、追いかけてきそうだ。なぜか史緒と同じように通り過ぎようとしていた高遠も、立ち止まってそちらを向いた。
「私、見たんだから!」
 はあ?
 いきなりの言葉に、史緒は目を瞬いた。この子は毎回言うことが唐突だな。なんですか、見たって。
 高遠の真顔が今度はこっちを向く。
「史緒、君、何か犯罪行為にでも手を染めたのか」
「やめてよ、人聞きの悪い。そんなめんどくさいこと、わたしがするわけないじゃん」
「甚だ情けない言い分だが、説得力はある」
「高遠君、騙されちゃだめ! この子、すっごく酷い子なんだから!」
「史緒は確かにバカだが、すっごく酷い、という表現に当てはまるかどうかは……」
「なに真面目に考え込んでんの?! バカなんて言われてないし!」
「大体、僕は君に騙されるほど愚かじゃない」
「へー、それはそれは」
「君、鼻で笑ってないか?」
「私、見たんだからね!」
 容姿に似合わず強心臓の持ち主である女の子は、史緒と高遠の阿呆らしいやり取りにもめげず、同じ台詞を繰り返して、びしりと人差し指を史緒に向かって突き立てた。

「この子、二股かけてるのよ! 昨日、別の男と夜道を仲良く歩いてたの、私、見ちゃったんだから!」

「…………」
 ああ、それね……。
 思い当たることはあるので、ぽりぽりと頭を掻いて、うーんと唸る。
 ……水島先輩には、自販機でミルクティーを奢ってもらっただけだし、あちらは電車、史緒は徒歩だから、少し一緒に歩いただけで、すぐに別れたんだけどね。
「ほら、言い返せないじゃない!」
 女の子は得意満面だ。鬼の首を獲ったかのよう、というのはこういう時に使うのだな、と史緒は感じ入った。なんというか、わかりやすすぎて、逆に憎めない子である。
 見張っていたのか偶然かは判らないが、史緒が水島先輩と歩いているのを見て、嬉々として高遠への報告と、史緒の断罪をしに来たのだろう。
 ──でもさ。
 この場合の最大の計算違いは、高遠はそんなことを聞いたところで、特に何も感じない、ということだと思うよ。
「まあ、事実だね」
 あっさり認めると、女の子は飛び跳ねるようにして喜んだ。
「やっぱり! 聞いた? 高遠君! 二股かけて開き直るなんてサイテー! そう思うでしょ?!」
「…………」
 高遠は史緒を見て、考えるように顎に手を当てている。
 どうせ、頭の中にあるのは、「二股の定義とは何か」 とか、その程度のことだろう。こうまで誤解だけで成り立った指摘に、どこからどう突っ込んでいいものか、もはや見当もつかない。史緒は断じて、二股とは何か、という説明をするつもりはないので、そのまま放置することにした。
 あーあ、せっかく平和に帰れると思ったのに……となにげなく顔を巡らせた、その時。
 視界に入ってきたものを見て、史緒はぴりっと全身を緊張させた。
 ──また、いる。

 ふんぞり返って史緒を糾弾する女の子の後方、学校の外。
 その人物は、電柱に寄り添うようにして、すらりと立っている。
 高い身長。長い黒髪。無感情な瞳。上がっているのに笑っていない唇。
 まったく人間の温かみを感じさせない美貌。

「っ!」
 気づいたら、地面を蹴って走り出していた。驚いたように目を見開く女の子にも、背後から訝しげに自分の名を呼ぶ高遠の声にも頓着しなかった。
 数歩進んだ時には、彼女の姿はすうっと電柱のすぐ脇の路地に消えていた。ほとんど空気を乱さない動き方は、まるで陽炎か何かのようだ。表情は何ひとつ変わりない。でも彼女の目は、確かに史緒のほうを向いていた。
 そのまま全速力で駆けたが、路地にはもう、誰の姿もなかった。
「…………」
 はあはあと肩で息をして、しんとした空虚さの漂うその場所を見つめる。
 後ろから、とんと肩を軽く叩かれ、びくっと身じろぎした。
「史緒?」
 高遠が顔を覗き込んでいる。深い息を吐き出して、力を抜いた。
「どうしたんだ? 何かあったのか?」
 どうやら高遠は、彼女を見なかったらしい。そうか、ちょうどあの時、史緒のほうに顔を向けていたからだ。女の子はそちらに背を向けていた。彼女の姿を目に入れたのは、また史緒だけだった、ということか。
 ほんの一瞬だったけど。
 でも、ちゃんと見た。間違いない。
 この間は、セーラー服を着ていた彼女。

 ……今日は、天漢高校の制服を着ていた。

「うん……なんでもない」
 高遠に、このことを言うつもりはなかった。信じてもらえないだろう、とか、目の錯覚だと一蹴されるだけだろう、とか、そんなことを思ったわけではないけれど。
 なんとなく。
 ……高遠には、言いたくない。
 高遠はこのことを知らなくてもいい、と強く湧き上がる感情がある。
 いいじゃないか。言うも自由、言わないも自由。だったらわたしは言わないほうを選ぶ。
 あとで、その責任が発生しても。
「顔色が悪い」
「そう? じゃ、早く帰ってだらだらしよう」
 ちょっと笑って足を動かした。わずかにふらついたところを、高遠の手に支えられる。
「──史緒」
「うん、なに?」
 半分くらいぼうっとしながら返事をする。そういえばと今になって思い出し、後ろを見たら、女の子は悔しそうに足踏みしていた。ほっといていいのかな、あれ。
「昨日一緒に歩いていた男って、誰だ?」
「え。ああ、三年の先輩。仕事の手伝いをしたら、自販機で飲み物奢ってくれた」
「……ふうん」
 高遠はそれだけ言って、黙ってしまった。


BACK   TOP   NEXT

Copyright (c) はな  All rights reserved.