リライト・ライト・ラスト・トライ

第五章

4.虚実



 一日経ったが、ハリスさんからは特に連絡がない。
 そりゃ、極秘で動いているわけだから、そうそう気軽に途中経過の報告に帰っては来られないだろう、ということくらいは俺だって判る。けど、落ち着かない。少しくらいは何かが掴めたのだろうか。それとも、まだまったく収穫がないから知らせることもない、ってことなんだろうか。ハリスさんに限って、敵方に正体がバレて絶体絶命の危地に立たされている、ってことはないと思うんだけど。それよりは、さりげなさを装うあまり、うっかり女の子との遊びに没頭してやしないか、そっちのほうが心配だ。
 こんな精神状態では、いくら午前中の空いた時間でも、のんびり詰所内で寛いでいる気にはなれない。大体、ヘタに他の護衛官に捕まって、ハリスの容体はどうだ、なんてあれこれ問い詰められても困る。
 なので、俺は意味もなく神ノ宮の敷地をぐるぐる廻って、時間を潰すことにした。
 そうやって足を動かしているうち、これって守護人がいつもしている行動をなぞってるだけだな、と気がついた。今までは時間が空くと、必ずと言っていいほど、誰かに相手になってもらって剣の稽古をしていたのに、ずいぶんな宗旨替えもあったものだ。

 ──ひょっとして、守護人も、こんな気持ちなのかな。

 これまで考えもしていなかったことが、ふと頭に浮かんだ。
 もしかしたら、守護人も、こんな風に落ち着かない気分を持て余して、いつもこうして神ノ宮の中を歩き回っているんだろうか。部屋にこもってじっとしていることが出来ない。とにかく闇雲に動き回っていないと居ても立ってもいられない。そんな気分で。
 だからああして、目的もよく判らないまま、毎日ひたすら前を向いて、美しい景色や草花には目もくれず、休むことすらほとんどせずに、足を動かし続けているんだろうか。
 だったらそれは、決して楽しいものを待つような気持ちじゃないんだろう。そこにあるのは、不安、そして焦り──今ここでこうしていてもいいんだろうかという、後ろから追い立てられるような、もどかしいほどの苛立ちだ。
 じりじりとした、焦燥だ。
「…………」
 俺はぴたりと足を止め、主殿のほうに顔を巡らせた。
 今はロウガさんが彼女の護衛についている。昨日は私室からほとんど出てこなかったあの少女は、今日はどうやって過ごすのだろう。
 不平や不満は、その口から出てきたことがない。表情だって変わらない。大神官の言うことを聞いて、淡々と行動する。現れの間で、絵の扉を通ってこちらにやって来た時から、守護人はただ静かに自分の境遇を受け入れて、日々を送っているのだと思っていた。
 いや、実際、その通りなのかもしれない。俺の頭に過ぎった考えなんて、ただの勝手な思いつきでしかない。神ノ宮の中を歩き回るのも、ただ単にヒマだから、それくらいの意味しかないのかもしれない。
 でも、もしも、そうではなかったとして。
 ……彼女は一体、何に追い立てられているんだろう。

 俺が守護人を撥ねつけたその時、「間違えた」 と咄嗟に思ったのは、逸らされる一瞬前の彼女の瞳をさっと掠めたものが、ぞっとするほど捉えようのない、昏い闇の色をしていたからではなかったか。


          ***


「ミーシア」
 ぶらぶらと歩いていたら、結局いつの間にか主殿のほうまでやって来ていた。その建物からミーシアが出てくるのを見かけて、声をかける。
 ミーシアは俺を見て、あら、というように笑顔になった。
「これから護衛の交代? 今、守護さまに付いているのは兄さんなの? それともハリスさん?」
「ロウガさんだよ」
 答えながら、ミーシアはハリスさんが病気の口実で仕事を休んでいることを知らないんだな、と思う。守護人からも、ロウガさんからも、聞いていないのか。まあ、どっちも、必要最小限以外は喋らない性格だし、ロウガさんに至っては、たとえ妹にでも機密を漏らすわけにはいかないと頑なに口を噤んでいるのだろう。俺も余計なことは言わないでおこう。
「えーっと……守護さまに、特に変わりはない、かな」
「まあ、変なことを言うのね。昨日、お会いしたんでしょう?」
 コロコロと朗らかに笑われた。昨日のあれから守護人の顔を見ていないから、そのあたりを少しでも聞きだせたらと思ったのだが、曖昧に問いかけた俺の真意は、ミーシアにはまったく伝わらなかった。ミーシアは言っちゃなんだが鈍いので、言外の意を汲み取るのは非常に不得意なのだ。
「元気そう?」
「ご病気の様子はないと思ったけれど……なあに? 昨日、具合がお悪いようだった?」
「いや……」
 途端に心配そうに眉を下げるミーシアに、困って頭を掻く。
「機嫌が悪いようだった、とか」
「守護さまがご機嫌を損ねるところを、私、一度も見たことがないわ」
 そりゃそうか。なにしろいつも一貫して表情も態度も変わらないのだから、機嫌がいいも悪いもない。内面ではそういう変化が起きていたとしても、それらは一切、表面まで浮上してこない。
「……もっと、そういうところをお見せになればいいのに、と思うのだけど」
 ミーシアは独り言のようにそう続けて、今度はしょんぼりとうな垂れた。
 これが神官たちになると、機嫌の良し悪しで、まったく関係のないこちらにとばっちりが飛んでくることが多い。だから身の回りの世話をする侍女たちは、出来るだけ彼らの機嫌を損ねないように動くのが常だ。だが、守護人に限ってはそういうことはないらしい。
 それを、楽でいい、とは思わずに、かえってやきもきと気を廻してしまうのが、ミーシア。
 サリナも、「不満を口にしてくれないのが寂しい」 とミーシアが零していた、と言っていたっけ。
 そこまで思い出して、サリナが侍女の枠を越えて守護人に入れ込んでいることを、ミーシアは知っているのかと気になった。あちらもいずれ問題になる前に、なんとかしないといけない。
「あのさ、ミーシア」
 俺が先日からの一件を話すと、ミーシアはふっくらした頬に手を当て、思わしげに眉を寄せた。
「そうね……この間から、やけに守護さまのことを聞いてきて、どうしたものかしらと私も思ってはいたのだけど」
 ミーシアも少々困惑しているらしい。
「そのきっかけとなった出来事については知ってる?」
「サリナから聞いたわ。それで守護さまにどうしてもお礼を申し上げたいと言うから、一緒に守護さまのお部屋に連れて行ったの」
「で、サリナはその時、ちゃんと礼を言ったんだろ?」
「ええ。とても緊張していたけれど、感謝しています、ありがとうございます、ってきちんと頭を下げたわ。守護さまは、『気にしないで』 というようなことを仰って、それで私も話は終わったものと思っていたのだけど」
 終わるどころか、加熱してしまったと。
「……その、サリナは、なんていうか、守護人に対して」
 俺は言い淀み、指で顎をこりこりと掻く。あのサリナの、熱にうかされたような瞳と口ぶり、そして異常なまでの守護人に対する畏敬の念を、どう表現したらいいのかよく判らない。

 一言で言うと、何かがとんでもなく、掛け違っている──そんな感じがするのだ。

 サリナが口にする 「守護さま」 には、ほとんど実体がない、と俺は思う。サリナはただ、自分が見たいように守護人を見て、自分の求める姿に守護人を当てはめている、そういう気がする。
 たとえ本物の守護人が目の前にいても、彼女の目には、それとは違う、「神々しい何か」 が映っているんじゃないか。そう思うと、足許から寒々としたものが這い上がってくるような気分になってしまう。
「……あのね、サリナはね」
 俺が詰まった言葉の先を読み取ったのか、いや、というよりはミーシアも同じことを考えていたのだろう、少しだけためらってから、小さな声で言った。
「もともと、とても、気の弱い子なの。本人も、その性格は自分でよく判っていたから、このまま生まれ育った地で結婚して、夫と子供を持って、つつましくとも幸せな暮らしをしたいと望んでいたのですって。でも、親に無理やり、神ノ宮仕えの話を決められてしまって。故郷を出る前は、いいえここに来てからも、毎日毎日、心細くて不安で泣いてばかりいたそうよ」
 神ノ宮の侍女の職を得ることは、家の階級がさして高くない一般女性には、非常に難しいことだとされている。だから普通は、栄誉として本人も周囲も大喜びするものだ。しかし時には、そのように親の見栄や体裁で、自分の意志とは無関係に神ノ宮にやって来る者もいる。
「気が弱いから、神官様に怒鳴られても委縮するばかりで、それで余計に失敗して、また怒られる……という悪循環でね。帰りたい、ここにはもういたくない、と泣きじゃくるサリナを、私もどう慰めていいか判らないほどだったわ」
 ミーシアだってかなりのおっちょこちょいで、失敗は枚挙にいとまがないくらいだし、失敗のたびに落ち込むところは同じだ。それでも彼女には、落ち込んだ後で次は頑張ろうと思える前向きさと強さがある。サリナに同情して共感できても、その先を向く性質が正反対では、根本的な苦しみを分かち合うことは出来なかっただろう。

 恐れ、不安、心細さ、孤独、自己嫌悪。
 サリナはずっと一人、そんなものをたくさん自分の中に抱え込んでいたのではないか、とミーシアは言う。

「でも、そんな時に、サリナは守護さまに助けられた」
 いつも自分を怒鳴りつける怖い神官が、ぺこぺことへりくだり、頭を下げる相手。誰もが畏れ敬う神獣の守護人が、自分を助けてくれた。
 それはサリナにとって、どれほどの喜びだっただろうか。守護人という存在は、彼女には本当の意味で、暗闇に輝くたった一つの月だったのだ。
「守護さまは、この神ノ宮での、サリナの唯一の救いで、希望なんでしょう。サリナは、守護さまと直接お言葉を交わしたあと、神ノ宮に来てからはじめて、笑っていたわ」
「…………」
 唯一の救いで、希望。

 そうか、だから、サリナは自分の見たいものしか見ないのか。
 サリナが守護人に見ているのは、「自分がいちばん欲しいもの」 の姿なんだ。
 ……実像とは、まったく無関係に。

「──うん」
 弱い心が、ひたすら一途に、縋るように虚像を望んでいるのだとしても、それを他の人間が咎めることなんて出来ない。サリナはそれで幸せなのだろうから、哀れむのも違う気がして、俺はただ一言、うん、と言ったきり、口を噤んだ。そっと目を伏せるミーシアもまた、同様のようだった。
 それが正しいことだとは、思えないけれど。
「……そういや、守護人に、新しい侍女が付いたんだって?」
 立ちこめる重い空気と沈黙を振り払い、出し抜けに話の矛先を変えて訊ねた。ミーシアがほっとしたように口許を緩め、頷く。
「ええ、メルディというの。とても明るくて、よく気のつく子なのよ。最初のご挨拶に伺った時、守護さまが一目で気に入られて、私の補佐に、と仰ってくださったの」
「へえ……」
 相槌を打ちながら、守護人とメルディのやり取りを思い出す。
 あれ、気に入ってる、のか……?
「たまに驚くようなことを言ったりしたりするけど、素直でいい子なの」
「ふーん」
 素直でいい子……なんだろうか。ちょっと首を傾げてしまう。まあ、ミーシアにかかると、大概の人間は、「素直ないい子」 になってしまうんだが。
「ミーシアの補佐、っていう役割なんだろ?」
「そうね」
 守護人も、やけにしつこく、「ミーシアさんのオマケ」 と強調してたもんなあ。
「だったら、そんな仕事もメルディにやらせればいいんじゃないの?」
 現在、ミーシアが腕にぶら下げているのは、守護人の私室のものと思われる、凝った織りの上等そうな敷布だ。今日はいい天気だから、おそらく、目につかないところに持っていって、干したり埃を叩いたりするつもりなんだろう。そんな仕事こそ、下っ端の役目なんじゃないか、と思って聞くと、ミーシアはくすくす笑った。
「あら、このくらいのこと。それに、メルディは今、いないのよ」
「いない?」
「神官様のご用で、神ノ宮の外に出ているの。あの子はよく動くし、やることも早いし、あちこちに顔を出してはいろんな仕事を手伝ったりしているものだから、よくそういった用事を言いつかるみたい」
 なんとなく、ミーシアは自慢げだった。新しく入った侍女がいきなり守護人に (あまりそうは見えないが) 気に入られても、それを嫉妬したり悔しく思ったりはしないらしい。むしろ、後輩が可愛くて仕方ないと見える。のんびりというか、稀有な性質だよな。
「神官の用ね……」
 護衛官や警護は、夜の自由時間、または特別な事情がある時、あるいは護衛すべき人物が神ノ宮の外に出る時しか、外出することが許されていない。侍女も基本はそうだが、日中でも、神官に言いつけられた時には外に出て、買い物なり伝言なりの用件をこなすことがある。
 もちろん許可は必要なわけだが、侍女によっては、そんな時、本来の用事はさっさと済ませて、あとは自分のために時間を使いちょっとばかり羽を伸ばす者もいる、と聞いた。窮屈な神ノ宮での生活から解放される、貴重な機会というわけだ。
 メルディはちゃっかりしているように見えるから、いかにもそういうことを上手にやりそうだ。案外、神官からの用事も率先して引き受けてるんじゃないか。
 そう思ってから、俺はふと、眉を寄せた。
 なんだろう。
 ──今、一瞬、何かが引っかかった。


          ***


 夕方近くになって、ロウガさんと護衛の交代をした俺に、守護人は何も言わなかった。
 もしかしたらまたハリスさんのことで何か聞かれるのかと若干身構えていたが、拍子抜けだ。聞かれても、昨日よりますますどう答えていいのか判らないから、よかったと思うべきなんだろうけど。
 ただ、建物の外を歩きながら、守護人の目が時々、神ノ宮の周囲を巡る頑丈な塀へと向かっていることに気づいて、ひやりとした。
 たまたま、かもしれない。きっとそうなんだろう。そちらに顔を向けたって、いつもと変わりなく立ちはだかる無機質な塀と、その上の薄っすらと赤くなりかけた空しか見えない。彼女の視線が塀の 「向こう」 を見ているように思うのは、たぶん俺の気のせいだ。
 予定では、ハリスさんは今日の深夜に帰るはず。結果を聞きたいのは山々だが、こうなったら早く帰ってきて、何事もないような顔で守護人の護衛に戻って欲しい。
 などと思っていたら、
「あ、あの、守護さま」
 後ろから、か細い声に呼び止められた。
 守護人が足を止め、振り返る。俺はその声の主が誰かということには気づいていたが、剣の柄に手をかけて、同じく振り返った。護衛途中、許可なく近づいてくる人間がいたら、問答無用で抜いていい、ということになっている。
「……サリナさん」
 守護人がそこに立っている人物を見て、呟くように言った。その口から自分の名前が出たことがよほど嬉しいのか、サリナはぱあっと喜色を浮かべ、頬を赤く染めた。
 そして無意識のように足を一歩前へと動かしかけたので、俺は鋭く 「動くな」 と止めた。
 サリナに守護人を害する意図なんてないのはイヤというほど判っているが、守護人の護衛官としての仕事は仕事だ。いくら顔見知りの侍女でも、例外を作るわけにはいかない。そうしなければ、後でサリナも罰せられる恐れがある。
「あ、あの、ご無礼、お許しを……」
 サリナは怯えたようにそう言って、その場に跪き、ちらちらと窺うように守護人に視線をやった。
「どうしましたか?」
 守護人に問いかけられて、ほっとしたように口許を綻ばせる。少しだけ、優越感を滲ませて、俺を見た。
 ──ほら、守護さまは許してくださっているわ、というように。
「あの、とても美しい花が手に入ったものですから、守護さまのお部屋に飾るご許可を頂けたらと思いまして」
 サリナは、昨日話していた自分の願いを、早速実行することにしたらしい。その腕には、真っ白で、大きな蕾のついた花が束になって抱え込まれている。
 緊張した声ながら、彼女はもはや、込み上げる喜びと誇りを隠そうともしない。
 神官の顔色ばかりを窺ってびくびくし、泣いていた気弱な娘が、今は、「神獣の守護人」 という尊い存在の目に留まり、言葉をかけられている!
 赤茶の瞳は、正視するのがためらわれるほど、はちきれんばかりの恍惚感に支配されて輝いていた。
「花、ですか」
 対して、守護人の声には、少し戸惑いが混ざっているように聞こえた。彼女にしてみれば、なぜ守護人付きでもない侍女がそんなことをするのかと、不思議に思っても無理はない。俺だって、サリナのことを知らなければ、この場面で抱くのは、まず真っ先に不審の念だっただろう。
 なぜあんたがそんなことを? と訊ねて、そして、その花はどこに咲いていたものだと──
 刹那、閃くものがあった。
 瞬時にして、喉が干上がった。じっとりと汗ばむ掌で、剣の柄をぎゅっと握る。視線が、数歩離れたところで跪いているサリナの腕の中の、白い花に釘付けになった。
 大きな……大きすぎるほどの蕾だ。大人の男の握り拳よりも、まだ大きい。真っ白な花弁は、先のほうが薄っすらと透き通って、今にも咲き誇ろうとせんばかりにほんのわずか先の口を開けている。太い茎は赤味を帯びて、分厚く長い葉は青々として瑞々しい。
 まだ開花しない状態でさえ目を引くその花は、花びらを広げたらどれほど極上の美しさを見せるだろう、と思わせる堂々たる気高さがある。
 ──こんな、花。

 こんな花(・・・・)ニーヴァで見たことがない(・・・・・・・・・・・・)

「……サリナ」
 口から出る自分の声は低く、掠れ気味だった。剣の柄を握ったまま、じりっと足を動かし、守護人の前へと移動する。後ろで、守護人の身体が固くなったのを感じた。
「その花、どこで手に入れた?」
「え……」
 サリナはぽかんとしたように、跪いたままの姿勢で、俺を見上げた。俺の身体に阻まれ、守護人の姿が隠れてしまったことに困惑したように、目を瞬く。
「……それは」
「街で?」
 そうだ、なぜ気づかなかった。街に出るのは、護衛官や警護ばかりじゃない。神官の用事という名目があれば、侍女のほうはいつでも出られる。
 護衛官と警護は、怪しい異国民を警戒しろとロウガさんから聞かされた。街では決して、自分のことを話すなとも。でも、神官のところで止まってしまったその話は、侍女にまでは伝わらなかった。神官の用事のついでにと、昼間街に出たサリナは、神ノ宮の侍女の服装のままだっただろう。
 その彼女に、何喰わぬ顔をして話しかける。警戒心を持たない彼女は、なんとも思わず耳を傾ける。

 ──異国の珍しいものがたくさんあるよ。ちょっと見ていかないかい?

「サリナ、その花をそこに静かに置いて、後ろに下がれ」
 厳しい声を出すと、サリナはますます戸惑ったような顔をした。自分の腕の中の花を見下ろし、俺を見る。
「トウイ、あの、私はただ守護さまに、花を」
「早く!」
 ちっとも事情が呑み込めず、きょとんとするばかりのサリナに焦れて、叱りつけるように言う。彼女の腕には、まだ花が抱えられたままだ。
 まどろっこしい。いっそのこと、俺がこの手で取り上げて──
 そう思い、足を踏み出しかけたところで、後ろから誰かに強く腕を掴まれた。
 驚いて振り返ると、守護人が、ひどく強張った顔つきで、俺を引き留めていた。
「行ってはだめ」
 見開かれた真っ黒の瞳が、まっすぐサリナの持つ白い花を凝視している。
「でも──」
「だめ」
 ぴくりとも身じろぎせず、目だけはサリナのほうに向かっているが、俺の腕を掴む手は離れることなく、痛いほどの強い力が込められている。その顔から血の気は失せて、ぐっと引き結ばれた口許は、かすかに震えてもいた。
「しゅ、守護さま、わたくしは、何も」
 サリナが慌てたように立ち上がる。どういう理由かさっぱり判らないながら、守護人を不快にさせたと誤解したのか、必死に弁明をするように言葉を出した。
 そう、サリナ自身は何もするつもりがない。だから、花も手放さない。今となっては、それだけが彼女の純粋な忠誠心を示す唯一の証だというように。
 サリナが守護人に近づこうと、一歩、前へと足を動かす。その瞬間、
「女! 動くな!」
 激しい命令が飛んできた。
 ただでさえおろおろしていたサリナは、その声に全身が跳ねるように反応した。手から力が抜け、持っていた花の束を、地面に落とす。
「トウイ、守護さまをそこから遠ざけろ!」
 怒鳴りながら駆けてきたのは、険しい顔をしたロウガさんだった。手に抜き身の剣を持っている。その後ろに続いて走ってくるのは、ひそかに街に出ていて今夜帰ってくるはずの、ハリスさんだ。こちらは、大きな布を抱えていた。
「な、なに……」
 サリナはすっかり動転しきっていた。取り落とした花は、勢いよく地面にぶつかった衝撃で、今にも開きかけていた花弁が崩れ、ぱっくりと口を開けた。

 そして、俺は見た。
 その花の口の中から、大きな八本脚の虫が這い出てくるのを。
 黒く平べったく、小さな頭と丸く膨れた腹を持つ不気味な外観をしたその虫は、花から出てくると一旦動きを止め、それからぞろりと長い脚をうごめかし、すぐ近くにあった獲物に忍び寄った。

「サリナ!」
「きゃ……いや!」
 サリナは自分の足の甲を伝い、長いスカートの中に入り込もうとするその虫に気づいて、悲鳴を上げた。半ば恐慌状態に陥りながら、衣服を振り、足を動かし、まるで踊っているように暴れ回る。
 その動きで、黒い虫は、サリナから離れて飛んだ。地面にポトリと落ちたところを、やって来たロウガさんが、一瞬も逡巡せずに剣を振り下ろす。
 ぱかりと胴体を真っ二つに割られて、あっという間に虫は息絶えた。棒きれのような細い八本の脚が、痙攣したようにぴくぴくと動き、身体から溢れ出るどろりとした緑色の粘液が、じわじわと地面に浸食していく。
「ハリス!」
 ロウガさんに言われて、ハリスさんが手にしていた布を、落ちた花の束と、虫の死骸の上にバサッと被せた。間髪入れず、同じく持っていた小瓶を振り、その上に液体を振りかける。
 つんとした臭いが鼻をついた。油だ、と思う間もなく、しゅっと擦ったマッチをその上に放り投げる。
 ぼうっ! という音を立てて、その下にある花と虫の死骸ごと、布が燃え上がった。
 ここに来て、騒ぎに気づいたのか、あちこちから人がわらわらと近寄ってきた。俺は守護人を庇うように立って剣の柄を握ったまま、一連の成り行きを眺め、茫然としていた。
「ハリ──」
 ようやく、その名を呼んで事情を聞こうとした時。
「あっ、あ、あああっ!」
 突然、サリナがもんどりうって倒れ、苦悶の声を上げた。


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