リライト・ライト・ラスト・トライ

第十二章

2.確認



 リンシンさんがトルティックの街に立ち寄ったのは事実としてあったことでも、その時期がはっきりしない。
 リリアさんは、「夫と子供が亡くなって少し経った頃」 というようなことを言っていたけれど、それがいつのことなのか、そもそも二人はどれくらい前に亡くなったのか、明確には口にしなかったからだ。
 彼女が住んでいた家のほうにまで行って、近所の人たちにも聞いてみても、やっぱりよく判らなかった。一年くらい前だったかもしれないし、半年くらい前だったかもしれない、という曖昧な返事が、警戒するような顔つきと共に返ってくるだけ。
 どうやら、「街の端」 という場所には、親密な近所付き合いなどというものは、存在しないらしかった。

「このあたりでは住人の入れ替わりも激しいし、人の死も決して珍しいものではないですから。言ってはなんですが、あまり表には出せないような後ろ暗い仕事をして、なんとか糊口をしのいでいる者も多い。だから基本、隣近所のことには無関心を通すものなんです」

 というロウガさんの説明を聞いて、わたしは納得した。
 マオールでも、湖の国の民が仮の住処としていたのは、街の端だった。お互いに干渉しない、というのがその区域での暗黙のルールなのだとしたら、彼らが人目につかないようひっそりと活動することも可能だっただろう。
 ──もしも、あの六人の近くに、リリアさんの傍らに、親身になって寄り添ってくれる誰かがいたなら。
 神ノ宮でもマオールでもトルティックでも、何事も起こらず、今も平和でいられたのだろうか。
 湖の国の民、テトの街の人々、火山の国のリリアさん。
 みんな、心に抱えたものを、ひたすら自分の中で大きく膨らませていくことしか出来ない人たちばかりだった。
 リンシンさんは、なんて言ったっけ?


 彼らは要するに、「自分よりも不幸な人間」 が欲しかっただけなんですよ。
 自分たちが不幸なことを、どうしても認められない。だからもっと不幸な存在を見つけて、誤った考えを抱く。
 自分たちはこれよりもずっと優れている。選ばれた人間になる価値がある。
 だから他の誰かは、自分たちのために犠牲になって当然だ、とね。


 思えば、サザニで再会したタネルさんも、そんな感じだった。
 現在の自分の境遇が認められず、頑なにトウイやロウガさんに罪を被せようとしていた。自分が悪いのではなく、他の誰かが悪いと思うことで、ようやく自己を成り立たせているようでもあった。タネルさんにとってはそれだけが真実で、目の前にある 「現実」 は、彼にはなんの意味も持っていなかった。
 だから、テトの人に声をかけられたのだ。自分たちと一緒に来るといい、と。
 そうすれば、幸せになれる──と。
「リンシンさんは……」
 考えているうちに、いつの間にか声に出てしまっていたらしい。通りを歩いている途中だったので、全員が驚いたように足を止めてわたしを振り返った。
「……え、と」
 困ったな。別に、何かを思いついたというわけじゃなかったんだけど。そんな風に、次の言葉をじっと待つような顔をされると、今のはただの独り言ですとも言いにくい。
「リンシンさんがここに来たのは、少なくとも半年ほどは前のことだった、ということですね」
 仕方なく、自分も立ち止まり、考えながら口を開く。
「あの人の言っていたことに、たぶん、そんなに嘘はなかったんじゃないかと思います。実際、モルディムからスリック、カントスを通って、このニーヴァに来たんじゃないでしょうか」
 嘘があったとしたら、つい最近来た、という部分なのだろう。
「しかし、奴がモルディムの民であると断定できるものは何も」
「そうですね、モルディムの民だとは限りません。むしろ、わたしはそれも嘘だと思います」
 眉を寄せるハリスさんに、わたしは頷いて答えた。
 リンシンさんは、モルディムの民ではない──と、思う。
 モルディムだけではなく、この世界のどこにも属していない、そんな気がする。
「でもニーヴァには、そういうルートを通って来たんじゃないでしょうか。森の国の暗殺虫ミニリグを手に入れ、湖の国と火山の国を通りながら 『この世界のどこかで、新しい神が目覚めた』 という話を広めていった。そうして、条件に適う人たちを見つけると、あの白い枝を渡した──」

 あなたにとっての美しい夢が見られますよ、と微笑んで。

「条件に適う人たち?」
 と、メルディさんが首を傾げた。
「そうですね……上手く言えませんけど、自分だけで世界を完結させてしまう人たち、というか」
 自分の頭にぼんやりと浮かんでいるものを、どう言えばわかりやすく表現できるのか迷って、口ごもる。
 湖の国の民、テトに住み着いていた人たち、タネルさん、リリアさん。

 共通しているのは、みんな、「自分が見たいものだけを見ようとする」 というところなのではないか、とわたしは思う。

 そんなことをぽつぽつ言葉にすると、トウイが大きく目を瞠った。ミーシアさんとちらりと視線を交わし、またわたしのほうに顔を戻して、深く頷く。
「俺……なんとなく、シイナさまの言うこと、わかります」
「そう、ですか?」
 ちょっと意外だ。どちらかといえば、そういう性質とは真逆のトウイには、ちっとも理解できない、という顔をされるかと思っていたのだけど。
「──サリナが」
 彼の口からぽつりと出てきた名前に、一瞬、心臓が跳ねた。
「そんなことを言っていたのを、聞いたことがあるんです。実際とは違うものに、『自分がいちばん欲しいもの』 の姿をあてはめて、安心を得ようとしてた、っていうか。それ以外のものは、サリナの目には、見えていないみたいだった。……俺は、彼女はそれだけ、心が弱いんだと思ってた」
「…………」
 頬を染めながら白い花をわたしに向かって差し出した、女性の顔を思い出す。

 サリナさんにとっては、「神獣の守護人」 という存在こそが、美しい夢だったのだろうか。

 視線が下に向きそうになるのをこらえた。でも、すぐ前にあるトウイの沈痛な表情も見ていられず、行く当てもなく空中を彷徨わせるしかなかった。
 マントの下で、拳を握る。
 こんなところで、感傷に浸っている場合じゃない。わたしにはその権利も資格もない。眉を下げることすら、許されるはずがない。
 あの人を見殺しにしたのはわたし。それだけは、忘れてはいけないことだ。
「そういう人は、このニーヴァにも、たくさんいるんでしょうね」
 自分から出てきた声は、一切の感情を抜き去った、冷淡なものだった。サリナという女性のことなんて、もうわたしの記憶には残っていない。そう聞こえるように。
 中が空洞のガラス玉みたいな眼が、口元を歪めているトウイとミーシアさん、それから顔を顰めたハリスさんの姿を捉える。人の心を持たない守護人に、呆れているのか、軽蔑しているのか、嫌悪しているのか。
 ……それならそれでいい。
 メルディさんがくすりと笑い、ロウガさんが小さく息をついた。
「心の弱い人──そうです。だからこそ、救いを求める。そういうことなのかもしれません」
 サリナさんは、心が弱かった。だから神獣の守護人に救いを求めた。
 でもそれは、間違いだ。間違いだった。
 彼女が手を伸ばした先にいたのは、月の光のように明るく眩しく尊い存在なんかじゃなく、どこまでも自分のことしか考えない、無力で卑怯で矮小な子供でしかなかった。
「その救いが、『真の神』 だと?」
 と、ロウガさんが言った。
「そうなんじゃないかと思います。湖の国の民も、テトにいた人たちも、きっと、『自分の神』 を見ていた。自分を救ってくれる、自分に幸福を与えてくれる、自分の望みをちゃんと叶えてくれる神です。実際に、その姿が目に見えたのかもしれませんし、その声が耳に聞こえたのかもしれません。本当に幸福な気持ちにもなれたでしょう。あの白い枝を燃やして、その煙を吸うことで」
 それが、麻薬によってもたらされたものだということを知らないまま。
 だから、あんなにも疑いのない顔をして、確信に満ちていた。
 彼らには、それこそが、まぎれもなく 「真実」 であったからだ。

 見たいものだけを見せて、幸福を約束してくれる神。
 自分にとって(・・・・・・)最も都合のいい神(・・・・・・・・)
 そりゃあ、神獣なんて、問題にもならないに決まっている。

「……だとしたら、ずいぶん厄介なんじゃないですかねえ」
 メルディさんが、軽い口調で、でも若干引き攣ったような声を出した。
「連中の言う神は、共通したひとつの存在ではない。その人間にとって 『だけ』 の美しい夢を見せてくれるのだとしたら、神の姿も声も、人によって違う、ということになるんじゃありませんか。いわばそれは、それぞれの欲望の権化、ってことですよね。そうすると──」
「その神は、そいつの望みを、そのままお告げとして、耳に吹き込むのかもしれない。まがいものの神に騙されている気の毒なニーヴァ国民を救うため神ノ宮にいる人間を根絶やしにしろ、と言ったり、灰色の髪の子供を捧げれば選ばれた人間として恩恵を授けてやる、と言ったり」
 ハリスさんが途中から台詞を引き取って続け、苦い顔になった。
「欲望の権化……」
 メルディさんの言葉を咀嚼しながら、わたしは顔を頭上の空に向ける。
 人は、そういうものを望むのか。

 自分が誰かを救う立場になること。選ばれた存在になること。人の不幸を見ること。他の誰よりも超越した目を持つこと。
 ──それが幸福なことだとは、ちっとも思わないのだけど。

「……神なんて」
 小さな呟きがすぐ近くで聞こえた。
 顔をそちらに向けると、わたしの手をぎゅっと握りしめたニコが、地面に目を据えつけ、口を大きなへの字に曲げている。
「神なんて、いるもんか」
 ぼそりと零した言葉は、タネルさんがわたしに向かって言ったものと、まったく同じだった。


          ***


 結局、その日は夕方近くまでトルティックの街を廻ったけれど、これといった話は何も聞けないまま終わった。
 無理もないかもしれない。いくら灰色の髪はこの世界にそんなに多くないといっても、まったく皆無というわけでもない。ニコでも、ちょっと目を止めて、おや、という顔をされる程度である。それからすぐに視線を逸らす人や、露骨に鼻の頭に皺を寄せる人は一定数いるものの、それ以上の反応は特にない。
 つまり灰色の髪は、「ちょっと目立つ」、というくらいなのだ。リンシンさんがこの街を訪れたのが数日前、という話ならともかく、半年から一年くらい前、ということになると、目撃情報を得るのはかなり難しいだろうと思われた。
 国境門には検問所があり、常駐している人もいるのだけど、そこに聞いてもやっぱり、首を横に振られただけだった。ずっと同じ人間がいるわけではないし、国境門は一日に大勢の人が行き来するというのだから当然だ。
 リリアさんのように、個人的に関わってでもない限り、リンシンさんのことを覚えている人はいないかもしれない。しかしリンシンさんと関わっていたとしたら、その人は決して、明るく健康的で人付き合いの良いタイプではないだろう。そうすると、こちらから見つけるのは至難の業だ。

「結局、ここでも手詰まりか」

 宿屋の食堂の椅子に腰かけたロウガさんが、長い息と一緒に、諦め混じりの言葉を吐きだした。
 何も乗っていないテーブルを囲んでいるのは、ロウガさん、トウイ、ミーシアさん、ニコ、そしてわたしの五人だ。ハリスさんとメルディさんはそれぞれ単独で調べると別れたまま、まだ戻ってきていない。
 二人のうちのどちらかが情報を持ち帰ってくれることを期待して、こうして待っているのだけど、この分では、その可能性は薄いかもしれない。
「暗くなってまいりましたね。シイナさま、そろそろ空腹なのではありませんか?」
 ミーシアさんに訊ねられ、いえまだ、とわたしが答える前に、ぐーっ、と盛大にお腹の虫が鳴いた。トウイが気の毒そうな顔をしてこっちを見ているけど、今のはわたしじゃないよ、隣のニコだよ。
「ニコ、お腹へった?」
 覗き込んで聞いてみると、ニコは顔を赤くして、お腹を両手で押さえた。
「ううん、平気」
 と言う間にも、またお腹が鳴っている。宿屋に置いておくのも心配だから一緒に連れているのだけど、今日一日あちこちを歩き回って、小さな身体は大分疲れてもいるだろう。
「トウイさんとニコで、先に食事に行ってきては? わたしたちはもう少しここで、ハリスさんたちを待ってますから」
 宿屋は夜の食事が出ないのでそう提案すると、トウイがきょとんとした顔になった。
「え。なんで、俺?」
「たくさん食べて、早く寝たほうがいいです」
「……もしかして、シイナさまの中で、俺とニコは同列に並べてあるんですか」
「オレも二人が帰るの待ってる。平気だよ」
 また、ぐぐーっ、という音が食堂に鳴り響く。そこでミーシアさんが、何かを思い出したように、あら、と声を上げた。
「そういえば、昨日、ニコと出かけた時に、お菓子を買っておいたんだったわ。部屋に置いたまま、バタバタしていてすっかり忘れてた」
 リリアさんの家から宿屋に戻って、ロウガさんとミーシアさんとニコで出かけていた時のことか。元気のないニコをなんとかして慰めようと、ミーシアさんが買ってあげたのだろう。
「少しだけ、つまんでおく?」
 ミーシアさんに問われ、ニコが目をキラキラさせながら、うん! とこっくり頷いた。やっぱりどこの世界でも、小さな子はお菓子が好きなんだなあ。食事の前に食べるのは、なおさら美味しいよね。わたしもよく、お母さんに怒られた。
「…………」
 少し考えてから、ミーシアさんが腰を浮かせかけたのを手で制した。
「わたしが行きます」
 そう言いながら立ち上がったわたしを見て、ミーシアさんが目を瞬く。
「まあシイナさま、でも……」
「置いてある場所は大体わかります。わたしも部屋にちょっと用事があるので、ついでに取ってきます」
「用事……ですか?」
 ミーシアさんはちょっと不思議そうな顔をしたけれど、それ以上の追及はしてこなかった。トウイやロウガさんの前では口には出したくない類のことなのかなと、同性として、気を遣ってくれているのだろう。
「すぐ戻りますから」
 立ち上がろうとしていたトウイも、同じく制する。ここは一階の食堂で、部屋は二階だ。わざわざ護衛をしてもらうようなものじゃない。
「一人で大丈夫です」

 そう、あの部屋に、危険なものなんて何もあるはずがない。
 ……ただ、不愉快な生き物がいるだけだ。


          ***


「やあ、ボクの守護人。また来たね」
 その不愉快な生き物は、白いふかふかの椅子に埋もれて、ニコニコしながらわたしを出迎えた。
「ボクになにか用?」
「用があるとして、あんたはそれを聞いてくれるわけ?」
「内容によるかなあ」
 楽しげに嘯く神獣を見て、わたしはため息を押し殺した。今回は自分の意志でこの場所に 「来た」 とはいえ──やっぱり苛々するものは苛々する。
「また、人が死んだね」
 神獣がごく気軽な調子で続けて、わたしの手の指先がピクリと反応した。
「キミ、そもそも神ノ宮を出る決意をしたのは、サリナの死で、『これ以上の犠牲は御免だ』 と思ったからじゃなかったっけ? ところが実際出てみたら、あっちを向いてもこっちを向いても、屍ばかりだ。それともキミからしたら、彼らの死は、犠牲、と呼ぶようなものではなかった、ということかな」
 だってそれは、トウイを生かすための、必要不可欠なものだったのだから──と言って、神獣はあははと笑った。
「…………」
 目を閉じ、神獣の毒を黙ってやり過ごす。こんなことを言われるのくらいは、覚悟の上だ。
 滑らかに紡がれる神獣の言葉は止まらない。
「けど、キミも考えただろう? あそこでリリアを見逃していれば、運命はどうなっただろう、と。赤ん坊を攫ったリリアは、結局カントスで捕まって、あの護衛に殺されるか、それとも法で裁かれて、やっぱり死んでいたかもしれない。でももしかしたら、そのまま逃げ延びて、あの赤ん坊と楽しく暮らせていたかもしれない。他の人間なら、そんなことは考えても無駄だから、考えないよね。どうせ考えたところで、やり直すことなんて出来ないんだから、誰もが諦めるしかない。……だけれど、キミは、考える。キミだけはこの世界でたった一人、やり直しが可能な人間であるからこそ」

 何度もやり直しをしてきたからこそ、考える。
 どうしても、考えずにはいられない。
 あそこで道を変えていたら、運命はどう進んでいただろうかと。

「結果的に、リリアは死に、赤ん坊は母親の手に戻った。でもあるいは、あの母親の許で愛情を知らずに育つより、カントスの国で、リリアに愛され可愛がられていたほうが、赤ん坊にとっては幸せだったかもしれない。するとキミがしたことは、ただ、多くの人間を不幸に向かって押し出した、というだけのことだった」
 神獣はくすくす笑い続けている。
「キミはリリアと違い、いくらでもやり直しができる。その手段を持っている。にも関わらず、トウイ以外の誰が死んでも、誰が不幸になっても、そうしようとはしない。──つまりキミにとって、他人の命や人生とは、その程度のものだということさ」
「…………」
 やり直しは、トウイの死が大前提。
 ここにいるトウイを死なせてまで、他の誰かを救おうとはしない。
 わたしにとって、人の命や人生は、その程度のもの。
「そんなキミが、リリアに対して説教とは恐れ入る。……どうしても、口に出して言わずにはいられなかった、ということかな」
 ぴたりと神獣は笑い声を止めて、わたしを正面から見据えた。

「死んだ人はもう生き返らない、誰も代わりになんてなれない、と」

「神獣っ!」
 気づいたら、怒鳴るような鋭い声が喉から飛び出していた。
 すぐに我に返り、口を閉じる。自分では意識していなかったのに、握っている拳が力の込めすぎでぶるぶる震えていた。
 息を吐きだし、力を抜いて、グーとパーとを繰り返す。落ち着かなくちゃ。
「──神獣、わたしはそんなくだらないことを聞くために、ここに来たわけじゃない」
「そう。じゃあ、何かな」
 黄金色の瞳が、楽しそうに細められている。この細い首をつまんで、窓から外に放り出してやりたい、という衝動を抑えるのにちょっと苦労したけれど、わたしはその目を見返した。
「あの真っ暗な狭間から、この世界に来るための入口は、ひとつなの?」
 わたしが投げかけた問いに対する答えは、非常にあっさりと返ってきた。
「そうだよ」
「神ノ宮の現れの間にある扉だけ?」
「そうだよ」
「…………」
 眉を寄せて口を噤むわたしを見て、神獣は面白そうにくっくと笑った。
「キミが何を考えているのかはおおかた見当がつくけれど、はっきり言っておこう。狭間からこちらの世界への入口はひとつ。そこを通って、今この世界で生きているのはキミひとり。現在、神獣の守護人の名を持っているのは、正真正銘、唯一キミのみということさ」
「……別に嬉しくもなんともない」
 しかめっ面になって思わずそう零すと、神獣は上機嫌で、あはは! と笑い声を上げた。
「本当に、キミとお喋りしていると退屈しないよ」
「あっそ。でもわたしは苦痛なの。じゃあね」
 さっさと身を翻して、白いドアに歩み寄る。聞くことを聞いたら、こんなところに長居は無用だ。
 背後から、声が追いかけてきた。
「いつでもキミは、また狭間に戻れるよ。トウイが死ねばね」
「あんた、いたぶり方がそろそろワンパターンになってきたんじゃないの?」
 足を止めずにそう言うと、神獣はまた笑った。
「そうかな? じゃあ、別のことを言ってみよう」
 ねえ、ボクの守護人──と呼ぶ声から、上っ面の無邪気さが消える。顔だけ振り向くと、神獣は唇の両端を吊り上げて、不気味な微笑を浮かべていた。
「キミ、帰りたい?」
「…………。なに、言ってるの?」
 問い返すと、さらに唇の角度が上がった。

「──今のキミが帰りたいと思うのは、果たして 『どこ』 なのかな。今のキミが、いちばん会いたいと思うのは、『誰』 なんだい?」

「…………」
 わたしは顔を強張らせ、何も言わずに再び背中を向けて、勢いよくドアを開けた。
 後ろで、神獣の笑い声が聞こえた。


          ***


 廊下に踏み出し、ドアを閉める。
 それだけで、途端に空気が変わり、わたしの視野にも色がつく。光ばかりが反射する白一色の世界から解放された直後は、目がすぐに順応できない。何度も瞬きを繰り返し、やっとちかちかが収まる、といった具合だ。
 下を向いてしばらく目を開けたり閉じたりしていたら、ようやく目に入る景色がクリアになりだした。ふっと息をついて顔を上げ──
 たら、すぐ前にトウイが立っていたので、飛び上がるくらいびっくりした。
「な……」
 閉じたドアに寄りかかり、跳ね回る心臓の上に手を置いて宥める。トウイは少し申し訳なさそうな表情になって、こりこりと指で頭を掻いた。
「すみません、驚かせました?」
 死ぬほど驚いたよ!
「ど──どうしましたか」
 なんとか平常心を取り戻して、聞いてみる。あんまり声が上擦っていなくてよかった。
 一人で大丈夫って言ったのに。戻るのが遅くて、様子を見に来たのかな。そんなに時間は経っていないと思うんだけど。
 よりにもよって、こんな時に。

 今は、トウイの顔が、ちゃんと見られない。

「いやその、なんとなく」
 トウイがなぜか、もじもじと両手を組み合わせている。なんとなく、ってなに?
「その、一人で部屋に入るのがまだ慣れないのかなと……」
「…………」
 どうもトウイは何か思い違いをしているらしい。そりゃ、このどこでもドアのせいで、何度か挙動不審な行動をとったことくらいは自覚があるけど、それにしたって、「一人で部屋に入るのが慣れない」 ってことはないでしょうよ。幼稚園児じゃあるまいし。

 ……でも、何にしろ、わたしを心配してくれたのか。

 大丈夫、と突き放す言葉が、この時はどうしても出せなかった。喉の奥が、綿で塞がっているみたいだった。唇をぐっと強く引き結び、視線を床に向ける。
「あの!」
 いきなりトウイが大声を出したので、びくっとして、また顔を上げた。
「は……はい」
「あの、シイナさまは、ナミの花って知ってますか」
「ナ……ナミの花?」
 ぽかんとする。
 なんで突然、花?
 そしてなんで、そんなに耳が赤いの?
「すごく可愛い花なんです。小さくて、ふわふわした花びらがたくさんついてて、その花びらは、白なんだけど角度や光の加減によって赤とか青とかいろんな色が入って見える、って不思議な色をしていて」
「…………」
 トウイはやけに真面目な顔で、その花について熱っぽく語った。わたしはひたすら面食らうばかりである。
 えーと、これはどこに繋がる話なの? その花は食べると美味しいとか、そういう話?
「ナミの花は普通、高所でしか咲かない花なんです。山のずっと上のほう、誰にも見られないような場所で、ひっそりと花びらを開くんです。どんなに気をつけて植え替えても、高い位置から下ろすと、固く蕾を閉じたまま、茎が細くなって折れて、最終的には枯れてしまうんです。育てるのが非常に難しいって言われていて」
「はあ」
 で、それが何か?
「だから職人は、ナミの花にはまず、添え木を立てて、支えてやるらしいんです。生まれた場所から離れたナミの花が、倒れてしまわないように。それから細心の注意を払って、土を変えたり、温度を調節したり、水や肥料を与えたりして、綺麗な花を咲かせるよう努力するんだって」
「はあ」
 ……で、くどいようだけど、それが何か?
「俺は職人にはなれませんけど、せめて添え木になれたらいいと思ってます」
「はあ」
 トウイって、そんなに花好きだったっけ?
「それだけ言っておきます。じゃあ」
 じゃ……じゃあ?
 トウイは本当にそれだけ言うと、くるっと身体の向きを変えて、階下に戻ってしまった。わたしは意味が判らないまま、その後ろ姿を見送るしかない。

 ……トウイ、相当疲れてるのかな。


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