リライト・ライト・ラスト・トライ

第十二章

5.過去の償還



「……狂人?」
 意味が掴めないようにそう問い返したのは、ハリスさんだった。
 ドン、という重低音を発して、星見の塔の建物の窓から、真っ赤な炎が噴出した。中のものをすべて焼き尽くさないと気が済まないのか、火の手は激しくなる一方だ。
 轟音を立てて燃え盛る建物からは、炙るような熱気が伝わってくる。なのに、それを背にして立つリンシンさんは、まったく意にも介していないように、穏やかな微笑をたたえたままだった。
 火炎の照り返しを浴びて、顔の上を大きく動く黒い影が、その微笑をぞっとするほど空虚なものに見せている。
「そうです。彼女は間違いなく、神ノ宮のあの扉を開けました。けれども、彼女が狂っているということもまた、誰の目にも明らかでした」
 本来であれば、決して人間には開けられるはずのない、「絵の扉」。
 それを開けてやって来た女性は、こちらの世界では見ることのない色の髪と瞳を持ち、奇妙としか映らない衣装を身につけた、異世界よりの訪問者だった。

 けれど、彼女はどう見ても、正常な精神状態ではなかった。

「扉を開けた途端、泣いて、笑って、金切り声で叫んだそうでね。大神官の出迎えの言葉も、まったく耳に入らない様子だった。見知らぬ世界に怯えて取り乱しているのかと思ったけれど、現れの間から飛び出して、神ノ宮の主殿の中を一直線に駆けていく足取りに、まったく迷いも見られない。……まるで、この世界のことも、神ノ宮の中のことも、何もかも、判っているかのように」
 リンシンさんの視線はまっすぐわたしに向いている。わたしはそこから目を逸らせない。もう隠すことも出来なくなった全身の震えで、その場に立っているのがやっとだった。
「それを見ていた誰もが、これは何かの間違いだ、と思いました。神獣の守護人たる人物が、まさかこのような狂人であるはずがない、とね。そりゃそうです、何をしでかすか判らない危険な人間を、国の最高位である神獣の傍らに置くことなど、出来るわけがありません。しかし、かの人物は、捕らえられ、拘束されても、大声で喚いて主張することを止めなかった」

 自分は神獣の守護人だ──と。

「……っ」
 胸のあたりに手を置き、マントが破れそうなくらい、強く握りしめた。もうこの先を聞きたくない。聞いちゃいけないと、心が必死で叫んでいる。でも、わたしの足はかろうじて半歩分後ずさっただけで、そこからぴくりとも動けない。
 地面を擦ったわずかなその音を耳で拾ったのか、トウイがこちらを振り向いた。
 そして、大きく目を見開いた。
「──シイナさま?」
 だめだ。

 涙が零れ落ちるのを、止められない。

「当時の大神官の困惑は、どれほど大きかったことでしょうねえ。扉を開けてやって来た異世界からの訪問者は、他人との会話すら満足に出来ないほどに狂った、若い女だった。それだけなら、間違いだったということでさっさと 『処分』 してしまうところなのに、本人は自分が守護人だと言い張る。困り果てて、神獣にお伺いを立ててみれば、にべもない返事が返ってくるだけ、ときた」
 ちっとも可笑しくなさそうに、リンシンさんは、くすりと笑った。

「彼女はもう、守護人としての資格を失った、とね」

 下を向き、ぎゅっと目を瞑る。きつく歯を食いしばっていないと、嗚咽が漏れてしまいそうだった。頭が痺れて、炎の音も熱気もすべて、意識から飛んだ。
 トウイも、ハリスさんも、メルディさんも、この話の本当の意味が判らないだろう。彼らからは、ただひたすら、疑念と訝しさしか伝わってこない。リンシンさんの口から語られる女性の実在すら、信じていないのかもしれない。
 扉を開けた異世界からの訪問者が狂人だったなんて──と。
 違う。
 違う、違う。
 わかる。わたしにだけは、わかる。
 その人は、本当にいたのだ。その女性は、三十年前、神ノ宮の現れの間にある、あの扉を開けて、こちらの世界にやって来た。

 ──その時扉を開けたのが、「一回目」 ではなかったという、それだけの話。

 それまでに、何度も何度も扉を開けて、やり直し、繰り返し、戦い続けてきたのだろう。
 一人で、たった一人で、彼女にとっての大事な人を守ろうと。
 でもそれは失敗の連続で、いくつも死を目の当たりにして、そのたび泣いて、苦しんで、心から血を噴き出して、疲弊し、摩耗し、神を呪い、人を呪い、世界を呪い、自分を呪った。
 そして何回目か、あるいは何十回目か、大事な人を失った時点で──彼女は完全に、壊れてしまったのだ。

 その壊れた状態で(・・・・・・・・)扉を開けた(・・・・・)

「守護人ではない、とは神獣は言わなかった。しかし、守護人である、とも言わなかった。守護人としての資格を失った──とは、なんとも曖昧な返事じゃありませんか。大神官も神官も、その言葉の意味をどう解釈したものかと、さんざん頭を振り絞って考えたようですよ」

 狭間に戻った時点で諦めて、もとの世界に帰ることも出来たのに。でも、彼女はその道を選ばず、扉を開けてしまった。もう、選択を迷うことすら、彼女の頭にはなかったのかもしれない。
 あの人を生かしたい。
 ただその思いだけで扉に手をかける自分が、すでに狂気に覆い尽くされていることにも気づかず。
 扉を開けた時点で、ゲームはリセットされて、また最初から。彼女は精神の糸を切った状態で、スタートボタンを押した。でも──もう、コントローラーを持つ手は動かず、どうやって画面を進ませればいいのかも、判らなくなっていた。
 正常な思考が出来なくなった人間に、ゲームの継続は不可能だと、神獣は判断した。
 だから、彼女はプレーヤーとしての資格を喪失した、と言ったのだ。

「それで結局、どうしたと思います? これが笑えるんですけど、当時の大神官はね、『なかったことにしよう』 という結論を出したんですよ。なにしろ本人は自分こそが守護人だと言うし、神獣の言葉もよく判らないし、殺しちゃってから、もし万が一彼女が守護人だったなんてことになったら、自分の責任になってしまいますから。だから事実に蓋をし、記録をすべて抹消し、神官たちには厳しく言い含めて、扉を開けた人間なんていなかった、ということにした。もとの世界に追い返したくたって、その方法を知らないのだから仕方ない。……そんな次第で、彼女は身ひとつで、神ノ宮から外へと放り出されたわけです」

 神ノ宮だけが平穏でありさえすれば、それでいい。自分たちに非があるとは決して認めず、都合の悪いことは誰かに責任をなすりつけて解決してしまう。
 大事なのはただ、神獣の機嫌を損ねないことと、威信を保つことだけ。
 見たくないものは目を瞑り、聞きたくないことは耳を塞ぐ。身分が下の人間は、同じ人として扱うこともしない。誤って扉を開けた異世界人も、毒を身体に入れた侍女も、ぽいっと 「外」 に投げ捨ててしまえば、それで 「中」 は美しいままでいられると本気で信じている──
 それが、あの場所。

「そりゃあ、外で生きていくのは大変だったでしょうとも。いっそあっさり死んでしまえば楽でよかったのにと思うほど、彼女は酷い目に遭いました。とてもじゃないが、可愛いお嬢さんの前で口に出せるような内容ではないので、詳細は言いませんけど」
 他人事のような口ぶりで言って、リンシンさんはあははと乾いた笑い声を立てた。
「僕の父親がモルディムの民だっていうのは本当です。まあ、血の繫がりがあるってだけで、親子の情なんてものはこれっぽっちもありません。母のことも金で買って、奴隷のようにしか扱っていませんでしたしねえ。その母から生まれた灰色の髪の子供なんて、そりゃもう家畜同然でした」
 言いながら、リンシンさんが自分の服の袖を捲った。
 現れた腕には、無数の赤黒い傷跡がある。古い跡だけれど、日常的にどれほど惨い暴行を受けていたのか、想像するのは難くない。きっと、彼の身体の至るところに、同じものがあるのだろう。
「十になる前に、僕はその男を殺しました。金目のものをありったけ掠めてから家に火をつけ、母の手を引いて逃げ出したんです。もちろん、頭のおかしい母を抱えて生きるのは、それはそれで大変でしたけどね。でも、時々、手のつけられないほどに暴れたり、激しく泣き出したりすることがあっても、基本、母は僕には優しい人でしたよ。調子のいい時には、異世界のいろんな話もしてくれたり」

「──で?」
 そこで、リンシンさんの話を遮るように、ハリスさんが冷然とした声を出した。

「そんな身の上話をして、俺たちにどうして欲しいんだ? そうか可哀想になあって、もらい泣きでもすりゃ満足か? 言っておくが、俺はこいつらほどガキじゃねえから、いくらそんなもんを聞かされたところで同情なんてしてやらないぜ」
 構えた剣の先が、リンシンさんのほうを向く。闇の中で、きらりとした輝きを放っていた。
「まったく同感ですね。私らにだって、それぞれ事情くらいはある。他人の不幸な過去を気の毒に思うほど、自分も恵まれた人生を送ってきたわけじゃございませんのでね」
 後ろから聞こえるメルディさんの声も、いつもとまるで変わらない。底のほうがひえびえとした、傍観者の口調だ。
「あんたの母親が守護人だろうとそうでなかろうと関係ない。あんたが今までどれほど悲惨な境遇にあったとしても、それと周囲を不幸に巻き込んでいくのは全然別の話だ」
 ハリスさんの声音は力強く、ブレがない。まるで言い聞かせるようなその言葉は、リンシンさんではなく、トウイか──あるいは、わたしに対して向けられているもののようだった。
「毒虫やら、神の幻を見せる胡散臭い枝やら、そんなものばかり手に入れて、一体何をする気なんだ? どうせなら、そっちの話のほうをじっくり聞かせてもらいたいね」
 剣の柄をぐっと握り、同時に、相手との距離を目測する。タイミングを窺い、歩幅を調整する足が、地面を滑るように擦っている。トウイも黙って、それに倣った。
 気がついたら、トウイの左手が、わたしの腕をぐっと掴んでいた。護ろうとしているというよりは、そうやって無言で叱咤しているように思えた。

 ──しっかりしろ、と。

「ああ、イーキオの枝のことですか? やあ、もうそれのことまでご存知でしたか。君たちはなかなか侮れないですねえ。……いや、それとも、この世界がそういう 『巡り合わせ』 にあるから、なのかな」
 リンシンさんが意味ありげに言って、くすくす笑う。
「でも、不幸に巻き込んだ、とは言いがかりというものですよ。彼らは勝手に不幸への道を突き進んでいったのであって、僕が何かを唆したわけじゃない。僕は、この世界には神獣とは別に神がいるようだ、という話をして、イーキオの枝を渡しただけ。彼らがそこに何を見て、何を聞いたのかは、僕の関知するところではありません。彼らは彼らの、望みどおりの美しい夢を見られて、さぞ喜んでいたと思いますよ」
「……そのふざけた御託は、お前を捕まえてからゆっくり聞いてやる」
 ハリスさんの声が低くなった。鋭く前方に据えつけられた赤茶の瞳に、本気の光が宿る。
「いやだなあ」
 リンシンさんは、ゆったりした態度を崩さないまま、ニコニコ顔でのんびり言った。
「──君たちが僕を捕まえることなんて、出来ませんよ」
 そう言い終える前に、彼の身体が消失した。
 いや、もちろん、本当に消えたわけではない。でも、消えた、と思えるほどに、リンシンさんの動きは迅かった。トウイもハリスさんも咄嗟には反応できないほどの素早さで、瞬く間に距離を縮められた。
 はっとして剣を構え直した時にはすでに遅い。まるで魔法のように、リンシンさんの手には、いつの間にか剣がある。いきなり至近距離に現れた敵の姿に驚き、ハリスさんが目を瞠った。舌打ちしながら後ろに跳び退ろうとしたけれど、相手はそんな猶予さえ与えてくれなかった。
 暗闇に、白い軌跡が弧を描いて一閃する。
 斜め下から上に向けて、流れるように動く剣の刃。一拍置いて、ハリスさんの前身から、ぱあっと血が繁吹いた。

「ハリスさん!」

 わたしとトウイの叫び声が同時に響く。すぐにそこへ駆け寄ろうとしたら、トウイに掴んでいた左手をぐいっと引かれ、反動をつけて勢いよく逆方向へと投げ飛ばされた。
 そのまま、地面に転がる。炎で赤く染まる大地が熱い。そこに手を突き、なんとか上体を起こして剣の柄を握り、顔を上げた。
 脇腹から肩口までを斜めに斬られたハリスさんが、苦悶の表情で膝をつくのが見える。傷口を押さえている掌が、じっとりと染み出す赤色に彩られていく。
 わたしの頭が、心臓が、爆発しそうなほどに脈打った。いやだ。お願い。お願いだから。
 だめ、だめ、死んだらだめ!

 もう、誰も死なせたくないのに!

 ハリスさんが身を伏せるのと時を同じくして、わたしの後ろにいたメルディさんが銀色に輝くものをどこからか取り出した。あれは、ナイフだ。
 ミニリグを仕留めたこともあるその見事な腕は、けれど、リンシンさんには歯が立たなかった。ナイフは、メルディさんの手から離れることすらなかった。また風のように間近まで迫ってきたリンシンさんによって、身体ごと蹴り飛ばされたからだ。
「メルディ!」
 トウイが声を上げた。
 攻撃される寸前、メルディさんはかろうじて両腕を前に立てて防御の体勢を取ったのに、そんなものはまったく意味がない、というほどに軽々と一撃でその身体は後方へと吹っ飛ばされた。それくらい、強烈な威力だということだ。
 目にも止まらないスピード。剣の遣い手で、格闘にも優れている。リンシンさんは、その風貌からはまったく想像もつかないくらいに、並外れた強さの持ち主だった。
 彼の無感情な眼が、わたしの前で剣を構えて立つトウイに向けられる。トウイの顔からは、血の気が引いていた。
 わたしは総毛だった。どう考えたって、トウイが一人で敵う相手じゃない。トウイ自身も、それを自覚している。

「やめて……!」

 叫ぼうとしたら、吹きつけてきた熱風が喉に入って咽た。周りにはもうもうとした煙が流れ、視界が利かなくなりつつある。
 涙でびしょ濡れになった顔を、腕で乱暴に拭い、立ち上がった。
 なんとか剣を抜いたのに、手が震えすぎて、そのまま取り落とした。地面に剣が落ちるガシャンという音を、頭の片隅で聞いていた。それを拾おうという気も起きなかった。どちらにしろ、この相手には意味をなさない。
「シイナさま!」
 前に出ようとしたわたしを、トウイが掴んで引き留める。痛いほどの力だったけど、わたしも同じくらいの力でトウイにしがみついた。
「だめ、お願い、やめて」
 こんなにもわたしは無力で、いざという時、なんの役にも立てない。今まで、どれだけ懇願しても、誰も聞き入れてはくれなかった。
 わたしは何もできなかった。正しい答えを見つけられなかった。これまでに、何度も何度も、トウイを死なせてきた。
 トウイの生を望み、その死を見続けることが、理に背いた罰だというのなら、その罰はせめてわたしだけに下して。

 トウイは、解放してあげて。

「…………」
 じっとわたしを見つめていたリンシンさんが、ふっと力を抜き、剣を下ろした。
 静かに微笑む。
「──僕もまた、運命に抗う者なんですよ」
 そして、ふわりと身を翻した。まだ猛烈な炎を上げている建物のほうに向かって駆けだしていく。
「おい、どこへ──!」
 トウイが怒鳴ったけれど、それにも振り返らない。リンシンさんの姿は、立ちこめる煙に巻かれて、あっという間に見えなくなった。
「つ……」
 ハリスさんの苦しげな呻き声に、トウイがはっとしてそちらに顔を向ける。「ハリスさん!」 という声に応えるように、ハリスさんが座り込んだまま片手を軽く挙げた。
「……ちっと見た目は派手だが、浅い……こんなので、死にゃしねえ、って」
 掠れて、切れ切れではあるけれど、しっかりした返事に、目に見えてトウイが安堵したように息を吐く。倒れているメルディさんのほうからも、ゴホッと辛そうに咳き込む音と一緒に、「……あーもう、みっともないったら」 と、忌々しげに呟く声が聞こえてきた。
「トウイさん」
 自分の髪を巻いていた布を外して、トウイの手に押しつけるようにして渡した。
「これで、ハリスさんの出血を押さえて」
 トウイが頷いて、ずっと掴んでいたわたしの腕を離す。彼がハリスさんの許にまで駆け寄るのを見届けてから、わたしはくるりと彼に背を向け、走り出した。
「待っ……シイナさま!」
 叫び声が後ろから聞こえたけれど、足を止めはしなかった。


          ***


「君は追ってくると思いましたよ」
 星見の塔は、山のてっぺんに建っている。山頂はおおむね平らで、面積は決して広くはない。大部分が星見の塔の敷地となっていて、多少の樹木くらいはあるけれど、他には特に何もない。
 何もない、のだ。建物があり、庭があり、その先は崖。円筒の上に建物がある、とでもいえばいいのか。敷地を出て、ちょっと余分に一歩を踏み出せば、そこはもう空中、といった具合だ。
 崖の手前には、一応、お飾り程度に背の低い柵がある。その柵に無造作に腰かけて、リンシンさんはニコニコしながらわたしを待っていた。
 わたしの後方では、星見の塔が炎に包まれている。真っ赤な火柱が闇夜を焦がすように立ち昇っているけれど、風の向きの関係でか、こちらに煙は流れてこなかった。
「……あなたの目的は、なんですか」
「決まってるじゃないですか」
 わたしの問いに、リンシンさんはためらいもなく答えた。

「復讐です」

「…………」
 あまりにも軽く、そして呆気なく返ってきた言葉に、かえってどう反応していいのか判らない。目の前の人が、そんな言葉にはまったくそぐわない顔で笑っているから、余計に。
「神獣と、神ノ宮に?」
「そう、元凶の神獣と、愚かな神ノ宮に。役に立たない神に。傲慢な王ノ宮に。他を見下ろして自らの不幸から目を背ける人々に。不公平で不平等極まりない、この世界のすべてに」
 滑らかに続け、目を細めて笑う。
「──そして、運命というものに」
「…………」
 ああ、そうか。この人は。

 わたしはやっと、理解した。
 リンシンさんはたぶん、可笑しくて笑っているわけじゃない。
 彼にはもう、この表情しか残されていないのだ。
 喜びも、悲しみも、苦しみも、涙も、怒りも、怖れも。
 すべてが枯れて、使い果たして、それらはもう、彼の中から、なくなってしまった。

「僕は半分が異世界人の血を引いている。この世界の条理から、半分、はみ出した存在ということです」
「……半分」
 この世界の枠組みに半分嵌り、半分外れている。その中途半端さゆえに、リンシンさんの存在は、世界の摂理と均衡を崩す。
 だから神獣は、彼のことを 「バグ」 と呼んだ。
「安心しなさい、僕はトウイを殺さない。それが定められた運命というのなら、僕は決して従わない。彼が君の、大事な人なんでしょう?」
「…………」
 わたしは口を結び、その質問には答えなかった。
「……リンシンさんのお母さんの、『大事な人』 は、どうなりましたか」
「ああ」
 リンシンさんが、どうでもいいとばかりに軽く肩を竦める。
「さあねえ。なにしろ、母は扉を開けてから、ほぼすぐに神ノ宮から追い出されてしまいましたから。もしかしたら、会うこともなかったかもしれませんね。でも、あちらにしたら問題ないでしょう。……あちらは、母のことなんて何も覚えていない。母にとっての大事な人は、母の記憶の中にのみ、存在している人なんですから」

 プレーヤーが資格を剥奪され、ゲームは放棄された。ゲームの主人公は、自分が主人公に選ばれたことも知らずに、平和な一生を過ごしたのかもしれない。
 ただの一度も、プレーヤーのことなんて思い出さないまま。
 いいや、「思い出す」 なんて、不可能なのだ。この世界にいたその人は、生まれてからずっと、そんな存在のことを、「知らない」 のだから。

「──八ノ国に、向かうつもりだったんでしょう?」
 微笑と共に出された唐突なその問いに、わたしは一瞬、言葉に詰まった。
「それは……」
 八ノ国、妖獣の国。一応の旅の目的地を草原地帯に決めたのは、「前回」 のことが頭にあったからだ。
「それは、とてもいい考えだと思いますよ。大体、どうしてこの世界には、妖獣、なんてものがいるんですかね? ここの人たちは、それを疑問にも思わないようですが」
 わたしも思った。
 前回の時にはじめて見た、妖獣。大きな体躯は剣で貫くことも出来ず、翼は矢を跳ね返すほどに頑丈だった。牙は大きく鋭く、脚も速い。爪で引っかけるだけで、人間を殺すことも出来る。こちらの科学力、戦闘力では、到底太刀打ちできない生き物。
 そんなものが、人間を捕食対象にすることもなく、なぜ草原地帯の中のみに引っ込んで暮らしているのか。

「まるで、何かを守っている(・・・・・・・・)かのようだ。そうは思いませんか?」
 リンシンさんは、くすりと笑いを洩らした。

「何かって、なんでしょうね? 僕も何度か調べてみようとしたんですが、無理でした。でも、現在の神獣の守護人である君なら、あるいは……」
「……そうやって、わたしの目と興味を草原地帯に向けさせて、リンシンさんは何をするつもりなんですか」
 わたしの言葉に、リンシンさんが噴き出す。
「君のそういうところ、僕はけっこう好きですよ。でも僕だって意外と、デタラメばかりを言ってるわけでもありません」
 口許に笑みを浮かべて、わたしとまっすぐ目を合わせた。

「僕は僕の道を行く。誰にも邪魔をさせるつもりはありません。君は君の道を行きなさい。正しい答えは、この旅の先にあるのかもしれない。僕の母は、結局、死ぬまで見つけられませんでしたけどね」

 その時、後ろから声が飛び込んできた。
「シイナさま!」
 振り向くと、トウイが息せき切って走ってくるところだった。険しい表情でリンシンさんを睨みつけ、剣を手にして一直線に向かってくる。
「秘密の逢引きはここまでのようです」
 リンシンさんはにっこり笑って言った。
「じゃあ、機会があったらまた逢いましょう、可愛いお嬢さん。……ああ、そうだ。そういえばね」
 優雅な仕草で柵を乗り越えながら、思いついたような顔をする。自分に向かって走ってくるトウイと、その場に立ち尽くしているわたしとを、交互に見やった。

「──僕の母が最期、息を引き取る直前に遺した言葉は、『帰りたい』 でしたよ」

 トウイがぎくりとしたように、足を止めた。
 その隙に、リンシンさんの身体が体重を感じさせない動きで、ふわっと柵を越えて崖の向こうへと消える。トウイが 「なっ……」 と驚き、慌てて柵から身を乗り出して崖下を見下ろした。
「この下の階段に飛び降りた……くそっ!」
 悔しそうに地面を蹴りつけてから、またすぐにこちらに引き返してくる。息を荒くしながら、心配そうにわたしの顔を覗き込んだ。
「ご無事でしたか」
 わたしは頷いた。
「はい……ハリスさんと、メルディさんは」
「どちらも命に別状はありません。メルディは、もしかしたら肋骨にヒビくらいは入ってるかもしれない、と自分で言ってますが」
「……そうですか」
 命に別状はない。その言葉を聞いて、安心してもいいはずなのに、どこかぼんやりとしか受け止められない。そもそも、受け止めているのかも、よく判らない。
 自分の中に、ぽっかりと穴が開いて、言葉が素通りしている。そんな気がする。
「シイナさま!」
 大きな声で名を呼ばれ、反射的に身じろぎした。伸びてきたトウイの両腕が、がしっと強く、わたしの両肩を正面から掴む。
「あいつと何の話をしたんですか」
 怖い顔、きつい声。勝手な行動をしたから、怒ってるのだろうか。
 それさえも、胸に届かない。
「……トウイさん」
「はい」
 トウイが返事をしながら、眉を寄せた。わたしの口が勝手に開いて、勝手に言葉が滑り落ちる。自分の声が、どこか遠くから聞こえる他人のもののように、虚ろに響いた。

「──わたしはまだ、大丈夫だと思いますか」

「え……」
 トウイの声に、戸惑いが混じる。わたしは彼の赤茶色の瞳を見た。
 ……どうしてそんな不安そうな色を浮かべているの?
 そんなに、今のわたしがマトモでないように見える? じゃあ、いつもはマトモなのかな? そう? いつも? 最初から?
 わたしは 「この扉」 を開けた時から、すでにあんまりマトモじゃなかったかもしれないよ?
「わたしはまだ、狂ってないと思いますか」
「シイ──」
「これからも正気を保っていられると思いますか」
「シイナさま」
「わたしは、いつ」
「シイナさま!」
 強い力で引き寄せられ、抱きしめられた。
 顔を肩に押しつけられる。

 わたしは、いつ、前代の守護人のように、完全に狂気に蝕まれてしまうと思う?

「そんなことにはさせません。俺が、させませんから」
 背中に廻る手に、力がこもった。
「…………」
 わたしはまた、「このトウイ」 を失うかもしれない。次に扉を開けた時、そこにいるのは、こう言ってくれたことすら覚えていない──知らないトウイだ。
 いつまで、こんなことを続けなければならないのか。狂ってしまったほうが、きっと楽なのに。そうすれば、わたしは守護人としての資格を失う。トウイのことすら、忘れられるかもしれない。
 でも。

 でも──それじゃ、「あの人」 との約束が守れない。

「……帰りたい、ですか」
 トウイが、低くこもるような声で言った。彼が今、どんな顔をしているのか、わたしには見えない。
「──はい」
 その言葉を出すと同時に、一気に涙が溢れた。
 ぽろぽろと零れ落ちる滴が、トウイの肩を濡らしていく。わたしは目を閉じた。

 帰りたいの。帰りたい。

 こちらの世界に来てからずっと、そう思っていた。帰りたい、と思っていたその先にあるのは、もとの世界だった。お父さんとお母さんの待っている、あの温かい場所へ、早く帰りたいと思っていた。いつも。
 だけど、気づいてしまった。
 今、「帰りたい」 と思う時、わたしの心に浮かぶのはもう、懐かしい両親の顔ではなく、生まれ育った故郷の地でもない。
 そのことがまた悲しくて、申し訳なくて、新たに涙が込み上げる。
 浮かぶのは、ただひとつの顔。わたしに向けてくれた笑顔と、差し伸べられた手の温かさ。もう二度と会えない人。
 帰りたいのは、あの場所。
 どんなに願っても、望んでも、決して、帰ることのできないところ。


 「最初のトウイ」 の、いるところ。


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