銀河の生きもの係

高校生編

10.天網恢恢お別れ会 (後編)



 一夜明けて、お別れ会当日。

 実行委員である史緒は、準備のため、他の一般生徒たちよりもずっと早く登校する。お別れ会自体は昼食の後に行われ、終了次第そのまま帰宅、という流れなのだが、実行委員だけは早朝から準備をして、帰りも居残りで片づけをせねばならないのである。なんという世知辛さ。あの時、グーを出してさえいりゃあねえ……
 とにかく、ただでさえあんまり夜眠れなかったのに、朝起きるのも早いのでは、史緒が寝不足になるのは当然の成り行きといえた。しょぼしょぼする目をこすりながら、ふわあと大きな欠伸をする。
 欠伸をしてから、すぐに周囲をキョロキョロと見回してみたが、前にも後ろにも、長い髪の女の子どころか、人っ子ひとりいなかった。なんの心構えもしていない時には現れるのに、こうして待っていると出てこないのかと腹が立つ。
 ひょっとして、早起きして待ち伏せするのがイヤなんじゃないの? わたしだってイヤだけど学校行事のために睡眠時間を削って勤勉に登校してるのに。こっちとあっちの不公平さがますます腹立たしい。
「うあーあ……」
 誰もいないのをいいことに、唸りながら両手の拳を天に突き上げて大きく伸びをする。ついでにコキコキと首を廻してみたりもする。年寄りくさいって? そりゃ、こうも次から次へと厄介な問題が降りかかってきたら、ピッチピチの女子高生だって老けもするさ。
 せっかくだし、この機に、片付けるべきことの整理でもするか。
 まずは今日のお別れ会を無事終わらせること。実行委員の肩書きが外れれば、それだけでかなり荷が下ろせる気分になる。もうこうなったら三年生のみなさんの感傷なんてどうでもいいから、淡々と割り振られた役割をこなしていこう。
 それから時間を見つけて、水島先輩を捕まえ話をする。それも、奈々子には気づかれないようにだ。史緒としては昨夜のうちにケリをつけておきたかったのだが、口を開く前に、先輩が 「返事はまた今度でいいよ、じゃあね」 とさっさと踵を返して立ち去ってしまったのである。あんな内容の話を一方的に言うだけ言って、こちらに言葉を出す時間も与えてくれないってどういうことなの。おかげで、肉体も精神も疲れてるっていうのに、ちっとも寝つけなかったよ。
 そして、最大の厄介事。
 これはなあ。なにしろ相手が出てきてくれなきゃどうしようもないのだけど、いつどんな状況で出現するのか、史緒にはまったく予想がつかない。時間や場所に規則性があるとも思えないし。史緒はアニメはともかくゲームにはあまり詳しくないので、ランダムで登場するキャラの行動を計算することには慣れていなかった。
 ──でも、ひとつ言えるのは。

 あっちも今のところ、高遠には見つかりたくない、と考えているらしいということだ。

「…………」
 口を結んでじっと考えながら、史緒は天漢高校への道を進んだ。


         ***


 お別れ会ってのは要するに、有志での演芸発表会である。と、史緒は思っている。
 歌があったり、ダンスがあったり、コントがあったり。舞台に出てそういったことをするのは一年生か二年生、と決められているわけだが、たまに三年生が飛び入りで参加する場合もある。
 舞台上から、「ナントカ先輩、卒業おめでとうございまーす、最後に一緒にやりましょう!」 と熱く呼びかけられて、そのナントカ先輩が苦笑しながら客席を立ち上がり、前方に向かって行ったりするのである。で、急遽マイクを持って歌いだすナントカ先輩に、観客からキャーキャーと黄色い声が上がったりするのである。結構なことです。微笑ましいですね。会場もわいわいと盛り上がって、なによりです。
 しかし、その突然の予定変更に合わせ、バタバタと動き回らなければならないのは、史緒たち実行委員なのだ。慌てて新しいマイクの準備をし、照明係が台本とは違う流れにオロオロし、進行役がどんどん延びていく時間に泣きそうになる。裏方ってのは大変な仕事だ。史緒はもう、生放送のテレビ番組などをあだやおろそかに観るまいと決意した。

「塚原さん、どうしよ、次の演者がまだかって怒り出して」
「五分くらい待ったって死にゃしないって言っとけば」
「ねえ塚原さん、舞台上で勝手にトーク始めちゃったんだけど」
「司会が割って入ってムリヤリ終わらせればいいでしょ」
「観客席の三年生の一部がものすごく騒いで迷惑なんだけど怖くて注意できないよ、塚原さん」
「可愛い女の子を二、三人揃えて 『静かにしてもらえないと困りまーす』 ってニッコリ笑って黙らせろ」

 その上どういうわけか、一委員でしかない史緒のところに、集中してこういった案件が持ち込まれる。そのたび適当に答えているのに、相手は安心したように、わかった、と返事をし、実際それでなんとか収まるらしいのである。なぜだ。聞きに来る連中の中には幹部の人間もいたりして、ちょっとキレそうになった。率先してこういうことを処理していくのがあんたたちの仕事でしょうが!
 どうも、史緒は実行委員の面々に、「どんな状況でも動じない」「決断を出すまでの時間が短い」「指示が要点だけを衝いていてわかりやすい」 などと思われているらしい。イマイチ頼りないリーダーは、余計なことまでじっくり考えるタイプなので、何を聞いてもすぐに回答が返って来なくて困ってしまう、ということなのだそうだ。あのね、みんな何か勘違いしているみたいだけど、いちいちアタフタしない、すぐに結論を出す、言葉が率直、というのはすべて、史緒が有能だからなどという理由では決してなく、ただ単に面倒くさいからだ。もう一度声を大にして言うが、面 倒 く さ い から!
 要するに、人というのはどんなことでも、自分だけの判断で動くというのがちょっぴり不安だということなのだろう。誰かに 「こうしろ」 と言われれば、背中を押してもらったような気分になり、その分言動に余裕が出て、結果、物事もスムーズに運ぶようになる。そういう点、適当でもいい加減でも、とにかく解決策を明示する史緒という人間は、まさにその役目にうってつけであったらしい。
 そんなわけで、本来ならまったく関係ないことまでやらされ、あっちこっちに引き回されて、史緒はもうヘトヘトだ。お別れ会など、のんびり鑑賞するヒマなどは一秒たりともなかった。
 しかしそれもそろそろ、なんとかつつがなく終了を迎えそうな気配である。こういうのは、裏のほうでは頭を抱えるようなことが多々あっても、それが表に出なければなんの問題もなく進んでいくものなのだ。
 史緒はこの企画実行に携わった人間として、舞台ではなく観客席のほうにばかり目をやっていたが、みんなが楽しそうに笑っているのを見て、素直にほっとした。
 ま、一回くらいは、こういうのを経験するのも悪くない。
 でも、もう二度とやんないぞ!


 退場する三年生を拍手で送り、一年生、二年生もぞろぞろと出て行って、がらんとした体育館を、今度は実行委員総出で片づけだ。
 椅子を畳んだり、機材を元の場所に運んだり、掃除をしたり。舞台の上にあった、周りを花で飾った 「三年生お別れ会」 の看板も下ろして、べりべりと土台から紙を剥がす。
 そういった燃えるゴミは袋に入れて、校内の指定の場所に持っていかねばならない。塚原さん持って行ってくれる? と頼まれて、史緒は了承した。体育館からゴミの収集場所である北門のほうまではけっこう距離があるが、ゴミ袋自体は軽いし、歩くだけなので、どちらかといえばここでの作業より楽な仕事である。お別れ会の間中、分担以外の役目で駆けずり回っていた史緒に、そういう形で気を遣ってくれたらしい。
 ふうやれやれと息をつきながら、体育館を出て、北校舎の裏へと廻る。お別れ会終了後は帰っていい、ということになっているものの、まだ生徒たちの姿もあちこちに見えた。
 北校舎の裏、というのがまた、あまり人目につかないスポットだからか、それらの中には、女子生徒が俯きながらもじもじと男子生徒に何かを話している光景も混じっている。
 ふーん、あれが伝統の、と史緒は感心した。
 そういえば、結局、水島先輩とは話が出来なかったなあ。仕事の合間に声でもかけられたら、と思っていたんだけど、それどころじゃなかったよ。しょうがない、また明日にでも……
 などと考えていたら、その水島先輩が前方にいるのを見つけた。
 先輩はまさに今、伝統の告白タイムの真っ最中らしかった。奈々子ではないが、二年生の女の子が赤い顔で口を動かしている。先輩はこちらに背中を向けているから史緒の存在に気づいていないが、このまま進むとその視界に入るのは確実と思われた。とりあえず足を止め、引き返そうかどうしようか迷う。邪魔をするわけにはいかないし、かといって隠れるのもなんだか変だし。
 しかしそう思っている間に、あちらの用件は済んでしまったようだ。先輩が何かを言ったのか、女の子がじっと耳を傾けている。短い間だったけど、彼女は一瞬くしゃっと顔を歪めただけで、すぐに笑顔になると、ぺこんと勢いよくお辞儀をして、ひらりと身を翻し、駆けだしてしまった。

 ……うーん。

 ぽりぽり頬を掻きながら、史緒はその場で立ち止まったままだ。どうしようかな、これ。この状況で、こんにちはと声をかけていいものか。
 今度もまた、迷う時間は続かなかった。先輩のところへ、その友達らしい三年生の男子生徒たちが三人ほど、声をかけながらわらわらと近づいてきたからだ。
 冷やかすように笑っていたり、ばんばんと肩を叩いている様子を見るに、どうやら今の場面を離れたところから見学していたらしい。こうなるともう、先輩と話をするどころではないので、史緒は諦めて歩くのを再開した。軽く頭を下げるだけで、前を通り過ぎればいいか。
 近づくにつれて、今までは聞こえなかった彼らの声が耳に届くようになる。別に聞き耳を立てなくとも、勝手に聞こえるのだからしょうがない。先輩の友人たちは、わざわざ声を抑えようという意志が、まったくないようだった。
 それくらい、彼らにとって、それは軽い内容だったのだろう。
「あーあ、こんな悪い男のどこがいいんだろうなあー」
「ホントだよなー、あの子けっこう可愛かったじゃん、もったいない。可哀想だから、今から追いかけていって、水島は自分の個人的な仕返しのためにひとつのカップルを破局させようとする最低なやつだよ、って教えてやろうか」
「そうだよ。元カノが自分と別れた後、けろっとしてイケメン下級生にきゃーきゃー騒ぐ姿を見て、それが悔しかったっつーのはわかるけどさあ。だからって、その下級生の彼女にちょっかいかけるか、普通?」
「女の子たちはみんな、お前の上っ面の爽やかさに騙されるんだよなー」
「高遠の彼女の子、お前のことは優しい先輩だって思ってんだろ? それが計算だって知ったら、傷つくんじゃないかあ?」
「…………」
 口々に出される言葉は、非難の色合いを帯びているものの、基本的には声も顔つきも明らかに面白がっていた。中央にいる先輩は、彼らのように笑ったりはしなかったが、否定も反論もせず、じっと押し黙っている。
 史緒は少し考えてから、ゴミ袋を提げて、すたすたとそちらに近寄っていった。彼らの傍まで行って、ぴたりと足を止める。
 水島先輩を囲んでいた三人が、いきなり接近してきた女子生徒に一瞬怪訝な顔をし、それからぎょっとしたように表情を強張らせた。
「こんにちは、水島先輩」
 挨拶をすると、そちらを振り返ってようやく史緒に気づいた水島先輩は、驚いたように目を見開いた。
「塚原ちゃん……」
 それから、少しだけ泣きそうに眉を下げた。


          ***


 三人の三年生たちが気まずげにそそくさと退散していくと、水島先輩は制服のズボンのポケットに両手を突っ込み、史緒と向き合った。
 口許に、苦い笑みを刻む。どこか悲しそうな眼差しで、彼が最初にしたのは、言い訳でも弁解でもなく、謝罪をすることだった。
「──ごめん。そういうこと」
 正直に認めてから、目を伏せる。
 史緒は首を傾げた。
「先輩の元カノは、高遠君のことが好きなんですか?」
「いや、好きっていうか、アイドルみたいな感じで見てるだけなんじゃないかな。こっそり写メ撮ったりさ、二年生の教室を友達と覗きに行ったり。今日も、お別れ会が終わったらみんなで高遠のところに行って、一緒に写真を撮ってもらおう、ってはしゃいでたよ」
 それが成功する確率はたぶん低いと思うな。小中学校でもそういうことが数えきれないほどあったけど、そんな時、高遠は必ず行方をくらますそうだから。
「で、先輩はまだ、その元カノに未練がたっぷり残って……」
「いや、違う違う」
 ちょっとだけ慌てて、水島先輩はポケットから出した手を振った。
「未練、とかじゃないんだ。いやホント。……でもさ、俺、その子のことがけっこう本気で好きでさ、別れた時には、これでもかなり落ち込んだんだよ。まあ、そんなこと言ってもしょうがないって判ってるし、それについてはもう諦めもついてる。けどさ」
 けど、とぽつりとした調子でいって、先輩は横に視線を流した。
「……俺がそんなに落ち込んでたのに、あっちは、ぜんぜん平気そうだったんだ。別れてからわりとすぐに、高遠にきゃあきゃあ言い出して、俺、それがかなりショックだった。彼女が、俺が傷ついたほどにはまったく傷ついていない、って事実を知って、無性に悔しかったし、ヘコんだ」

 彼女にとって、自分の存在は、その程度のものだったのかと。
 自分のことは、そんなにもあっという間に、「思い出」 に変えてしまえるものだったのかと。

「実行委員会で、塚原ちゃんに仕事を頼んだのは誓って偶然。大体、俺、その時まで高遠のこともよく知らなかったし。やけに目立つ二年生、って認識くらいしかなかった」
 そうだろうな、と史緒も思う。紗菜ちゃんが高校にまで押しかけてきた時、水島先輩はそこではじめて高遠のことを聞いて、意外そうな顔をしていた。あれが演技であるほど、役者ではないだろう。
「でも、塚原ちゃんが、高遠と付き合ってるって聞いて」
「付き合ってません」
「…………。そういう第三者の噂を聞いて、それまでとは違う種類の興味を抱いたのは、否定しない。騒ぎになった時、『この機会に、あいつの彼女を横取りして、高遠と元カノの鼻を明かしてやれ』 とか、『その子がお前を選んだら、お前のほうが高遠よりも上ってことだ』 とかって周りに言われた時も、ちょっと心が動いた。それも本当」
 なるほど。あの時、「見当違いな同情と激励と説教をされた」 って言ってたもんね。先輩には先輩の、入り組んだ事情があったのだ。
「実際に、そんなことを考えたわけじゃない──と、思う。高遠のこととは別に、俺は塚原ちゃんを気に入ってた。けど、じゃあ、元カノへの意地が微塵も存在していなかったかと問われれば、自信がない。汚い計算も、多少はあったかもしれない。だから、さっきみたいに言われても、一言も言い返せなかった。言い返せないでいると、本当にそうなのかな、って自分でもますます判らなくなってさ」
 自嘲気味に、ちょっと笑った。
「……でも、塚原ちゃんと一緒にいたら楽しいだろうなって思ったのだけは、嘘じゃない。付き合って、って言ったのも」
 ぼそりとそう呟いてから、何かが塞がってしまったかのように口を噤んで、下を向く。その先をどう続ければいいのか、先輩自身、よく判らないようだった。

 ──人の心は、複雑だ。
 自分のものなのに、自分でも、よく判らなくなることがある。

「わたし、昨日の返事をしようと思って」
 史緒が言うと、先輩はのろのろと少しだけ顔を上げた。何を言われるかはもう判っているかのように、諦めきった目をしている。
「先輩とは、お付き合いできません」
「……うん」
 先輩が、小さく息を吐く。その顔つきは、どこか寂しそうで、でもどこか、安心しているようにも見えた。
「わたしにとって、水島先輩はずっと優しい人でした。時々調子のいい、けど基本的に、他人への思いやりを持った人です。高遠君や元カノのことがなくたって、先輩のそういうところはまったく同じだったと思います。それは絶対、そう思います。先輩自身がどう思っていようが、わたしはそう思う。だからこの返事は、そのこととはぜんぜん無関係です」
 水島先輩は、ひとつゆっくりと瞬きをして、じっと史緒を見つめた。
 やがて、その目がふっと和んで、口許にさっきまでのとは違う、柔らかい微笑を浮かべた。
「じゃあ、断る理由を聞いてもいい?」
「…………」
 史緒はしばらく無言だった。先輩は辛抱強く待っている。
 その問いに対する答えが史緒の口から滑り落ちたのは、さらに時間が経過してからのことだ。

「──他に、一緒にいて楽しい相手がいるからです」

 その言葉の中身と意味を思えば、どうやってもそうなるはずのない、いかにも不本意極まりないという口調、ものすごくイヤそうな顔、悪いことをしたくせにふてくされて渋々謝る子供のような態度に、先輩は思いきり噴き出した。
「やっと言ったね。まったく意地っ張りだなあ、塚原ちゃん」
「ふん」
「女の子がそんな可愛くない顔しない。……いや、塚原ちゃんは、そういうところが可愛いのか」
 くっくと笑い続けている先輩の背後に、新しい人影が寄ってきていることに、史緒は気がついた。その女の子は、真っ赤に頬を染め、緊張しすぎでガチガチに固まった表情で、右手と右足を同時に出すような歩き方をして、つんのめりそうになりながらこちらに向かってきている。
「み……水島先輩、す、少しだけ、時間をもらっていいですか」
 普段、部員をしごく時のドスの利いた声とはかけ離れた、震えるようなか細い声だ。
 先輩が後ろを振り返り、軽く首を傾げる。史緒はぽんとその背中を叩いた。
「二年A組、ソフトボール部のキャプテン、奈々子です。よろしくお願いします。……じゃ、また」
 水島先輩は、何かを思い出したように、眉を少し上げた。ああ──と、いっぺんに理解した表情になる。
 それから、さらに真っ赤になった奈々子に顔を向けて、やんわりと目を細めた。
「うん、いいよ」

 史緒はすぐにその場を離れたから、その後、二人がどんな話をしたのかまでは知らない。


          ***


 校舎から距離を置き、北門まで来たところで。
 史緒はようやく、目的の人物と会うことが出来た。
「……今日は一段と、雰囲気がざわざわしているのね」
 ほんの少しだけ眉を寄せ、発されたその言葉は、史緒というより、後ろにある天漢高校という場所自体に向けて出されたもののようだった。
「猥雑な空気で充満している。不快だわ」
 彼女がまっすぐ立っているのは門の外だ。史緒はふと気がついた。
 そういえば、今までにも、学校の周りにはよく現れていたが、校内では一度も姿を見せたことがない。ここまで神出鬼没で、ましてや彼女が身につけているのは天漢高校の制服なのだから、入り込むのは造作もないはずなのに。
 ……ひょっとして、天漢高校には入れない、なんらかの事情がある、とか?
「部外者は立ち入り禁止だよ。どんなご用件で?」
「あら、あなたが私を探していたのではないの?」
 史緒の言葉に、くすり、と口角を少しだけ上げて嗤う。
「うん、そうだね。ちょっと話がしたいなと思って」
「そう。残念だけれど、私はあなたと話なんてないの。話し合いとは、立場が対等な者同士でするもののことよ」
 じゃあ、なんだってこうも頻繁に、ちらちらと史緒の目の前に現れるのだ。追いかければまたすぐに消えると判っているから、史緒は足を動かさないことにした。
 つまり、相手がしているのは、すべて史緒に対する挑発行為ということだ。興味もない、話すこともない、と言いながら、史緒の前にだけ姿を見せて嘲笑う。見ているだけ、と言いながら、わざわざ史緒を怒らせるような行動をする。
 まるでそうやって、史緒が精神的に消耗するのを狙っているように。
「──あの、彼」
 ゆるりと彼女の唇が動いた。史緒の手の指先がぴくりと動く。
「卑怯な人間ね。結局、あなたを利用して、自分の利己心を満足させたかっただけだわ。口先だけではなんとでも言えるもの。地球人というのは、本当に救われない生き物だこと」
 切れ長の美しい眼が、史緒の目を射た。
「あの彼の記憶も抜いてしまいましょうか?」
「…………」
 史緒は黙って、彼女と同じように口の端をわずかに上げた。

 ふざけんなよ、このボケ。

「地球人が、救われないって?」
「ええ、そうよ」
「だったら、あんたはもっと救われないね」
「……なんですって?」
 余裕綽々で浮かべていた笑みらしきものが消える。まとっている空気が、すっと冷たくなった。
 はじめて、感情が表に出たか。存在しないわけではないらしい。
「わたしたちは確かにいろいろと馬鹿なことをするよ。でも、大事なものもいっぱい持ってるし、知ってる。でもあんたには、それがどんなに大事なものかってことが、判らない。理解できない。そういうものを、持ってないからでしょ? だから何も考えずにそういうことを言っちゃうし、しちゃうんだね。あんたからは、きっとたくさんの大事なものがごっそりと抜け落ちてる。足りないんだ。不完全もいいところだね。可哀想に、救われないのは、あんたのほうだよ」
「──黙りなさい、下賤な生物が」
「そういうの、こっちではなんて言うのか教えてあげようか」
 門の中と外で対峙し、史緒は正面から彼女を見据えて、きっぱり言った。

「──最低だ、って言うんだよ」

「黙りなさい!」
 激高した叫びと共に、ぴしっと空間に亀裂が走った。
 史緒は一瞬、顔の前で腕を交差させて身構えたが、特に何事も起こらない。今、確かに 「何か」 があったように思ったのだが。不思議に思って顔を上げると、悔しげに顔を歪めた長い髪の少女の姿があった。
「……! こんなことに防御システムを張って……一体、どういうつもりなの」
 忌々しそうに独り言を言って、それから、眉を上げて史緒を睨みつけた。
「最低ですって? よりにもよってこの私に、地球人ごときが、よくも」
 懐かしいなあ、この台詞。小学生の時、誰かさんも同じこと言ってたぞ。
「覚えていなさい」
 それだけを吐き捨てるように告げると、彼女はふいっとまた電柱の陰に姿を消した。
 ふー……と史緒は深く息をついた。



 ゴミ袋を収集場所に置いて、体育館方面へと戻る。今度は北校舎の裏を通らないルートで行ったら、途中の植え込みのブロックに、高遠が腰かけていた。
「あれ、帰ったんじゃなかったの?」
 ゴミ捨ておよび他のことでけっこう時間を喰ったので、さすがに、もう校内にほとんど生徒の姿はなくなっていた。体育館での片づけも、そろそろ終わった頃かもしれない。
 高遠は呆れるような顔をした。
「何を言ってる、君を待ってたに決まってるじゃないか。仕事が終わったなら、もう帰宅してもいいんだろう」
「あー、まあ、そうだね」
 本当言うと、片づけの後で実行委員会の打ち上げがあるのだが、それはいいか、サボっても。
 それにしても、どうして高遠は、史緒がここを通ることを知ってたんだろうなあ。行きのルートではこの道は含まれていないし、何もなければもちろん北校舎裏を通るコースで戻ってたよ。
 まあいいや、考えるのも面倒くさい。わりと、いつものことだしね。
「今日は疲れちゃった」
 そう言いながら、高遠の隣にすとんと腰を下ろす。高遠はちらっと史緒を見て、鼻で笑った。
「相変わらず、惰弱だな」
「いろいろあってね」
「ろくに休みもせずに、ずっと走り回ってばかりいるからだ。まったく、あんなつまらない行事ごときで、そんなに疲労困憊するなんて……」
 ぶつぶつ言ってから、しょうがないな、というように息を吐く。
「疲労回復には甘いものがいい、と君はいつも言い張ってるだろう。その説に科学的根拠があるかどうかは甚だ疑問だが。帰りに何か食べていくか?」
「あー、うん、そうだね」
 ドーナツとかね。アイスでもいい。寒いけどね。それともクレープとか。
 適当に返事をしながら考えているうちに、頭がぼうっとしてきた。本当に疲れているらしい。そもそもあんまり眠っていないし。そうか、目がとろんとしてきたのは、寝不足だからか。
 なんだろうなあ。風は冷たいし、隣に座るやつも体温が低いから、近くにいたって別に温かくもなんともないんだけど。
 ……なんか、ここ、安心する。
 こてんと近くにあった肩に頭を置いて、目を閉じる。肩の持ち主は、何も言わなかった。
「とりあえず、甘いものよりこっちがいい」
「──そうか」
 一言だけの返事に、またほっとして、史緒はすうっと眠りに引き込まれていった。



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