銀河の生きもの係

高校生編

7.人生に変化は不可欠なもの



 史緒の父親は、今も変わらずガッチガチのアニメオタクである。
 聞けば、彼は十代の頃から、オタク街道まっしぐらの人生を送ってきたらしい。四十代になった今も、アニメにかける情熱は少しも色褪せていない、というのだから、ここまで来るともう呆れるよりは褒め称えられてもいいくらいかもしれない。五十になっても六十になってもあのままか……と思うと、身内としてちょっと遠い目になってしまうのだが、それはそれとして。
 そんな若い頃から同じ趣味に没頭しているのだから、当然昔からの同好の士というか、そちら方面での仲間が数多くいるのかと思いきや、実はそうでもなかったりする。学生を過ぎたらいい加減そろそろ現実を見るようになってアニメからは手を引いた、という常識人もいるが、大半は、父親が結婚をした時に、彼らのほうから離れて行ってしまったのだそうだ。
「美人と結婚して幸せな家庭を築くよーなやつは俺たちの仲間じゃない、って言われちゃった……」
 と父はしょぼんとしながらその当時を回顧するのだが、史緒はそれを聞いて戦慄を覚えた。結婚するというだけで、仲間を突き放すオタクの世界。怖い。
 そんなわけで、古くからの仲間を失ってしまった父親は、現在では一人孤独にせっせと趣味に勤しんでいる。ネットなどで知り合い意気投合してオフで会っても、またはオタクの祭典などにみっちり参加していても、顔だけは飛び抜けてイケメンな父は、オタクのみなさんからドン引きされてしまい、誰も仲良くしてくれないらしいのである。一般人からも引かれ、オタクからも引かれてしまう父。気の毒だ。
 つまり、父親には、面と向かってただいまのイチ押しアニメについて心ゆくまで語らうことの出来る相手がいない。「パパ寂しい」 と呟くその姿が本気で寂しそうなので、やむなく、オタク友達を失う原因となった母親とか、史緒とか、まだ保育園児の卯月とかが、話を聞いてあげたりするわけだ。

 ここをはっきりきっぱり強調したい、「やむなく」 ですよ?

 決して、母も史緒も卯月も、好きこのんでそんな話を聞きたいわけではないのである。身を入れて聞いているわけでもなく、卯月なんて保育園児なのにすでに 「話を聞き流す」 という高等技術を体得しているくらいなのである。はっきりいって、ぜーんぜん、それについての興味なんて、自分たちにはこれっぽっちもないのである。
 いわば、愛情というか、扶養家族の義務というか、これがいちばん大きいが父への同情というか、そういうもののためにいろいろ辛抱し、貴重な時間を削って、へー、あー、そー、と頷いているに過ぎないのである。
 しかし父はそう思ってはいないらしい。
 これがオタクの困った点で、父親はどうやら一点の曇りもなく、「自分がこんなに楽しいものはみんなも楽しいはず」 と信じている、ようなのだ。そしてその上、 「自分が恥ずかしいと思わないものはみんなも恥ずかしくない」 とも、信じているようなのだ。
 もともと彼は明るい系のオタクのため、ご近所さんでも会社でも、自分の趣味を隠したりはまったくしない。町内会の集まりがあればついつい町内を舞台にした愉快なアニメについて延々と自説を披露して周囲を凍らせ、社内の自分のデスクにずらずらとミニフィギュアを並べて自慢しては、ひそかにイケメン上司に憧れていた新入社員の女の子を絶望の淵に叩き落とすような人だ。そしてそのことに、なーんにも気づかずニコニコしているという、並外れた鈍感さの持ち主だ。そのことを 「恥」 だとは微塵も思わない、それが史緒の父なのだ。
 長くなってしまったが、要するに何が言いたいのかというと。
 身近にオタク友達がおらず、家族も自分と同じでアニメが好きだと信じきっており、オタクだと知られることをまったく恥と思わない父親は、僕はそういうのちっとも恥ずかしくないから、という理由で、「明日発売のアニメ雑誌、買っておいてくれる?」 と、非常に気軽に高校生の娘に頼んだりしてしまう、のである。
 そんなもん、恥ずかしいに決まってるだろ、パパ!


          ***


 というわけで、学校帰り、わざわざ駅のほうまでやって来た史緒は現在、半ば放心状態で、本屋の雑誌コーナーで立ち尽くしている。
 目の前には、くっきりとした色彩でキャラクターが描かれ、デカデカとそれのタイトルの文字が踊る、派手な雑誌がでんと据えてある。制服姿で手に取るのもためらわれてしまうようなソレを、レジまで持っていってバイト店員さんの生温かい視線を受けつつお金を払わねばならないのか。なにそれ、なんの試練?
 この表紙に載っているのが、最近の父の超お気に入りなのだそうだ。今回特集なのでどうしても欲しい、と言う。だったら自分で買えよ、と思うのだが、父は今日は仕事で遅くなるので、夜までに売り切れてしまったらと思うと、居ても立ってもいられないくらい不安だ、と言い張るのである。母は忙しくて本屋に行くヒマがない、と主張するし、卯月はまだ一人で買い物が出来ない。結果的に、史緒にお鉢が回ってくる。一瞬、本気で家出することを検討してしまった。
 どう考えたって、夜までに売り切れるほど大人気な雑誌だとは思えない。つーかこんなもん、買う人いるのか、と一般人としては思わずにいられない。しかし 「だったら会社休もうかなあ」 と言う父と、無言で非難の眼差しを向けてくる母に、徹底的に歯向かうほどの根性は史緒にはない。あまり財政豊かとはいえない我が家は、アニメ雑誌のために父が仕事をサボって左遷されたら、その日から困窮してしまうこと確実だ。
 そんなこんなで要するに面倒になって肯ってしまった史緒だが、いざこの場に来てみたら、やっぱり今ひとつ勇気が湧かない。あー高遠を連れて来りゃよかったな、としみじみ後悔した。あれも恥の概念がない生き物だから、頼めば代わりにレジに向かってくれたかもしれない。アニメ雑誌を買うところを他の誰かに見られたら、やつのファン人口が減ることは必至と思われるが。
 その時、ぽんと肩を叩かれた。

「よ、塚原ちゃん、さっきから何してんの」

 後ろを振り返ると、水島先輩が立っていた。
 ──またか。
 紗菜ちゃんといい、先輩といい、最近、同じような面子とばかり顔を合わせるな。こんなにも世間は狭いものだろうか。
「先輩はなんでそう、わたしの行く先々に現れるんですか」
 純粋な疑問を口にしたら、水島先輩はいかにも不本意というように下唇を突きだした。
「ストーカーみたいに言わないでくれる? 普通に歩いてたら、ガラスの向こうで、塚原ちゃんが腕組んだ渋い顔でじーっと突っ立ってるのが見えたからさあ」
 この本屋は駅に行く途中にあり、正面の壁はガラス張りで、雑誌コーナーはそこに沿って並んでいる。ということは、電車に乗る天漢高校の生徒たちに、今の史緒は外から丸見えだったということか。
「なに悩んでんの?」
「水島先輩は、エロ本を買ったことがありますか」
「…………。なにかな、突然」
「わたしにも今、その気持ちがよくわかるなあと思って」
 はあ? という顔をされて、史緒は、「誰とは言わないがある人に頼まれて、ここにあるアニメ雑誌を買わなければならない」、という現在の状況を苦々しく説明したのだが、先輩はきょとんとするだけだった。
「じゃあ買えば?」
「それって、まるでわたしがオタクみたじゃないですか」
「そう思われて、何か問題でも?」
「これまでの十数年間のわたしの努力が一瞬にして無になるようで、納得いきません」
「意味がわかんないんだけど」
 水島先輩は不思議そうに首を捻ってから、ひょいとその雑誌を取り上げた。
「とにかく、これを買えばいいんでしょ? そんなにイヤなら俺が行ってくるよ」
 そう言って、すたすたとレジに歩いていくその姿は、後光が差しているかのようだった。


 紙の袋に入った雑誌を、はい、と手渡され、史緒はほくほくしながら礼を言って受け取った。これなら、他人からは中に何が入っているか判らない。
「ありがとうございます。今度先輩がエロ本を購入する際は、わたしが代わりにレジに持って行ってあげます」
「ちょっと冷静に考えようか、塚原ちゃん。アニメ雑誌を買う女の子と、エロ本を買う女の子、どっちが恥ずかしいか」
 どっちもどっちだ。でも少なくともエロ本は、買っても 「オタク」 とは思われないからな。
「じゃ、お金……」
 と財布を出した史緒を見て、水島先輩はちょっと考えるような顔をし、「あのさあ」 とニコッとした。
「俺、今すごく腹が減ってるんだよね。それで、このあたりで軽くハンバーガーでも食ってから帰ろうとしてたんだ。本の代金の分、塚原ちゃんがそれを奢ってくれるってことでどう?」
「はあ、構いませんけど」
 先輩の提案に、史緒はひとつ目を瞬いて同意した。どちらにしろお金を払うのだから、現金でもハンバーガーでも同じことだ。でもアニメ雑誌はこれでも千円弱して、ファストフードでそれだけ食べるとお腹いっぱいになりすぎないか? いや、だったらその場合、差額は別に払えばいいだけの話か。
 と思ったのだが、実際に店に入ると、先輩は六百円くらいのセットを注文しただけで、差額分は 「俺の奢り」 と史緒のためにポテトとジュースを頼んでくれた。結局先輩が損をすることになるわけで、悪いなあ、と思いつつ、あまり遠慮のない史緒は先輩と二人で席に座ってありがたくポテトを頬張ることにした。
「おいしー」
「塚原ちゃんてホントに美味しそうにぱくぱく食べるよね。太っちゃう、とかは思わないんだ?」
「食べてから思います」
「それじゃ遅いよ」
 紙コップに入ったコーヒーを片手に、水島先輩が可笑しそうに笑う。
 よくよく考えたら、高遠以外の男の子と、こうしてお店で向かい合ってお喋りするのははじめてだな、と史緒は思った。先輩は気さくな性格をしているから、ついついこちらも女友達と同じように思ってしまうのだが、こんな場面を知り合いに見られたら、また誤解されてしまうんじゃないだろうか。
 ──と思ったその瞬間。
「つ、塚原……?」
 驚いたように名を呼ぶ声に顔を向けると、そこにはまさに、目を真ん丸にした知り合いがいた。やっぱり世間て狭い。
 別の高校の制服を着て、中学の時からまた一段と背が伸びた、田中君。
 トレイを持って呆然とする彼の隣には、見知らぬ可愛い女の子が寄り添っていた。



 まあ、あちらがデート中だということは、一目で判る。
 確か田中君はサッカーで有名な某私立高校に行ったはずだが、女の子が着ているのも、おそらくそこの制服だろうと推測された。さすが私立だけあって、同じブレザーでも、天漢高校の制服よりお金がかかっていそうで、断然垢抜けている。
 田中君はシャイなので、デート中のところを知り合いに目撃されたくはないだろう。一瞬、他人のフリをしようかと思ったが、なにしろあちらから先に呼びかけられているし、田中君は今もこっちを凝視して、その場に棒立ちになったままである。この状況で無視するのは、かえって問題をややこしくしかねない。
「久しぶりだね、田中君」
 そこで、ごくごく無難な挨拶をすることにした。彼女に余計な勘繰りをされないよう、抜かりなく 「わたしたちそんなにしょっちゅう会うほど親しいわけではないんですよ?」 という言葉を入れておく。わたしって、意外と気配り屋さんかも、と史緒は自分に感心した。
 ていうか田中君、いつまでボケッとしてんだよ。彼女がどういう対応をしていいか困って、そっちとこっちをうろうろと見比べてるぞ。
「塚原ちゃんの知り合い?」
 微笑みながら水島先輩がフォローしてくれた。さすが三年生、そつがない。
「小中学校の同級生だったんです。小学生の時は、同じ生きもの係で」
 田中君は生きもの係の仕事を、ぜーんぶ高遠に丸投げしちゃったけどね!
「へえー、生きもの係か。そういやそんなのあったかな」
 水島先輩がなるべく場の空気を和やかにしてくれようとしているらしいのに、肝心の田中君は、固い表情で口を結んだままだ。ひょっとして、生きもの係の話題はマズかったか。心配しなくても、田中君が可愛いウサギが苦手ってことは、もちろん内緒にしといてあげるよ。
「……塚原」
 あ、やっと口を開いた。
「高遠はどうした?」
「へ?」
 なんとなく強張った声で訊ねられた内容に、眉を寄せる。まず高遠の消息が気になるほど、二人って仲良かったっけ?
「元気だよ」
 そんなに気になるなら本人に聞けばいいのに。いや待てよ、そういえば、高遠は今どきの高校生のくせに、携帯を持ってないんだったか。「必要ない」 って言ってたけど、田中君が心配してたから、連絡くらいしてあげなよって伝えておこうかな。
「いや、そうじゃなくて、お前、高遠……」
 田中君は口ごもるようにもごもごとそう言ってから、ちらっと水島先輩を見て、また黙った。先輩は微笑を浮かべたままだったが、今度は何も言わず、その視線を受け止めている。
 ……なんか気のせいか、空気、悪くない?
 田中君は、少しだけ眉を上げると、「じゃあな」 と突然会話を切り上げ、ぷいっと背中を向けてしまった。傍にいた彼女はその態度に戸惑うような顔をしたが、ぺこっと史緒たちに軽く頭を下げ、田中君の後について歩いていった。
「?」
 愛想ないな、田中君。まだ反抗期が続いてんのかな。
「……塚原ちゃんてさあ」
 首を傾げる史緒と、去っていく田中君の後ろ姿を交互に眺めていた水島先輩が、くくっと笑っている。
「ものすごく、ニブいでしょ」
「は?」
 わたしがニブい?
「そんなことありませんよ」
 堂々と言い返すと、先輩は盛大に噴き出した。


 ──で、その後。
 先輩と別れて家に帰った史緒に、「今からちょっと会わないか」 という田中君からの電話が入った。


          ***


 真冬は暗くなるのが早くて、おまけに寒い。
 分厚い上着を着込んで、顔の半分をマフラーで覆い、おまけに手袋までしていったのに、まだ寒い。かたかたと歯の音をさせながら指定された近くの公園に行くと、田中君はすでに来て待っていた。
 街灯のぽんわりとした灯りに照らされた公園に、他に人はいない。そりゃそうだよね、こんなにも寒い時期、わざわざこんな場所に来る物好きはいないだろう。
「田中君」
 と声をかけると、ベンチに座っていた田中君が顔を上げ、こちらを向いた。今日、ファストフードの店で見たような機嫌の悪そうな顔つきではなかったので、なんとなくほっとする。
「悪いな、寒いのに」
「ホントだよ。あったかい飲み物奢って、今すぐ」
「相変わらずだな、塚原……」
 すっぱりと要求する史緒に、田中君はちょっと呆れた顔をしたが、素直に公園内の自販機でホットの飲み物を買ってくれた。昔からだが、彼はわりと気前がいい。
「あのさ……」
 自分もホットのブラックコーヒーを買って、しかし開けもせずに手の中で弄びながら、田中君が言いづらそうに切り出した。
「今日、一緒にいたやつのことなんだけど……」
 そうか、やっぱりそのことか、と納得する。電話をもらった時から、そうじゃないかと予想してたんだよね。
「大丈夫だよ、わたし、別に誰にも言わないから」
「は?」
「田中君が可愛い女の子とデートしていちゃついてた、なんてこと」
「ばっ……そうじゃねえよ!」
 田中君は、暗いなかでもはっきり判るほど赤くなった。中学の時から照れ屋なのは変わっていないらしい。
「いちゃついてねえし!」
「ラブラブだったよね」
「恥ずかしい言葉を使うな! ふつーにポテト食ってただけだったろ! つーかそんな話はどうでもいいんだよ!」
 もう夜なんだから、大声を出すのはやめようよ、田中君。
「──俺の話じゃなくて」
 はあー、と疲れたように田中君が息を吐きだしながら言った。
「お前と一緒にいたやつのことだよ」
「ん? 水島先輩?」
「学校の先輩なのか」
「そうだよ」
 人はいいけど、時々迷惑なことをする先輩だよ。
「……付き合ってんのか?」
 一拍、躊躇するような間を置いて出されたその問いに、史緒は心底びっくりした。どうして天漢高校で広まってる、わたしと高遠と先輩との三角関係 (実体なし) を、田中君が知ってるんだ?
「なんでそれ、知ってんの?」
「な──ホントにそうなのか?!」
 今度は田中君に仰天するように叫ばれて、ん? と首を捻った。微妙に会話がすれ違っている気がする。
「噂を知ってるってことじゃないの?」
「え、付き合ってることが噂になるほど有名なのか?」
「…………」
 なんか変だな。
「えーと、わたしが、高遠君と先輩とで、二股かけてるって……」
「塚原、そんなことしてんのかよ?!」
 本気でショックを受けたような顔をしている田中君を見て理解した。なるほど、根本的なところで話が噛み合ってない。
「だからね」
 しょうがないので、史緒は事の起こりから順を追って田中君に説明した。奈々子に対してしたことを繰り返すだけなので、我ながら手馴れている。
 田中君はそれを聞きながら、驚いたり呆れたりしていたが、しまいには手で顔を覆って呻いた。
「なんでそんなことに……お前アホか」
 聞き捨てならないな。この一連の騒ぎの中で、アホなことを何ひとつしていないのは、史緒ただ一人ではないか。
「じゃあ、あの先輩と付き合ってるわけじゃないんだな?」
「もちろんだよ」
「高遠とは、今も仲がいいんだな?」
「わたしと高遠君とは、小学生の時から仲良かったことなんてないよ」
「お前な……」
 大きなため息をつきかけて、田中君は堪えきれなくなったように噴き出した。外見は随分と大人びてきた田中君だが、笑った顔は腕白小僧だった頃とあまり変わりない。
「塚原が、ぜんぜん昔と変わってなくて安心した」
 史緒が内心で思ったようなことを、田中君が言う。
「えー、そうかなあ。わたしって、そんなに小学生の時と変わらない?」
「高遠のことになると、すぐムキになる」
「そんなことない!」
「ほらな」
 また笑われて、むうっと頬を膨らませる。よし、そんなこと言うなら、こっちから逆襲だ。
「田中君、あの女の子と付き合ってんの?」
 そう聞くと、田中君はまたぱっと赤くなったが、案外拍子抜けするほどあっさりと、「まーな」 と正直に認めた。
 それからぱたりと口を閉じ、下を向いて、手の中の缶を見る。
 何かを言いたいけどすぐには言葉が出てこない、という感じに見えたので、史緒も口を噤んで先を待った。どちらも話さないと、しんとした静寂だけがあたりに満ちる。暗がりの中で、自販機が発する光だけが場違いに明るかった。
 しばらく黙ってから、田中君はぽつりとした調子で言葉を落とした。

「……あのさあ、俺さあ、ずっと好きだった子がいたんだよ」

「え」
 なんだなんだ、いきなり恋バナか。サッカーにしか興味がないと思っていた田中君の口から、そんな台詞が出てくるとは思わなかった。
「けど、そいつ、すげえニブくてさ、何を言っても、何をしても、ちっともこっちの気持ちに気づいてくれなくて」
「それはひどいね」
 史緒は少々憤慨して相槌を打った。田中君はいい子だから、その気持ちだってきっと純情で真っ直ぐなものだったろうに、それにちっとも気づかないとは。
 どこのどいつだ、そんな鈍感なやつは。
「そうなんだ、もう本っ当に、ひどいやつなんだ」
 しみじみ言ってから、田中君はぷっと噴き出した。
「でも、俺がそいつを諦めたのは、それが理由じゃなくて、そいつのそばに、お似合いの相手がいたからなんだよ」
「彼氏ってこと?」
「いや違う。どっちかっていうと、ケンカばっかりしてた。その相手ってのも、見た目はいいんだけど中身はどっかヘンなやつでさ」
「へえ」
 高遠のようなやつは、他にもいるらしい。
「そいつに対して、敵わない、って思ったわけじゃないんだ。確かに、顔も頭もあっちのほうがずっと上だったけど、それは別に問題じゃない」
 田中君だって、サッカーが有名だが偏差値のレベルだって高い今の高校に入るため、ものすごく勉強して、下のほうだった順位を上位にまで押し上げた努力家だ。なんでも実力で勝ち取ってきた彼にしてみれば、そんなことで敵わないと思ったりはしないのだろう。
「なんつーか、その二人が一緒にいると、すごく自然に見える、ってことに気づいたんだよな。ぜんぜん、カップルって感じじゃないんだけどな。けど、他のやつには見せない顔を、お互いに相手の前では見せるんだな、って。……それって、さ」
 一拍沈黙を置いて、何かを決心したかのように、続けた。

「すごく、楽しいんだろうなって、思った」

 それから、やわらかく微笑した。
 その顔は、さっきと違って、ずいぶんと大人びて見えた。
「やっぱり、それがいちばん大事なんだ。俺じゃ、きっとあんな風に、笑わせたり怒らせたり泣かせたりできねえもん。だから俺、これは勝手な願望なんだけど、そいつら二人、ずーっと一緒にいられたらいいよなあ、とか思ってさ。そこだけは変わらずにいたらいいなあって」
 田中君は、けっこうお人好しだ。
「そんで高校入って、一年くらいかけて自分の心を整理して、よしもういいな、って吹っ切ったんだ。……で、今のあいつと」
 付き合いはじめたと。
 ちょっと見ただけだったけど、可愛くて、健康的で、明るそうな女の子だった。あまり女の子相手にべらべらとお喋りするタイプではない田中君のことを、にこにこ笑って受け入れてくれそうな、そんな雰囲気を持った子。田中君にはぴったりだ。
「あの子といると、楽しい?」
 史緒が聞くと、田中君は真っ赤になった。
「まーな」
 ぶっきらぼうなその返事に、史緒はにっこりした。それならよかった。
 そして少し考え、静かな声で呟いた。
「……そういうのは、いいね」
 付き合う、という言葉の定義なんかはともかく。

 一緒にいて楽しいのがいちばん大事、っていうのは、判りやすくていい。

 それから、今の高校のこと、サッカーのこと、小中学校時代のことを、ちょっとだけ話した。結衣ちゃんと瑠佳がどうしているのか、なんてことも話した。今でも時々会うよ、と言ったら、三人揃うとうるせえんだろうなあと田中君が笑った。
 そして、じゃあねと手を振って別れた。



 自宅に向かって歩きながら、史緒は顔を上に向ける。
 真っ暗な夜空には、たくさんの小さな星々が、明るく瞬いていた。吐き出す白い息がもわっと闇の中に消えていく。
 結局、田中君は何が話したくてわたしを公園に呼びだしたんだろ? という疑問はあるが、まあよしとしよう。あれこれと懐かしい話も出来たし。
 小学生の頃のことを思い出しては、声を上げて笑った田中君。昔とあまり変わらない笑顔のように見えて、でもそれは、昔とまったく同じものではなかった。
 そりゃそうか。
 ──まるで変わらずにいられるなんてこと、あるはずがない。
 そこにはちゃんと、数年分の時間の経過が上乗せされているのだから。あの彼女の存在も、大きいだろう。
 ぜんぜん変わらない、と田中君は言ったが、史緒だって変わらないままいられるはずがない。何かは変わらないまま、何かは変わっている。
 生きるって、きっとそういうこと。
 捨てたり、得たり、諦めたり、求めたり。
 そうやって、少しずつ、変化しながら進んでいくんだ。


          ***


 翌日、田中君が恋愛についての悟りを得たみたいだよ、ということを、史緒から伝えられた高遠は、早速放課後に田中君を訪ねて、根掘り葉掘り 「恋とは何か」 をしつこく聞いたらしい。
 田中君はすぐさま史緒に電話をしてきて、
「塚原あっ! お前、高遠になにデタラメなこと吹き込みやがった! いいからとにかくこのアホをすぐに引き取りにこい!」
 と、ものすごい剣幕で怒鳴りつけた。
 史緒はぎゃんぎゃんとやかましいスマホを耳から遠ざけ、首を傾げた。
 ……うーむ、謎だ。
 高遠は、外見以外に、どういうところが変わったんだろうなあ。



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