リライト・ライト・ラスト・トライ

最終章

椎名希美



 護衛官の四人と侍女の二人を引き連れて、マオールの街に行くことを告げると、表門の門番である二人の警護は揃って顔を見合わせた。
 リンシンさんによって壊された門は、つい先日、やっと修復作業を終えたばかりだ。瓦礫の山は撤去されて、仮の門として建てられていた木製の枠組みも取り払われた。石の破片などがあって危険だし、物珍しげに見物をしに来る野次馬があとを絶たないしで、一時は警護の数を三倍に増やして対応していたのだけど、それもようやくもとの二人態勢に戻ったところである。
「守護さまが街へ行かれるのですか」
「そうです」
「あの……何のために」
「ちょっと遊びに」
「ちょっと、遊びに」
 警護がわざわざわたしの言葉を復唱して、ますます戸惑った顔をする。
「大神官さんの許可は取りましたよ」
 そう言うと、もう一度顔を見合わせて、同時に深々としたため息をついた。
「……では、どうぞ」
 と門を開ける。
「いってらっしゃいませ。どうぞ楽しんできてください」
 二人の警護は頭を下げて、わたしたち一行を見送ってくれた。


「以前よりずいぶんとスムーズになりましたね」
 マオールの街に向かって歩きながら、わたしは感心するように言った。
 旅に出る前はあんなにも大騒ぎして疑われて時間がかかったのに、あの時とは大違いだ。
「まあ、そりゃあねえ……」
 ハリスさんが含みを持たせた言い方をして、苦笑いをする。ロウガさんは少し上体を傾けて、わたしの顔を覗き込んだ。
「大神官様はすんなり許可をくださったのですか」
「はい。『好きなようにすればよろしい』 とか言って」
 久しぶりに顔を合わせた大神官は、見違えるくらい皺と白髪が増えて、一気に老け込んでいた。何を言っても何を聞いても、ちっともこちらを見てくれず、「自分はもう引退するのだから関係ない、これ以上心臓の負担になるようなことを耳に入れてくれるな、勝手にすればいい」 の一点張りだ。
 ぶつぶつ独り言を呟いていたかと思うといきなり喚きだしたりして、情緒不安定なところもあるけれど、基本的にはほとんど私室内で大人しくしていることが多くなったという。
「トシのせいか、あの人もすっかり性格が丸くなりましたよね」
「トシのせい……ではないような気がするんですけど」
「半ば本気でそう言っているところが、シイナさまの恐ろしいところですよ」
 トウイとメルさんがぼそぼそと何かを言っている。
「これから行くのは、どのようなところなのですか?」
 この面子の中でただ一人、事情を知らないセラさんが首を傾げて訊ねた。王ノ宮の近くにはもっと大きな街があるので、マオールの街へ行ったこと自体が、ほとんどなかったらしい。
「シャノンさんのお店です」
「シャノンさんのお店、というと」
「飲み屋さんです」
「はあ……」
 ぱちぱちと目を瞬くセラさんに、ミーシアさんが小さく噴き出した。
「そこにね、赤ちゃんがいるのよ」
「赤ちゃん?」
「とっても可愛いの」
 ミーシアさんはにこにこしているけれど、まったく説明になっていない、という点ではわたしとそう変わりがない。いくらセラさんの理解が早いとはいえ、これで判れというほうが無理だろう。
「可愛い赤ちゃん……ですか」
 と困惑するような顔をしている。
「わたしの子なんです」
 もちろんそれは冗談のつもりだったのだけど、セラさんはあまり冗談の通じない性格であったようで、まあ! と目を真ん丸にされた。
「では、シイナさまと、トウイさんの」
「ちょっ……!」
 その言葉に狼狽したのはトウイだ。メルさんが 「おや、そうなんですか」 と驚いたフリをし、ハリスさんが 「そういえば目のあたりがトウイによく似てた」 と笑いながら悪ノリするので、ますます慌てて顔に朱を上らせる。こんなにわかりやすい反応をするから、二人に遊ばれてしまうんだろうになあ。
「そんなわけないでしょ! 俺たち別に、まだそんな……あ、あの、俺、先に行きますね! 何か危険がないか調べておきますから!」
 そう言うや、くるりと身体を反転させて、だーっとマオール目指し一直線に駆けて行ってしまった。脱兎というのはこういうことかと心の底から感嘆するくらい、ものすごい速さだった。
「…………」
 あっという間に小さくなったその背中を眺めて、さすがに何か感じるところがあったのか、ハリスさんは顔から笑いを消した。
「……つかぬことをお聞きしますがね」
 そちらに目線を向けたまま、ぼそりと低い声を出す。わたしも彼と同じ方向に目をやって、「はい」 と返事をした。
「てっきり、二人は上手くいっているもんだと……いや、というか、いくらあいつでも、ここまできたらちゃんとやってるんだろうなと思って安心してたんですが、それは俺の早合点だったんでしょうかね」
「ハリスさんが思っているようなのとは、ちょっと違うかもしれません」
「あいつが護衛をしている時に、二人だけの時間、っていうもんが多少はありますよね?」
「ありますね」
「その時間、話とか……そのなんだ、あれこれに費やすことも可能ですよね?」
「話はよくします」
「……野暮を承知で訊ねますが、あのアホはどんな話をしてますか」
「昨日は、花の種と苗について、を熱く語られました」
「…………」
 ハリスさんはしばらく黙り込んだ後で、わたしのほうを向き、
「……なんか、いろいろとすみません」
 と、真顔で謝った。



 草原地帯から連れ帰った赤ちゃんは、シャノンさんが養い親となって正式に引き取られることが決まった。
 どうにかして神ノ宮で育てられないかと考えていたのだけど、あんな窮屈なところよりは、シャノンさんのようなしっかりした人の許で育てられるほうがずっといいに決まっている。わたしたちはみんな、その報告を聞いて安心し、喜んだ。
 お店に行くと、もうすっかり母親の顔をしたシャノンさんが、愛おしそうに、ルカと名付けられた赤ちゃんを抱っこしていた。
 渡された赤ちゃんを、腕に抱く。その顔をじっと見て、囁くように、「ルカちゃん」 と呼びかけてみた。
 灰色の髪、灰色の目。
 どうしてもニコとリンシンさんを思い起こさせるその色に、この子も苦しむ日が来るのだろうか。
「……マオールにも、やっぱり偏見はありますか」
 わたしのその問いに、シャノンさんは肩を竦めた。
「そりゃあね。くだらないとは思うけど、しぶとく根付いてるものはしょうがないわ。赤ん坊や子供のうちは、あたしが腕力で守ってやれるだろうけど、いつまでもそうしているわけにはいかないしね。せめて、いずれ一人で戦っていけるように強い心を育ててやるのが、親の役目ってもんよ」
「……そうですね」
 うん、と頷いて、赤ちゃんのほうに目を戻す。
 ふくふくとした頬っぺた、血色のよくなった肌、少し体重も重くなったみたい。この先、どんな女の子に育っていくのかな。たくさん笑えるかな。泣くこともあるのかな。なるべく、悲しい思いはしないといいな。
 いろんな人に巡り会って、好きな男の子とかも出来たりして、きっと傷つくこともあって。
 どんなことを胸に抱き、どんなことを夢見て、明日を迎えるようになるのだろう。
 この子はこの子で、自分の、自分だけの人生を歩んでいくんだ。幸せになるといいなと思うけれど──本当に、心からそう思うけれど、この子の運命を決めていくのは、やっぱりこの子自身にしか出来ない。
「……ルカちゃん、これから、仲良くなれるといいね」
 未来への願いを込めて、わたしはその柔らかな頬に、自分の頬をそっと寄せる。
 ルカちゃんは、くしゃりと顔全体で笑った。



          ***


「差別や偏見を世界からなくすなんて、それは無理な話というものさ」
 最奥の間で、神獣はあっさりと言いきった。
 あまりにも当たり前だろうと言わんばかりのその口調と態度が鼻について、わたしはちょっとだけ顔をしかめる。
「そりゃ、すべてを綺麗さっぱりなくすのは無理かもしれないけど」
「カイラス王に頼み込んで、灰色の髪や目を持つ人間を苛めるなと、法でぎゅうぎゅうに取り締まってもらうかい? そんなことをすれば、余計に悪感情を煽るだけだよ。人間なんてものは、ダメと言われたことをやりたがるものだし、それでなくとも 『自分よりも下にいる存在』 を常に必要とするものだ。たとえ灰色の髪を受け入れるようになったとしても、今度はまたその代わりとなる贄を探し出すに決まっている」
「…………」
 相変わらず上から目線の発言には苛つくけれど、否定の言葉は出せなかった。
 自分よりも弱いもの劣ったものを見つけ出して、安心を得ようとするのが人間の性、と神獣は言う。そしてこの世界の場合は、そこにさらに極端な身分社会というものが大きく影響を及ぼしている。でもそれこそ、すぐにどうにか出来るような問題じゃない。
「そんなことを言うのは、結局、自分のためなのかい?」
「は?」
 意味が判らなくて問い返すと、神獣は呆れたような──もっというと、露骨に馬鹿にするような目でわたしを見た。
「なんだ、本当に気がついていないのか。灰色の髪や目を持った人間が差別を受けるという現実は、今後のキミにとっても不利益に働くだろうから、今のうちに何とかしたい、ということだと思ったら」
「今後のわたしにとっての不利益って?」
「キミは本当にバカだね」
 最近の神獣は、「愚か」 の代わりに、「バカ」 を連発する。どちらでも、腹が立つのは同じだ。
「将来的に、キミの産む子供が、灰色の髪、灰色の目を持っていることは大いに考えられるだろう。リンシンのことを思えば、そうなる可能性は非常に高い。そのこと、頭に浮かべもしなかったのかい?」
「…………」
 思わず口を閉じて、まじまじと目の前の生き物を見つめた。

 わたしの、子供……

 そういえば、そんなこと、考えもしなかった。冗談で口にすることはあっても、現実的な問題として自分の身に置き換えてみたことは一度もない。だってわたし、まだ十六歳だし。
 でも、これからもこの世界で生きていくのなら、そういうことがあってもおかしくはない、のか。
「わたしの子供かあ」
 言葉にしても、ちっともピンとこない。幾千、幾万にも分岐していく道の中には、そんな未来もあるのかな。今はまだ、想像も出来ないけど。
「異物のキミの血を引く子供もまた異物だ。キミに似て、さぞかしタチが悪いんだろうさ。リンシンなんて、可愛いものだ」
 そう言う神獣は、どこか楽しげだった。
「だったら、わたしの子が作る運命も、あんたには把握できないのかな?」
「さてね」
「じゃあ」
 わたしは少しだけ口の端を上げて、神獣を見る。
「いつか、わたしの子か、その子の子か、またその次の子供かが、けったくそ悪い神獣って生き物を、倒しにやって来る未来があるかもね。わたしには出来なかったけど、世界の管理者の片割れを、その時こそこの世から消滅させてしまうかも」
 あははは! と神獣が声を上げて笑った。
「そりゃあいい。あるいは本当にいつか、キミの子孫は、この世界を滅ぼしてしまうかもしれないな」
「もっといい世界に変えているかもしれないでしょ」
 いつかね。今は無理でも、数十年、数百年かけて。
 たくさんの仲間を得て、その人たちと手を携え、少しずつ力を合わせて、この世界を大きく変えていくのかも。
「やれやれ、キミは根っからの楽天家なんだね。まあ、そういう人間でないと、神獣の守護人は務まらないんだろう。──自分で運命を変えてやろうなんて、馬鹿げたことを本気で思って、実行してしまうのだから」
 後半は、独り言のような言い方だった。
 神獣の守護人の務め……と、わたしも心の中で繰り返す。100日を越えた時点で、それはもう終わった、ということなのだろうけど。
「まだもうしばらく、神獣の守護人を名乗っていてもいい?」
 そう聞くと、神獣は興味なさそうに視線を宙に飛ばした。
「好きにすればいい。キミはもうボクの守護人ではないけれど、キミがまだその名を必要とするのなら、いくらだって使うがいいさ」
 白しかない部屋の中で、空に据えられたその黄金の瞳は、何を見ているのか。アオと同じで、そこに映っているものを知ることは、人間には決して出来ない。
「……世界の滅びか、再生か」
 「どこか」 に目を向けながら、呟く。

「それではボクはこの場所で、いつか来るその日を見届けよう。キミたち人間が選んだもの、進む道のその先を。キミが変えた運命の果てに、一体何が待っているのかを」

 その時にまた笑ってあげるよ、と神獣は憎たらしいことを言った。


          ***


「……うーん」
 神獣と同じく、トウイの反応もまた、芳しくはなかった。
「差別や偏見がなくなれば、そりゃ良いことだと思いますけど……でもそれは、すぐにどうにかなるようなことじゃないですね。とりあえず、もっと政情が安定してからでないと」
「だよね」
 わたしも短く息をついた。やっぱり、そうか。何事も急いでやればいいというものではないとはいえ──なんだかもどかしい。
 少しやりきりない気持ちになり、頬杖を突いて、周囲を見回す。
 神ノ宮の敷地内にある四阿は、周りを色とりどりの綺麗な花で囲まれて、甘い香りが立ちこめている。
 たまにはこういう場所で休むのもいいでしょうとトウイに言われて、それに肯ったのだけど、たまに通りかかる神官が、わたしの姿を見つけるたびにぎゃっと悲鳴を上げて逃げて行くのが釈然としない。なんなのみんな、人をイジメっ子みたいに。
 四阿内のベンチに腰かけてむっとした顔をしているわたしを見て、傍らに立つトウイがくすくす笑った。
 穏やかな光景だ。けれどそれは、この国、この世界の、すべての場所にあるわけではない。不公平と不平等は、常に存在している。すぐにどうにかなるようなことではなくても、せめていつも、頭の片隅に置いていなければいけないのだろう。

 今もどこかで、誰かが泣いているかもしれないこと。

「政情の安定か……」
 口の中で転がすように言ってみて、わたしは首を傾げた。
 それでさえ、一体どれくらいの時間がかかるのか、現在の時点でまったく見通しは立っていない。カイラス王は一生懸命やっていると思うけど、大臣たちの中にはまだまだ彼を侮っている人も多くて、そちらのほうも油断がならない。砂の国と通じていた大臣の一人が処罰されて、一応今のところみんな大人しくはしているようだけれど、これから反旗を翻す人物が出てこないとも限らない。
 カイラス王は民のことを思いやる心があるし、自分が戴いている王位というものに対しても謙虚であろうとしている。もっとたくさん経験を積んで、自信がつけば、カイラック王よりも良い王になると思う。
 とはいえ今のところ、何か困ったことがあるたびに、私は王たる器ではないと悩んで落ち込み、守護どの相談に乗ってくれと泣きついてくる。あまりにヘタレたことを言うので、剣の鞘で殴りつけてやろうかと思ったことも、実は一度や二度ではない。
 旅の間に見聞きしたことを話したり、わたしなりに考えたことを口にしてはいるのだけど、カイラス王が堂々と大臣たちとやり合い、政策を推し進めていけるのはいつになることやら。
 この国がうんと豊かになったら、誰も悲しい思いをしなくて済むのかな。

「……誰かの不幸を望むんじゃなく、みんなが、自分の幸福を掴む努力をするようになればいいのにね」

 ぽつりと呟くと、トウイがこちらに視線を向け、ゆるりと微笑んだ。
「──シイナは、自分の幸せを掴めそう?」
 トウイはわたしと二人きりの時だけ、シイナと呼ぶ。話し方もあまり統一性がない。以前と同じようだったり、最初のトウイのようにくだけた口調になったり。本人はそのあたり、ほとんど自覚がないらしいのだけど。
 そしてたまに、奥深いところに強く静かな何かを湛えたような目をして、わたしを見る。
「…………」
 わたしは少しの間、口を閉じた。
「今も、幸せなんだと思う」
 ずっと抱いていた望みは叶った。トウイは近くにいてくれる。こうして笑いかけてもくれる。仲間もわたしを支えてくれている。
 この状態が、幸せじゃない、はずがない。
「……これから、もっと幸せになったりするのかな。嬉しいこととか、楽しいこととか、いろんなことに笑って、喜んで。温かいものに囲まれて、ぬくぬくした幸せな気持ちで、明日は晴れるといいなって、そんなことだけを思いながら眠るようになるのかな」
「それが、イヤなの?」
 トウイに訊ねられて、首を横に振る。嫌なわけがない。だけど。
 目を伏せると、トウイが小さく、ああ、と声を出した。何かを思いついたように。そして、優しく言い直した。
「それが、怖いの?」
 わたしは、こくりと頷いた。


 ……ずっと長いこと、闇の中にいたの。
 一人、頭を抱え、胸を掻きむしり、気が狂うほどに泣いて叫んでいた時間は、確かにあった。
 あの強い感情は、これからどうなってしまうのかな。
 年月が経つにつれ、いつか、消えてなくなってしまうのだろうか。この先、別れと出会いを繰り返し、愛情を得て、幸せに浸るうち、どんどん新しく積み重なっていく記憶と思い出に押し潰されるようにして、わたしはそれを底のほうに沈めていくだけになるのだろうか。
 きっと、悪いことではないのだろう。生きていく以上は、それは仕方のないことだとも思う。
 でも──どうしても、心のどこかが納得できない。
 自分の内側の何かが、誰かが、本当にそれでいいのかと耳元で問うている。だけどわたしは、それに対して何も言えない。どう返していいのか、どう返すべきなのか、わたしには、その答えが見つからない。
 ただ、途方に暮れてしまう。


「──怖いのは、 『過去』 にしてしまうこと、なのかもしれない」
 自分がしたことに対する罪悪感も、失ったものを想う気持ちも、つらさも、悲しみも、決してなくなったりはしなくても。
 けれど間違いなく、それらは徐々に薄れていくことになるのだろう。あれだけ身を振り絞るようにして泣いたのに、叫んだのに、時の流れは容赦なくそのすべてを 「過去」 へと追いやってしまう。きっと、止められない。
 あの自分さえも遠いところに置き去りにして、未来のわたしはそれを振り返りもせずに、前だけを向いて歩いて行ってしまうのではないか。
 ……それがたぶん、怖いんだ。
「うーん」
 トウイは少し考えるように目線を上げてから、わたしへと戻した。
「でもそれは、薄れていくというのは違うでしょう?」
「え?」
「だって、過去は過去としてそれだけで存在しているわけじゃないんだから。時間の流れの一部として、ずっと今に繋がっているものだ。これまでの時間の分、経験も、記憶も、思い出も、すべてがシイナの中にある。シイナが一生懸命自分の中に取り込んでいったそれらが、血となり、肉となって、現在のシイナを形づくっている。これまで重ねてきた時間、関わってきた人々、交わした言葉、たくさんの記憶や感情は、すべてシイナの一部になって息づいている。……もちろん、これからも」
 たとえば──と、トウイは顔を上げて、空中を指し示した。そこに何があるのかと目を凝らしてみたけれど、何もない。
 ただ、風がふわりと吹き通っているだけ。
「いつも考えてはいないかもしれない。だけど、こんな風に、風が吹いたその時に、誰かのことを思い出す。それでいいんじゃないのかな。思い出して、その時だけ立ち止まって、少し泣いたり、笑ったりして、それからまた前を向いていけばいい。俺はそう思うけど」
「うん……」
 わたしもトウイが指し示すところを見ながら、曖昧に返事をした。
 それで……いいのかな。
 まだ、よく判らない。

 だからこれからも、考え続けよう。
 何度も、何度も、考えよう。

「トウイ」
 わたしの呼びかけに、トウイがこちらに向き直った。
「うん?」
「いつかね、神獣の守護人は、またもとの世界に帰ることになる」
「え」
 驚いたように大きく目を見開く。わたしはちょっと笑って、手を振った。
「神獣の守護人の名前が、ってこと。一年か、二年か、三年か、どれくらいかかるかは、わからないけど」
 もともと、この世界に守護人なんて必要ないのだから。
 ニーヴァがもう少し落ち着いて、カイラス王が泣きついてくることがなくなって、神ノ宮がもっと人々に対して開放的になったら。
 何かひとつでも、ほんのちょっとでも、わたしが何かを成し遂げられたら。
 いなくなった人たちにまた会えた時、頑張ったよと言えるようなことが出来たら。
「そうしたら、わたしは何も持たない、一人の女の子になろうと思う」
 今度は、守護人でも、異世界人でもない、ただの一人の女の子として、世界のどこかの片隅で、運命を動かす力の一部に。


 ──神ノ宮を出たら、どこへ行こう。
 王ノ宮と神ノ宮からがっぽりと退職金を貰って、もう一度ニーヴァをゆっくり廻ってみるのもいいな。他の国も見てみたい。まずは草原地帯まで、アオに会いに行こうか。
 守護人でなくなったわたしは、もう、誰からも頭を下げられることもなく、それどころか、誰からも見向きもされない存在になるだろう。
 だけど考えてみたら、いちばん最初からそうだったよね。
 わたしは特になんの力も持っていない、非力で、ちっぽけな女の子。
 ずっと、そうだった。


「……守護人の名前も、なんの立場も権力もない、特別なところなんてひとつもない、ただの 『わたし』 であっても、トウイはそばにいてくれる?」
 わたしのその問いに、トウイは少しきょとんとしてから、ためらうことなく破顔した。
「世界や他の誰かにとって特別でなくても、俺にとっては、今のシイナがただ一人の、特別な女の子だよ」
 そう言って膝を折り、わたしの手を取って、柔らかく目を細めた。
 その左目の上には大きな傷。今までのトウイと同じで、今までのどのトウイとも違うトウイ。
 ……本当はね。
 ハリスさんには謝られてしまったけど、トウイが口にするかなりズレた口説き文句だって、わたしは毎回、ドキドキしているんだよ。もちろん、今も。
 それは彼が、わたしにとっての、ただ一人の特別な人だからだ。
「トウイ」
 わたしは微笑んで、口を開いた。
 もう、やり直しは出来ない。最後の扉を開けて、閉じた輪の中から飛び出したわたしの前には、まっすぐに伸びていく道がある。どこまで続いているのか、その先に何があるのか、まったく判らないけれど。
「あのね……わたしの、名前はね」

 それでも一歩ずつ、進むんだ。
 不安も、恐れも、呑み込んで。


 ひとかけらの、希望(のぞみ)を胸に。



リライト・ライト・ラスト・トライ・完

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