銀河の生きもの係

高校生編

6.賽は放り投げられた



 塚原史緒は稀代の悪女になりました。
 なろうと思ったって、なかなかなれるもんじゃないよね、悪女。二人の男と付き合って、どちらからも 「二股であっても気にしない、僕は君のことが好きなのサ」 と言われてしまう女って、一体どんな魔女設定なんだよ。怪しい呪術や惚れ薬でも使ったのか。根本的に無理がありすぎるだろ。史緒の専門は魔法のバトンやコンパクトなどの道具を使ってアイドルとかナースとかに変身したりする可愛い魔女っ子であって、そちら方面ではない。
 ──しかし世の中というのは、やっぱり不条理で。
 史緒がどう思おうと、いくら否定しようと、苦虫を十匹くらい口に放り込んだような顔をしていようと、そのアホらしいまでに歪みきった誤解は、すでに 「事実」 として、すっかり学校中に蔓延してしまったのだった。
 史緒と高遠と水島先輩との三角関係、おまけにイノシシちゃん、もとい紗菜ちゃんを含めた複雑な四角関係は、実体がまったく存在しないまま、おのおの勝手な妄想と想像が上乗せされ、膨大な脚色がなされた挙句、現在、天漢高校の一大スキャンダルとして全校生徒から熱い注目を浴びている。本来彼らを諌めるべき先生たちでさえ、成り行きを気にしている始末である。地味で堅実な日常というのは、これほどまでに得るのが難しいものであっただろうか。
 この場合、相手が校内で最も目立つ男と、そんなに派手ではないが周囲から慕われるよき先輩、というのがまたマズかった。恋愛において、顔のいい男か性格のいい男か、というのは女子が迷い悩む永遠不変のテーマなのだ。漫画でも、よくそういうのがあるでしょう。「タイプの違う二人のデキた男に求愛される平凡少女」、ってやつです。
 いやだから、求愛されてないから! 史緒は確かに平凡でありたいと願ってはいるが、あとの登場人物のうち一人はアホで、一人は通行人Aだから!
 と叫んでも、もはや誰の耳にも届かない。
 もちろん、只今の史緒が悪女認定されているからといって、小学生や中学生の時のように、村八分にされたり、イジメられたりするようなことはない。どちらかのファンや親衛隊に呼びだされて、カミソリを突きつけられて脅されるという、判りやすい展開もない。しかし学校中から、「あの子、あの子」 と指を差され、行動を観察される日々が快適かといったら、まったくそんなことはない。あるわけないじゃん。早い話、いちいち気にして反応していたらストレスが溜まって老けること間違いなしだ。花の女子高生なのに。
 というわけで、史緒は決心した。

 よし、もう面倒だから、ぜんぶ無視しよう!


          ***


「──塚原ちゃん、今ちょっといい?」
 そういう次第だったので、第二回目のお別れ会実行委員会が終わり、やれやれと教室を出ようとしたところで、廊下で待っていた水島先輩に捕まっても、史緒はいつもと変わらぬ平常心でいることが出来た。
 同じく帰っていく実行委員たちが、こちらを遠慮なくジロジロ見て、ヒソヒソコソコソと複数人で固まって声を潜め何事かを囁き合っていても気にしない。やだあーとぶしつけに笑い声を立てて、興味津々の顔を向けながら去っていっても、気にしない。一度決意してしまえば、それらすべてをスルーするのはそんなに大変でもなかった。
 もともと、史緒は小学生の頃から、浮きすぎるくらい浮いている存在がそばにいるせいで、好奇の目を向けられることは耐性がついているのである。無責任な話し声なんて、心にシャッターを下ろしてしまえば大丈夫。「恥ずかしげもなく平然としてる」 と言われたって、実際史緒は恥ずべきことなんて何もしていないのだ。こんな時は高遠の鋼の無神経さと、不必要なほどの堂々っぷりを、見習いたくはないけど見習おう。
 かえって、居心地悪そうにしているのは、暗く寒い廊下で一人、史緒が出てくるのを待っていた水島先輩のほうだった。呼び止めるために掴んだ史緒の腕を、矢のように刺さってくる視線に気づいてすぐにぱっと離し、気まずげに目を逸らす。
 ──この先輩にも、悪いことしちゃったなあ。
 とそれを見て史緒は思った。ちょっとした悪ふざけがあったことは否めないが、元はといえば、余所の女子高生に難癖をつけられているように見えた (いや実際そうなのだが) 史緒を助けようとして、声をかけてくれた親切心が発端なのである。水島先輩本人も、自分の意志とは無関係なところで噂の中心人物となってしまい、さぞかし当惑しているはずだ。

「ごめんな」

 すみませんでした、と口を開こうとしたら、水島先輩のほうから先に謝られた。
 ん? とその顔を見ると、彼は本当にバツが悪そうな苦い表情で、頭を掻いている。
「ちょっとした冗談のつもりだったんだけど……こんなに騒ぎになるとは、思いもしなくて」
 水島先輩は、肩を落として悄然としていた。校門前のあの一件から、ほとんどデマで占められた醜聞が怒涛のように学校中を駆け巡り、当人も驚いたのだろう。
「先輩も大変でしたか」
 史緒が訊ねると、水島先輩はますます頭を掻いて、いやーと曖昧に言葉を濁した。大変だったらしい。
「ま、俺は別に……見当違いな同情と激励と説教をされたくらいでさ」
 気の毒に、とか、頑張って、とか、あんな性悪女はもう諦めろ、とかだな。なるほど、それは確かに見当違いだ。
「こんなことに巻き込まれちゃって、勉強は大丈夫ですか。受験生なのに」
「いや、俺はもう推薦で決まってるから」
 その答えには、史緒もほっとした。こんなことで水島先輩が大学を落ちて浪人になって人生に絶望して引きこもりになったりしたら、さすがに寝覚めが悪い。
「塚原ちゃんのほうがずっと大変だろ。なんか、酷いこともいっぱい言われてるみたいだし」
 まあそうですねと肯定しようとして、こちらに向けられる目に本気の心配が含まれていることに気づき、その言葉を呑み込んだ。ちょっと言動が軽々しいところはあるが、水島先輩はやっぱり基本的に、善人なのだ。奈々子の人を見る目は悪くない。
「平気ですよ、気にしてないんで」
「そういうわけにはいかないだろ」
「いやホントに。わたし、こういうのわりと慣れてますから」
 史緒の言葉に、水島先輩は少しキョトンとした。
「慣れてる? じろじろ見られたり、あれこれ言われたりするのが?」
「そうですね」
 どこにいても目立ってしまう奇妙な生きものが身近にいれば、そのテのものにはイヤでも慣れるというものだ。それを、「鬱陶しい」 とは思いこそすれ、「つらい」 と感じるようなメンタルを、史緒は持っていない。
「それで放置してるってこと? けどさ、もっと言葉とか行動とかではっきり否定したほうが」
「そんな面倒なことを、もしかしてわたしにやれと?」
「…………。でも、気分よくないんじゃない?」
「気分はそりゃよくないけど、特になんとも思ってない人に、なんて言われようと構いません。わたしの友達はわかってくれてるし」
 奈々子にはまたちょっぴり首を締められたものの、今度もちゃんと説明したら判ってもらえた。自分にも紗菜というトラブルメーカーを煽った責任があると反省したり、水島先輩ってやっぱりいい人よねとうっとりしたり、コソコソ内緒話をする周りの態度に憤慨したりと大忙しだが、いつも史緒を守るように近くにいてくれる。
 メガネちゃんは、その現場を自分の目で見られなかったのは一世一代の不覚だと悔しがっているが、噂については、バカバカしいそんなことがあるはずないじゃないですかと洟も引っかけない。
 高遠は、いつも通り。

 だから、別に構わない。

 史緒の返事に、水島先輩の目が和んだ。
「……そっか、いい友達なんだね」
「そうです。奈々子っていいます。二年A組、ソフトボール部のキャプテンをしています。奈々子です。よろしくお願いします」
 ここぞとばかりに、選挙演説のような宣伝をしておく。水島先輩は、ちょっと戸惑った表情で、うん、と頷いた。
 それから、安心したように口許を綻ばせて、ようやく笑みを見せた。
「でもそう言ってくれて、ホッとした。俺のせいで、塚原ちゃんが傷ついてるんじゃないかと思って、ずっと落ち着かなくてさ」
「わたしが? 傷つく?」
「そこで、意味不明な言語を聞いたようなハニワ顔をするのはどうかな、塚原ちゃん。俺が言うのもなんだけど、もうちょっと 『私って可哀想』 アピールをしようよ」
「こんな実行委員をやらされて、遅くまで居残りをして、学生としての最低限の義務以外の労働させられているわたしは、本当に可哀想だと思ってます」
「それはジャンケンが弱い塚原ちゃんの自業自得。あ、そうだ、委員会のリーダーに言って、塚原ちゃんを幹部に推薦しようか。そうしたら仲間も出来て味方に」
「やなこった」
「あのさ、俺、一応上級生だからね? 先輩だよ、わかってる?」
 ぶぶっと可笑しそうに噴き出してから、ふと笑いを引っ込め、先輩は窺うような目でこちらを見た。
「……高遠とも、揉めてない?」
 は? と問い返す。
「揉める?」
「喧嘩とか、してない?」
「説教はしょっちゅうされてますが」
「今回のことで、二人の仲がこじれたりしない?」
「こじれるも何も……」
 こじれるほどヤツとはそもそも噛み合っていません、と思いかけて、遅ればせながら言われている意味に気づいた。
 あ、そうか。
 水島先輩も、そこから誤解をしているのか。そういえば、否定する隙がなかったもんね。
 史緒は正面から先輩を向いて、きっぱり言った。

「わたし、高遠君と付き合ってるわけじゃないです」

 口にしてから、やっと言えたなあ、としみじみした。いちばんこの台詞を聞かせたかったのは、紗菜ちゃんなんだけどねえ。
「え。そうなの?」
 水島先輩は本当に史緒と高遠が付き合ってると信じて疑っていなかったらしく、びっくりしたように目を何度も瞬いた。
「けど、いつも一緒にいるって聞いたよ?」
「いつもって、いつですか。何月何日何時何分何秒ですか」
「子供みたいにムキになるのはやめようよ。小学生の時からずっと仲がよくて、帰りも毎日一緒に帰るって」
「小学生の時から七年間ずっと同じクラスで、帰り道も一緒になることが多いのは否定しませんけど、だからってそれを仲がいいという言葉に変換するのは変じゃないでしょうか」
「どっちかっていうと、塚原ちゃんの言ってることのほうが変じゃない?」
 水島先輩は首を傾げてそう言ったあと、口を閉じて黙り込んだ。
 しばらくの間を置いてから、ふうん……と小さく呟き、するりと手で顎を撫ぜる。
「……じゃ、二人はホントに付き合ってないんだ」
「そうです」
「少なくとも、塚原ちゃんにとってはそうなんだ」
 なんですか、そのおかしな言い回しは。
 水島先輩は、もう一度、ふうん、と言ってから、顔を動かし、委員会のメンバーがすっかり帰ってしまってしんと静まり返った廊下の先に目をやった。窓の外はもう真っ暗で、冷たそうな風が吹いて木の葉っぱを斜めに揺らすのを、校舎から漏れる明かりがぼんやりと照らしている。
「うん、わかった」
 再びこちらに向き直る。
「とにかく、厄介な問題を引き起こしてごめんな」
「気にしてません。こちらこそ、ご迷惑をおかけしました」
 もともと、「厄介な問題」 は、史緒の側ですでに起きていたものだったのである。水島先輩はそれをちょっと引っ掻き回して大きくしてしまっただけで、そんなに責任を感じることはない。こうして謝罪に来てもらっただけで十分すぎるというものだ。
 これでこの話はもうおしまい、というつもりで、史緒もぺこっと頭を下げた。少しだけ肩の荷が下ろせたようで、やれやれと思う。
「じゃ、わたしはこれで」
 挨拶して立ち去ろうとしたところで、「待った待った」 と再び水島先輩に腕を取られて引き留められた。
「送ってくよ。うちどこ? 近いんだったよね?」
 懲りないな、この先輩は!
「結構です。誰かに見られたら、また面倒なことになるのが目に見えてるので」
「だって気にしないんでしょ」
「気にしない、というのと、面倒をさらに増やすようなことをする、というのはとんでもなく大きな違いです」
「でも、外、真っ暗だよ。男として、女の子を一人で帰らせるわけにはいかないでしょ」
「なんですかその騎士道精神」
「普通だって。どうしてそんな変なものを見るような目をしてんの」
 だって、高遠ならこんな時、「この暗さで転んで頭を打ち、そもそも残り少ないその頭の中身が外に飛び出して空っぽになったらどうする」 という心配の仕方をするところだぞ。
「平気ですよ。それに先輩こそ、これ以上誤解が広まったら困るんじゃないですか。好きな人とか、彼女とか、いるのでは?」
 正直そこまで考えが廻っていなかったが、水島先輩はわりと人気のある人のようだし、彼女がいてもまったくおかしくはない。その場合奈々子には気の毒だが、あらぬ噂で悲しい思いをする彼女のほうはもっと気の毒だ。
「なに、塚原ちゃん、俺に彼女がいるかどうか、気になる?」
 先輩がニコニコしながら史緒の顔を覗き込んでくる。どうしてこうも言動に重みがないのだろう、この人は。
「個人的にはぜんぜん気になりませんが」
 奈々子のために知っておいたほうがいいのかも、とは思う。でも彼女持ちだったら、それを伝える役目を負うのはイヤだな。
「ひどいなー。今は、彼女いないけどね。てことで、じゃあ、行こうか」
 てことで、って、何がどうしてそういうことなのか判らないが、水島先輩は史緒の背中を押して促し、にっこり笑った。


          ***


 翌朝、ふわあ、と史緒を欠伸をしながら学校への道を辿っていた。
 昨日はただでさえ下校時刻が遅くなった上に、結局強引に家まで送ってくれた水島先輩がなんだかんだと話し続けるので、家に帰った時には八時を過ぎていた。先輩はけっこう、お喋り好きな人であるらしい。
 それから夕飯を食べて、お風呂に入って、卯月の 「たっと君 (高遠の愛称) は次はいつ遊びに来るのか」 という質問攻めをなんとかかわし、フリマでお洋服をたくさん買っちゃったけどしまう場所がないのよと縋る母親と一緒にタンスの整理をし、父親に最近ものすごく面白いアニメが始まってねというオタク話に無理やり付き合わされ、それからようやく宿題を終わらせて、さて寝るかと時計を見たら夜中の二時である。
 ……うーむ。高校生って、一般的に、もうちょっと別のことで忙しかったりするもんじゃないのだろうか。
 そんな疑問はあるが、とにかく今日の史緒は寝不足だ。学校に行ってもどうせ遠巻きにジロジロと見られるだけなので、一日中机に突っ伏して寝ていようかなと悩む。でもそうすると、また高遠にうるさい説教をされそうだなあ。
 と思いつつ、もう一度ふわあと欠伸をした、その時。

「他に通行人もいる公道で、そんな間の抜けた顔を晒すのはどうなのかしら」

 後ろから、声をかけられた。
 一瞬、高遠かと思った。そんな上から目線発言をする人間は、そいつくらいしか咄嗟には思い浮かばなかったからだ。
「…………」
 史緒は口を閉じて、ゆっくりと振り返った。
 高遠か、と思ったのはもちろんほんの一瞬で、すぐにそうではないことに気づいていた。声が違う。語尾も違う。言っていることは同じでも、口調が違う。高遠はここまで、「何も含まれていない」 空虚で冷たい言い方をしない。

 振り返った史緒の前には、一人の少女が立っていた。

 すらりとした身体。まっすぐに伸びる細い手足。長い黒髪。白い肌。切れ長の目。微笑をかたどる形のいい唇。尋常ではないほどの、際立った美しい容貌。
 いかにも、「この格好をしていれば人間に見えるのだろう」 といわんばかりに、天漢高校の制服を着て。
 今までほんの束の間、幻のように史緒の前に現れては消えた少女が、すぐ目の前にいる。
「……喋れるんだね」
 喉から言葉を押し出すと、彼女は唇の角度をもう少しだけ上げた。その姿は確かに実体で幻なんかではないが、動作、仕草のひとつひとつが、まるで機械みたいだった。その動きは、感情によって勝手にされるものではなく、「もう一センチ口角を上げろ」 と送られたデータに司られているように見える。
「ええ。あなた方にも理解できる言葉を発するのは可能よ」
 澄んだ声で出されているのは間違いなく日本語なのだが、表現の選択が明らかに一般的ではない。高遠の場合は、ただ 「ウザい」 と 「鬱陶しい」 だけで済む噛み合わなさが、この少女の場合はひたすら史緒の癇に障った。
 ──高遠はよく史緒をバカにするし、見下すような言い方をするけれど、この子には、それさえないからだ。
 この少女にとって、史緒は、対等どころか、「会話をする相手」 とも見なされていないからだ。
「この間からちょくちょくわたしの前に現れるよね。なにか用?」
 史緒はつっけんどんに質問した。こんなのと鬼ごっこを続けるのは真っ平御免だ。言うことがあるなら聞いてやろうじゃないか。そして今後もう二度と、わたしの前に姿を見せないで欲しい。
「あなたに、用事?」
 黒髪の少女はわずかに首を傾げ、ゆったりと繰り返した。
 史緒の問いの意味が今ひとつ掴めないようだ。目の前の植木に 「形が悪いわね」 と独り言を言ったら、「私に何かご用ですか」 と植木に問いかけられた──そんな感じだった。
 用事というのは、相手が自分の言い分を理解してそれに対応できるという前提で使う単語だ、とその態度が語っている。
「あなたに用事なんてないわ。ただ見ているだけ」
「じゃ、なんで話しかけてきたの」
「あなたは私のことを知りたいのでしょう?」
「知りたくない」
 速攻で言いきった。史緒は心の底から、こんなのとは関わりたくない。知りたくもない。ただ、自分の前から消えてくれれば、それでいい。
「ウソよ」
「ウソじゃない」
「ずっと私を気にしていたわ」
「チラチラ視界に入ってきて鬱陶しいからだよ」
「あなたに私のことが判るわけがない」
 話の流れを無視していきなり決めつけ、彼女は優雅な微笑を向けた。
「けれど、私が何か、薄々本能で察している。そうでしょう? 程度の低い生物は、本能とか、直感とかで、自分の危機を察知するほかないんですもの」
 憐れむような目つきをしている。
「だからこそ、判らないの。どうして……は、いつまでもこんなものに関わろうとしているのか」
 「……」 の部分は、聞こえなかったのではなかった。そこだけ音量が抑えられていたわけではなかったから、他の言葉と同じように、史緒の耳に入ってきたはずだった。
 でも、どうしても、なんて言っているのか聞き取れなかった。
 言葉ではない言葉。明らかに他の発音とは違っているけれど、外国語というのとも違う。そもそもそれは、言語にもなっていなかった。

 それでも、なぜかその 「……」 は、誰かの名前ではないか、という感じがした。

「私はそれを知りたい」
 少女はそう言うと、もう史緒の返事も待たず顔も見ず、ふわりと身を翻し、家と家の隙間にするりと入っていってしまった。あっという間に、見えなくなる。きっと、すぐに走っていってそこを覗いても、もう誰の姿もないのだろう。
「…………」
 史緒はぐっと拳を握りしめた。
 彼女を追いかけないのは、どうせ無駄だと思う気持ちとは別に、足が震えて動かないからだ。
「史緒」
 また後ろから声をかけられてびくっとする。
 振り返ったら、今度そこに立っていたのは、高遠だった。
 毎回毎回、高遠の目からすり抜けるように現れて、去っていくんだな。周到すぎて、腹が立つ。けれど同時に、ほっとする。高遠は、あの黒髪の少女の存在にまだ気づいていない。
「こんな所で突っ立ってどうした?」
 史緒は握っていた拳から力を抜いた。
「……ちょっと、寝不足でぼーっとしてさ」
「相変わらずいい加減な生活をしているな」
 高遠が口を曲げて苦言を呈してくる。不規則な生活リズムは精神にも影響するんだぞ、とか、もっとカルシウムをとったらどうだ、とかガミガミ続く説教を聞いているうち、身体の強張りが取れてきた。よし、震えも収まった。
「──最近、何かに気を取られていないか」
 不意に、高遠が真顔になった。測るような目がこちらに向けられ、史緒はへらりと表情を崩す。
「わたしが注意力散漫なのは、今に限ったことじゃないでしょ」
「それは否定しないが」
 否定しろよ。
「……僕に、何か隠してないか?」
「高遠君に言ってないことなんて、たくさんありすぎて数えきれないくらいだよ」
「なんだそれは。たとえば何だ」
 不本意そうな顔をしてムキになって問い詰めてくるので、笑ってしまう。
 高遠は、史緒を 「君はウソつきだ」 と罵ることもあるくせに、基本的に史緒の言うことをすぐに真に受けるのだ。小学生の頃から、わりとよく史緒に上手いこと言いくるめられたり、騙されたりしているのに、本人はそのことに気がついていないらしい。
 ──それは、高遠自身が、史緒に対して嘘をつくことが一度もないから、なのかもしれない。
「……あのさあ、高遠君」
 ちょっとだけ迷ってから、鞄を持っていないほうの手を伸ばした。
 すぐ近くにある制服の上着の端っこを、ぎゅっと掴む。少しだけ、高遠が目を見開いた。
「なんだ?」
「余所の人に、お菓子をあげるからって言われても、ついていっちゃダメだよ」
「……君は何を言ってるんだ」
 高遠が困惑したように眉を寄せる。
 自分の制服の端を握っている史緒の指先をちらっと見たが、それについては何も言わなかった。
「寝惚けてるのか? 早く行かないと遅刻だぞ」
 そうして、その台詞とは裏腹に、史緒の歩幅に合わせてのんびりと歩きはじめた。



BACK   TOP   NEXT

Copyright (c) はな  All rights reserved.