リライト・ライト・ラスト・トライ

第七章

3.策謀



 夜の空気は少し冷えて、しんと澄んでいる。
 頭上では赤い月が皓々とした光を放ち、その場所から地上にあるものを照らし出していたが、俺は上にも下にも目をやらず、ひたすら何もない虚空の暗闇をじっと見据え続けていた。
「──いつまでそうやって置物になってりゃ気が済むんだよ」
 ずざっという地面をこする足音と共に、声をかけられた。
 誰がやって来たのかは見なくとも判る。俺はそちらを向きもせず、返事もしなかった。
 口を引き結んで動かないままの俺の上に、はあっと大きなため息を落として、ハリスさんは隣に座った。
「お前ってホント、落ち込んだ時の行動様式がいつも同じだよなあ。タネルの時も、ここでそんな風に座り込んでたろ」
 だったらハリスさんだって、同様のことが言えるじゃないか。こうして俺が詰所の建物の裏で、壁にもたれて座っていると、どこからともなく現れて声をかけてくるんだから。
 俺はこの場所には毎晩来る。でも、普通に身体をほぐしている時に、ハリスさんが姿を見せたことは一度もない。
「……落ち込んでなんていませんよ」
 低い声でぼそっと答えると、ハリスさんは 「ウソつけ」 と鼻で笑った。強がっている、とでも思ってるんだろうか。けど本当に、俺は落ち込んでなんていない。
「怒ってるんです」
 むっつりしながら続けると、ハリスさんは笑いを引っ込めた。いや違う、今まで浮かべていた、からかうような軽い笑いから、頑固な子供に手を焼く大人が見せるような苦笑に変えたのだ。
「怒ってるって、守護人にか」
「そうです」
「彼女の冷淡な態度に?」
「そうです」
「あっさり切り捨てるようなやり方に?」
「そうです」
「それから、自分に?」
「……そう、です」
 絞り出すように返事をして、宙に据えつけていた目線を、ようやく地面へと下げる。折り曲げた足の膝頭の上に置いていた手を、ぎゅっと拳にして握った。
 俺がいちばん怒っているのは、不甲斐ない自分自身に対してだ。
 あの広間で、いきなり守護人の護衛官の任を解かれ、茫然と突っ立っているだけで声を上げることも出来なかった自分に。
 我に返った時には、守護人の少女は椅子から立ち上がり、さっさと広間の扉を開けているところだった。
 去っていく後ろ姿は、一度もこちらを振り返ることはなかった。
 いつもと同じだ。
 俺は聞かなきゃいけなかったのに。理由を、事情を、彼女の真意を。神官たちに咎められても、大神官に罰せられても、声を出し、引き留めて、なんとしても問いたださなきゃいけなかったのに、その機会を逃してしまった。
 逃してしまったら手遅れだ。取り返しがつかない。守護人の護衛官を外されてしまった俺たちは、彼女に話しかけるどころか、その私室に近づくことも不可能になる。明日にはもう守護人は神ノ宮を出て王ノ宮に行ってしまうというのに、一言も言葉を交わせないまま、それを見送らなければならない。
「結局、あの守護人も、その程度にしか俺たちのことを考えてなかったってことだよ。王ノ宮では、また新たに優秀な護衛官が付くんだろ。簡単なことさ、気に喰わなくなったら頭を挿げ替えりゃいい。どれだって似たようなもんなんだから、そう変わらない。……大神官と同じだ」
 言葉を吐き捨てるように、ハリスさんが脇を向いて言い放つ。無気力で、投げやりな言い方だった。声の端々に怒りが滲んでいることに、きっと自分では気づいていないんだろう。
「そんなわけない」
 きっぱり言い返すと、ハリスさんは眉を寄せてこちらを向いた。
 俺はそんな風に考えて、怒っているわけじゃないんだ。守護人の冷淡な態度、切り捨てるようなやり方に怒っているのは確かだが、彼女の頭の中が大神官と同じだなんてことは、これっぽっちも思っていない。
 大神官が信用できなくなった側近をあっさり入れ替えたように、守護人もそうした──なんて。

 そんなわけがない。

「何かをしようとしてるんだ、一人で」
 強く言って、俺は握っていた拳で地面を叩きつけた。
「俺たちを離して、神ノ宮を出て、王ノ宮に行って……何かをしようとしてる。護衛官の任を解いたのは、俺たちをそこに巻き込ませないようにするためだ。絶対そうだ。なんにも言わないで、一人っきりで」
 あの無表情の下にあらゆるものを隠し、誰も自分に踏み込ませず、何もかもを撥ねつけて、彼女はいつも一人で動こうとする。
 こんな手段しか選ぼうとせず、そのことに対する弁明も言い訳もしない。
 腹が立つ。そんな守護人にも、なによりも自分自身に。

 ──俺はなんとしても彼女を引き留め、後を追って、それを聞きださなきゃいけなかったんだ。

 きっと眉を上げた。曲げていた足をまっすぐにして、すっくと立ち上がる。
「守護人のところに行ってきます」
 すぐ隣から、チッと大きな舌打ちが聞こえた。「やっぱり見張りに来て正解だ」 という呟きと同時に、素早く立ち上がったハリスさんが、俺の右腕を乱暴に掴む。
「言うと思ったんだよ、このアホが。わかってんのかお前、今の俺たちはもう、守護人の護衛官じゃないんだぞ。こんな夜更けに私室に向かおうとしただけで、警護にとっ捕まる立場になったんだ。守護人のところに行くもなにも、その前に身柄を拘束されるに決まってるだろう。そうなったら」
「だったらいつ守護人と話をするんですか。明日になったら王ノ宮に出発するって言ってるのに、その後じゃもう何も出来ない」
「何もするな、って言ってんだよ!」
 ハリスさんが、今まで見たことがないくらいの怖い顔で、大きな声を出して怒鳴った。
 普段ならその剣幕にたじろいでしまうところだが、この時の俺はいっそう頭に血を昇らせた。くるっとそっちに向き直ると、負けずに声を張り上げる。
「だったらハリスさんは、このまま放っとけって言うんですか! 絶対に何かおかしな真似をしでかすとわかってるのに、守護人が一人で王ノ宮に向かうのを黙って見送れってことですか! 危険なことをするかもしれないのに、それでも?!」
「本人がそう望んだことだろ!」
「俺はイヤですからね! わかってるのに知らん顔して神ノ宮に残ってることなんて出来ません!」
「だからガキは始末に負えねえって言うんだよ! 冷静に物事を考えるってことも出来ないのか、このバカが!」
「どうせガキですよ! だからバカなことやって、後悔だってしましたよ! けど今回は、何もしないでいるほうがずっと後悔するとわかりきってるから行くんじゃないですか!」
「開き直んじゃねえ! ぶん殴って失神させても行かせないからな!」
「ハリスさんだってホントはわかってるんでしょ! それでイライラしてるんでしょ! いい加減、素直に認めたらどうなんです、大人のくせに!」
「るっせえよ! 俺はあの守護人を信用しないと言ったろ! お前だって、変わってるって言ってたじゃねえか!」
「変わってますよ! 今だってその気持ちはまったく同じですよ! なに考えてるかさっぱりわかりませんよ! だからってそれは、このまま自分の気持ちにも、守護人の気持ちにも、見ないふりをし続けるってこととはぜんぜん違う!」
「あっちが巻き込ませないようにしたっていうなら、黙って受け取っとけ!」
「それがイヤだって言ってるんです! あの守護人は確かにすごく、ものすごく変だけど!」
「変じゃないし」
「でも俺は!……って、え?」
 ハリスさんと揉み合うようにして言い争っていた俺は、いきなり割り込んできた新しい声に気づいて、かちんと身体を強張らせた。
 同じように、ハリスさんも動きを止め、その場で石みたいに固まった。大きく目を見開いて、俺の背後に視線を釘づけにしている。
 俺はそろそろと後ろを振り返った。

 ……そこには、いつもの男の子のような恰好をした守護人と、自分の額を掌で押さえているロウガさんが立っていた。

「なんでここに?!」
 仰天して問うと、ロウガさんは大きなため息をついた。
「それはこちらの台詞だ、トウイ。こんな時くらい詰所の中でじっとしていたらどうなんだ。おかげで守護さまがわざわざこちらに足を運ばれる羽目になった」
「は?」
 ぽかんとする俺を見て、今度口を開いたのは守護人だ。
「わたしの部屋の前に立っている警護の人に、他の人には内緒で三人を呼んできてくれませんか、とお願いしたんです。それでまずは詰所にいたロウガさんを捕まえて伝えてくれたらしいんですけど、あとの二人は見つからなかった、ということで戻ってきました」
「は……?」
 ますます意味が判らない。ロウガさんが続けて捕捉してくれる。
「警護からその伝言を聞いて、俺は急ぎ主殿に向かった。お前たちまで呼ばれているとは、知らなかったんだ」
 一人で守護人の私室に行ったロウガさんは、そこではじめて、俺とハリスさんのことを聞かされたらしい。
 護衛官はみんな、俺が夜になるとここにいることを知っているが、詰所の異なる警護はそれを知らない。すぐに取って返して呼んでまいります、と言ったロウガさんに、守護人は 「それじゃ面倒だし時間もかかるからわたしも一緒に行きます」 と申し出たのだそうだ。
「……よく、そんなことがまかり通りましたね」
 俺はただもう呆れて、口を開けているしかなかった。
 なによりも守護人の私室を護らなければならない警護が、持ち場を離れて護衛官を呼びに行く、なんて。それも、大神官から命じられたわけではなく、守護人の個人的な依頼に応じるなんて、普通ならあり得ない。
 大体、もう守護人の護衛官でなくなったのは、ロウガさんだって同じじゃないか。そういう人物を、守護人が呼んでいるからという理由で私室に入れるような真似をしていいのか? ましてや、二人が外に出るのをそのまま見逃すとは。
 さっきまで守護人のところに行く行かないでハリスさんと揉めていた俺でさえ、その成り行きには顎が外れて落ちそうだ。
「大神官さんにバレたら問題になるかもしれませんが」
 と、守護人が言った。
「バレなきゃ問題ありません」
「…………」
 ロウガさんを見ると、もはや何かの境地に達しているかのように、目を閉じて黙然と立っている。あれこれと考えるのを放棄しているのかもしれない。慣れって怖いな。
 そうか、と思った。
 ──きっと、今までの積み重ねがロウガさんをここまで変えたように、警護の連中のほうも変わってきているのだろう。
 最初からこの守護人は、神ノ宮の決まりと規律から外れたところに身を置いている。何かの騒ぎが起きるたび、彼女は自分の意志を通すためにそれらを平然と無視してきた。
 拝礼日の時も、タネルさんの時も、サリナの時も。
 俺たち護衛官ばかりじゃなく、侍女や警護だって、その行動を見てきている、ということだ。
 神官や大神官とは違い、守護人が常に、自分たち弱い立場の人間を対等に扱っていることを、知っている。
 だからこんな時にでも、彼女を信用して動くことが出来るのか。
 そうか、ともう一度思う。

 ……神ノ宮は、少しずつだけど、変わりつつあるんだ。


          ***


「……で、今さら俺たちになんのご用なんでしょうかね」
 俺がまた口を開く前に、そう言ったのはハリスさんだった。さっきまでの驚愕の表情を綺麗に拭い取って、唇の端を上げた、皮肉な顔つきになっている。
「今この時をもって守護人の護衛官としての任を解く、と広間で仰ったのは守護さまご自身でしたでしょうに。ということは現在、ここにいる三人はあなたの護衛ではなく、神ノ宮の一介の護衛官でしかない。守護人からのお言葉を最優先でお聞きするような義務はないはずなんですがね」
「ハリスさん──」
 俺の非難の目線を受けても、ハリスさんはてんで動じなかった。ふん、というように肩を竦めるその態度は、一介の護衛官だったらなおさら守護人に対して許されるものではないはずなのに、そのあたりの理屈はまるっと無視を決め込むつもりらしい。本人がいつも言っているように、この人は本当にひねくれた性格をしている。
「いつまで拗ねてるんだか」
 横を向いて、思わずぼそっと洩らしたら、間髪入れず脛を蹴られた。痛いな、もう!
「ハリスさんの言う通りです」
 静かな声を出した守護人に、ハリスさんが顔を向ける。
「話がしたいと思ったのはわたしの勝手です。聞きたくないのなら、今すぐ詰所に戻ってもらって構いません」
「…………」
 ハリスさんは少しの間沈黙し、再び、ふんというようにそっぽを向いた。しかし足はその場からぴくとも動く気配はない。まったく素直じゃないんだから。
「ハリス、とにかく守護さまのお話を伺おう。納得していないのは、みんな同じだ」
 ロウガさんが取り成すように言った。
 いきなり守護人の護衛官の任を解かれ、ロウガさんはそれについては一言も語らなかったけど、やっぱり何も思わなかったわけじゃなかったんだな、と俺は思った。そうだ、当然だ。いくら大神官や守護人の決定に、ひとつも異議を差し挟めるような立場ではなくたって。
 俺たちは誰もが、そんなことに納得していない。
「守護さま」
 呼びかけると、守護人は俺を見返した。月に照らされ、赤く浮かび上がる彼女の顔を見るのは、これで二度目だ。前と同じく、その目は逸らされもせずまっすぐに、俺に向かってきている。
「なぜ、王ノ宮に?」
 俺たちを切り離そうとするのは、そこで何かをするつもりだからだろう。それが何であれ、サリナのことや、街で起こったことと無関係ではないはずだ。
 守護人が何を考えているのか。俺はそれが知りたい。
「正確に言うと」
 ちょっと考えるように間を置いてから、守護人は言った。

「……王ノ宮に行くのは、『守護人の名』 であって、わたしではありません」

「は?」
 何を言っているのかさっぱり理解できなかったのは俺だけではなかったようで、ロウガさんもハリスさんも、同じように 「は?」 という顔をした。
「明日、王ノ宮から、迎えの馬車が来ることになっていますが」
「はい」
「その馬車は、神ノ宮に来て、誰も乗せずに王ノ宮に帰ります」
「は?」
 間抜けな反問を繰り返すことしか出来ない俺を見て、守護人は首を傾げ、こりこりと頭を掻いた。呆れているのではなく、本人もどう説明していいのかよく判らなくて困っているようだ。
「……つまり」
 と言ったのは、三人の中で最も頭の回転が速いハリスさんだ。皮肉な顔を保とうとしているらしいのだが、その口許はどう見ても引き攣っている。
「守護人が王ノ宮に一時的に身を寄せる、というのは、表向きの話だと?」
 は? とまたきょとんとする俺を余所に、守護人がそちらを向いて、少しだけほっとしたように頷いた。
 え。俺、まだわからないんだけど。
「それって、どういう」
「要するに、広間で神官たちに向かって話したのは、ただの名目、ほとんど口から出まかせだった、ってことだよ」
 腹立たしそうにハリスさんにそう言われて、俺はぎょっと目を剥いた。
 口から出まかせ?
「すみません、よくわからないんですけど」
「わたしもよくわかりません。人をペテン師みたいに」
 俺は混乱したが、守護人は不満げにぶつぶつ言っている。
「明日、王ノ宮から迎えの馬車が来て、守護人はそれに乗って神ノ宮を出て行く──ということになっている。そうですね?」
 今度はロウガさんが、考えるように顎に手を当て、そう確認した。守護人が 「はい」 と返事をする。
「しかし、実際、その馬車に守護人は乗っていない。誰にも気づかれないよう、無人のまま、また王ノ宮に向かう。神ノ宮の神官たちは、その馬車には当然、守護人が乗っていると信じ込んでいる……」
「そういうことです」
「え、え?」
 すでになんとなく頭が痛そうな顔をしているロウガさんと、その言葉に肯っている守護人を、代わる代わる見やって、俺の混乱は増す一方だ。
 ハリスさんが腕を組み、はあーっとこれみよがしな大きなため息をついた。
「つまり、『守護人がしばらくの間王ノ宮に滞在する』 なんてのは、神官たちを丸め込むための、ただの口実に過ぎなかった、ってことだよ。守護人が神ノ宮を出て行くこと、その不在をもっともらしくする、方便だ。……おかしいと思ったんだ、王ノ宮に行ったって、神ノ宮と同じような窮屈さを強いられることになるのはわかりきってるんだからな」
 ええー!

「じゃあ、守護人が王ノ宮に行くってのは、全部ウソだったってことですか?!」

 つい大きな声を出してしまった俺に、守護人はやっぱり不満げな顔をした。
「人聞きの悪い。ウソじゃありませんよ」
「だって本当は行かないんでしょ?」
「わたしは行きませんが、守護人の名前は行きます」
「名前だけ行くってどういう意味なんです」
「守護人は王ノ宮に着くと、そこで静かに過ごし、誰かに狙われてるから怖くて怖くて部屋に閉じこもったまま、人前に姿を現さない、ということになるんです。神ノ宮から逃げだすくらい臆病で気が弱いので、仕方ないですね」
 この大ウソつき!
「で、でも、王ノ宮はそのことを」
「もちろん、その部屋の中に誰もいないことは、ごく一部しか知りません。カイラック王が、そのように手配してくれるはずです。もともと神ノ宮でも神獣を見られるのは限られた人間だけなんですから、守護人がまったく姿を出さなくても、そんなに変だとは思われないでしょう」
「それは……けど」
「名前だけが王ノ宮に行くというのは、本当にウソじゃありません。王ノ宮には、守護人の名をどのように使ってもらっても構わない、と伝えてありますから。あちらにしても、守護人という存在を好きなように利用できるのは、悪い話ではないと思います」
「…………」
 王ノ宮が純粋に神獣の守護人を敬っている、なんてことは俺も思っていない。でも、ここまで当たり前のように本人がそれを認めているのを聞くと、なんだかやるせない気分になった。
 利用されていることを判っていて、それでも……
 いや待て、今の問題はそこじゃないんだ。
「──だったら」
 かさかさに乾いてきた唇を舌で湿らせて、俺はいちばん重要な点を訊ねた。
「名前だけを王ノ宮に置いて、ご本人はどこに?」
 その問いに、守護人はこの間とまったく同じように、さらっと一言、「外に」 と答えた。
「ちょっとの間、旅に出ようと思います」
 頭の痛そうな顔をしていたロウガさんの気持ちが、よく判った。



 俺たちの誰も、咄嗟に口がきけなくて、しばらく無言が続いた。
 最初にその沈黙を破ったのは、ロウガさんの慎重な声だ。
「……ひょっとして、湖の国に行かれるのですか」
 うん、俺も思った。ハリスさんも腕を組んだまま表情を変えないので、そう考えているのだろう。
 ──湖の国に行って、調べるつもりなのか。
 が、守護人は首を横に振った。
「あの国のことは、王ノ宮が調査します。どう考えたって、そちらに任せるほうが早いし正確です。湖の国は遠い……わたしには」
 行くのは無理です、と続くのかと思ったら、違った。彼女は少し目線を外して、小さな声でこう言った。
「……わたしには、そこまでの時間は与えられていない」
 ぽつりとした調子で出されたその言葉を、俺は、「王ノ宮から与えられた時間が少ない」、という意味だと解釈した。街に出る時、日暮れまで、と大神官に言われたように、今回もやっぱり決められた期限があるのだろう。
「では、どちらに?」
「ニーヴァを廻ろうと思っています」
「ニーヴァを?」
 返された言葉に、俺は首を捻った。問題が起きているのは湖の国だろうに、どうしてニーヴァ?
「覚えていませんか、トウイさん」
 守護人が真面目な表情で、俺の顔を覗き込んだ。

「……拝礼日、何かに取り憑かれたように暴れていた人たちのことを」

 え、と目を瞬く。
 それはもちろん生々しい記憶として未だに俺の頭に残っているが、どうして今ここにその話が出てくるのか、判らない。
「それが──」
「あの時、違和感を覚えませんでしたか。普段非常に信心深いであろう人たちが、門を閉ざされたということに、いきなりあんな風に怒りを爆発させるものだろうかと。ニーヴァ国民は、スリックほど穏やかではないかもしれませんが、基本的に、陽気で気さくな性質だと聞いています。キキリやドランゴほど、荒々しくも、興奮しやすくもない。いくら貧しさや疲労感などの理由があったとしても、それだけであんな風にすぐさま暴動に繋がるでしょうか」
「…………」
 門を揺さぶり、怒号を上げていた人々の顔が甦る。みんながみんな、凶暴で攻撃的になって、表情を歪め、叫び、罵り、怒っていた。
 それだけ抑えられていたものが大きく根深かったのだろうかと、あの時、戦慄と共に、確かに俺は思ったんじゃなかったか。
 ……そこまで大きく根深いものって、なんだ。

「ニーヴァで、何かが起こっているんじゃないか、と思います」
 守護人は静かに言った。

「それは、神ノ宮であった出来事や、湖の国の事情とは、なんの関係もないことかもしれません。でももしかしたら、関係のあることかもしれません。共通しているのは、どちらも、『神』 への強い思いがあるということです。それが肯定的なものであれ、否定的なものであれ。……どんな神であれ」
 門の外にいた人々、湖の国の民。
 どちらも、神に深く傾倒し、依存していた。
 まことの神、まがいものの神と、確信に満ちてふたつの言葉を出した女の目には、死の間際だというのに背中が冷えるほどの狂信的な光があった。そしてそれは、拝礼日に人々の目の中にもあったものだったかもしれない。
 弱い存在、弱い心が、神聖なるものに縋るように執着するところを、俺はサリナを通して、この目でまざまざと見ている。
「何か起きているのか──わたしはそれが知りたい」
 知らなければ、と決意のこもった声で、少女が呟いた。


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