リライト・ライト・ラスト・トライ

第五章

1.月の光



 頭上の月を見上げて、俺は大きなため息をついた。
 夜も更けたこの時間、護衛官詰所の裏手は、しいんとした静けさだけが支配している。
 そりゃそうだ、ようやく仕事を終えてくたくたになっているのに、これ以上まだ外で身体を動かそうなんて物好き、俺以外にいるわけがない。みんな今頃、詰所の中の食堂で、わいわいと賑やかに喋ったり騒いだりしながら、消灯までのわずかな自由時間を満喫しているんだろう。
 暗闇に覆われた周囲は、上から降り注ぐ月光に照らされているだけだった。天上の赤い月は、下界の景色までをも薄っすらと赤色に染める。主殿のあたりとは違い、詰所の裏手なんて場所は、ただの剥き出しの地面が広がる殺風景な眺めだが、それでも昼間のくっきりとした姿とは違い、なんとなくどこか幻想的に見えた。
 いつもだったら、俺は、どんなに疲れていても、ここで一通り寝る前の運動をこなすことにしている。酔狂だなと仲間に呆れられても、子供の頃からの習慣というのは、そうそう変えられない。それをやらないと、かえってそわそわして、なかなか眠りに就けないくらいなのだ。
 ──でも、今夜はちっともそんな気分になれない。
 建物の壁によりかかって地面に座り込み、ぼうっと夜空を眺めている。口から出るのはため息ばっかりだ。
 静かで、ぼんやりと周りが赤く浮かび上がる夜のこの場所は、こちらの心まで透明に澄んでいくようで、気に入っていた。だけど、今の俺の心は、澄むどころか重く沈んだまま、なかなか浮上してこない。
 と、その時、軽い声がかけられた。

「よせよせ、単純バカが難しいことを考えようとすると、ロクなことにならねえぞ」

 揶揄するような口調でそう言いながら、建物の影からのんびりした足取りでこちらに向かってきたのは、ハリスさんだった。
「すみませんね、単純バカで」
 俺も言い返したが、自分の声には、驚くほど力が入っていなかった。それに気づいて口を噤む俺を見て、ハリスさんが少しだけ片眉を上げる。
 やれやれというように肩を竦めると、ハリスさんは俺のすぐ近くまで寄ってきて、隣に腰を下ろした。
「タネルのことはもう気にするな。ありゃ完全に自業自得だ」
 さっきまでの俺と同じように頭上に顔を向けながら、さらりとした調子で言う。タネルさんの名前が出た途端、俺の指がぴくりと動いた。
「自業自得……ですか」
「そうとしか言いようがない。あいつは自分の仲間を罠に嵌めて、罪を着せようとした」
 同じようにさらりとした調子で続けて出された言葉に、俺は今度は自分の手をぐっと拳に握る。罠に嵌めて罪を──そうだ、その通り。ほんの一歩、道が違っていれば、俺は今頃、確実にこの世にはいなかった。
「……タネルさんは、俺がそこまで憎かったんでしょうか」
 剣闘訓練が終わってから、タネルさんからは、それまで以上の敵意を向けられた。罵倒や侮蔑の言葉を投げつけられるばかりじゃなく、時には明らかな暴力を振るわれたこともある。いくら先輩でも、俺だって一方的にやられるのは業腹だから、筋の通らない言いがかりには反論もしたし、詰所内ではなるべくタネルさんと顔を合わさないように調整したりした。
 でも俺は、それはあくまで一過性のものだろう、と思い込んでたんだ。
 もう少し時間が経ってタネルさんが精神的に落ち着いたら、また以前のようにちょっとした意地悪や皮肉を言われる程度になるのだろうと。
 そこに、本気で殺意を抱くほどの憎悪が育っているなんて、考えてもいなかった。
 本当にショックだったのは、タネルさんが俺をハメようとしたことじゃない。そんな行動に走らせるほど、あの人を追い詰めていたのは俺で、そして俺自身がそれをちっとも判っちゃいなかった、という事実のほうだ。
「──だから俺は、ガキだって言われるんですかね」
 下の地面に目を伏せながら呟く。
 俺はもっとよく考えるべきだったんじゃないだろうか。タネルさんの気持ち、タネルさんの怒り、タネルさんの悔しさ。俺よりも五歳年上で、故郷は首都からずっと遠く離れた場所にあり、そこに病を患った母親をたった一人残してきたというタネルさんが、どんな思いでこの神ノ宮での毎日を過ごしていたかということを、もっと想像し、汲み取るべきだったんじゃないか。
 俺はただ、守護人の護衛を命じられて単純に喜んでいただけだった。そしてそれを、タネルさんに向かって、「実力だ」 と傲岸に言い放った。神獣の剣をすぐそばで見ることが出来て浮かれていた。どれだけしつこく絡まれても、そこに本物の憎しみがこもっていることに、気づかないままだった。
 その無神経さと能天気さが、あの人の鬱屈をどんどん深めてしまう原因になったんじゃないか──
「やめとけ」
 ハリスさんがすっぱりと冷たい声音で言って、ついでに、俯きがちになっていた俺の頭をごつんと殴った。
「終わってしまったことを、今さらぐだぐだ考えて後悔したところで、何になる? もっとあいつに優しくしていればよかったのに、ってか? そういうところがガキだっつーんだよ」
 突き放すような言い方に、俺は唇を引き結んだ。
「……でも」
「言っておくが、タネルと似たような境遇のやつなんざ、探すまでもないくらい、護衛官の中にいくらでもいる。もっと入り組んだ事情を背負ってるやつや、悲壮な決意を抱いてここに来たやつもな。けど、そいつらがみんな、タネルのように自分勝手な考え方をするか? 自分の力のなさを棚に上げてお前を逆恨みしたか? 仲間のことも頭に浮かべず罪を犯したか? そんなことねえだろ。タネルがああなったのは、すべてあいつ自身の歪んだ性質が原因だ。どうしようもない。救いようがない。ああいう人間は甘やかせばつけ上がるし、厳しくすれば恨む。他人には、どうにもならねえことなんだよ」
「どうにも、ならない……」
 小さく繰り返す。
 結局あれ以降、タネルさんとは話が出来ないままだった。守護人が去った後、タネルさんはいつの間にかあの場所からいなくなっており、翌日になったらその存在は、この神ノ宮からもひっそりと消えていたからだ。
 夜のうちに神ノ宮を追い出された、ということを、俺は後になって知った。その前に、数人の護衛官からひそかにリンチを受けていたようだ、ということも。
 俺の知らないところで罪を着せられそうになり、俺の知らないところで物事は終結していた。やりきれなさの理由は、ここにもある。俺は当事者だったはずなのに、ずっと円の中心どころか、その外にあり続けていたのだ。
 どうにもならなかった、とハリスさんは言う。
 本当に、そうだろうか。

 あれだけ力があった。自分の強さに自信を持っていた。そのことがなによりの誇りでもあっただろう。自負と誇りは、生きていくための重要な糧だ。俺はそれが理解できる。痛いくらいに、理解できる。
 ──なのに、タネルさんはもう一生、剣を持って戦えない。
 取り返しのつかないこの結果を、何もしなかった俺は、「どうしようもなかった」 で済ませてしまっていいんだろうか。

「ま、それを言うなら、ロウガさんもだけどな。あの人はあの人で、タネルのことについては、なんとかしようとあれこれ心を砕いてたんだが」
 ハリスさんの言葉を聞き、俺は目を瞬いてそちらに視線を戻した。きょとんとした表情の俺を見て、苦笑する。
「そもそも、剣闘訓練でお前とあの男の対戦を組んだのはロウガさんだ。守護人の護衛をどうしてお前が任じられることになったのか、直接戦うことで納得させようとしたんだろう。それが裏目に出て、タネルは余計に逆恨みをこじらせた。どんどんお前に対する言動もエスカレートしていくし、もう見過ごせないってんでタネルを呼びつけて説教かましたら、あの大暴走だよ。わかるだろ、ああいうやつは、救いようがない」
「説教……」
 それは知らなかった。ロウガさんに懇々と諭されて、タネルさんは完全に頭に血が昇ってしまった、ということか。
 道を踏み外してしまうほど。
「そりゃ、タネルはこれから苦労するだろうさ。手も足も、この先自分の意志だけでは自由に動かせないっていうんじゃ、新しい仕事を見つけるのも大変だろう。でも、もう一度言うぞ、それは自業自得なんだ。自分の犯した罪が、そういう形で跳ね返って来たっていう、それだけの話だ。お前にも、ロウガさんにも、後悔はあるかもしれないさ。けど、ああすればよかった、こうすればよかった、なんてことばかり考えたってしょうがない。そうだろ?」
 ハリスさんは、そこで俺の目を正面から見て、口の端を上げた。

誰にも(・・・)やり直すことなんて(・・・・・・・・・)出来ないんだから(・・・・・・・・)

「…………」
 俺は黙ってハリスさんの顔を見返した。
 そう、その通りだ。ハリスさんが言うように、すっぱり割り切ることは出来そうもないけど、起こってしまったことを、今さらあれこれ悔やんだって仕方ない。それはもう、変えられない現実なんだから。
 判っていても胸の中に湧いてくる、このもやもやした感情と、どうやって折り合いをつけるか──は。
 これから、自分自身でゆっくりと考えて、結論を出していくしかないんだ。
「……もうすぐ、消灯ですね。戻りましょうか」
 よっ、と小さなかけ声とともに、跳ねるように立ち上がる。隣のハリスさんも、ゆるりとした動作で立ち上がった。
 俺を見下ろし、にやりと笑う。
「守護人の護衛になってから、ずっと神ノ宮の中にいるもんな。そりゃ、気も滅入るだろうよ。どうだ、明日の夜、街に出るか」
「ええー、ハリスさんとですか?」
 ハリスさんの提案に、俺は思わず顔を顰めた。
「なんだよ、俺と一緒じゃ不満か」
「そりゃ不満ですよ。ハリスさんと一緒だと、どんどん増えていく女の人たちに囲まれて、身動き取れなくなるし。歯の浮くような会話をイヤでも至近距離で聞かされて、何を食べても飲んでもろくに味がしなくなるし。一瞬目を離した隙に、そのうちの誰かと姿をくらましちゃって、結局残った女の人たちに俺が怒られることになるし」
「お前も適当に誰か見繕って、適当に楽しい思いをすればいい」
「そんな芸当、俺には不可能です」
 むっつり返したら、笑われた。「まあ、息抜きくらいにはなるだろ」 と言われて、渋々同意する。ハリスさんがそうやって、俺を元気づけようとしていることは判っている。皮肉屋だし、冷淡なところもあるし、女性に関してはアレだけど、なんだかんだ言って、ハリスさんは面倒見がいい。
 息抜き、か。確かに、今の俺には必要かもしれない。
「──神ノ宮の外に出られない守護人は、どうやって息を抜くんだろ……」
 赤い月を見上げたら、なぜか、俺が罪人として捕らわれた夜の、少女の姿を思い出した。あの時、今と同じように輝く月の光に照らされて、俺の前にまっすぐ立っていたんだっけ。
 独り言としてぽろりと口から出てしまったその言葉を、耳のいいハリスさんはちゃんと聞き取ってしまったようだ。
「アレに、息抜きなんて必要ないんじゃねえの。ていうか、人としての心を持っているかどうかも怪しい」
 と、肩を竦めて言う。ハリスさんはどうしても、守護人にはいい感情が抱けないらしい。普段は、女の子に対してこんな言い方をする人じゃないんだけど。
「そうかな……」
 今度はさっきよりもさらに音量を小さくして、俺は呟いた。
 あの夜の、謎だらけの成り行き。結局、何がどうして、俺の寝台の中に訓練用の剣が隠されてあったのか、さっぱり判らないままだ。
 守護人の少女は、最初から最後まで、ずっと冷静だった。表情にも、特に変化は見えなかった。怒っていたのか、呆れていたのか、いやそもそも何を考えていたのか、俺にはまるで判らない。
 ……でも。
 少なくとも彼女は、俺が犯人だと決めつけることはしなかった。
 神官や大神官に伝えれば、あっという間に俺が罪人として処刑されて話が済んだところを、彼女はまず身ひとつで護衛官の詰所にまで足を運び、事情を聞こうとした。
 人としての心がない、とは、俺には思えない。

 ──だったら、今頃、この月を見上げ、あの少女も何かを思っているんだろうか。


          ***


 けれど実際、守護人は、あんな事件があったことも忘れたように、まったく変わりがなかった。
 あれからどうなったのかと、問いかけてくることもない。普段と同じように淡々と過ごして、歩く時は後ろを振り返ることなく、すたすたと前だけ向いて進んでいく。よくよく思い返してみたら、あの夜、俺は守護人に対して怒鳴るという冷や汗もののことをしたというのに、それについて咎められることもなかった。
 迷いなく前を歩く小柄な後ろ姿を見ていると、あの夜のことは夢だったんじゃないか、とさえ思えてくる。
 いつも通りの守護人。いつも通りの日常。あの不祥事は上のほうに報告されることなく闇に葬られ、護衛官も警護も、誰一人として、あの夜のことを決して口にしようとはしない。神官たちに聞かれる心配のない、詰所の中にあってもだ。何事もなかったように、笑ったりふざけたりしている。
 そんなことはなかった、タネルさんという人は最初からいなかった──そういう気分になってくるほど。
 ……でも、あれ以降。
 護衛官と警護の連中の顔に、今までにはなかった緊張の色が浮かぶようになった。
 タネルさんの件で、昨日と同じ今日があるとは限らないこと、この神ノ宮において自分たちの命はいつ吹き飛んでもおかしくはないほど軽いものだということを、俺たちはみんな、再認識したからだ。知っているつもりだったそのことを、改めて目の前に突きつけられた、と言ってもいい。
 守護人の言葉は、今も俺たちの頭の中にしっかりとこびりついたまま、離れない。


「今日はもう、夕飯まで、部屋から出ません」
 主殿の建物の中を一通りぐるりと巡り、私室に戻った守護人にそう告げられ、俺は軽く頭を下げた。
 そうしながら、廊下の向こう……最奥の間に通じるほうとは別の方向へ、一瞬だけちらりと目をやる。
 パタンと部屋の扉が閉じられるのを見届けてから、「さて、どうするかな」 と小さくひとりごちた。守護人が部屋の中にいる時は、俺たち護衛官はやることがない。
 前に立っている警護に、周囲の見回りをしてくる旨を告げ、くるりと踵を返し、守護人の私室の前から離れて、足を動かす。
 主殿の奥に、人の姿はほとんどない。今はちょうど祈りの時間だから、神官たちはみんな広間に篭っているはず。しんとした静けさの落ちる廊下を、俺はコツコツという音を立てながら歩いた。
 視線だけは前方に向けながら、後ろに神経を集中させる。しばらくそうやって歩いてから、目についた角を曲がった。
 曲がってすぐ、壁に張り付き、剣を抜いた。
 気配を消して、息を殺しながらじっと待つ。しばらくして、パタパタという軽い足音が近づいてきた。
 角までやって来たその足音の持ち主は、躊躇なくそこを曲がろうとし、すぐ目の前にいた俺と顔を突き合わせる形になって、ぎょっとしたように立ち止まった。
 すかさず腕を掴んで身体を引っ張り、壁にその背中を勢いよく押しつける。
「……っ!」
 咄嗟に逃げようとした動きを、肩を押さえつけて封じ、悲鳴を上げかけた口を、剣の切っ先を首元に当てて黙らせた。

「──なんの用? あんた、さっきからあとを尾けてたよね」

 顔を寄せて鋭く睨みながら、低く押し殺した声で問うと、その 「侍女」 はさあっと真っ青になってがたがたと全身で震えだした。
 あまりにも露骨な怯え方に、少々鼻白む。演技かもしれないので油断は出来ないが、これが演技だとしたら大した役者だ。ただでさえほっそりとした体つきの侍女だから、抵抗する様子もなく涙を浮かべているのを見ると、剣を向けていることへの罪悪感と戦うほうが大変だった。
「俺に用事? それとも守護人? 答えによっては容赦しない」
 それでもなんとか冷淡な声を出すべく努力した。いかにも力のなさそうな女とはいっても、守護人を傷つけるのに必要なのは腕力だけじゃない。そうそう簡単に解放してやるわけにはいかなかった。
「…………」
 侍女の白っぽくなった頬が、ひくひくと痙攣したように動く。唇がぶるぶると震えた。何かを言おうとしているようなのだが、なかなか声が喉から出てこないらしい。すぐ眼前に突きつけられた剣に向ける視線は、恐怖のあまりかぴくりともそこから動かない。
 俺は少しだけ切っ先を彼女の首から離し、自分の耳を寄せた。
「なに?」
「……ト、トウ、イ」
 ようやく出てきたのは、掠れた涙声だった。表情と同じ、引き攣ったような口調ながら、懸命に話そうとしているのは伝わってくる。
「トウイ、よね? ミ、ミーシアの、友人、の」
「そうだけど、俺とミーシアの名前を知ってるからって、あんたを信用するわけにはいかないよ」
 侍女であれば、そんなことは知っていても不思議じゃない。そして、「侍女だから」 という言い分は、俺と守護人のあとをこっそり尾けて歩いていた正当な理由にはならない。

「わ、私は、サリナ」

 侍女は、ぱちぱちと強く瞬きして、溜まっていた涙を下に落としてから、ようやく俺に顔を向けた。
「い、以前、水を廊下に零して神官様にお叱りを受けていたところを、守護さまにお助けいただいた侍女です」
「…………」
 まじまじとその顔を見つめて、俺も、ああ……と思い出した。
 そういえば、そんなことがあったな。ずっと頭を下げていたから、今となってはあの時の侍女がどんな顔をしていたかなんて、ほとんど記憶に残っていなかった。ただでさえ侍女の数は多い。その中で俺が個人的に知っているのは、ミーシアを含め、数人だ。
「で、サリナは、なんでまたこんなことを?」
 剣は下ろしたが、まだ完全には気を抜かずに訊ねてみる。あれはもう終わったことだし、今さらになって俺に近づいてくる意味が判らない。その後、神官に何かを言われたんだろうか。
 剣が離れたことでようやくほっとしたのか、サリナは表情の強張りを解いて、ぽっと顔を赤らめた(・・・・・・・・・)

 ……ん?

「あ……あの、トウイ」
 もじもじと俯きがちになりながら、はにかむような声で名を呼ばれる。俺はちょっと動揺した。
 なにこれ。
 この状況、ハリスさんが街でよく女性に言われているやつによく似ている。もしかしてそれ? そりゃまあ、護衛官と侍女の間に、特別な感情が芽生えることがないでもない、という話は聞いたことがあるけど。え……え? ホントに? そうなのか?
「ト、トウイ、実はあの、私、あなたに」
「はあ」
 すぐ間近にある赤く染まった顔に、俺の平常心もかなり怪しい状態になってきた。上擦った声で間抜けな返事をしつつ、内心でどうすりゃいいんだと大いに焦る。サリナは線の細い、見るからにか弱そうな女性で、しかもたぶん、俺より年上だ。いや年下だったら落ち着いていられるかといえば、まったくそんなことはないんだけど。
 え、これ、どうすればいいの? 黙っていればいいのか? それとも笑いかけたほうがいいのか? いや本当のこと言うと、すぐさま逃げたいくらいなんだけどそれはマズイよな。 ああもう、こんなことがあると知ってりゃ、上手な対応の仕方を、ハリスさんに習っておいたのに!
 サリナが熱っぽく潤むような眼差しで俺を見つめてくる。俺は思わず一歩後ずさった。
「ね、トウイ」
「は、はい」
「トウイは、守護人の護衛官なのだから、守護さまのことをよく知っているわよね?」
 は?

「守護さまは、どういうものがお好みなのかしら。ずっと近くに侍るトウイなら、そのあたり詳しいのでしょう? ミーシアに聞いても、よく判らないって言うんですもの。だから自分で調べようとしたのだけど、難しくて。それであなたに聞こうと思って、ずっと機会を窺っていたの。私、守護さまにどうしてもあの時のお礼をしたいのだけど、お言葉だけでは受け取っていただけなくて……ねえ、何をしたら、守護さまに喜んでいただけると思う?」

「…………」
 きらきらと瞳を輝かせたサリナにそう聞かれ、俺は口を閉じて沈黙した。
 少しの間を置いて、
「……さあ」
 と答えたその声と顔が、ちょっと虚ろなものになってしまったのは、この場合しょうがない。
 サリナは不満そうに頬を膨らませてむくれた。
「さあ、って。何か少しくらいは知っているでしょう? どんな小さなことでもいいのよ。守護さまがほんのちょっとでも微笑まれるようなところが見られたら幸せなのだけど、それはやっぱり望みすぎというものかしら。ねえ、トウイは守護さまが笑われたところを見たことがあって?」
 びくびくと怯えきっていたさっきまでの様子はどこへやら、サリナは両手の指を組み合わせて、興奮気味に一人で喋り続けている。その視線はとっくに俺から外れ、どこか夢見るようにうっとりと虚空に向けられていた。
「…………」
 なるほど、ハリスさんに教わる前に、ひとつ勉強になった。
 恋する乙女は、その対象の名前を呼ぶだけで、幸福になれるものらしい。サリナが 「守護さま」 と呼ぶ声には、とろりとした極上の甘い蜜が入っているみたいだった。それに比べりゃ、俺の名前を口にする時の声なんて、塩入りの固パン程度でしかない。
「やっぱり神獣の守護人は普通の人とは違うわね、トウイ」
 サリナはまるで、美しい月を見上げるような目をしていた。


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