リライト・ライト・ラスト・トライ

最終章

トウイ



 ──王ノ宮と神ノ宮で起こった騒動が一応の収束を見せてから、十日が過ぎた。


 マオールをはじめとした首都の街はすっかり落ち着いたようで、人々はまた笑顔を取り戻し、元気に日常を送っている。
 しかし、ニーヴァ国内に依然として澱んだ空気が居座っているのは事実だし、首都以外の街では貧しさに喘ぐ民が多くいる。人心を惑わすイーキオの枝も、未だひそかに出回っている恐れがある。砂の国の動向にも気を配らなければならない。
 急逝したカイラック王の跡を継ぎ、正式に即位したカイラス王は、これからこの山積みの難題を、ひとつずつ片づけていくことになる。王に即位後の最初の仕事は、イーキオの枝を危険物に指定し、使用と所持を禁じる法を整備することだった。現在この国にあるものは、直ちに一掃させる手立てをとるという。
 困窮している街の救済と、経済の立て直しと、他国に対する守りの強化と。
 次から次へとしなければならないことに追い立てられて、きっと今頃、あの気弱な王は目を廻すような気分でいることだろう。大臣たちに突き上げられて、また泣いていないといいのだが。


 しばらく神ノ宮の敷地内を我が物顔で歩き回って、神官たちを恐怖のどん底に突き落としていた妖獣 「アオ」 は、やっと草原地帯に帰っていった。
 シイナの傍らにべったりとくっついていると思ったら、ふと、耳をそばだてるようにぴくぴくと動かし、いきなり尻を上げたのである。金色の目が人間には見えないところに向けられているので、幻獣が呼び戻しているらしい、ということが俺にも判った。草原地帯の護り役だもんな。いつまでも不在にしているわけにはいかないのだろう。
「アオ、帰っちゃうの?」
 少し寂しそうにそう言うシイナには大きな濡れた鼻を寄せて、帰れ帰れ、と内心でこっそり思っていた俺には叩きつけるように尻尾を振って、妖獣は来た時と同じように唐突に姿を消した。あいつ本当に可愛くない。
 妖獣に怯えて私室に閉じこもっていた大神官は、現れの間の壁が扉の絵ごと破壊されているのを知って、とうとう心労で寝込んでしまった。主殿内にいた警護も侍女も、それについては 「知らない」 と言い張り、首を振る。近々、大神官は引退し、他の神官にその地位を譲るという噂だ。
 いつもなら奪い合うようにして神官たちが群がる最高責任者の椅子だが、今回はなぜか、ちっともなり手がおらず、後継者選びに苦心しているらしい。


 街に暮らす住人たちの中で、王ノ宮と神ノ宮で起きた出来事に神獣の守護人が大きく関わっていたことを知る人は、ほとんどいない。


          ***


 そんなある日、シイナが俺たちに、「新入り」 を紹介した。
「このたび、神獣の守護人の侍女を務めさせていただくことになりました、セラと申します。よろしくお願いいたします」
 そう言って、微笑んで頭を下げて挨拶したのは、王ノ宮の侍女をしていたセラさんだった。シイナが王ノ宮から 「スカウト」 してきたのだという。
 セラさんの有能さと頭の回転の速さはよく知っていることであるし、それでなくともこの人の助けがなければどうなっていたか判らない。俺たちにとって恩人にもあたる人だ。この神ノ宮で一緒に働けるのは嬉しいと、素直に思う。
 これからはミーシアと二人で、守護人の両脇をがっちり固めてくれるのだろう。そう考えれば、非常に心強い。彼女を王ノ宮から引っ張ってきたシイナの判断は納得できる。
 そう、そっちは納得できるのである。セラさん本人も喜んでいるようだし。シイナが誘いをかけた時、彼女は二つ返事で了承したというのだから、双方ともに良い話であったのだろう。めでたいことだ。
 ……そっちはね。

「そして、もう一人。新しく、神獣の守護人の護衛官に加わることになった、メルさんです」

 シイナに紹介されて、その男は腕を組み、ものすごくふてくされた顔をしていた。すでに俺たちと同じ神ノ宮の護衛官の制服に身を包み、腰に剣を帯びてもいるが、明後日の方向を向いている顔は、全然まったく嬉しそうじゃない。
 俺とあまり変わらない身長で、男にしては結構細身。髪の毛を短く切っても、やっぱりその顔立ちは美形と言って差し支えないくらいに整っている。仕草や恰好に女っぽさがカケラも残っていない分、男に好色な目で見られるよりは、女性に黄色い声を上げられそうだけど。
「メルディ……」
 つい、同情的な声が出てしまった。どんな経緯でこういうことになったのかは知らないけど、知らなくても、なんだかちょっと気の毒な予感がする。
「カイラス王にもらいました」
 シイナの言い方は、どう聞いても、「お菓子もらっちゃった」 という感じにしか聞こえなかった。
 その表情にあまり変わりはない。以前よりもずっと柔らかくなったとはいえ、どちらかというと無表情に近い。きっとこれがもう身についてしまっているのだろう。でも、わかる。なんとなく、わかる。ダテに俺も今までこの人を見てきていない。

 すっげえ楽しそう……

「まったく冗談じゃないですよ」
 メルディ──いや、「メル」 という名の新米護衛官──は、くるりとこちらを向いたかと思うと、怒涛のように不満をぶちまけた。
「どうして私が、有能な密偵であるこの私が、神ノ宮の護衛官なんぞにならなくちゃいけないんです? まだ新王と契約を交わしていないからいいだろうって、王と守護人だけで勝手に決めちゃったんですよ。カイラス王もカイラス王で、機密を抱え込んだ密偵を他人に渡しちゃうなんて正気の沙汰じゃないのに、絶対にそれがわかってないんですよ。軽率にもほどがある。ください、どうぞ、で済む話じゃないんですよ、本来なら。わかります?」
 シイナはたぶん、これ以上メルを、血の契約ってやつに縛らせたくはなかったんじゃないかな。俺はそう思う。メルもそこは理解しているのだろうけど、ひねくれているから、こんな風にしか態度に出せないのだろう。
 まあ、実際、モノみたいにやり取りされたのがとてつもなく不本意、というのもあるかもしれないが。そしてシイナはその様子を心から楽しんでいるのかもしれないが。
「大体ねえ、私ほどの才覚を持った人間が護衛官なんて、どうかしていますよ。人には天分というか、向き不向きってのがあるんです」
「誰もお前に護衛官としての仕事なんざ期待してねえっつーの。そんなもんは表向きの名目に決まってんだろ。守護人の身を護るのは三人いれば十分だし、お前はシイナさまの密偵として、情報を持ってきたり、裏で根回ししたりすりゃいいんだよ」
 ハリスさんがふんと鼻を鳴らして冷たく言い放った。この二人は互いに信頼し合っているかと思えば、やっぱり顔を合わせるとどうしても喧嘩を始めないと気が済まないらしい。
「だから、それですよ。シイナさまなんて、どーせ私をこき使うに決まってる。絶対人使いが荒いですよこの人は。だったらまだしもカイラス王の下にいたほうが楽だったじゃないですか。剣なんて重いし、男所帯はむさいし、報酬だって王ノ宮と神ノ宮とでは比べ物になら」
「いたたた」
 止まることなく不満を並べ立てていたメルの口は、シイナが自分の脇腹を手で押さえた途端、ぴたりと閉じた。
 ミーシアが心配そうに、「どうなさいました、シイナさま」 と腰を屈めて覗き込む。
「……いえ、ちょっとナイフで切りつけられた傷が痛んで」
 やや伏し目がちになったシイナに、ミーシアは、自分のほうこそ苦痛を感じるかのように眉を寄せた。
「まあ、お可哀想に……! 私、傷跡を見た時は心臓が凍るような思いをいたしました。一体、そのような真似をしたのはどのような不逞の輩なのですか。神獣の守護人に……いいえ、それでなくとも、シイナさまのように小柄でか弱くもいたいけな少女に刃を向けるなどという、道義に外れた人でなしは!」
 か弱い……かな。いたいけ……だっけ? ミーシアの顔つきと口ぶりにはこれっぽっちも疑問を差し挟む余地がなくて、俺はちょっと混乱しそうになった。ミーシアがそう言うのなら、そうなのかなあ、という気になってしまう。
「王ノ宮の兵、の恰好をした人に」
 か弱くいたいけな少女であるシイナの、わざとらしく持って回った言葉に、ミーシアはますます憤慨し、メルはぴくぴくと口の端を引き攣らせた。
「王ノ宮を守ることを使命とした兵が、そんな悪逆非道な振る舞いをするなんて! とても許せるものではありません! 兵としても、人としても、最低です! そのような人、私、軽蔑します!」
 もちろん、ミーシアは事の次第をまったく知らないのである。誰も話していないからだ。それなのに、いや、だからこそというか、この反応。さすがミーシア。ハリスさんは下を向いて肩を揺らし、薄々状況を呑み込んだ敏いセラさんは、賢明にも沈黙を貫いている。
「気にしないでください。乙女の柔肌に傷をつけた相手ですけど、わたしは怒りも恨みもしていません。まったく、全然、ちっとも。……で、護衛官としての仕事が何でしたっけ、メルさん」
「──なんでもありません」
 さすがにメルといえど、ミーシアに軽蔑されるのは避けたいらしい。憮然とした顔で、「職務に尽くします」 と、ロウガさんみたいなことを言った。勝負あり。

 しみじみと思う。
 やっぱりちょっと、気の毒だ。

「……ひとつ、重要なことを確認したいんだが」
 ここで、ずっと黙っていたロウガさんが、ようやく口を開いた。
「その……メルディ、いや、メルの性別は、男、ということで間違いないんだな?」
 どうも、未だに信じ切れないらしい。まあ無理もないか。旅の間、メルはずっと完璧に女として通していたもんな。柔軟な思考のミーシアはもうすっかりその事実を受け入れているようだが、頭の固いロウガさんには、それは容易なことではないのだろう。
「あとでいくらでも確認させてあげますよ」
 メルがむくれながら、品のないことを言った。
「いや、それには及ばないが……しかし、そうすると、旅の道中、シイナさまとミーシアと男が同じ部屋に寝泊まりしていたわけで……」
 兄として、この上なく複雑である、と。
 メルは肩を竦めた。
「余計な心配ですね。色気があって後腐れのない妙齢の女性にしか、私は興味がございません。誰が好きこのんで、こんな面倒そうな鈍感堅物女と、こんな凶暴で性格が悪くて可愛げのない子供に……」
 その台詞が終わる前に、シイナの剣の鞘がメルの腹に食い込んだ。手加減がないのは同じだが、男であることが知れたら、攻撃も堂々としたものになった。というか、傷が痛むのではなかったのか。
「余計なことを言うと、トウイにも殴られるぞ」
 ハリスさんが笑いながら、いきなり俺のほうに話を振った。
 え、と口を開ける俺の顔を見て、にやりと唇の片端を上げる。
「なんたって、今がいちばん楽しい時期なんだろうから、なあ?」
「おやおや、そうでしたか。ちょっと離れている間に、何があったんですかね。ぜひお聞きしたいものですね」
「なっ……!」
 楽しそうな口調でからかうハリスさんに、腹を押さえたメルまでが興味津々の顔で乗っかって、俺は大いに慌てた。ロウガさんにじろりと睨まれ、ミーシアにはきょとんとされ、さらに冷や汗が出る。
「まあ、トウイさんとシイナさまは、恋人同士であられ……」
「わー!」
 微笑ましそうにとんでもない単語を口にするセラさんを遮り、俺は両手を意味もなく上下させて叫んだ。そんなことを、さらっと言うのやめて!
「それが俺もわかんねえんだよなあ。二人きりでいる時に何かがあったんだろうが、その間ほとんどシイナさまは意識がなかったわけだし」
「ははあ、すると、意識がないのを幸いと手を出して、不埒な真似に及……」
「トウイお前なんていうことを!」
「違いますって!!」
 ロウガさんに殺されそうになったところで、シイナが 「まあまあ」 と中に入り助け舟を出してくれた。
「ハリスさんとメルさんの悪ふざけを真に受けちゃダメですよ、ロウガさん。あの二人はともかく、トウイがそんなことをするわけないじゃないですか」
「そ、そうですよ」
「ねえ?」
「……ねえ」
 信頼、と書いてあるような視線を向けられ、俺はさりげなく目を逸らす。
 ──言えない。

 シイナの意識が朦朧としていた間に、衣服を半分脱がして脇腹に直接吸いついた、なんて。
 キルケの草を煮詰めて作った毒消しを飲ますために、何度も唇を重ねた、なんてことも。

 い、いや、でもあれは純然たる治療行為であって、下心なんてまったく入り込む隙間がなかったし。大体、あの時は俺の頭も到底まともとは言い難い状態で、その行為のほとんどが記憶に残っていないくらいだし。白い肌の滑らかさとか、唇の柔らかい感触とか、思い出そうったって思い出せないんだから。ちっとも思い出せ……もうちょっと覚えていてもいいんじゃないかと思うんだけど……全然ないわけじゃないんだが……頭の片隅にあるのを引っ張り出せば少しは……
「……トウイ、どうしたの?」
 シイナに顔を覗き込まれて、飛び上がった。
「な、なんです?!」
「なんか、ものすごく残念そうな顔をしてない?」
「してません!」
「好物を食べ損ねた、みたいな顔」
「してませんっ!」
 俺の心を読むのはやめてくれ!
 うろたえる俺と、追及の構えを崩さないシイナを見て、ハリスさんとメルが噴き出した。ミーシアとセラさんが声を揃えて笑う。ロウガさんもため息をついてから、口許を綻ばせた。


 神ノ宮は今のところ、平和である。


          ***


 神ノ宮と王ノ宮を行ったり来たりして多忙な日々を過ごしていたシイナは、最近になってようやく、少しは時間の余裕が出来るようになったらしい。
 最奥の間から出てくると、いつもならせかせかと別の場所に向ける足を、今日はのんびりと動かして、主殿建物の裏手に廻った。
 サリナの耳飾りが埋められた場所に到着した途端、その場所で腰を下ろし、はあーと大きく息を吐く。
「疲れちゃった」
 ぽそりと落とされた言葉は、隣に座る俺ではなく、サリナに向かって零しているようだった。
 ふわりと吹いた風が、彼女の黒髪をなぶるように揺らす。大変でしたね、と優しく労わっているみたいだな、と俺はぼんやり思った。
「神獣はどうです?」
「いつも通り、憎たらしい」
 俺の問いかけに、忌々しそうに答えたかと思うと、シイナはくるっとこちらを振り向いた。眉が吊り上がっている。
「神獣がね」
「はい」
「……なんでもない」
 何かを勢い込んで言おうとし、結局やめて口を噤む。外に出さない分、中のものが余計に膨れて溜め込まれてしまったようで、シイナはいよいよ不機嫌そうに、むっとした顔になった。
 どうやら、また言い合いになったらしい。一時期、力を失っていた神獣は、今ではすっかり元通りになって、あれこれと憎まれ口を叩くのだという。どんな内容なのか、シイナがそれを口にすることはないが、「いちいち腹立たしい」 のだそうだ。それでも、以前よりはずっとマシになった、とのことだが。
「もしかして、それでまた、剣を抜きました?」
 俺はそう言って、シイナの右手を取った。思った通り、力なくだらんと垂れた指がわずかに震えている。腹を立てて剣を振った挙句、撥ね返されたのだろう。もう力が戻ったのだから、そうなることは判っているのに。
「そろそろ懲りましょうよ」
「キミはトウイに比べたらまだまだだね、って笑われた」
 悔しそうに口を曲げてぶつぶつ言う。
「ボクを倒したいのなら、トウイくらい生き意地が汚くならないと、だって」
「…………」
「やっぱり力のないあの時に、首を締めておけばよかった」
「同感です」
 頷いてから目を見交わし、同時に笑った。
 ……どんな言葉を投げつけられたのかは知らないし、本人が言いたくないのなら無理に聞こうとは思わない。

 神獣は、シイナを怒らせはするけれど、もはや傷つけることはない。
 それが判ればいい。

「そういえば、俺、聞きたいことがあったんですけど」
 自分の掌の上に置いたシイナの手に目をやりながら、俺はふと思い出し、口を開いた。
「うん?」
「旅に出る時、自由を得ることと引き換えにカイラック王と交わした密約、っていうのは何だったんです? もう教えてくれてもいいでしょう?」
「…………」
 咄嗟に引き抜かれそうになった手を、ぐっと掴んで引き留める。目だけで見上げると、シイナの視線がふらりと泳いだ。
「えー、と。あれは、別に、今となっては大したことじゃないっていうか」
「なんだったんです?」
 語調を強めて同じ問いを繰り返したら、シイナは観念したらしく、短く息を吐いた。
「……旅から戻ったらね」
「戻ったら?」
「王太子の奥さんにならないか、みたいな」
「はあ?!」
 思わず目を剥いて大声を出す。シイナは唇に人差し指を当てて、しー、と言った。可愛い。じゃなくて、何を呑気な!
「カイラス王の? 妃ってこと?」
「ほら、あの時は王ノ宮も、神獣の守護人で人気取りをしようとしてたから。守護人を王ノ宮に引き込んで、神ノ宮よりも権力を大きくしたい、っていう思惑があったんじゃないかな」
 それで王太子とのロマンスを捏造したのか! てことはあの話をした時、シイナはちゃんとその裏の事情が判ってたわけだな! 他人事のようにしれっとした顔してたくせに!
「それを了承したの?!」
「うーん、まあ、旅から帰った後のことなんて、その時にならないとわからないわけだし。明日は明日の風が吹く、って言うし」
「最初から反故にする気満々でしたね?!」
 100日ルールなんてものがあるのだから、その先のことを条件に出されても関係ないやとまったく気にしなかったのだろう。平然とした顔で、わかりましたと嘯く様子が目に浮かぶ。王を相手に、詐欺もいいところだ。悪どい! 前から知ってたけど!
「どうするんですか、そんなこと言っちゃって。カイラック王が亡くなったとはいえ、その密約はまだ有効のままだったら」
 俺は怖い顔で詰め寄ったが、シイナはちっとも気にしていないようだった。
「大丈夫。ちゃんと、カイラス王本人に確認したから」
「確認って」
「そういうお話だったんですけど、わたしをお嫁さんにする気はありますか、って」
「そ、それで?」
「青くなって、泣きだされた。何でもするから、それだけは勘弁してもらいたい、って頭も下げられた。あの人、ちょっと、失礼じゃない?」
「…………。ちなみに、どんな感じでその言葉を出しました?」
「こんな感じ」
 と、シイナが腰の剣の鞘に左手を置き、とんとんと指で叩く仕草をした。うん、脅しだな!
 はあー、と顔を下に向けて大きな息を吐きだす。ホントにもう……
「頼むから、これからそんな口約束はしないでくださいね」
「はいはい」
 軽い調子の声が頭の上に降ってきて、ちょっとカチンときた。判ってないな、この人。
 ぐっと握っている手に力を込める。

「……俺だけですよ」
 ぼそりとそう言ったら、それに対する返事は返ってこなかった。

 顔を上げると、シイナが赤くなっている。
 俺はほっとした。少しは判ってもらえているらしい。
「シイナ」
 握っていた手に、もう片方の手も乗せる。やんわりと包み込んで、まっすぐに黒い瞳を見つめた。
「あ、はい」
 シイナが珍しく上擦った声を出す。俺の手の中にすっぽり納まった一回り小さな手は、もう逃げようとはしなかった。
 いい機会だ。
 一度、ちゃんと言いたいと思っていた。


「──ありがとう(・・・・・)


 囁くように言葉を落とすと、シイナが驚いたように目を見開いた。
 俺はその彼女に向けて、わずかに微笑んでみせる。
 シイナが歩んできた長い道のりに対して、かける言葉はこれしか見つからない。四十九の扉の中にいた俺、今のこの俺が、一人で戦い続けてきた彼女に、ずっと言いたかったこと。

 諦めないでいてくれて。ずっとずっと、頑張って進み続けてくれて。
 ここにいる、俺のところに来てくれて。
 ……ありがとう。



 時々、シイナがどこか遠くを見ていることを知ってる。
 その時彼女の目に映っているもの、心に思い描いているものは、何なのか。
 両親の顔か、故郷の思い出か、失ってしまったたくさんの人たちか、今まで積み重ねてきた記憶の数々か。
 100日を越えたって、何もかもが吹っ切れたわけではないに決まっている。未だに、彼女の中には整理のつかないものが多くしまいこまれたまま、時に顔を出して、どこかから血を流す。見ないでいることも、忘れてしまうことも退けて、彼女はすべてを背負って道の先を進むことを選んだ。
 きっと、これからもまた、シイナはいろんなつらい経験をして、傷つき、心を痛め、苦しんで、もがいて、身を振り絞るようにして泣き叫ぶことがあるんだろう。
 この先だって、何度でも、彼女の許には喪失や別離が訪れる。俺はそれを、どうしてやりようもない。目隠しをし、耳を塞いでやることを、おそらく彼女は望まない。そのたび嘆くだろう。泣くだろう。罪の意識を抱いたりもするだろう。
 ──けれどそれは、シイナが自分の力で乗り越えて、立ち向かっていかなければならないものなんだ。
 別れて、また出会って。失って、新しく何かを得て。悲しんで、そして喜んで。不幸のあとに、幸福を見つけて。
 絶望の次には、希望を探し出して。
 人はみんな、生きていく限り、そうしてやっていくしかない。シイナも、俺も。
 誰もが。


 だから願うよ。
 未来に。自分自身に。胸の中にある決意に。
 この女の子が、今まで隠した涙の数よりももっと多く、笑顔が見せられるように。
 彼女を支えられる、俺であるように。
 いつかまた泣く時は、隣で手を差し伸べて、一緒に運命を切り拓いていけるように。



 シイナがそっと目を伏せた。その眦に、薄っすらと透明な滴が滲んでいるのが見える。
 とても、綺麗な涙の粒だった。
 うん、その涙はいいんだ、大丈夫なんだ──と、俺は安心して、目許を和らげた。


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