リライト・ライト・ラスト・トライ

第十章

4.値偶



 立ち尽くす一同の中で、いちばん早く動きはじめたのはメルディさんだった。
「私としたことが、視線の主を探すほうに注意を向けすぎて、不覚をとりました。ここは個別に動かせてもらいますよ」
 それだけ言って踵を返すと、建物と建物の間の狭い道にするりと身を滑らせるようにして入り込み、姿が見えなくなった。密偵のやり方で探す、ということだろう。
 そちらはそちらで任せることにして、わたしはざっと周囲を見回した。
 顔つきや漂う雰囲気で何があったのか薄々察しているのか、通行人たちは、みんな気まずそうに目線を逸らして、わたしたちを避けるように早足で歩いていく。彼らの様子から、この街でこんなことは日常茶飯事なのだろう、と推測できた。気の毒には思うが関わりたくない、という気持ちがその表情から透けて見える。
 ──女性や子供が、いつの間にか誰かの手によって連れ去られても。

 見ない、聞こえない、知らないでやり過ごそうとする住人たち。
 一人が灰色の髪だから? いいや、たぶん違う。
 それだけ、彼らを臆病にさせているものがある、ということなのだろう。

 けれど今は、そんなことよりもミーシアさんとニコを探すのが先だ。住人たちが当てにならない以上、目撃証言は他のところから得るよりない。
「ロウガさん、あの人を捕まえてください」
 わたしが指で示すと、ロウガさんがすぐに無言で走り出した。
 後方の路地の入口で、何をするでもなくただ立っていたその男は、ロウガさんが自分のほうへ向かっていることに気づくや、浮かべていたニヤニヤ笑いを引っ込めて、ぱっと身を翻し逃走をはじめた。それを追うロウガさんの姿も、路地の中に消える。待つほどもなく、けたたましい罵声と、何かがひっくり返るような音が聞こえてきた。
 わたしとトウイとハリスさんがそこに到着した時には、すでにロウガさんは完全に男を拘束した態勢で待機していた。男は両手を後ろに廻され、背後から首をロウガさんの腕でがっちりと固められて、身動きできない状態で地面に座らされている。
「おい! なんの真似だよ、これ! 冗談じゃねえ、早く離せよ!」
 唯一自由になる足をばたばたと動かし、もがくように暴れているけれど、そんなことではロウガさんはびくともしない。さっきからひたすら無言を貫くロウガさんよりは、まだしもこちらのほうが話が通じると思ったのか、目を吊り上げた男はわたしの顔を見て威嚇するように怒鳴りつけた。
「きちんと説明をしてくれれば、すぐに離します。わたしたちと一緒にいた女性と子供はどうしました?」
 わたしの質問に、男は馬鹿にしたように鼻先で笑った。わたしを見て、その後ろに立つトウイとハリスさんを見る。男の頭の中では、計算機が音を立てて激しく稼働している最中らしい。
「知らねえよ」
「位置からして、見えなかったはずがありません。いなくなったのはついさっきです」
 後ろを振り返りはしなかったが、確かに、ニコの声と、それに応えるミーシアさんの声は耳で捉えていた。少し前まで、すぐ近くにいたのは間違いないのだ。叫び声でも上げていれば必ず誰かが気づくから、二人はごく短時間のうちに、口を塞がれたか意識をなくされたかして、どこかに連れ去られたと考えられる。そんなことを一人では出来るとは思えないから、相手は複数だろう。
 後ろにいた人間からは、その行動が見えていたはず。
「ああ、そういや、女と子供の二人が、ふらっとどこかに歩いていったのは見たかもな。買い物にでも行ったんじゃねえの」
「急いでいるので、余計な回り道はやめましょう」
 ミーシアさんが、わたしたちに黙って勝手な行動をとるわけがない。ちょっとおっちょこちょいなところはあるけれど、彼女はそういった点、兄に似て非常に真面目で忠実だ。
「二人はどこに連れていかれました? 知っていることを包み隠さず話してください。早く言ったほうがあなたのためですよ」
 男がわたしを見上げ、歯を剥きだした獰猛な笑い方をした。
「ふざけんなよ。どこの坊っちゃんだか知らねえが、なんでも自分の思い通りに事が運ぶだなんてムシのいいことは考えねえこった。知らないもんは知らないっつてんだよ。大体、これが人にものを聞く態度か、ああ?」
 教えて欲しけりゃ全員で地面に這いつくばって頼め、お願いしますと頭を下げろ、持ってるだけの金を差し出せ、と次から次へと男の口から出てくる要求のすべてを聞き流して、拘束の手を緩めずにいるロウガさんに目で合図をした。
 わずかに頷いて、ロウガさんは、男の首に廻していた腕の力をぐっと強めた。
「うげっ……!」
 首を締められて、男が呻き声を洩らす。険悪な顔で何かを叫ぼうとしたものの、締められる力は徐々に強まっていくので、声は出ずに、代わりに脂汗が浮かんだ。
「肝心なことを話さない口なら、声なんて要らないでしょう?」
 わたしも膝を曲げ、男と目線の高さを揃えた。ゆっくりとした口調で問いかける。
「だったら、喉笛を潰してあげます。一生、何も喋らずに済むように」
 次第に赤黒くなってきた男がぱくぱくと口を動かした。
「じょ、冗談、だろ……」
 消えそうな声は、掠れていて聞き取りにくい。
「残念ながら、今のわたしは冗談を言うような気分じゃないんです。あなたの後ろにいる人もね」
 無表情でそう言うと、息も絶え絶えの男が目を大きく見開いた。その目だけをおそるおそる動かして、自分の首を締めているロウガさんの顔がまぎれもなく本気であるのを見て取り、全身を強張らせる。
「──あなたが死んだら、他を当たるまでです。どうしますか」
 ようやくそこで、男の意地が砕けた。
 足をばたつかせ、すでに声も出なくなっている喉から、ひゅううという風のような音を必死になって絞り出す。ロウガさんがわずかに力を緩めると、途端に咳き込みながら泣き声交じりで叫びだした。
「言うよ、言うって! お前ら、マトモじゃねえよ! 完全に目がイッちまってるよ! おい、後ろにいる二人、俺を助けてくれ! こいつらを止めてくれ、頼む!」
 男に助けを求められたトウイとハリスさんが、揃って深いため息を吐き出した。


 二人は、三人組の男に連れ去られたらしい。
 男たちの目的はミーシアさんだけだったが、後ろから口を塞いだところを、近くにいたニコが気づいて大声を上げようとしたため、やむなく一緒に連れて行ったのだろう、と男は言った。
 この街では、そうやって女性が誘拐されるのはしょっちゅうで、大体は、ただの 「暇つぶし」 感覚で実行されることが多いのだという。どこかの空き家に連れ込まれ、乱暴され、またぽいっと路上に捨てられる。どこに訴えようと聞き入れられることはなく、住人たちも同情はするが、どうにも出来ない、と。
 悪党に支配されているサザニという街は、そういう形で確実に、腐敗が進んでいるようだった。
「行きましょう」
 男は、ミーシアさんとニコを連れた三人組が向かった方角を指差したが、詳細な場所までは知らないと言い張った。でも、あれこれ考えているヒマはない。とにかく急がないと。
 話を聞きだしてから、頸動脈を押して男を気絶させると、ロウガさんはすぐさま立ち上がった。今にも突進していきそうなその姿ををちらっと見て、「二手に分かれませんか」 とわたしは言った。
 ハリスさんが頷く。
「それがいいですね。トウイ、お前は多少は冷静だな?」
「あ、はい」
 トウイは、水をかけられたような顔で、しゃんと背中を伸ばした。
「なんか、自分よりも逆上している人たちを見たら、かえって頭が冷えました」
「不幸中の幸いだ。だったらお前はロウガさんと一緒に行け。俺はシイナさまと動く」
「え……」
 ハリスさんの指示に、今度は少し困惑したような表情になる。
「あの、でも俺、ロウガさんが暴走したら、止める自信がないんですけど」
「それでも、この狂犬たちが二人がかりで暴れるよりはマシだと思え。それに、お前相手なら、まだしもロウガさんも分別を持っていられるかもしれない。理性を吹っ飛ばしたロウガさんを、なまじ俺が腕ずくで止めようとしてみろ、どうなると思う?」
「……二人とも重傷を負いかねないですね」
「傷くらいじゃ済まない可能性もあるだろうが。大体、ロウガさんを止める自信がないって、じゃあ、シイナさまなら止められるのか」
「それは無理です。経験済みです」
「そうだろう。俺だってあんまり自信がないが、こっちはいざとなったら力で抑え込める……はずだ、たぶん。どっちにしろ、こんな物騒なのが同じ場所に二人もいたら手に負えん」
 二人とも、ひそひそと声を潜めて話しているつもりなのだろうけど、中身が丸聞こえだ。でもロウガさんの耳には届かないらしく、そうしている間にも、「ではハリス、シイナさまを頼む」 と一言だけ残して、路地の向こう側へと走って行ってしまった。
「え、ちょ、ロウガさん! 待ってください!」
 トウイが焦ったようにその後を追う。その背中を黙って見送ってから、わたしはくるっと方向転換し、二人が去っていったのとは反対側に向かって駆けだした。
 後ろからハリスさんも走ってきて、わたしのすぐ近くに並ぶ。
「シイナさま、こっちは方角が──」
「話された内容が、すべて本当のこととは限りません」
 口を動かしている間、男の目にはずっとふてぶてしい光が居座っていた。あっちのほうだ、と示した時の口調にも、ほぼ迷いがなかった。悪党の下っ端たちに仲間意識というものがあるかどうかは知らないけれど、自分が情報を洩らしたことがあとで知れたら、ということくらいは考えるのではないだろうか。
 ハリスさんは口を噤んでちょっと考えてから、
「──賢明な判断です」
 と言って、前方に真顔を向けた。
 わたしはずっと同じことばかりを胸の中で繰り返し、ひたすら足を動かし続けていた。

 こちらであって欲しい。
 ミーシアさんとニコがすぐに見つかって欲しい。
 ……トウイの向かったほうに、危険がないといい。

 こんな時まで、そんなことを考えている。
 わたしは本当に、最低な人間だと思う。


          ***


「ちょっと、ちょっと、あんたたち」
 家と家の間を駆け抜けていたら、とある家のドアが細く開いて、中から女の人が顔を覗かせた。
 立ち止まり、近づくと、彼女はこっそりと声の音量を抑え、囁くようにして言った。
「お仲間の娘さんを攫われちまったんだろう? やつらはね、この先の小さな空き家を溜まり場にしてるんだ、そこに行ってごらん」
「…………」
 肩で息をしながら、ハリスさんと顔を見合わせる。四十代くらいの恰幅のいいその女性は、わたしたちを交互に見比べて、申し訳なさそうに眉を下げた。
「さっき、通りでは教えてあげられなくてごめんよ。この街はザックスさんが力を握っていてね、その人に逆らうような真似をすると、穏やかに暮らしていけないのさ。街のあちらこちらには配下の連中が目を光らせていて、そいつらも好き放題しているけど、どうにもならない。情けないと思うだろう? でもね、あたしたちも自分の生活だけで手一杯なんだ。堪忍しておくれね」
 このおばさんは、さっき道で目を逸らしながらそそくさと立ち去った人たちのうちの一人だったらしい。そこかしこで立っている男たちが見ている前では何も言うことが出来なかったけれど、その目のなくなった今ここでならと、こうしてそっと教えてくれているのだ。
「ごめんね、あたしたちには何もしてあげられないけど、許しておくれね」
 おばさんは周りをきょろきょろと見回して、びくびくと怯えた顔を見せながらも、何度も謝罪の言葉を口にした。
「…………」
 荒い呼吸のまま、わたしは自分の右手を持ち上げた。咄嗟にびくっと身じろぎしたおばさんの、ドアの取っ手にかかっていた手の上に、重ねるようにして置く。
 ふっくらとした手。小さく震えているのは、きっとそこだけではないのだろう。
「……ありがとう、ございます」
 わたしがそう言うと、おばさんは顔を歪めた。ごめんね、ともう一度呟くように言った。
「早くお行き。気をつけるんだよ。間に合うといいね」
 おばさんに頷いて、わたしとハリスさんは再び走り出した。


 教えてもらった空き家に到着するまでもなかった。その手前で、男の怒声が聞こえてきたからだ。
「ちくしょう、あのガキ、どこに行きやがった?!」
「バカ野郎、お前がヘマするから、女にも逃げられちまったじゃねえか! どうすんだ、このままじゃ、俺たちにだってとばっちりが」
「うるせえな、また捕まえればいいんだろ! くそ、思いきり噛みつきやがって、あの灰色のチビ、見つけたらぶっ殺してやる!」
 わたしとハリスさんは建物の陰に隠れていたので、彼らの姿は見えなかったけれど、その怒鳴り合いを聞いただけで、おおよその成り行きが掴めた。
 どうやらニコの活躍により、二人は現在、男たちの手から逃れ、どこかに身を潜めているようだ。
「……機転の利く子供だな。さすがに死地をくぐり抜けてきただけのことはある」
 ハリスさんが感心したようにぼそぼそと呟いた。わたしも同感だ。すごいね、ニコ。
「トウイより役に立つかもしれないな」
 そこまで言うことないんじゃないかな。トウイだって有能です。美人に弱いだけで。
「シイナさま、俺の足を踏んづけるのやめてもらえませんか」
「すみません、ここ狭いので。それより、あの人たちよりも先に二人を見つけないと」
「そうですね。ナリの小さいニコはともかく、ミーシアはそうそう上手に隠れられる場所があるわけじゃないだろうし」
 あのおばさんの態度からして、どこかに匿ってもらえるんじゃないか、などという甘い期待は抱かないほうがいい。とはいえ、ミーシアさんとニコじゃ、走り回っていたら追いつかれる危険のほうが高い。
 だとしたら、二人は今もこの近くで息を殺して、追手の気配に耳を澄ましているはず。
 そこまで考えたところで、後ろから大きな声が上がった。
「おい! お前たち、何してんだ!」
 ハリスさんがぱっと振り向きざま、腰の剣に手をかけた。もう片方の手で、素早くわたしの動きを牽制する。
 そこにいたのは身なりのだらしない、二十代くらいの男だった。雰囲気というか、空気というか、そういうものが明らかに一般の住人たちとは異なっている。つまりこれも、ザックスという街の実力者の手下なのだろう。
 いや、というか──
「お前たち、あの女と一緒にいたやつらだな! どうしてここがわかった?!」
 やっぱり、この男もミーシアさんたちを連れ去ったうちの仲間だったか。向こうから聞こえてくる声は二人分。誘拐犯は三人組、と言っていたもんね。その部分はきちんと正確だった、ということだ。
 おおい、来いよ! と呼ぶ声に応じて、バタバタと荒い足音が近づいてくる。ハリスさんはちっと舌打ちして、剣を抜きながら、わたしの身体を後ろへと押しやった。
「……申し訳ない。少々判断を誤ったようです。連中の居場所を確認したら、シイナさまは隔離しておく予定だったんですが」
 隔離って。病原菌みたいに言わないで欲しい。
「わたしが大人しくしてると思いますか」
「まったく思いません。でもここは、こちらの言うことを聞いていただきますよ。──この場は俺に任せて、逃げてください」
「三人いますけど、大丈夫ですか」
「楽勝です」
 ハリスさんがそう言うのなら、そうなのだろう。見たところ、相手は剣を持っていないようだし。テトにいた人たちよりは手強いかもしれないけれど、ハリスさんならきっとあっという間に倒せる。
「じゃあ、お願いします」
「いいですか。俺は、逃げろ、と言ってるんですからね。ミーシアとニコはこいつらを片付けた後で俺が探しますから、シイナさまは直ちにロウガさんとトウイのところに向かって、そちらと合流してください。くれぐれも言いますが、自分だけで二人を探そうなんて思うんじゃありませんよ」
 くどくどしいその念押しには返事をせずに、踵を返して駆け出す。
 その途端、「バカが、逃がすか!」 という勝ち誇った声と、ピーッという甲高い音が響いた。
 走りながら顔だけ振り返り、男が指笛を吹いたのだと判った。
 ──他の仲間を呼ぶ合図だ。
 そう気づいたのはわたしだけではなく、ハリスさんもだったようで、驚いたように目を見開いていた。彼にとっても、男のその行動は誤算だったのだろう。
 ハリスさんはすぐにそちらに向かっていったけれど、指笛の音はすでに周囲に響き渡ってしまったあとだ。おそらく、これから続々と仲間たちがこちらに押し寄せてくる。
「シイナさま、待った! 俺も一緒に──」
 二人の男が姿を現して、ハリスさんの言葉が途切れる。彼が剣の柄頭で敵の腹部に鋭い一撃を与えたところまで見届けて、わたしは前に向き直り、全速力で走った。



「ミーシアさん! ニコ!」
 走りながら大きな声で呼びかける。この声が聞こえたら、絶対に返事をするはずだ。見つけたら三人で宿屋に向かおう。周辺の男たちが指笛の音で移動をはじめたら、きっとメルディさんが気づいて、トウイとロウガさんに知らせてくれる。
「ミーシアさん! ニコ! 二人とも、どこ?!」
 四角い家々の間をすり抜けるようにして走った。たまに、ドアがそっと開いて、こちらを気にかける素振りをする住人も何人かいたけれど、ためらうような間を置いて、そのドアはまたパタンと閉じられた。とりあえず、こっちに余所者がいるよ! と大声で知らせるような人はいない、というだけでもよしとせねばならないだろう。
 前方から、駆けてくる足音が聞こえる。目についた角を曲がって、建物の壁に張り付き、追手をやり過ごした。
 と、その時だ。

「……シ、シイナさま」
 どこかから、か細い声が聞こえた。

 弾かれるように反応して、声のしたほうへ走り寄る。
「ニコ? どこ?」
「こ……ここ」
 奥の家の裏手からニコの顔が覗いた。
「無事? ミーシアさんは?」
 地面に膝をつき、小さな肩に両手を置いて顔を覗き込む。目許がぴりぴりと引き攣っているものの、どこも怪我などをしている様子はないので、ほっとした。
「シイナさま、ミーシアさんが」
「どうしたの? 一緒に逃げたんでしょう?」
 ニコが何度もこくこくと頷く。だったらどうして姿が見えないのだろう。焦燥で胸が焼けそうだ。ミーシアさんは無事なのか。
「オレとミーシアさん、ここまで一緒に逃げてきたんだ。ずっと手を繋いで、走ってたんだよ。どの家の扉を叩いても開けてくれないからさ、あいつらが諦めるまで、どこかに隠れていようって。でも」
「でも?」
「こ、ここまで来たところで、ミーシアさんがいきなり、くたってなって」
 ニコがぶるぶる震えだしたかと思うと、目から大きな水滴を落としはじめた。今まで我慢していたのだろう、一度決壊が崩壊してしまったら、涙は洪水のように溢れて止まらなくなった。
 しゃくり上げながら案内してくれたそこには、本当にミーシアさんが横になって倒れていた。ニコが懸命に隠そうとしたのか、地面には引きずった跡があり、ミーシアさんの身体の上には、どこから集めたのか葉っぱやボロ布が被せられている。
 急いでミーシアさんの手首をとって確かめてみたら、脈はちゃんと打っていて安心した。ようやく囚われの身からニコと共に抜け出して、ここまで逃げてきたところで、緊張の糸が切れて失神してしまったのだろう。
「よくやったね、ニコ。ミーシアさんを守ってくれて、ありがとう」
「う、うん。ミーシアさんがね、ずっと、大丈夫、って言ってたんだよ。必ずみんなが来てくれるから、大丈夫、って。心配しないで、って」
 ひっくひっくと泣きながら、ニコがぐずぐずに溶けた声で言った。よくよく見れば、ミーシアさんはかなり服装が乱れていた。破れている部分もある。きっと、死に物狂いで抵抗して、逃げるきっかけを作ってくれたニコと手を取り合い、息を切らせてここまで走ってきたのだ。
 自分も怖かっただろうに。ニコを励まし、慰めて。
 大丈夫だからね、と微笑んで。
「ニコ、ハリスさんがもうすぐこのあたりに来ると思う。それまでもうちょっと、頑張れる?」
 わたしの言葉に、ニコは目をぱちりと大きく瞬いた。その拍子に、また涙がぼとぼとと落ちる。
「え、だ、だって、シイナさまは?」
「わたしだけでは、意識のないミーシアさんを運べない。だからせめて、注意を別のほうに逸らしておく。ハリスさんが来たら、呼び止めて、ミーシアさんを連れて宿に戻っていて」
「シイナさま、戻るのならみんなで一緒に戻ろう。ここでハリスさんを待てばいいんだろ?」
「ごめん、ニコ。心細いだろうけど、あともう少しの辛抱だから」
 それだけ言って、再び立ち上がる。滝のように流れる汗を、ぐいっと拳で拭った。
 周りでは、複数の足音が入り乱れている。彼らの注意を、別のほうへ引っ張っていかないと。出来るだけたくさん。出来るだけ遠くに。
「じゃあ」
「シイナさま!」
 ニコの声を背に、家の裏手を出て通りを走る。しばらく進んだら、共同の水道場のようなところに来たので、そこで水分補給をしてから、近くに積んであった桶を、勢いよく蹴とばして崩した。
 桶が落ちて転がり、ガランガランというやかましい音を立てる。どこかで 「あっちだ!」 という声が聞こえた。少しして走ってきた一人の男と目が合ったところで、また走り出す。
「いたぞ!」
 後ろで、甲高い指笛の音が響いた。


 走り回り、入ったところは、袋小路だった。
 追ってきたのは二人。他に二人ほどいたはずだけど、そちらは撒いたらしい。
「手間かけさせやがって、ガキが」
 ──二人。手には何も持っていない。
 したたる汗で、視界が滲む。ずっと走り続けて、心臓は爆発寸前だ。呼吸はなかなか整わない。絶好のコンディションとは程遠いけど。
 マントの下で、剣の柄を握った。
「こいつだろ、三人も護衛がついてたってガキ」
「らしいぜ。だから金はしこたま持ってんじゃねえかって話でさ」
「一体、どこの物好きな小僧──」
 男のうちの一人が手を伸ばして、わたしの頭を包んでいた布を乱暴に剥ぎ取った。
 そして一瞬、二人とも言葉に詰まった。

「……女か!」

 布で隠していた長い髪の毛が、背中に流れて落ちる。男たちがそれを、まじまじと眺めた。
「驚いたな。しかもこの髪の色、なんだこれ。黒なんて、一度も見たことがねえ」
「灰色の髪のチビを連れてたらしいから、こいつもそれと同じなんじゃねえか」
「混血の出来損ないってか。しかしそれにしたって、こんな色」
 男の伸ばした手が、髪をぐいっと掴んで引っ張る。
「まあ、なんにしろ女だったら他のやつを呼ぶまでもねえ」
「おお、そうだ。とにかく捕まえておけばいいんだろ。ちっと色気は足りないが、引き渡す前に、俺たちだけで楽しもうぜ。黒い髪の女ってのも珍しいから、話のタネにな……」
 そこでぷつんと言葉が途絶えた。代わりに、絶叫が上がる。
 足の甲に突き立てた剣を引き抜きながら、わたしはもう一人の男に顔を向けた。そちらは、突然の出来事についていけないらしく、「なんだ、なんだ」 と泡を食ったように繰り返しているだけだ。
「足、足が!」
 足を刺された男の手が、わたしの髪から離れる。うずくまったところを、間髪入れず、後ろ首目がけて剣を振り下ろした。
「ひっ!」
 咄嗟にもう一人の男が目を閉じる。その目をもう一度開き、倒れている男の首が胴体から離れることなくくっついているのを見ると、ようやく顔を蒼白にしてガタガタ震えはじめた。
「峰打ちです。気絶してるだけですよ」
「……お、お前、なんなんだ。なんなんだよ、一体」
「でも今度は、刃のほうを使います」
「ひ……」
「足にしますか、首にしますか」
 ぎゃあっ、と悲鳴を上げて、男はくるりと反転し、あたふた逃げて行った。
 ふう、と息を吐きだし、神獣の剣を鞘にしまう。
 直後、パンパンパン、という音が聞こえた。はっとして、すぐに柄を握り直す。
 まるで拍手をするように、手を叩きながら角を曲がってこの袋小路に入ってくる人物がいた。新手だろうか。のんびりとした、余裕のある仕草は、今までの相手とは異なるようだけど……
「やあ、相変わらずお見事なもんですねえ」
 この声、聞き覚えがある。
 わたしは剣の柄を握ったまま、その場に固まり、目を瞠った。
 近づいてくる人の顔は、確かに知っているものだった。もう見ることもないだろうと思っていた、その顔。大柄な体格は変わっていないけれど、痛めつけられた後遺症でか、不自然な歩き方をしている。
「……これはこれは、守護さま(・・・・)。このようなところでお会いするとは、思ってもいませんでしたよ」
 タネルさんは、凄味のある笑いを口元に刻んでそう言った。


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