リライト・ライト・ラスト・トライ

第十一章

1.ひとしずく



 ハリスさんと合流して、急ぎ宿屋に戻ると、ロウガさん、ミーシア、ニコ、メルディの四人が、建物の前で俺たちを待っていた。
「シイナさま!」
 意識を取り戻したらしいミーシアが、泣きそうな顔で真っ先に駆け寄ってくる。あちこち破れた衣服は着替えるヒマもなかったのかそのままだが、上に毛布を羽織っていた。
「ご無事で……」
 と言いかけ口を噤んだのは、守護人の、赤く腫れて、おまけに小さな擦り傷がたくさんついた頬を目に入れたからだろう。あっという間に眉も目も口元も歪め、くしゃくしゃになったその表情を見て、守護人がちょっと困った顔になり、ぎゅっとミーシアの手を取って握ると、引っ張るようにして足を動かした。
「ミーシアさんも無事でよかったです。でも話はあとにして、今はさっさとこの街から出ましょう」
「は、はい。馬も荷物も、用意してございます」
 涙を落とす一歩手前くらいで、ミーシアはなんとか踏ん張り、気丈に答えた。男たちに攫われ、手荒な扱いをされ、自分も相当恐ろしい思いをしたのだろうに、それを努めて表に出さないようにしているのが見て取れる。
「トウイ、シイナさまを早く馬に。すぐ出発する」
 未だ険しいままの表情をしたロウガさんに指示され、俺は頷いた。三頭の馬はすでに荷も括りつけられ、いつでも動き出せる状態になっている。守護人とニコとミーシアがそれぞれ馬に乗る手助けをした後で、ハリスさんとメルディが、素早く自分の馬に飛び乗った。
 辺りは静けさに満ちていた。宿屋には主人や他の泊まり客、周りの家や店にも人がいるはずなのに、どこも固く扉を閉ざしたまま、建物の中で息を潜めているらしい。
「行くぞ」
 ロウガさんの声と共に、三頭の馬が一斉に駆けだした。


 どうしてそんなにも急いでこの街を出ようとしていたのかは、門の近くまで行ったところで腑に落ちた。
 そこには、街のあちこちに立っていたような男たちが複数待ち構えていて、しかも今にも門を閉じようとしている最中だったのだ。
 このまま俺たちを逃がしたら、面子が立たないというわけか。連中の中に剣を扱えるやつはいないらしく、手に持っているのは鉄の棒だったりナイフだったりだ。どういうつもりか、この真っ昼間に松明を掲げているやつまでいる。火炙りにでもしようっていうのかね、と俺は呆れた。
 重い門は両側から二人がかりで押されて、徐々に間隔を狭めていた。今、開いている隙間は、馬が二頭分通れるくらい。
「このまま抜ける。相手になる必要はないが、邪魔になったら踏み潰しても構わん」
 馬を駆けさせながら、ロウガさんがきっぱりした口調で言った。どこか据わったような目線は、まっすぐ前方へと向けられている。
 この顔、ミーシアの行方を聞く時に、男の首を腕で締めていた時と同じだ。そりゃ、なんとか無事に取り戻したとはいえ、相手は、最愛の妹を攫ったやつらだもんな。ロウガさんの心中では、さぞ暴風が荒れ狂っているのだろう。
「野獣の目だな」
「野獣の目ですよね」
 ぼそりと零したハリスさんの言葉に同意した。下手をしたら、このサザニも、テトのように地図上から消え失せていたかもしれない。
 ロウガさん、ハリスさんが剣を抜き、俺もそれに続く。前に座る守護人はと窺ってみれば、剣を抜く様子もなく、ニコの身体を両手で抱え、支えてやっていた。
 よくよく気づいてみたら、マントの先から出ている右の手首には、はっきりと判るほどに赤黒い痣がついている。
「…………」
 なるほど、それで剣が握れないのか。そういえば、俺が彼女の許に辿り着いた時から、動かしているのはずっと左手だけだったような気がする。どうせ本人は言わないだろうけど、見つけるまでの間にいろいろあったのだろうなと思うと、どうしたって暗澹とした気持ちになるのが止められなかった。
 骨に異常がないといいのだが。とにかく、早いところどこかに落ち着いて、手当てをしないと。
「シイナさま、ニコ、少し乱暴になるかもしれませんから、しっかり掴まって」
 そう言ってから手綱を強く握り、剣を構える。
「……お前まで、ロウガさんと同じような目すんなよ」
 と呟くハリスさんの言葉を、響く蹄の音の合間に耳で拾ったが、それには構わず、俺は馬の脇腹を思いきり蹴った。


          ***


 サザニの街を脱出して、しばらく進んでから、馬を止めた。
 街はもう後方に遠くなり、それを取り囲む高い壁がかすかに視界に入るくらいである。俺たちが門を駆け抜けた時に、威勢よく罵声を浴びせかけてきたり、滅茶苦茶に棒やナイフを振り回したり、松明を投げつけてきたりした連中だが、サザニを離れてまで追いかけてくるような根性はないらしかった。
 とはいえ、数人は、馬や自分の足で蹴飛ばした感触があったからな。そんなに元気なやつはもう残っていないのかもしれないが。
「まあ、あの街の中でだけ、威張っていられるような輩ですからね。サザニを出たら、他人から邪険にされるだけの、ただの小物になるしかない。これからだって、自分のちっぽけな自尊心を満足させてくれるあそこから、しがみついて離れようとはしないでしょうよ」
 肩を竦めるメルディのその言葉に、俺はなんとなく納得した。
 連中には、あの街の中にしか、居場所がないということなんだ。きっとこれからも、あの街が、あいつらにとっては 「世界のすべて」 であり続けるのだろう。
 小さな世界。己の卑小さから目を背け、街に住む人々を見下ろすことによって、自分のほうが上にいるのだと錯覚させてくれる場所、か。
 ……タネルさんも、そうなるのかな。
 別の方向に向かいそうになった思考を強引に引っ張り戻して、俺は周囲に目をやった。今はそんなことを考えている場合じゃない。どこか安全に休めるところを確保しないと。
 先のほうに、ぽつんと人家がある。俺はそこを指差した。

「あそこで、水だけでももらえないか、頼んでみましょうか」

 人が住んでいるのは、街の中だけではない。まばらではあるが、外にもちゃんと家がある。場所柄や地形などにもよるが、それらは街中に比べて、大きめで、のびのびとした造りであることが多い。
 しかし、壁に守られていない分、危険も多いので、街の外で暮らす人々は、見知らぬ訪問者に対してまずは警戒するのが普通だ。扉を叩いただけで、家人がいきなり武装して出てくることもある。
 見つけた家に近づくと、とりあえず女性陣は馬に乗せたまま、俺とロウガさんとハリスさんで、声をかけてみることにした。
「……どなた?」
 しばらくの沈黙の後、扉をほんの少しだけ開けて、おそるおそる顔を覗かせたのは、痩せた中年の女性だった。
「…………」
 俺とロウガさんはちらっと一瞬目と目を交わし、同時に一歩後ろに下がった。代わりに、二人でハリスさんの背を軽く押す。
「ああ、驚かせて申し訳ない。旅の者なんですが」
 すぐさま嘘くさい微笑を顔に貼り付けたハリスさんが、柔らかい物腰で女性に話しかける。如才なく低姿勢な態度をとるわりに、手のほうはすでに扉の取っ手にかけられているあたり、本当にこういうのに慣れてるんだな、と俺は感心した。
 女性はハリスさんの顔を見た途端、頬を薄っすらと赤く染め、ぽーっとした。目はそちらに釘付けで、俺とロウガさんのことなんて、もう彼女の視界の端に引っかかっているかどうかも怪しい。
 二言三言喋っただけで、ハリスさんがこちらを振り向き、くいくいと扉のほうを指で示した。
「親切なご婦人が、みなさん中にどうぞ、とさ」
 突然やって来た旅人を、あっさり家の中にまで入れちゃうのか。いくら半分が女と子供だからって、不用心すぎないか。俺とロウガさんだけだったら、絶対にこうはならなかったよな。顔がいい、っていうのはそんなに何もかもが許されるものなんだろうか。
「けっこう世間て理不尽だよな……」
 ぶつぶつ言いながら馬から降りるメルディに手を貸したら、そちらも不満げに眉を寄せ、ぶつぶつと口を動かしていた。
「まったく理不尽な……私だって本当はあの役回りを……こんなに顔がいいのに」
 ハリスさんが他の異性に色目を使ってるのに嫉妬してんのかな。それにしちゃ、なんか変な言い方だよな。
 俺が首を傾げると、メルディが突然、「でっ」 と奇妙な声を上げた。
 その脇を、先に馬から降りていた守護人が、すたすたと歩いていった。


 女性はこの家で、今は仕事中だという夫と、二人暮らしをしているのだという。
「娘もいたんだけど、二年前に嫁に行っちゃってねえ」
 と彼女は言ったが、それにしたって広々とした建物だった。街の端では、親子五人でひとつの部屋、というのはよくあることだから、小さな台所と他に三部屋というこの家は、マオールでもかなり中央寄りに配置されるだろう、というくらいの大きさだ。かといって、家具やさまざまな道具類などから、質素な生活ぶりをしていることが窺えるので、さほど階級は上のほうということでもないらしい。
「あたしは街の中のほうが何かと便利でよかったんだけど、夫が少し偏屈な人間でね。無口だし、人付き合いも好きじゃないし、っていうんで、ここに家を持ったんだよ」
 特にこちらが何も聞かなくても、女性はまるで弁明するように、ぺらぺらと街の外に住む理由を語りはじめた。夫は無口で偏屈、その上たった一人の娘もいなくなってしまい、相当話し相手に飢えていたようだ。
「今、お湯を沸かしてあげるから、使うといい。綺麗な水も持ってくるからね」
 ミーシアの恰好を見て、何か勘付くところがあったのか、詮索もせずにあれこれと世話を焼いてくれる。守護人とニコの、黒い髪と灰色の髪に対して、戸惑った表情を浮かべはしたが、あからさまな嫌悪を向けてくることはなかったので、ほっとした。
「サザニと違って、親切な人でよかったですね」
 守護人を椅子に座らせてその傍らに膝をつき、まずは手首を見ながら、俺はそう言った。
 サザニでは、誰もかれも、見て見ぬフリだったからな。悪党に支配されているとはいえ、あんな風に飼い慣らされているのを見るのは、やっぱりいい気分にはなれない。はっきり言うと、腹が立つ。

 ──あそこの住人たちはずっと、ああやってびくびくと臆病に身を縮めながら、生きていくつもりなのか。

「……サザニにも、親切な人はいましたよ。自分の生活を壊されたくないと怯えながらも、こっそり声をかけてくれました」
 守護人は静かな声でそう言って、ぽつぽつと、二手に分かれた後でのことを話しはじめた。いつもと同じように、その顔も声も感情が希薄だったが、「おばさんが」 と少し幼い言い方でその人を呼ぶ時だけは、温かいものが滲んでいるような気がした。
 誰にも見られない場所で、ほんのちょっとの情報を提供しただけ。それだけのことなのに、守護人にとっては、あの街で自分が蒙った被害を帳消しにしてしまうくらいの比重を持っているかのようだった。

 手を差し伸べてくる誰か。
 俺には理解しがたいほど、彼女は、そこに価値を置いているように見える。

「骨は、折れていないようです」
 一通り確認して、結論を出した。しばらく動かさずにいれば、良くなるだろう。ひとまず安心だ。
 でも、それにしたって。
 この赤黒い痕。この酷い腫れ。タネルさんには本当に、手加減をするつもりはなかったのか。相手は自分よりもずっと小さい女の子だぞ。剣を持っているといったって、あの人の腕なら、こんな乱暴な手段をとらなくても無力化することは出来たはず。
 そんなにも、憎かったのか。
 その憎しみを向ける対象は、俺だけに留めておけなかったのか。
「あの──シイナさま」
 この件では、守護人もミーシアも、完全なとばっちりだ。「あの時ああすればよかった」 と思うのはもうやめる、とタネルさんには言ったけど、元を辿ればすべての原因は、俺の甘さと対応の悪さにある。場合によっては、もっと取り返しのつかないことになっていた可能性は、大いにあった。
「すみま」
「……すごいですね」
 頭を下げて出しかけた謝罪の言葉は、守護人の感嘆するような声に遮られて、喉の奥へと引っ込んだ。
「え……は?」
「ハリスさん」
 きょとんと顔を上げてみると、守護人の目線は俺の頭の上を通過して、その後ろへと向けられている。
 は? とそちらを振り向いてみたら、ハリスさんがこの家の女性の手を取って、微笑みかけているところだった。
「賑やかな街の中と違って、こんなところではあなたも寂しいでしょうね」
「え、ええ、そりゃあねえ。時々はやっぱり思うのよ、家が狭くても、決まった額のお金を支払わなきゃいけなくても、やっぱり街の中で暮らすほうがいいんじゃないかって。ここよりもずっと安全だしねえ」
 女性は空いた片手でもじもじとスカートを握りながら、目だけはうっとりとハリスさんに据えている。今夜寂しいあなたを慰めましょうか、とでも言われたら、一も二もなく首を縦に振りそうで、ハラハラした。
 いいのかなあ。人妻なのになあ。メルディがものすごく険悪な顔で睨んでるんだけどなあ。
「でも、ご主人のために、この不便な地で、危険も顧みず住まいを守っているわけだ。素晴らしい奥様を持って、ご主人も鼻が高いでしょうね」
「まあ──まあそんな、夫はねえ、なにしろ偏屈な性格だから、そんなことは一言も」
「心の中ではきっと思っているに決まってますよ。家庭を守り、美しく部屋を整え、心を潤す花一輪の飾りも忘れない、優しい心根も持っている。疲れて帰ってくるご主人には、それはもう手の込んだ、愛情たっぷりの美味しい食事を用意して──」
「あ、あのね、今ちょうど、食事の準備をしようとしていたところだったのよね! よかったら、みんなで食べておいきなさい!」
 そう言うや、女性はぴゅうっと飛ぶようにして、台所に走っていった。ハリスさんがこっちを向いてにやりとし、素早く片目を瞑る。
 きっと、これから、食卓の上に乗りきらないほどの料理を振る舞ってもらえるんだろうなあ。
「……すごいですね」
 守護人がもう一度同じことを言って、目をぱちぱちさせた。あーそうか、ハリスさんのこの技術を、間近で見たのははじめてだったか。
「すごいですよね。俺には到底、真似できません」
 あんまり、真似したいとも思わないんだけど。
「でも飲み屋では、もっとすごいんですよ」
 こそっと囁くと、守護人は俺をちらりと一瞥した。
「へえ。じゃあ、その先輩の薫陶を受けたトウイさんも、さぞかし……」
「人聞きの悪い。俺はああいうの苦手なんで、近くで小さくなってるだけです」
「へえ」
 信じてませんね?
「本当ですって。大体、前々から聞きたかったんですけど、シイナさまはその件について、俺のことをどういう風に見てるんですか」
「どうって……」
 守護人が、まじまじと俺の顔を見返してから、真面目な口調で言った。
「年上の美人好き」
「……は?」
 ちょっと待って。
「巨乳なら、なお良し」
「はあ?!」
 ちょっと待って!
「あのねえ!」
 仰天した勢いで、すっくと立ち上がる。以前から薄々、あらぬ誤解を抱かれているんじゃないかとは思っていたが、そんなにも自信満々に断定されるとは!
「一体どういうところからその誤解が……俺がいつそんなことを言いました?!」
「具体的に言わなくても、言葉と態度と目線の端々から、なんとなく」
「どんな言葉で、どんな態度ですか! 目線ってなに?! 誤解ですよ! 俺はそもそもそんなに大きいのは好みじゃない……ってそんなことじゃなく、いいですか、違いますから! 年上とか美人とか巨……いやその、とにかく、好きになるのに、そんなのはまったく関係ありませんから!」
 それだけを怒涛のように言いきってから、はっとなって我に返る。
 気がついたら、守護人は瞬きもしないで俺の顔を眺めていた。なにをムキになってるんだ俺は、と赤くなる。
「あ、いや、えっと」
 今さらのようにしどろもどろになり、大急ぎで続きの言葉を探した。何か言わなくちゃ。でも、何を?
 頭が空白になりかけた、その時。

「……ふふっ」
 守護人が、たまらなくなったように、小さく噴き出した。

 ──え。
 一瞬、本気で何もかもが真っ白になった。
 その一拍の間を置いてから、いきなり心臓がばっくんばっくんと大暴れしはじめて、思わず、胸のあたりを掌で押さえた。そうしないと、飛び出してしまうんじゃないかと思ったからだ。
 守護人は少し顔を下に向けて、肩を揺らしていた。垂れ下がる黒髪と、口許を隠すように添えられた細い指先がもどかしい。もっとちゃんとこっちを向いて、その顔を見せて欲しいのに。
 黒い瞳が柔らかく細められる。眉が綺麗な曲線を描いて下がる。傷のついた頬がほんのりと染まる。
 唇がわずかに開いて綻ぶ。
 普段の動きのない表情が崩れた。固い蕾が開いたら、そこにあったのは思いがけないくらい、美しく愛らしい花だった。
 まるで、乾ききった砂地に一滴の水が零れ落ちたかのように。
 驚きと、新鮮さと、感動で、頭の芯が痺れる。
 ……魅入られる。
「シイナさま、綺麗なお水持ってきた! これで頬を冷やしましょう、って!」
 いきなり割り込んできた明るい声に、びくっと身体が動く。守護人はいつもの落ち着いた表情になって、小さな桶を運んできたニコに、「ありがとう」 と礼を言った。
「あ、じゃあ、俺、荷の中から薬を取ってきます」
 途端に居ても立ってもいられないような気分になり、上擦った声でそれだけ言うと、俺はその場を離れた。
 なんだこの動揺ぶり。どうしてこんなにも心がぐらぐらと揺れているんだ。頭も胸も混乱していて、すぐには収拾がつきそうもない。

 ──はじめて、見た。

 建物から外に出て、火照った顔を掌で覆う。
 深く、震える息を吐きだした。


          ***


 大盤振る舞いの食事を腹に収めると、女性は 「そろそろ夫が帰ってくる」 と、そわそわしはじめた。
 話に聞く限り、彼女の夫という人物は、かなり頑固で容易に人を信用しないという性格であるらしいので、帰ってきた我が家にこの人数の他人がいたら、一悶着が起こるだろうことは想像がつく。それが元で夫婦の揉め事になっても悪いので、俺たちはその前に辞去することにした。
「ありがとうございました。お世話になりました」
 守護人が丁寧に礼を言って、頭を下げる。
 この黒髪の少女の正体を知ったら、きっと腰を抜かすほどに驚くことだろうが、知らなければそこにいるのはただの異端の娘でしかない。女性は少し複雑そうな顔で、「気をつけて」 と素っ気なく返しただけで、ハリスさんに向かって同じ言葉を出した時のほうが、よっぽど熱と真情がこもっていた。
「草原地帯のほうに向かって行くんでしょう? このあたりはまだいいけどね、あっちに進むに従って、どんどん悪くなっていくよ。天候不順で大地が荒れているらしくて、作物があまり収穫できなかったのに、その少ない分を首都がどんどん吸い上げていくものだからさ。割を食うのはいつだって、貧しい者ばかりだよ。可哀想にねえ」
「その通りですね」
 ハリスさんが薄く微笑して相槌を打つ。目元にちらちらと皮肉な色が覗いているが、幸いなことに女性のほうはまったく気づいていないようだ。
「──神獣は、弱い立場の人間を救ってはくださらないのかしらね。せっかくこの国におわすのだから、ニーヴァ国民は、他の国よりもっともっと恵まれてもいいと思うのだけどね。数百年ぶりに守護人が来訪したって、あたしたちの生活は、なんにも変わりゃしない」
 独り言のように続けられたその言葉に、守護人はそっと目を伏せた。


 馬を進ませながら、俺はサザニの街であったことを話した。
 タネルさんの名前が出ると、ロウガさんもハリスさんも驚いていたが、それでもあの不可解な成り行きの理由が納得できたようだった。ミーシアとメルディも、はあっと大きなため息をつく。ニコは、たらふく食べ物を詰め込んだこともあり、馬上でうつらうつらとまどろみはじめていた。
「ちっ。だからあの野郎は救いようがない」
 舌打ちをして、忌々しそうに吐き捨てたのはハリスさん。あの時も、「自業自得だ」 ときっぱり言いきっていたもんな。
「…………」
 ロウガさんはしばらく無言だったが、ややあって手綱を引き、馬の歩みを止めさせた。
「すまない、ちょっとだけ時間をもらえるか」
 そう言って、馬から降りる。
 それから、同じく馬を止めた俺のほうに向かってくると、
「シイナさま、申しわけありませんが、降りていただけますか。ニコも、一緒に」
 と、手を差し出した。
 守護人は何も聞かずに素直に降り、続いて、「なあにー?」 と寝惚けまなこを手でこすっているニコもロウガさんの手によって降ろされた。
 ロウガさんの意図が判らない俺は、なんなんだ、と怪訝な顔で待つしかない。ハリスさんやミーシアを見ても、そこには自分と同じような表情が浮かんでいるだけだった。
「──シイナさま」
 地面に立つ守護人を前にしたロウガさんが、片膝をついた。
 そして、深々と頭を下げた。

「あなたのおかげで、妹を無事取り戻すことが出来ました。もともと、タネルのことは、私の至らなさ、判断ミスが原因です。そのせいで、あなたを巻き込み、余計な逆恨みを向けさせることにもなってしまいました。この責は、神ノ宮に戻ってから、いかようにも負う覚悟でおりますが──それよりも今は、この恩を忠誠に代えて、シイナさまにお仕えしたいと思います」

「…………」
 訥々と述べるロウガさんの言葉を、守護人は無言で聞いている。
 これはきっと、ロウガさんなりのけじめなんだろうな、と俺は思った。こんな堅苦しい言い方をしなくてもいいんじゃないかと思うけど、こういう形でしか、感謝の気持ちを表せられないんだろう。不器用な人だからなあ。
「では、わたしのお願いを聞いてもらえますか」
「なんなりと」
「今までと同じようにいてください」
 守護人はそれだけ言うと、踵を返して、また馬に乗った。ミーシアがくすくすと笑う。ああそうか、要するに、「気にしなくていい」 ってことか。この二人、少し似ているのかもしれない。
 ……俺がさっき中断した謝罪の言葉も、もう一度やり直したところで、こんな調子で返されるだけなんだろうな。
 ロウガさんは、今度はニコのほうを向いて、その小さな頭の上に、ぽんと大きな手を乗せた。
「ニコも、ミーシアを守ってくれて、ありがとう。このお返しは、いつか必ずするから」
「え……う、うん」
 ここまで真顔で面と向かって礼を言われることに慣れていないのだろう、ニコはいっぺんに眠気を吹っ飛ばした顔になって、目を真ん丸にした。
 こちらも逃げるようにたたっと走ってきて、慌てて馬によじ登る。それに手を貸してやった俺は、ニコの頬っぺたが真っ赤になっていることに気がついた。
「なんだお前、照れてんのか」
 からかうように言ってやると、ニコはその赤くなった頬を丸く膨らませた。
「だってさ、だって」
「怖がるなよ、ロウガさんはあれでも精一杯優しい顔をしようとしてるんだから。気の毒だろ」
「……トウイ、お前はあとで説教だからな」
 ロウガさんが低い声で言って、ハリスさんとミーシア、そしてメルディまでもが笑い出した。
 その明るい空気の中で、前に座っていた守護人がどんな顔をしていたのか、残念ながら俺からは見えなかった。


BACK   TOP   NEXT


Rewrite・Right・Last・Try

Copyright (c) はな  All rights reserved.