リライト・ライト・ラスト・トライ

第九章

2.堅牢



 馬に乗って進むと、ほどなくしてテトの街らしきものが見えてきた。
 「らしきもの」、というのは、ちょっとだけ自信がなかったからだ。そこには確かに、周りを囲む石の壁があり、その向こうには建物の一部が覗いて、小さいながらもひとつの街としての体裁を整えてはいるのだが。
「あんなところに、本当に人が……?」
 思わず、疑問の言葉を零してしまう。
 数年前に大きな火災があった、とは俺も聞いていたが、実際にテトをこの目で見たのははじめてだ。こうして目の当たりにしてみたら、耳で聞いてなんとなく想像するのと、実物をすぐ間近で見るのとでは、埋めようのないほどの大きな差がある、と痛感した。
 石の壁は黒く焼け焦げ、あちこち上部が崩れている。その崩れた部分からは中の様子が少し見えるが、視界に入る建物はどれも壁と同じように黒々としていて、とても以前の街並みを思い浮かべることは出来ない。
 外には建造物の残骸らしきものが積み上げられているところもあったが、そのまま何年も放置されたことを示すように、大きな石塊の隙間に生えた雑草が逞しく伸びている。
 もう廃墟にも等しい、とハリスさんは言っていたが、それどころではなく、テトの街はすでに完全な廃墟に成り果てていた。もしかしたら一部には消失から逃れ、ちゃんと建物としての形と機能を保ったものも残っているのかもしれないが、そういったものがまったく見えない外からは、単なる瓦礫の山のような、荒涼たる眺めでしかない。

 捨てられた街。そこは本当に、そうとしか言いようのない場所だった。

「あれを見てみな、トウイ」
 手綱を握り、俺とは違う方向に目をやっていたハリスさんが、顎でしゃくって指し示す。
 そちらにあるのは、街へと通じる出入り口だ。通常、余程のことがない限り、どこの街でも開放されているはずの門が、ぎっちりと閉じられている。しかも、その門さえも壊れていて半分くらいその用途を全うできないためか、補強用に木材が組まれて、街の中への侵入を頑なに阻んでいた。
 その木材だけは、他のものとは違ってやけに新しいものであることが見て取れる。テトに住んでいて、出て行った人たちの手によるものではないことは明らかだ。
「……なんだか、異様な感じですね」
 ここに流れてきた人々というのも、そりゃ、なんらかの事情を抱えているのだろう。あそこから、人の声どころか気配さえちっとも漂ってこないのは、そもそも合法的な移住ではないのだから、ひっそりと息を潜めるようにして暮らしているのかもしれないと思えば、まだ納得も出来る。
 ──でも。
 あの木材の組み方。太いものと細いものとを使い分け、それこそ人の手足さえ入れないように、執念深いくらい念入りに重ね合わせている。ちょっとやそっとじゃ壊れなさそうな頑丈さ、というのはもちろんだが、なんとなくその外観からは、これを街の出入り口につけようとする人間の暗い情念のようなものが感じ取れて、妙にぞっとした。

 そうまでして、中のものを守りたいのか。
 あるいは、閉じ込めたいのか。

「話を聞きたいと言っても、そう簡単にはいかない雰囲気ですね」
 ロウガさんの言葉に、守護人は少し考えただけで、あっさりと答えを出した。
「まずは、正攻法でいってみましょう」


          ***


 結果から言えば、正攻法はまったく上手くいかなかった。
 ある程度予想はしていたが、俺たちが組まれた木材の間からどれだけ声をかけてみても、向こうからはうんともすんとも反応が返ってこなかったのである。
 通りすがりの旅人の態を装って、ここに住人はいるのか、もしもいたら飲み水だけでも分けてもらえないか、もちろんそれに見合った代金は支払う──ということまで言ってみたものの、返事どころか、出てくる人影もない。
「……人は間違いなくいるみたいなんですけどね」
 耳を澄まして気配を窺っていたメルディが、声音を抑えて囁く。街の中に人がいるのだったら、こちらの声が聞こえないはずがない。つまりあちらには、徹底的に、外部の人間と接触する意思がない、ということなのだ。
「盗みを働くほど困窮しているのなら、金を払う、って言葉には喜んで出てきそうなもんだけどな」
「それだけ、警戒してるってことなんでしょうか」
 このあたりの住人たちと、何度か諍いや騒ぎがあったというから、それで易々と他人を信用できないんだろうか。
 ──いや、順序が違うな。ここに流れてきたという人間たちには、もともと、そういうところがあったんだ。いくら金がなくたって、頭を下げて乞うなり、その分の労働と引き換えにするなり、もっと友好的に食料を得る方法は、いくらでもあったはず。そういった手順をすっ飛ばして、いきなり住人たちが丹精込めて育てた作物を勝手に持ち去っていくようなことをしたから、悶着が起きたんじゃないか。
「どうします、シイナさま」
 ハリスさんに問われて、守護人は 「そうですね……」 と呟きながら目の前の防塞をじっと見た。
「……これくらいのバリケードなら、ぶっ壊して押し通るのは簡単なんですけど」
「やめましょう」
「やめてください」
 同時に制止の言葉を出した俺とロウガさんに、ちょっとイヤそうに眉を寄せて振り返る。
「簡単なんですけど、そんな手段はとるわけにはいきませんね、って続けようとしたんです」
 ウソつけ、半分くらい本気だっただろ。
「ミーシアさんがいるのに、そんなことはしません」
「ミーシアがいなかったら?」
「もちろん一秒も迷わず突撃を……と、いうのは冗談です」
 ウソつけ!
「中にいるのが、ただ単に臆病で小心な連中ばかり、ってことならそういう強硬策もありかもしれませんがね」
 ハリスさんが苦笑して言った。
「……この場面では、裏目になりかねない。慎重にいったほうがいいと思いますね」
 もともと抑えていた音量をさらに小さくし、ほとんど声にならない声にしてそう続けると、鋭い眼差しを障壁のあちら側へと向ける。
 何重にも組まれてあるとはいえ、使われてあるのは板ではなく木材だから、それらには少しだが隙間もある。そこに近づいて覗いてみれば、街の中には焼け跡ばかりでなく、焦げてはいるが一応四角い形を留めた建物が残っていることが判る。
 その、建物の窓から。または、壊れて開いた穴から。あるいは、崩れかけた石の柱の向こうから。

 いくつもの目が、こちらを見ていた。

 警戒しているのか、怯えているのか、観察しているのか、見定めようとしているのか、それはまったく不明だが、何対もの目が、ただひたすら黙ってこちらをじっと見つめている。
 そこには陽気な空気なんてものはカケラもなく、感情を押し殺したような、敵意にも似たやたらと張り詰めた不穏さがぴりぴりと伝わってくるばかりだった。
「──……」
 俺は額に薄っすらと汗をかいた。
 なんだ、この連中。
「どうも、下手に刺激をすると、ヤバいことになるような感じがする」
 ハリスさんのその意見に、俺も同感だ。
 貧しさからやむなくこの土地まで流れてきた弱々しい人々、という先入観はどうやら頭から捨てておくのがよさそうだと、身の裡を緊張させる。いや、もしもそうだとしても、中にいるのはすでに、相当精神的に疲弊し、追い込まれていると見たほうがいいのかもしれない。たとえ普段は温厚で弱くとも、鬱屈が溜まれば溜まるだけ、理性が弾け飛んだ時には凶暴になることを、拝礼日の一件で俺は知ってる。
 壁を隔てたテトの街にも、あの時と似たような、暴発の一歩手前の不気味な静けさが充満していた。
 ──守護人を、みすみす危険に晒すような真似は出来ない。
「誰もいないようですし、他を廻りましょうか」
 中に聞こえるように、声を大きくしてそう言いながら、手綱を引いて馬首の向きを変える。守護人は黙ったままだったが、大人しくこくんと頷いた。
 蹄の音をさせて馬を進ませても、中からの視線は離れることなく俺たちに突き刺さっているようで、ひやりとしたものが背中を這い上った。



 壁に沿って、テトの街をぐるりと廻ってみる。
 どこで聞き耳を立てられているか判ったものではないので、表面上は世間話のようなどうでもいい会話を交わしながら、注意深く調べたのだが、人が侵入できそうなくらいの穴の開いた場所などは、ちゃんと抜かりなくあちら側から大きな岩などを置いて塞いであった。
 必要以上に用心深いな、とかえって猜疑心が湧く。
 捨てられた街に勝手に住み着くのは、確かに褒められたことじゃない。でも、上の階級の人間が訴えでもしなければ治安警察が動くことはないし、そんなことより今はゲナウの街の近くをうろつく盗賊たちへの対応のほうを優先させるだろう。いくら周辺住民との軋轢が起こっていても、こんな不便な土地にある、地図にも載っていない小さな街にわざわざやって来て、彼らを追い出すとは思えない。
 なのに、どうしてこうも厳重にするんだろう? この中で、身を寄せ合って細々と暮らしているだけなら、ここまですることはないと思うんだけど。
「今日は天気がいいですね」
 と、とぼけたことを言いながら、俺の前の守護人も、街の壁を上から下までじろじろと検分している。
 時々、小さな穴を見つけては、うーん、というように首を傾げた。
「…………」

 ──なんか、その目その顔、「自分が入れそうなところはないかな」 って基準で見てない?

 ものすごくイヤな予感がする。
 ひそかに中に潜り込んで様子を見る、出来れば住み着いているのがどういう人間なのかを探る、ということをするとして、まさかそれを、守護人本人がやる気なんじゃあるまいな。
「……どちらにしろ動くのは、もうちょっと暗くなってからですけど」
 耳元に唇を近づけ、俺はぼそぼそと低い声で釘を刺した。
「シイナさまは、ミーシアと一緒に留守番ですからね」
「もちろんミーシアさんはお留守番です。馬や荷物を見てもらわないといけないし」
「もう一度言いますが、シイナさまとミーシアは、二人で留守番ですからね?」
「その場合、ミーシアさん一人では置いておけないので、ロウガさんと二人でお留守番です。そもそも、あの大きな身体は潜入に向いていないし」
「なに露骨に俺の台詞の一部分を無視してんです?!」
「しっ」
 つい声を大きくした俺に、守護人が人差し指を口元に当てて制止する。
 彼女のその目が、壁の一点に向かった。呼吸を止めるようにして神経をそちらに集中させたことに気づいて、同じ方向に視線をやった俺は、言葉と息をいっぺんに呑み込んだ。
 全員が、はっとした。
 壁の下のほうに開いた丸い穴──人の、いや、大人の腕も通らないくらいの小さな穴、それゆえに塞がれもせずに放っておかれたのだろう穴から。
 手が、にょっきり飛び出している。
 あちら側、まるで壁から生えているように出ているその手は、非常に細く短かった。どうやら肩で止まってしまうまでいっぱいに伸ばしているらしいのだが、壁の厚みを考えても、ロウガさんの腕の半分くらいだ。
 大人の腕が通らないくらいの穴から出ている……つまり、その手の持ち主は。

 子供だ。

 小さな手は、何かをぎゅっと握りしめていた。限界まで穴からこちらに向かってそれをまっすぐに突き出し、必死になって訴えるように、ぶんぶんと振っている。あちらから声が発されることはなかったが、それが外にいる俺たちに向けたものだというのは、一目瞭然だった。
「ずいぶん大きな鳥が飛んでますね」
 守護人が声の調子を変えずにそう言いながら、傍らのメルディに向かって目顔で合図した。
 中がどういう状況なのかは判らないが、おそらくこの手の持ち主は自分の行動を知られたくないのだろう。守護人の言葉は、もしかして壁の向こうのどこかで耳をそばだてているかもしれない誰かの目と注意を、上に向けさせるためのものだ。
「あれは岩場に巣を作る鳥だから、このあたりの居心地がいいんじゃないですかね」
 演技達者なハリスさんが、口調だけはのんびりと相槌を打つ。守護人に合図をされたメルディが軽く頷くと、音も立てずにふわっと馬から飛び降りて、するりと子供の手から何かを抜き取った。
 その手は一瞬、安心したように、ぶらんと力が抜けて、すぐに再び穴の向こうへ引っ込んだ。
「…………」
 俺は口を引き結ぶ。
 短い時間のことだったし、そんなにじっくり見たわけではないけど。
 ──ひどく、痩せ細った腕だったな。


 身軽にまた馬に乗ったメルディが、ちらりと手の中に視線を落としてから、あの手から受け取ったものを、守護人に渡した。
 それは、折り畳まれた一枚の紙だった。
 守護人はかさかさと音をさせてその紙を広げたが、一瞥しただけで、すぐに俺のほうに差し出してきた。
「これ、なんて書いてあるんですか?」
 そうか、守護人はまだこちらの文字が読めないんだったな。
 俺は後ろからその紙を覗き込んで、その幼い筆跡の文字を見る。
 それを読み取った途端、思わず顔が引き攣った。
 守護人と、両隣の馬に乗ったロウガさん、ミーシア、ハリスさん、メルディが、全員でこちらを注視しているのは判るが、すぐには言葉が出てこない。
 一拍の間の後、なんとか喉から声を引きずりだした。

「……『たすけて、ころされる』、と」


           ***


 紙には、「たすけて、ころされる」 の文字の下に、時刻が記されていた。
 約三限後だ。この時間になったらまた来て欲しい、という意味だと解釈した俺たちは、他のところで適当に時間を潰してから、再びその場所に赴いた。
 穴の前で膝をついてしばらく待つと、壁の向こうに、くりくりとした目が現れた。
 大きく見開かれたその目は、俺の姿を認めて、ほっと安心したようだった。穴からでもはっきり子供だと判る小さく幼い目が、引き攣ったように怯えきっているのは、あまりにも痛々しい。
「た……たすけて欲しいんだ」
 震える声は、壁に耳をぴったりくっつけていないと聞こえないくらいに小さかった。
「旅の人、だろ?」
「ああ、そうだ」
 俺も出来る限り声を抑えて返事をした。俺の近くでは守護人も壁に寄り添うようにして耳を澄ませている。
 あの紙を受け取ってから相談した結果、向こうが子供なら、交渉の相手は俺がいちばんいいだろう、という判断がされたのである。万が一何かの罠であるかもしれない可能性も考慮して、迂闊に守護人の顔を見せるわけにはいかない。ロウガさんやハリスさんだとあちらが怯えるかもしれないし、ミーシアは感情に流されがちだ。結局、ハリスさんとメルディが見張りに、ロウガさんとミーシアが俺と守護人の姿を隠すようにして立つ、ということになった。
「今、そっちに他の人間は?」
 俺が問うと、子供はふるふると首を横に振った。なにしろ穴を通してなので、その子供の顔立ちもほとんど判らない。声も子供特有の高さで、男か女かを判別することも出来なかった。
 ただひとつ、はっきりしているのは、目と髪の色だ。
 赤茶じゃない。リンシンと同じ、灰色をしている。
 違う国同士の血が混じって生まれる色。
「い、今、お祈りの時間なんだ。だから、ここのやつらはみんな、街の真ん中に集まってる」
「祈りの時間……」
 まるで、神ノ宮みたいだな、と俺は呆れた。

 ──この街にいる人間が祈りを捧げる対象は、どんな 「神」 なんだ?

「中には何人いるんだ」
「さ、三十人、くらい……だと思う」
 いささか曖昧な返答だが、三十、という数字にちょっと驚く。思っていたより、結構な人数だ。
「大人だけで三十?」
「子供も、いるよ。たぶん、五、六人……? よくわからない。オレ、ほとんど、外には出ないから」
「?」
 なんだか変な言い方だな。このテトの街の外には出られない、ということだとしても、生活の場を同じにしている人間の、数や顔ぶれくらいは把握できていて当然だと思うんだが。
「たすけて、ってのは?」
 ひょっとしたら、食料が欠乏して飢えている、ということなのかもしれない。極端に外界と接触したがらない大人たちのせいで、子供たちまで理不尽に空腹に喘いでいる、という意味で、「ころされる」 という表現を使ったんじゃないか──それまで頭の中にあった俺のそんな考えは、次に発された子供の言葉で、すべて吹っ飛んだ。

「もう、二人、殺された。オ、オレたちと同じように、無理やり連れてこられた子供だ。あとは、オレと、フィリーしか残ってない。お願い、たすけて、フィリーはもう、恐怖で頭がおかしくなりかけてる。オレはいいから、フィリーだけでもたすけてやって。お願いだ……!」

 後半は、すでに涙で崩れて、ちゃんとした言葉にもなっていなかった。
「…………」
 俺はその場に硬直したまま、しばし絶句する他なかった。すぐ近くにいる守護人に目を向けてみれば、彼女もまた血の気の引いた顔で、壁に身をくっつけて固まっている。
「……殺されたって、中にいるやつらにか?」
 さらに声を抑えつけて問うと、穴の向こうの子供が、がくがくと小刻みに何度も頷いた。
 傍に立つロウガさんとミーシアも、この成り行きは予想もしていないことだっただろう。二人とも動きはしないが、青い顔をしている。ロウガさんはほとんど無意識のように、剣の鞘を左手で握った。
「どういうことだ。お前たちはみんな、家族とか、仲間とか、そういう関係じゃないのか?」
 まさか、貧しさで飢えるあまり子供を殺して肉を──という嫌な想像を、軽く頭を振って追い払う。いくらなんでも、そんなことはないだろう。テトの外には、いくらでも食べるものがあるのだから。
「あ、あいつらの中には、家族もいるよ。全体では、仲間同士なんだろうと思う。けど、けど、オレたちは、違うんだ。オレたちは、あいつらの家族でも、仲間でも、なんでもない。ただ、『不純な血』 として、連れてこられただけだから」
「不純な血?」
 なんだそれは。
 灰色の髪だから? 異国民同士の血が混じって生まれたから? だから不純だと?

 ──馬鹿言うな。

「だからって、なんの理由もなく子供を殺してるっていうのか?」
 意味が判らない。一体、このテトの街に住み着いている連中は、何を考えているんだ。
 腹立たしさのあまり極限まで低くなってしまった声に、穴の向こうの子供が少し怯えるように身を引いた。ロウガさんに足の先で蹴られて我に返り、俺は深く息を吐く。落ち着こう、とにかく今は詳しく話を聞きだすのが先だ。
「ごめん」
 謝ると、あちらの子供の強張りが、少しだけ解けた。ぐしゅ、と鼻を鳴らして、ぐいぐいと拳で乱暴に涙を拭い取る。
「お前は街の中なら自由に移動できるのか?」
「ううん、いつもは大体、小さな家の中に入れられてる。このすぐ近くの、扉の色が青の家だよ。外から鍵がかけられてるけど、上のほうに窓があって、棚とかを積み上げれば、そこから出られる。すごく小さな窓だから、オレがそこから出られるって、あいつら考えてないんだ。けど、フィリーはオレよりも身体が大きいから、そこから逃げられない。扉も、鍵も、オレ一人じゃ壊せなくて、フィリーをそこから出してやれない。だから、オレ、誰かにフィリーをたすけて欲しくて……」
 拭い取るそばから、涙が溢れてくるらしい。しゃくりあげながら、それでも懸命に堪えて、話をしようとしている姿が哀れだった。
「たすけて」
 子供はもう一度、切羽詰まった声ではっきりとそう言い、穴に差し込んだ手を伸ばした。
 ほとんど肉もついていない、棒のように細い手だ。俺の半分くらいしかない小さな掌が、必死に何かを掴もうとするように、精一杯広げられている。
 その手に触れると、ぎゅっと強い力で握られた。
「もうすぐ祈りの時間が終わる。オレ、もう戻らなきゃ。お願いだよ、フィリーをたすけて。いつ殺されるか、わからない。今夜かもしれないし、明日かもしれない。その前に、フィリーは自分で自分を殺しちゃうかもしれない。ずっと泣いてるんだ。何も食べないし飲まない。オレ、もうどうしたらいいかわからない」
 わからないんだ、と悲痛な声で繰り返し、続けた。

「あいつら、神様に不純な血を捧げて、願いを叶えてもらうんだって」

「…………」
 なんだと?
「オレたち、生贄なんだ。だからここに連れてこられて、飼われてるんだ。あいつら、変なんだよ。変なのに、誰一人として、それが変だってわかってない。ものすごく自信たっぷりで、ろくに食べ物だってないのに、いつも幸せそうに笑ってる。そうやって笑いながら、子供を殺すんだ。神様のために死ねるなんて、お前たちはなんて運がいいんだって、本気でそう言うんだ。オレ、そんなのちっともわからない!」
 また涙声になった。穴が手で塞がれて顔は見えないが、見えたとしたら、さぞ恐怖に占められた表情で泣き濡れているのだろう。
「──お前の名前は?」
 俺の質問に、意味を掴みかねたのか、一瞬間が空いた。
 少しして、おずおずというように、ぽつんと答えが返ってくる。
「……ニコ」
 ニコ、か。本名なのか愛称なのかは判らないが、可愛い名前だ。幼いなりに知恵が廻るようだし、行動力もある。友達を救いたいという優しさだって持ってる。こいつはこの年齢で、そこらの男よりも勇気がある。
 この命を、そんなバカげた理由で、奪わせてたまるか。
「ニコと、フィリーだな。必ず助ける、待ってろ」
 俺は強く手を握り返して、そう言った。
 視線を動かし、眼前にそびえる黒く煤けた壁を見上げる。

 廃墟となったこの街は、何を守り、何を閉じ込めるのか。


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