リライト・ライト・ラスト・トライ

第十二章

1.ひとにぎり



 翌日、リリアさんの遺体が、トルティックの住人たちによって葬られた。
 あんなにも夫と子供を愛していたリリアさん。お墓だって同じところか、せめて隣がよかっただろうに、それは叶わなかった。
 彼女が二人を事故で亡くしたのは、カントスからニーヴァへ来てからだと言っていた。だとしたら、彼らの墓は、この街の共同墓地にあるのだろう。でも、どれがその墓なのかは、判らないのだという。
 そういったことを詳細に記録してある街もある。けれど、カントスからほとんど無一文の状態でこちらに流れてきて、そのまま死んでしまった人も多い、というこのトルティックの街では、墓地についてはかなり大雑把な管理しかされていなかった。
 リリアさんは、夫と子供とは、近くにいながら離れた場所で、眠りに就かなければならない。
 彼女が殺された現場を見ていた人は多くいたものの、相手が上の階級の人間だということで、治安警察に訴えようという声を上げるのは誰もいなかった。どうせ何を言っても取り合ってもらえない、という諦めが、人々の顔を色濃く覆っている。そこには、変に騒ぎ立てて、面倒に巻き込まれるのは嫌だ、という考えも小さくはない割合であるらしかった。
 身分の壁が立ちはだかっているのは、なにも神ノ宮の中だけに限ったことではない、ということだ。
 警察が介入してきたら、問題にされるのは、男の殺害行為よりも、リリアさんの赤ん坊誘拐のほうだろう、とハリスさんは言った。その場合、家族の思い出が詰まったリリアさんの小さな家は徹底的に荒らされ、調べられ、金銭が目的だったのか、他に共犯者はいなかったのかと、周囲の住人やカントスの民たちにも疑いの目が向くことになるかもしれない。
「それよりは、静かに眠らせてあげたほうがいいんじゃありませんかねえ」
 というメルディさんの言葉に、わたしは黙って頷いた。
 トウイは、地面に視線を据えつけて、じっと何かに耐えている。
 ──世界はこんなにも、矛盾と欺瞞に満ちていて、強者と弱者とが絶対的に存在し、残酷で不平等で容赦ない。

 私はどこで間違えたのですか、とリリアさんは泣いた。

 リリアさんは、間違えても、戻ってやり直すことが出来ない。出来なかった。わたしが何度も何度も道を誤り、そのたび扉を開けてやり直していることを知ったら、どう思っただろう。
 怒る? 嘆く? 軽蔑する? それとも、どうしてあなただけが、とわたしを責める?
 死んでしまった夫と子供にまた会える、と聞いたら、リリアさんは迷いなく扉を開けるだろうか。
 ……扉の先にいる彼らが、自分のことを何ひとつ覚えていなくとも。共有した楽しい思い出が、彼らの頭にはまったく存在しなくとも。
 喜んで、足を踏み出すだろうか。
 進んでも、進んでも、正しい答えが見つからない。望みは絶たれ、願いは叶わず、失う苦痛だけを何度も味わう茨の道。
 後ろを振り返れば、屍ばかりが累々と積み上げられていくのが見える。
 何人の人が死んでも、あの人さえ生きていればいい──そんな風に考える自分を恥じ、なにより怒り、憎み、それでも、顔を戻し、足を引きずり、這ってでも前に歩いていくしかない。
 そんな道でも?


          ***


「甘い匂いの元は、どうやらこれですね」
 リリアさんの弔いを終え、宿屋の一部屋に集合していた全員の前に、メルディさんが乳白色の枝を置いた。
 例によって狭いので、わたしとミーシアさんとニコがベッドの上に座り、あとの四人はそれを囲むようにして立っている。窮屈すぎて空気が薄いような気もするけど、しょうがない。こんな話を、人目のある食堂や街中でするわけにもいかないし。
「メルディ、これ、どうしたんだ?」
 ベッドに置かれたものを見て、トウイは目を丸くしている。メルディさんは、うふっと胡散臭い笑顔になった。
「ですから、リリアって女性の家にあったものですって」
「だから、リリアさんの家にあるものが、どうしてここにあるんだ?」
「細かいことは言いっこなしですよ」
「盗……」
 驚いた顔で余計なことを言おうとしたトウイは、メルディさんから肘打ちの一撃をお見舞いされて続きを呑み込んだ。ここは、細かいことは気にしない、という方向でいいとわたしも思う。メルディさんのことだから、必要以上に死者の家を掻き回すような真似はしていないだろう。
「厳重に隠してあったとか、そういうことはありましたか?」
「いいえ、まったく。こっちが拍子抜けするほど普通に、引き出しの中に置いてございましたよ」
 わたしの問いに、メルディさんが肩を竦めて答えた。
 十五センチほどの細い枝が三本。これが全部だとしたら、ずいぶん少ないような気がする。もともと少なかったのか、あるいは今までに消費した分が多かったのか。
 鼻に寄せて匂いを嗅ぐと、確かにふんわりとした甘さが漂った。でも、枝自体の匂いは、そんなに強くはない。たぶん、これを少しずつ削って、燃やすなりけぶらすなりすると、煙と一緒に、もっと鮮明な匂いが出るのだ。
 わたしたちが行く前、リリアさんはきっと、家の中でこの枝を焚いていた。だから、誰の鼻にも判るほど、匂いが残っていた。
「ニコ、この匂いで間違いない?」
 ニコはその枝を見た時からずっと怯えていて、泣きそうな顔でミーシアさんにしがみついている。悪いなとは思ったけれど、わたしはそちらに枝を差し出して確認した。テトの人たちが使っていたという現物を見たのも、その匂いを知っているのも、ニコしかいない。
「う……うん」
 ぎゅっとミーシアさんの衣服を握りながら、それでもはっきりと、ニコは頷いた。
「これだよ。こんな色の枝、あんまり見ないだろ。だからよく覚えてる。匂いも、同じだ」
「テトの人たちは、お祈りの時にこれを燃やしていたんだね? ニコはそれを見てたの?」
「うん。ただ、オレやフィリーは、祭壇の近くに寄ったらいけないって言われてたから、離れた場所で」
「煙は吸っていない?」
「うん、甘い匂いは広がるけど、煙は、すごーく細いのが、ゆらゆらって昇るだけだし、いつも大人たちがその周りをぎっちり囲んでたから」
 それは幸いだった、とほっとした。
「……で、これは何なんだ?」
 と、顎に手を当てたロウガさんが大真面目な顔で言って、首を捻った。

 は?

「神ノ宮でも祈りの時は火を焚いていたから、それの代わりなんじゃ?」
 とトウイも同じく不得要領な顔で首を捻る。は? とわたしはもう一度思った。
「こんな枝に、何か意味があるのかね。やつらが信奉する神ってのは、この甘い匂いを好むとか」
 ハリスさんまでがそんなことを言うので、大いに困惑してしまう。
「あの……なに言ってるんですか」
 わたしが眉を寄せてそう言うと、ミーシアさんを含めた計四つの怪訝な顔が一斉にこちらを向いた。
「シイナさまは、この枝の用途に心当たりがおありで? 神への祈りってのは、一般人には知られていない儀式でもあるんですか」
 メルディさんのこの顔も、いつものようにふざけているわけではないらしい。わたしは困惑を通り越して、混乱した。
「用途、もなにも、これは」
 少しどもる。自分一人だけ、ものすごく的外れなことを考えていたんだろうか。ううん、そんなことない。
 だって諸々のことから考えて、出てくる結論は、ひとつしかないではないか。

「──麻薬、ですよね?」

 依存性や毒性の強い、違法薬物だ。
 もとの世界にいた時、ニュースや新聞記事でよく目にした。芸能人が捕まって大騒ぎになったこともある。警察の少年課の人は、わざわざ高校に講演にやってきて、大麻や覚醒剤の恐ろしさを懇々と説いていった。ほんの少しの量でも多額で取引されて暴力団の資金源などになり、乱用すると中毒に陥る。そして、クスリをやめるか人間をやめるかの二者択一を迫られる、という代物だ。
 吸引したり、注入したりすることによって、昏迷や酩酊状態を引き起こす。
 多幸感をもたらし(・・・・・・・・)幻覚症状が出る(・・・・・・・)こともある。
 一方で、麻薬は強力な依存性があるため常習性が高く、長期の使用が心身を蝕み、反社会的な行動に出ることも多くなる──と、厳めしい顔をしたお巡りさんは言っていた。
 ニコの言葉とリリアさんの話を聞き、そしてテトにいた人々の様子を思い出して、わたしの頭に浮かんだのはそれしかなかった。だからてっきり、他の人たちだって、そんな考えにはとっくに至っているものとばかり思っていたのに。

「麻薬?」

 ぽかんとした顔でトウイに問い返された。
 それを見て、一瞬、言葉を失う。その顔つき、その言い方に、じわりと足許から冷気が這い上ってくるような気がした。
 トウイが健全だからそういったものに詳しくない、という話ではなく、これは──
「……知りません、か?」
 わたしはあちらの世界での 「麻薬」 がどういったものかということを、簡単に説明した。それがどんなに危険なもので、だからこそ法で禁じられているということも。
 全員が、戸惑った表情でお互いの顔を見合わせている。嫌な予感が胸の中に充満して、鼓動が早くなってきた。
 ──もしも。

 もしも、こちらの世界では、「麻薬」 という概念がまだ存在していない(・・・・・・・・・)、ということだったら?

 頭のてっぺんから、血が引いていくような感じがした。これはきっと、わたしが今思っているよりも、ずっと大変なことに違いない。
「メルディさん、王ノ宮とは定期的に連絡を取っていますね?」
 わたしがそう聞くと、メルディさんは目をぱちぱちと瞬いた。
「ええ、そりゃまあ。それが私の仕事ですからね」
「じゃあ、これを」
 乳白色の枝を布で包み、メルディさんに手渡す。
「今、わたしが言ったことを書き添えて、大至急王ノ宮に送ってください。薬物の研究者がいたら、どんなものか調べてもらってください。すでにあちこちに出回っている可能性があることを念頭に置いて、対応を考えてください、一刻も早く、と」
「……これは、そんなにおおごとなんでしょうかね」
「たぶん」
 訝しげに包みを手にして呟くメルディさんに、わたしは頷いた。
「重度の麻薬中毒者──怖れを感じる心を持たず、平気で犯罪行為を重ね、神のためにと子供を贄にして笑っていられるような人たちが、この国に溢れるようになったらどうします? 麻薬を知らないということは、その危険性だって知らないということです。それはつまり、どこにも歯止めがないということじゃないですか」
 法的にも、精神的にも。禁じるものがなく、良心の咎めもなければ、躊躇の入り込む隙間がない。
 麻薬が国内に蔓延してしまったら、次に来るものは衰退か、恐慌か、戦争か。
 もといた世界の歴史でも、そういう例はあった。
「──ましてやそれを、意図的に広めようとしている人がいたら?」
 わたしの言葉に、メルディさんだけでなく、他の人たちの顔つきも強張った。全員の目が、小さな包みに向かう。
「この細い枝は、そこまで危ないものなんですか」
「試してみますか? 廃人になるかもしれませんが」
「……謹んで、お断りします。ではそのように、急ぎ手配いたしましょう」
 メルディさんが包みを持って、するりと部屋を出ていく。
 ドアがパタンと閉じる音を聞きながら、わたしは中空を睨むようにして考え続けていた。


 リリアさんに枝を渡して、「美しい夢だけを見ていればいい」 と言ったリンシンさん。
 彼はあれが、どんなものなのか知っていたということだ。
 こちらの世界にはない、知識と概念を持っている。
 あの人は──


          ***


 こうなったら、リンシンさんの行方を追うことに目的を絞ったほうがいい。
 行く先々で、「楽しい夢が見られる不思議な枝です」 とにこにこ笑いながら麻薬をばら撒いているかもしれない人物。そこには、どんな理由や思惑があるのか。なぜそこに、「神」 が関わっているのかも気にかかる。
 あの人が、いずれやって来る大きな災厄の中心にいる──そんな気がしてならない。
 その災厄がトウイに死をもたらすというのなら、わたしが潰さなければならないのは、リンシンさんその人だ。
 とにかく、彼がトルティックの街に来たことだけは確かなのだから、もう少しじっくりと聞いて廻ってみよう、ということになった時、ドアがノックされた。
 顔を覗かせたのは宿屋の主人だった。
「お客さん、あんた方に用事だって人が、下に来ていなさるんだがね」
「用事?」
 不思議に思いながら部屋を出て降りてみると、そこには、意外な人が待っていた。

「ごきげんよう」
 すらりと立って、そう挨拶をしてきたのは、リリアさんを斬った護衛の男の雇い主、ヴィルマさんだった。

 ニコが反射的にわたしの背中に隠れ、逆にトウイがぱっとわたしの前に出てくる。厳しい目つきで剣の鞘を左手で握っているけれど、ヴィルマさんの背後に、影のように寄り添っているのは、赤ん坊を抱いた乳母の人だけだった。
 よかった、と思うべきなのかな。またあの男の人がしゃしゃり出てきてぎゃあぎゃあ喚いたら、さすがにトウイの堪忍袋の緒が切れそうだ。今だって、相当剣呑な空気を醸し出してるもんね。
 もう、彼の血を流させたくない。
 とりあえず、赤ちゃんは無事、母親の許に戻った。それが確認できたのはいいとして……ヴィルマさんは何をしに来たんだろう。まさかお礼やお詫びを言いに、ってわけじゃないだろうし。
「なにか?」
 誰も何も言ってくれないので、しょうがなくわたしは口を開いた。外ヅラのいいメルディさんはいないし、ロウガさんもハリスさんもミーシアさんも、わたしを囲むようにして黙ったままだ。もしかして、階級が上の人とは気軽に口をきいちゃいけない、みたいなつまらない決まりは、神ノ宮だけでなくこの世界全般にあるのかもしれない。

「わたくし、あなたにお願いがあって来ましたの」
「わたしにですか?」

 問い返すと、こっくりと頷かれた。なんていうか、この人は、仕草のいちいちがどこか子供っぽい。声も少し舌足らずだし、話し方はゆったりしているし、男の人はこういうのが可愛らしいと鼻の下を伸ばしたりするのかな。
 と思ってちらっとトウイを見たら、あからさまにイヤそうな顔をしていた。あれ、そうでもないみたい。
「なんでしょう」
 それにしても、ヴィルマさんが昨日のことをどう思っているのか、まったく謎だ。自分の子供がいなくなって、騒いだり慌てふためいたりしなかったんだろうか。自分もあの護衛の人のように、目をぎらぎらさせて探し回ったりしなかったんだろうか。灰色の髪の子供がいなくなっても親はなんとも思わない──とニコは言っていたけど、この人もそうだったということはないだろう。
 子供がいなくなり、自分の護衛が女性を殺した。それをどう思っているのか。その女性がどこのどういう人だったか、どういう理由で赤ん坊を連れ去ろうとしたのか、知っているのだろうか。
 人形のように表情のないその顔からは、何も読み取れない。陶磁のような肌は白く滑らかで、疲れた様子もない。こちらに向けられる赤茶の瞳には、怒りも憐れみも見えない。

「あなたの護衛をひとり、分けてくださらない?」

「はあ?」
 唐突な言葉に、つい、間抜けな声が出た。
 まじまじと見返してみたけれど、ヴィルマさんの顔のパーツには動きがなかった。目も、眉も、唇も。
 真面目な顔──というのも違う、感情があるのかないのかわからない、しらじらとした顔のまま、お店屋さんごっこで 「これちょうだい」 と言うお客さんの役を割り振られた子供のような口ぶりで、彼女はそう言った。
 あなたの護衛を一人、ちょうだいと。
「……なにを言ってるのか、わからないんですけど」
 いつもの癖で、わたしの声も言い方も抑揚がない。ハタから見れば、ロボット同士のやり取りのように思えたかもしれない。ミーシアさんはオロオロとわたしとヴィルマさんを見比べているけど、ロウガさんとハリスさんとトウイは海のように深い沈黙を保っている。
「だって」
 ヴィルマさんは、ちょこんと首を傾けた。
「あなたには三人も護衛がいるのでしょう? ひとりくらい、分けてくださってもいいじゃありませんか。わたくし、護衛がいないと街を出られませんの。不便ですわ」
「いないって……」
 小さな声でそう呟いたのは、トウイだった。眉を寄せ、ヴィルマさんに視線を当てているけれど、彼女のほうはそちらを見もしない。
「あなたの護衛はどうしました?」
 この時わたしが思ったのは、やっぱり黙っていられなくなった街の誰かが、治安警察に訴えたのではないか、ということだった。罪になるかどうかはともかく、それであの男の人は、警察に呼ばれて事情を聞かれているのではないかと。
 でも、違った。

「あれは、辞めさせました」

 あっさりと返ってきた答えに、耳を疑った。
 そりゃあ、ニコにあらぬ疑いをかけ、リリアさんを問答無用で斬り捨てたあの護衛の人に、いい感情は抱けない。好きか嫌いかと言われれば、大嫌いなほうに入る。はっきり言って、あの人がどうなろうと知ったこっちゃない、けれど。
「辞めさせた、って」
 でも、それでも、あの人はあんなにも必死だった。赤ん坊を探して探して、走り回っていた。ヴィルマさんのために、ただヴィルマさんのそばにいたい、それだけのために、狂いそうなほど。
 その人を、そんなに簡単に?
「護衛として役に立たなかったので、もう要らないと言いました」
 もう要らない。まるで、飽きたオモチャを放り投げるように。
 汚れてしまったからと、人形の存在を自分から切り捨て、見向きもしなかった時と同じだ。
「そうしたら、何か叫んで飛び出して行ってしまいました。おかげでこの通り、迷惑しています」
 ヴィルマさんは、わずかに眉を寄せ、頬に手を当てると、小さく息を吐きだした。愛らしい幼女のようでもあり、構図の決まった絵画のようでもある。
 乳母が抱いている赤ん坊がぐずりだしても、母親であるはずの彼女は、そちらを振り向きもしない。
「もう、あのような護衛は懲り懲り。声も大きいし、不作法だし。だからわたくしは、もっと見目の良い護衛がいいと言ったのに──」
 ヴィルマさんの口からは、文句は出るけれど、その人の名前が出てくることはなかった。
 ひょっとしたら、それを知らないんだろうか。知るつもりもなかったんだろうか。
 カタカタとかすかな音がして、視線を向けると、トウイが強く握りすぎて、小さく震えた鞘が出している音だった。歯を喰いしばり、宙の一点に視線を固定している。
「ですから、あなたのをひとりくださいな。その、ハリスというのがいいですわ。おいくらで譲っていただける?」
「…………」
 今、リリアさんがこの場にいたら、なんて言うのだろう、とわたしは思った。

 ……やっぱり、「気の毒な人だ」 と言うのかな。

「だそうですが。ハリスさん、どうします?」
 ハリスさんのほうを向いて聞いてみると、彼は整ったその顔に、それはそれは綺麗な微笑を浮かべた。
「思ったことを率直に申し上げてもよろしいんで?」
「どうぞ、遠慮なく」
「──真っ平御免だ、クソ女」
 ハリスさんは本当に遠慮なく言った。ずっと表情に変化のなかったヴィルマさんと乳母の人の顔色が、さっと変わる。
 少しの沈黙を置いて、美しく彩られた唇から、硬い声が出た。
「……何を言われたか、よく理解できませんわ」
「若いのに耳が遠いんですね。わたしがもう一回繰り返してあげましょうか」
「け……結構です。それでは、そちらの大きいのにします」
 そう言って、今度ヴィルマさんが指したのは、ロウガさんだった。苦虫をまとめて口に放り込んだような顔をしていたロウガさんもまた、わたしのほうを向いた。
「直接お答えしても?」
「はい、どうぞ」
 じろっとヴィルマさんに無愛想な視線を投げつける。
「俺はこちらの方に忠誠を誓った身。よって、他の主に仕えるつもりは毛頭ない」
 さすがロウガさん、その顔、まるで本気で言ってるみたいです。
 ヴィルマさんと乳母の人は、口許をひくひくと引き攣らせた。
「で、では、この際、これでも」
 「これ」 呼ばわりをされても、トウイは怒ったりはしなかった。息を吐きだし、鞘を握っていた手から、力が抜ける。
 顔を上げてそちらをまっすぐ見てから、「……俺は」 とぼそりと呟いた。

「俺はもう、決めたから」

 それだけを静かな口調で言うと、あとは完全にヴィルマさんを無視した。くるりと身体ごとこちらを向いて、後ろには一顧だにしない。
「さあ、行きましょうか、シイナさま。街に出るんですよね?」
「はい」
 わたしも頷き、足を動かしてヴィルマさんの脇を通り過ぎる。「ニコ、行こう」 と促すと、ニコはちらちらと彼女を気にしながら歩き出した。
「なあに、どうして? お金だったらちゃんと払うわ。じゃあわたくしは、どうすればいいの? 一人でこの街を出ろというの?」
 背後から、ヴィルマさんの不満げに高くなった声が聞こえる。でも、誰もそちらを振り返ることはなかった。
 自分の子も、その子の面倒を見てくれている乳母もいる。
 あなたは一人じゃないでしょうに。



 その後、合流したメルディさんが、わたしにだけ、こっそりと耳打ちして教えてくれた。
「国境門のあたりで、男が一人死んでいたらしいですよ。自ら、剣で首を掻き切っていたそうでね」
「……そうですか」
 わたしはそう返して、視線を前に向けたまま、口を閉じる。
 ──またひとつ、運命という名の掌の上から、命が零れ落ちて消えた。
 結局最後まで、名前が判らなかった人。
「人はみんな、愚かで哀れな生き物ですよねえ」
 メルディさんがそう言って、くくっと乾いた笑い声を立てた。


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