銀河の生きもの係

高校生編

5.虚構の上の不規則ペンタゴン



 人の口に戸は立てられない。

「ちょっと史緒! アンタ、高遠と他の誰かで二股かけてるんだって?!」
 朝、普通に登校して、普通に教室に入り、普通に鞄を机の上に置いた途端、これである。
 ──わたしは一体いつになったら普通の人生を送れるようになるのかなあ。
 史緒は一瞬出家して俗世間から解放されたくなったが、一瞬後には考え直した。仏の道はそれはそれで大変そうだ。
「まあ、落ち着いて」
 険しい顔で詰め寄ってきた奈々子にそう声をかけ、空いている自分の前の席に座るよう勧める。それからやれやれと思いつつ自分も座り、改めて問題の整理から始めることにした。
「……で、なんだって?」
「なんだってじゃないのよ! なに堂々と開き直ってんのよ! そんなことより二股かけてる相手ってのは誰よ! あたし聞いてないんだけど!」
 そりゃそうだ。言ったことないもん。そういう事実がなけりゃ、そもそも言いようがないではないか。
「それ、誰に聞いたの?」
「誰にも何も、もうすっかりウワサになってるっつーの! 塚原さんの友達なのに何も知らないんだあ〜、って薄笑いを浮かべられたこの屈辱と腹立たしさ! きいいーっ、今思い出しても、あの顔ムカつく! わかる?! 史緒!」
 判らないではないが、その怒りをすべて史緒に向けられても困る。とりあえず、胸倉を引っ掴んでがくがくと揺すぶるのはやめてくんないかな。奈々子は体育会系女子だけあって、怒りの表明も行動も、かなりストレートなのだ。わかりやすい分怖くはないけど、呼吸困難になって死にそう。
「そのウワサって、どういう話になってんの?」
「だから、どっか余所の女が学校にまで押しかけてきて、史緒に向かって、二股かけたサイテー女、あたしの彼氏を返してよドロボー猫! って泣き喚いたんでしょ。それでアンタも泣きだしてその場から走り去ったのを高遠が追いかけて、今のは本当なのかって問い詰めたんでしょ。で、ウソだよそんなことないよわたしが好きなのは高遠君だけだよ! って弁明して抱きついて上手いこと言いくるめちゃったんでしょ」
「…………」
 待て待て待て。えらいことになっちゃってるぞ。なんなんだその修羅場。事実に当てはまっている部分は、余所の女の子が押しかけてきた、ってところと、史緒が走り出した、ってところしかないではないか。
 なるほどなあ。学校に来るまで、なんかやけに周囲にジロジロと見られてるような気はしたんだよね。つまり史緒は自分でも知らないうちに、二人の男を手玉にとって操縦する小悪魔になっていたわけだ。なんだそりゃ。もう笑うしかない。ははははははは。
「どういうことなのかきっちりみっちり説明してもらおうじゃないの!」
 鼻息荒く迫ってくる友人に、そりゃ史緒だって説明する気は十二分にある。しかし果たしてこの状態で、ちゃんと耳に入れてもらえるのかが疑問だ。まずは制服の襟元を締めつけている両手を外すところからはじめませんか。
「あのさあ……」
 史緒は話し出した。とりあえず手は離れたが、食いつくような奈々子の怖い顔は最初からちっとも変化ない。しみじみと、世の不条理さを呪いたくなる。
 だって、自分がしたことといえば、お別れ会の実行委員に選ばれて、真面目に委員会に出席して、そこで人の仕事の手伝いをして、その見返りに百円ちょっとの缶ジュースを奢ってもらったことくらいだよ? それがどうして、小悪魔になり、周囲から軽蔑めいた視線を投げられ、友人に殺されそうになって、せっかくの爽やかな朝を台無しにされなきゃなんないの?
 もう絶対、他人に親切になんてしてやんない。



 事のあらましをすべて話し終えると、奈々子はなんとか納得してくれたようだった。
「なによ、聞いた内容とぜんぜん違うじゃない」
 と言いながら、なぜどことなく残念そうな顔をしているのかは謎だが、ここは史緒の説明をすんなり信じてもらっただけでもよしとしなければならないだろう。まあ、奈々子もあの突撃セーラー服少女は、実際に自分の目で見ているわけだからね。
「缶ジュース一本が、なんでそんな大きな話になるのよ」
「あのね、波動砲はね、不安定な三次元空間がエネルギーの中にあってね、攻撃された対象は、周りの時空間が曲がったり歪んだりしてちょっと大変なことになって、どかんと大爆発して破壊されちゃうんだよ。それと同じ原理がウワサ話というものにも当てはまるんじゃないかと」
「なに言ってんのかわかんないんだけど。大丈夫? 史緒」
 大丈夫ではない。史緒だってこう見えて、いろいろと頭が混乱して、あらぬことを口走るくらいにショックは受けている。
 それが判ったのか、もうすっかり怒りを引っ込めた奈々子は、どこか心配そうな顔つきになって史緒を見た。
「とにかく誤解は早いうちに解いたほうがいいんじゃないの?」
 そんなこと言ったって、誤解ばかりで成り立っているその話の、どこをどう、解きほぐせばいいというのか。大体、相手があのセーラー服だけならともかく、不特定多数の人々にこの流れを納得させるなんて芸当、史緒には出来ない。出来たとしても、そんな面倒なことはしない。
「もういいよ。そのうち消えるよ」
「ノンキなこと言って……。今だって、ひそひそ悪口陰口叩かれてんのよ」
「慣れてるから気にしない」
「あんたはねえ……」
 はあーっ、と深いため息をついてから、奈々子は真面目な顔で眉を上げた。
「だったらせめて、その二股の言いがかりをつけられた相手から、上手いこと否定してもらうって手もあるじゃない。実際、根も葉もないことなんだし。で、誰なのよ、その三年生っていうのは」
「えーと、B組の水島っていったかな」
 でも、あっちだって、ものすごく軽い気分でジュースを買ってくれただけなんだし、それがまさかこんな結果を引き起こすとは思ってもいないだろう。受験生をこんなバカバカしいことに巻き込むのも気が引ける。いずれにせよ、今後接触がなければ噂なんて立ち消えになるだろうから、わざわざ話すようなことじゃ……と口にしかけて、史緒は、ん? と目を瞬いた。

 すぐ前の奈々子が、ぴたりと動きを止めている。
 しかも、頬っぺたまで赤くなっている。
 んん?

「どしたの、奈々子」
 史緒が問いかけると、身じろぎもしなかった奈々子がぴくっとした。
 少し黙った後で、ぼそりと言葉を落とす。
「……水島、って。あの水島先輩?」
 はあ?
「あの、って、どの?」
「だから、元ハンドボール部で、後輩に慕われてて、身長は百六十五センチで、血液型がA型で、手先は器用なのに絵は下手で、ちょっと軽い感じはするけど意外と真面目なところもあって、ニコッと笑った笑顔がくらくらするくらいに可愛い、あの水島先輩か、って聞いてんのよ」
「…………」
 そんな具体的な情報を出されても……。
「よくわかんないけど、去年、お別れ会の実行委員のリーダーだって言ってたよ」
「じゃあ、やっぱりあの水島先輩じゃない!」
 はあ、そうでしたか。
 叩きつけるように決められたところで、史緒には、その水島先輩がどの水島先輩で、あの水島先輩がこの水島先輩であるかどうかは判別できないので、そう思うしかない。
 奈々子はいきなりソワソワし、髪を撫でつけたり、あちこちに視線を飛ばしたりしはじめた。挙動不審なこと、この上ない。
 ……ふーん。

「──奈々子、あの先輩のことが好きだったんだ?」

 奈々子が、椅子の上でぴょんと飛び上がった。
「なななっ、な!」
 赤くなって、わかりやすくうろたえて動転するその様子は、いかにも恋する乙女という風情で可愛らしい。そうかあー、と史緒は感嘆するように思う。
 ソフトボールを投げたり打ったりすることにしか興味がないかと思えば、ちゃんとこういう女の子らしい部分もあったのかあー。
 奈々子は、いやあの、とか、別に、とか言ってさんざんオロオロしまくってから、ようやく観念したように大人しくなり、上目遣いになって史緒を見た。
「……なんでわかった?」
 むしろ、なんでわからないと思ったの?
「へえー、今までそういうの、奈々子の口から聞いたことなかったなあ」
「だからその、好きっていうかさ、まあ、憧れっていうかさ。わざわざ自分から宣伝するようなことでもないし、たまに姿が見られたら嬉しくなる、それくらい、っていうかさ……」
「ふーん」
 いつも、姉御気質でスパスパとものを言う奈々子が、はにかむように俯き加減でぼそぼそ言っている。恋愛というものに呆れるほど疎い、という点では高遠とどっこいどっこいの史緒だが、だからといってこの姿を見て、理解不能、と思うほどの朴念仁でもなかった。

 微笑ましい。
 そして、ちょっとだけ、羨ましい。
 人を好きになるって、きっと、楽しいことなんだろうなあ。

「あ、だったら、実行委員、代わろうか?」
 史緒はぱっと思いついて、そう提案した。水島先輩がこれからもまた実行委員会に顔を出すかどうかは不明だが、それでも委員になれば、接近するきっかけくらいにはなるかもしれない。奈々子も喜び、わたしも面倒ごとから解放されて嬉しい。なんたる名案。
 だが、奈々子はそれを聞いて、ますます赤くなった。
「ばっ、ばかっ! あんたの顔も覚えられちゃってるなら、今さらそんなロコツな真似、できるわけないでしょ! どうして代わったの、なんて聞かれたら、どうすりゃいいのよ!」
「先輩と仲良くなりたくて代わりました、ってホントのことを言えばいいじゃん」
「言えるか! この無神経女!」
 叱られた。
 どちらかといえばけっこう大雑把で、ズケズケときついことを言う性格の奈々子に、無神経となじられるのは心外だ。不得要領顔で首を傾げる。
 小学校の時の生きもの係でも、似たようなことがあったよな。どうして女の子というのは、こういうことに限り、「ロコツ」 を忌避するのだろう。そうかと思えば、あのセーラー服のように、露骨すぎるくらい露骨な攻勢をかけてくる子だっているのに。
 恋ってめんどくさいね。


         ***


 とか思っていたら、放課後、もっとめんどくさいことが史緒を待ち受けていた。
 しかし、なんで二日連続で来るかなあ。今日も実行委員会がなくて、浮かれた気分で帰ろうとしていた時に、この待ち伏せ攻撃は地味に疲れる。もう厄介なことに巻き込まれないよう、高遠と一緒にならないうちに、さっさと帰ろうと思っていたのだが。
「あのね、イノシシちゃん……」
 校門前に立っていたセーラー服の女の子に、またしても、「ねえ、ちょっと!」 と呼び止められた史緒は、はあーと深い息を吐き出しながらそう言った。
「ちょっと! イノシシって誰のことよ!」
 女の子が眉を上げて鋭く咎める。せっかく可愛い顔してるんだから、にっこり笑ってりゃいいのに。
「だって名前知らないから、呼びようがないじゃん」
「だからってなんでイノシシよ!」
「言動が猪突猛進だから」
「どうして名前を聞くところをすっ飛ばして、いきなりおかしなアダ名をつけてそれで呼ぶのよ!」
「え、駄目なの? メガネちゃんはメガネちゃんて呼ぶと、元気よく返事するから」
「その理屈はどう理屈になってんの?!」
 そうか、駄目なのか。一口にストーカーといっても、いろいろと種類があるらしい。
 でもこれ、名前を聞かなきゃいけないのかなあ。今後関わりたくない人の名前って、別に知りたいとは思わないんだけどなあ。けど呼び名がないと、話がしにくいし。いやわたしは特に話がしたいとは思ってないんだけど、あっちから、無視するな、とか、聞いてるの、とか会話を強制してくるしねえ。イノシシ、っていうのがまずいのかなあ。
「それでセーラーちゃん……」
「変なアダ名で呼ぶのやめてって言ってるでしょ! 紗菜よ!」
 あーあ、結局、勝手に名乗られてしまった。名前を聞くと、なんだかこれからイヤでも 「知り合い」 みたいになってしまうんじゃないかという、ろくでもない予感がひしひしする。
「うん、紗菜ちゃんね……わたしは、ふみ」
「知ってるわよ! 史緒でしょ!」
 そこで紗菜ちゃんは、悔しそうに顔を歪め、下を向いてぽつりと言った。
「高遠君が、いつもそう呼んでるじゃない」
 そうそう、高遠だよ。やっと本題に入れそうだ。
「それで紗菜ちゃんは、なんだってそう、わたしにちょっかいばかりかけてくるのかな。好きなのは高遠君なんでしょ。あっちにアタックしなよ、普通に」
 アタックしてその結果がどうなるかは正直知ったことではないが、とにかく彼女の現在の行動が、その目的への実を結ぶことはまったくないであろう、ということだけは判る。はっきり言えば、たとえ相手があの変人でなくたって、マイナス方向にしか作用しないやり方だ。可愛いし、男女交際というものにそんなに初心なほうでもなさそうだし、それくらいのことは本人だって気づきそうなものだと思うのだが。
「だって」
 史緒の言葉に、紗菜ちゃんは頬を膨らませてむくれた。可愛い顔は、そういうことをしても、やっぱり可愛い。
「高遠君、ちっともつかまらないんだもん。やっと姿が見えたと思うと、必ず近くにあんたがいるし。高遠君って、一人でいる時は、まったくどこにいるかわかんない」
「……そう?」
 首を捻る。
 そうかなあ。メガネちゃんもよくそんなことを言うが、なにも高遠は史緒の影というわけではないのだから、単独でも存在しているはずなんだけど。
「だから、高遠君のそばに寄ろうと思うと、あんたを見張ってるしかしょうがないじゃない」
 メガネちゃんと同じ飛躍だな。おそるべしストーカー理論。史緒を高遠に会うための窓口にするのはやめて欲しい。
「でも、紗菜ちゃんこそ……」
 と言いかけて、口を噤む。この女の子こそ、史緒の前に現れる時は、いつもいつも影のように同じ人物を引き連れているじゃないか、と思ったのだが、それを言葉にすると本当にまたあの姿が見えるような気がして、ひやりとした。
 少し緊張しながら、ちらっと紗菜ちゃんの後ろに視線を飛ばす。でも今日のそこには、こっちをちらちらと振り向きながら帰っていく 「本当の」 天漢高校の生徒たちしかいない。ほっとした。
「どうして高遠君は、いつもあんたの近くにいるのよ」
 そんなこと、睨まれながら責められても困る。
「それでどうして、今日はいないのよ」
 いやだから、そんなことで責められても困るって。
 しかし、高遠のいない今は、絶好の機会かもしれない。そもそもこの女の子の側に、「史緒が高遠と付き合っている」 という誤解があるから、ここまで事態がややこしいことになっているわけだ。いくら悪口陰口に慣れているとは言っても、今現在こちらに突き刺さってくる、おもに女子生徒たちの冷たい視線をまるでなんとも思わずにいられるほど、史緒だって大人物ではない。
「あのね、わたしと高遠君とはね……」
 が、誤解を解こうとした史緒の言葉は、途中で宙に浮いてしまった。
 その言葉を向けている対象であるべき紗菜ちゃんが、ちっともこっちの話を聞いてくれなかったからだ。
 というより、ぽかんと半分口を開けた顔で、史緒の背後に視線を向けているからだ。
 ──やれやれ、来たか高遠。
 これでまた面倒なことに、という忌々しい気持ちと、このままこの子を押しつけて逃げよう、というせいせいするような気持ちを同時に抱きつつ、後ろを振り返った史緒は、そこにいる男子生徒を目に入れて、同じくぽかんとした。
 男子にしてはちょっと低めな身長、少し着崩した制服。薄い鞄を、無造作に肩で担ぐように持って、なんとなく楽しそうな顔をしてこちらを眺めている人、は。

 ……高遠じゃなかった。

「あれ……水島先輩?」
 お別れ会実行委員の元リーダーで、奈々子の想い人でもある水島先輩が、史緒のすぐ後ろに立っていた。
「どうしたんですか」
「いや、どうしたってそりゃこっちが聞きたいよ。どしたの、塚原ちゃん。みんなからすごい注目浴びちゃってるけど」
 それは知っている。というか、水島先輩がそこにいるせいで、注目度がさっきよりも二段階くらいアップした。立ち止まって見物していく人までがいるではないか。
「なんでもありませんので、お構いなく」
「なんか困ってるなら、手を貸そうか?」
 根っから世話好きな体質なのか、この人は。なるほど、奈々子が好きになったのは、彼のこういう気のいいところなのかもしれない。しかし今は迷惑です、はっきり言って。
「ちょっと、どういうことよ! やっぱりあんた、この男と二股かけてるんじゃない! いけしゃあしゃあと図々しい……! 高遠君が可哀想!」
 ほら見ろ、誤解が深まってる!
 紗菜ちゃんの糾弾に、水島先輩が驚いたように目を丸くして、「二股?」 と呟いた。
 いや待て。
 これ、何も知らない外野から見たら、相手が高遠から水島先輩に入れ替わっただけで、やっぱりまるっきり昨日と同じ、二股バレの修羅場になってない? なんかさっきよりも周りからの視線が痛いもん! ああもう、なんだこの泥沼! わたしか、わたしがすべて悪いのか!
「高遠って……あの高遠?」
 水島先輩が、考えるように小声で言って、史緒の顔を覗き込んだ。
「なに、塚原ちゃんて、あいつと付き合ってんの?」
「そうよ!」
 違うよ! なんで紗菜ちゃんが力いっぱい断言しちゃってんの?!
「あんたもこの子に騙されてるんだから! 目を覚ましなさいよね!」
「へー、俺って塚原ちゃんに騙されてたのか。知らなかった」
 水島先輩がニヤニヤ笑って顎の下を手で撫でる。その目その顔、先輩、明らかにこの状況を面白がってますね?
「水島先輩、とにかくここはお引き取りを。ていうか帰れ今すぐ帰れ」
「そんな冷たい。俺と塚原ちゃんの仲なのに」
 どんな仲だよ。先輩は今年の実行委員じゃないんだから、仕事仲間ですらない。
「ちょっと! ここは怒るところでしょ、バカじゃないの?! この子、高遠君と付き合っていながらあんたとも付き合ってるのよ!」
「だからわたしはどっちとも」
「どっちも好きだとか言いたいの?! やっぱりサイテー!」
「ちょ、人の話を聞」
「別に、塚原ちゃんが誰と付き合っていようと、俺たちの関係は変わらないよ。ね?」
 ただの通りすがりの先輩後輩の関係だから変わりようがない、とちゃんと言え!
「ふっ二股でもいいってこと?! な、な、なんであんたばっかり! 大して可愛くもないくせに!」
「そんなことないって、塚原ちゃんはフツーに可愛いよ。あんたもせっかく可愛いんだからさあ、そんなに鬼のよーな顔しないほうがいいよ?」
「余計なお世話よおっ!」
「あんたたち、いい加減に……」
 この収拾のつかない事態にそろそろ我慢の限界を迎えようとしていた史緒は、ブルブル震える拳をぎゅっと握り込んだ。周りのギャラリー数と、交わされるヒソヒソ声は増えていく一方だ。恥という概念を持たない高遠と違い、人並みの羞恥心くらいは持っているこの身としては、もう一分一秒だってこの場にいたくない。
 すうっと大きく息を吸う。
 それを吐くと同時に、うるっさいっっ!! と大音響で怒鳴ってやろうとした──瞬間。
 するりと誰かに手を取られ、引っ張られた。

「こんなところで何をしてるんだ、史緒。さっさと帰るぞ」

 いつの間にかやって来た高遠が、史緒の手を握ってすたすたと前方を歩いていた。
 空気のように気配を感じさせなかったその存在に呆気にとられ、固まる紗菜ちゃんと水島先輩、それから周りの生徒たちのほうを振り返りもしない。
「え……え?」
 有無を言わさない力で引っ張られ、あっという間に騒ぎの中から連れ出される。驚くヒマもなかった。
 前を行く高遠の後ろ姿は、いつもとまったく変わりない。ただ歩いている。校門前でのやり取りについて、事情を聞くこともしなかった。というより、いつもと違って、バカにするようなことも、変なことを真顔で言ったりもしなかった。そしてこちらを向いて顔を見せることもしなかった。
 なんで無言なの。
 戸惑いつつ、史緒は手を引かれたまま、高遠のあとをついて歩くしかない。ただでさえコンパスの長さに差があって歩幅が合わないというのに、高遠はこちらを気にする様子もなくまっすぐ前だけを見て歩くから、かなり早足にならないとつんのめって転びそうだ。
 校門から離れて、そこが見えない位置まで来ても、高遠は手を離してくれなかった。しかもずっと黙っている。あたりも静かになって、なんとなく気まずい沈黙だけが流れる中、史緒はひいふうと呼吸を乱しながら歩き続けた。
「た……高遠君」
「…………」
「疲れた」
 そこでようやく高遠が足を止め、くるりとこちらを振り向いた。普段と同じような顔つき、それは要するに、なんとなく腹立たしい上から目線の顔つきということだが、そのことにちょっとだけ安心する。
「だから君は体力がないというんだ。日々の生活と運動不足を見直し、改善しようという気になったか」
「うん、なったなった」
「まったく意欲が感じられない」
「わたし、喉が渇いたんだけど」
「それはもしかして僕に何かを奢れと要求しているんじゃないだろうな」
「自販機でいいよ」
「妙に恩着せがましく聞こえるのは僕の気のせいか? 人に奢られるという時に、自販機 『で』 いい、とは何事だ。君は円滑な対人関係について、この十七年間何を学んできた」
 円滑な対人関係について、高遠に説教されるとは思わなかった。
「自販機のホット 『が』 いい」
「まったく……」
 高遠がため息をついて、周囲を見回す。
「こんな寒空の下で立ち飲みするつもりか。風邪でも引いたらどうする。どこか店を見つけるぞ」
 そう言って、高遠がまたぐいっと手を引っ張った。が、後ろの史緒がその場に棒のように突っ立って動かないので、怪訝に思ったのだろう、振り返って、眉を寄せた。
「どうした、史緒」
 問われて、史緒は、別の場所にじっと向けていた目を高遠に戻した。
「──なんでもない」
 物陰に一瞬見えた、長い黒髪の少女。
 そのことは自分だけの胸にしまって、答える。
 相変わらずひんやりとしてすべすべした手を、きゅっと軽く握った。
「じゃあ、行こう」
 そう言って、にこっと笑った。



 ──ちなみにその夜、また新しい噂を耳にした奈々子が、えらい剣幕で史緒に電話をかけてきた。
「ちょっと! アンタ、水島先輩と高遠の間で取り合いになってるんだって?! どういうことよ、きっちりみっちり説明してもらおうじゃないの!」
 めんどうくさいなあ、もう!



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