リライト・ライト・ラスト・トライ

第十三章

1.決意の先



 守護人が泣いていたのは、本当にわずかな時間だけだった。
 少ししてから、肩に乗せられていた小さな頭が上がる。俺の胸に当てられた掌に、軽く力が入って押された。
 ……腕の中にすっぽりと納まってしまう細い身体が、するりと離れていく。
 少しの間下に向けられてから、改めてこちらを向いた顔は、ひどく青白かったものの、どこも泣き濡れてはいなかった。
 感情を払い落としたような、いつもの無表情だった。
 それを見て、顔を歪めてしまったのは俺のほうだ。もう一度腕を伸ばして、その身を引き戻したい衝動を抑えるのに、とてつもない努力を要した。
 トルティックの街で、サリナのことを話していた時と同じ。
 ──自分が今、どれだけ痛々しい様子なのか、彼女は気づいていないのか。
「……はやく、ここを降りないと」
 ゆるりと顔を巡らせて、後ろで未だ火炎を吐きだし続けている建物に目をやりながら、守護人が言った。
 言葉とは裏腹に、その口調にはまるで切迫したところがない。激しく燃え上がる火を見ても、唸るような轟音を聞いても、彼女の心にはちっとも届いていないようだった。
 一点に据えられて動かない大きな瞳は、炎が映り込んで赤く染まっているというのに、まるで闇のような暗さを帯びていて、俺の不安をかきたてる。
「シイナさま」
「ハリスさんとメルディさんを、下に連れて行かないと」
「…………」
 一本調子に言葉を続ける守護人に、俺はそれ以上どうすることも出来なかった。彼女の白く硬い顔は、すべてを拒絶しているかのように頑なにこちらには戻ってこない。
 そして実際、守護人の言うとおりでもある。ハリスさんとメルディは、命に別状はないとはいえ、どちらも決して軽傷ではない。自分だけであの長い階段を下っていくことは出来ないだろう。山頂に星見の塔の建物以外で火の手が廻るようなものはないが、立ちこめる煙と熱気はひどくなる一方だ。
「──二人のところに戻りましょう。手を貸していただけますか、シイナさま」
「はい」
 こくりと頷き、守護人が走り出す。頭上から降り落ちてくる火の粉から彼女を庇いながら、俺も駆けだした。


 まだ傷口から出血の止まらないハリスさんと、胸に手を当てて苦しそうに呻くメルディに、俺と守護人がそれぞれ肩を貸して、階段を下った。
「あーくそ、大の大人が二人揃って子供に縋る羽目になるとはね……」
「あんたは自分の後輩の手を借りてるんだから、まだいいじゃないですか。私なんて女の子に支えられちゃってるんですよ、しかも神獣の守護人ですよ、同僚にこの醜態がバレたら一生笑いものですよ」
 俺と守護人に凭れてとはいえ、なんとか自分の足を使って一歩一歩進みながら、ハリスさんとメルディは、ずっと文句を言い通しだった。
 声と台詞だけを聞けば元気そうだが、二人とも顔じゅうびっしりと脂汗を流して、くっきり眉根を寄せている。本当なら動くのもつらいだろうに、この距離の階段を下るのは、相当な苦行だろう。
 早く下に着いて手当てをしないと──と思ったところで、助けが現れた。
「トウイ、ハリス!」
 名を呼びながら、階段の下のほうから姿を見せたのはロウガさんだ。そうか、星見の塔の研究者たちが大挙して逃げ出していったからな。その騒ぎに驚いて、駆けつけてきてくれたのか。
 ロウガさんは、一目見て、ハリスさんとメルディが手負いの状態であることを理解したらしい。事情を聞くのも後回しにして、さっさとハリスさんの腕を取った。
「ハリスは俺が運ぼう。トウイはメルディを頼む」
 はい、と返事をして、メルディの空いたほうの腕を自分の肩に廻す。反対側をずっと支えていた守護人は、珠のような汗をいくつも額に浮かべていたが、ロウガさんの顔を見ても固い表情のまま、無言で前方に視線をやっていた。
 改めて足を動かし、俺は肩越しに後ろを振り返る。
 もうもうとした黒い煙が天に向かって昇っていくのが見えた。暗闇の中にちらちらと赤い火の粉が舞っている。こんな場所にある建物の消火などが出来るはずもなく、いずれ燃やすものが尽きて、炎が収まるのをただ待つしかない。

 これまでずっと長いこと、ニーヴァの星と月の動きを記録し研究し続けてきた、星見の塔が灰燼に帰す。
 新たに施設を造り直し、また一からやり直していくとなると、元の状態に戻るまでにはこの先途方もなく長い時間がかかるだろう。
 その間、天候の予測はほとんど立たず、王ノ宮は政治的な判断を下すための大きな拠り所をひとつ失い、ただでさえ大地が荒れて困っている国民は、どの時期にどれだけの作物を作ればいいのか大いに迷うことになる。
 ──ニーヴァの国は混乱し、さらに荒れるかもしれない。

 星で埋め尽くされていた澄んだ夜空が、黒い煙に覆われていくのを見て、胸の中が凍りつくような感触に襲われた。


          ***


 星見の塔が建っている山の麓にある小さな街は、大騒ぎになっていた。
 まあ、無理もない。星見の塔は王ノ宮の直轄施設で、この街に住んでいるのは大部分がこの施設の関係者ばかりだ。階段を駆け下りる際に滑り落ちて怪我をした人や、まだ惑乱から抜け出せずに泣いている人、今からでも資料を持ち出せないかと階段を上ろうとする人、それを引き留めようとする人などで、どこも殺気立った雰囲気に満ちている。
 俺たちは、心配そうに待っていたミーシアたちと合流すると、ハリスさんとメルディの応急手当てを済ませ、狂乱の続くその街をそっと抜け出した。こんな場所に余所者が混じっていたら、すぐに疑いの目を向けられて、ひと騒動が起こるだろうことは簡単に予想できる。
 この事態が報告されて、王ノ宮から派遣された調査や救援のための人材が到着するには、まだしばらく時間が必要だ。それまでに、ここの人たちも冷静さと落ち着きを取り戻せているだろうか。
 ──到着した時には、星見の塔のすべては失われているに違いないけれど。


 移動した先のヤルクという街で、やっと二人を医者に診てもらうことが出来た。
 ハリスさんの傷は確かに浅く済んだものの、範囲が広い。治療の後は、当分安静にしているようにと言われた。メルディは自分の見立て通り肋骨にヒビが入っていて、特に治療方法はないから、これまた安静にしているしかない、と言われた。
 命にかかわるような怪我ではない、十日もすれば動いてもまあいいだろう、という診断に、俺たちはほっとしたが、当人たちは揃って不満顔をしていた。
「冗談じゃない、十日もじっとしてるわけにはいかないでしょう」
「まったくです、こっちの役立たずの護衛はともかく、私まで病人扱いされたらたまりませんよ。二日か三日で充分ですって」
 と言いながら二人して寝台から起き上がろうとし、二人して痛ててと唸って胸を押さえ突っ伏している。世話の焼ける人たちだなあ、と俺はため息をついた。
「いいからちょっと大人しくしてましょう、二人とも」
「なんだそのしたり顔は。自分だけが健康だからっていい気になるなよ、トウイ」
 ハリスさんが僻むように俺を睨んできた。いつもは余裕のある大人なんだけど、この人は時々面倒くさい。
「いい気になんてなってませんて。ほらほらハリスさん、動くと傷に障りますよ。なんなら俺が飯を食べさせてあげますから」
「くっそ、すげえ腹立つ……!」
 剣については自他ともに認める腕前だっただけに、あっさり敗北を喫して身動きも出来ない今の状況が、ハリスさん自身たまらなく悔しいのだろう。それはもちろん理解できるし同情もするけど、だからって無理をされても困る。今は一刻も早く傷を治してもらうのが先決なのだ。
「言っとくが、お前のほうが偉くなったわけじゃないからな」
「誰もそんなこと言ってないでしょ」
「子供をあやすようなその顔と声がたまんなくイラつくんだよ」
「はいはい、俺が悪かったです」
「お前があの野郎にやられなかったのは、ただの運だからな!」
「……わかってますって」
 俺の声が若干低くなったことに気づいたのか、八つ当たりをぶつけていたハリスさんがぴたりと口を噤んだ。
 静かになると、隣の寝台で、メルディがまだぶつぶつと文句を並べている声だけがよく響く。
「まったくもう、本当に冗談じゃないですよ、こんな情けないザマはないったら……ミーシアさん、喉が渇きました」
「ええ、すぐに用意するわね。他に何か欲しいものはあるかしら?」
「ちょっと冷えるので薄い毛布がもう一枚欲しいです。あと、顔が拭きたいから濡らした布を。私、ちゃんと美貌を保ってますかね? 確認したいので鏡が必要です。お腹も空きました。食べさせてくれるのは、ミーシアさんか、あるいは優しい女性にしてください。なるべく美人がいいですね。それから……」
「うるさいですよ」
「だっ!」
 これはこれで自分への憤懣の表れなのか、ずらずらと際限なく続くワガママな要望を、守護人は俺のように従順に聞いてなんかいなかった。剣の鞘で頭をごんと叩くという暴力的な手段であっという間に黙らせて、ミーシアに 「怪我人ですから」 とオロオロ止められている。さすがだ。

「──とにかく」
 ロウガさんがふーと息を吐きだす。

「これからどう動くにしろ、お前たち二人がいなくてはどうにもならん。今は治療にのみ専念してくれ」
 ただでさえどこから危険が降りかかるか判らない道行きで、ハリスさんが抜けるとどうしても手が廻りきらない。そもそも、王ノ宮からの監視という名目で同行しているメルディを置いて旅を続けることは出来ない。この二人がいなければ、まさに 「どうにもならない」 というのが現状なのだ。
「……不甲斐なくて申し訳ない。一日も早く回復するよう努めます」
 ハリスさんが神妙な態度になって、頭を下げる。
 近くにいた守護人が、ごくごく小さな声で、「ごめんなさい」 と呟くのを、俺は聞いた。


          ***


「──しかし実際のところ、どうしたものかな」
 ミーシアだけを残して、ハリスさんとメルディが休んでいる部屋を出ると、難しい顔つきでロウガさんが顎に手をやった。
「そうですね」
 と俺も首を捻る。
 ヤルクの街の宿屋は、今までの宿屋のように二階建ての建物ではなく、主人の住まいに五つくらいの小さな部屋が併設しているだけの、簡素な造りだった。食事も一切出ないから、食堂もない。そんなところだから当然厩なんてものもなくて、三頭の馬は主人に頼み込んで宿屋の裏手に繋がせてもらっている。
 少しの間だけ、ということで了承を得たのでいつまでもそのままにしておくわけにはいかないし、第一、不用心に過ぎる。かといって、あの状態のハリスさんとメルディを連れて野宿するわけにもいかない。
 最悪、馬は厩のある家に金を出して置いてもらうことも出来るだろうが、宿屋の部屋は二つ空いていただけで、それもかなり狭いのだ。とりあえず怪我人をまとめて寝かせて、一人はその看病に当たるとしても、あとの四人が全員もう一部屋のほうに押し込まれることになる。
 いや、それはまずいだろ。部屋の中に寝台は二つ。それだけでぎっちりという有様なのに、大人三人と子供、それも男女が入り乱れて眠るのは無理だ。いや、無理ではなくても、守護人と至近距離でくっついて寝るなんてことになったらいろいろと困る。おもに俺の事情で。
「まあ、いざとなったら俺は外で寝ますけど……」
 と言ったら、守護人に 「ダメです」 とすっぱり却下された。
「…………」
 少し考えてから、別の案を出してみる。
「──じゃあ、俺一人で個別に動いてリンシンの行方を探るとか」
「もっとダメです」
 さっきよりも強い口調で断言された。珍しく、はっきり判るくらいに守護人の眉が険しい角度で上がっている。
 俺はその顔を黙って眺めて、心の中で呟いた。


 ……ふうん。
 守護人は、俺がリンシンに接触するのが、そんなにイヤなのか。


「だが二人とも、十日はじっとしていないといけないというし……」
 俺と守護人が互いに口を引き結んで顔を見合わせているのを少し怪訝そうにしながら、ロウガさんが考えるようにひとりごちた。
「この近くに、どこか大きな街でもあればいいんだが」
 それを聞いて、あ、と思いついた。「あの、そういえば」 とロウガさんのほうを向いて口を開く。
「ここからすぐ、ってわけじゃないんですけど、ハルソラって街があるんですよ」
「……春空?」
 守護人がぼそりと繰り返したが、ちょっと発音がおかしい。ロウガさんは首を傾げた。
「ハルソラ……聞いたことがないな。大きい街なのか?」
「いや、小さいです。ものすごく。地図にも載っていません」
「そこが? この街とそんなに変わらない規模だというなら、厩つきの宿屋もないんじゃないか?」
「ないです。ていうか、宿屋自体がないです。旅の人間が立ち寄ることは滅多にないですしね」
「…………」
 ロウガさんがますます深く首を傾げてしまう。そりゃそうか。説明が下手だよなあ、と我ながら苦笑しつつ、俺は自分の頭をぽりぽりと掻いた。

「ハルソラは、俺が以前、暮らしてた街なんです」

 それを聞いて、守護人が目を瞬いた。なぜか少し照れくさくなって、今度は頬をぽりぽりと指で掻く。
「以前というと……神ノ宮に入る前、ということか?」
「正確には、十二、三歳くらいまでですかね。それからちょっとの間あちこちをウロウロして、ある人の伝手を頼って神ノ宮の護衛官になったんです」
 俺の曖昧な説明を、ロウガさんは突っ込んで聞いてくることはしなかった。この際些細なことは気にしてもしょうがない、と思ったのか、俺があまり詳しくは言いたくないことに気づいて立ち入らないでくれたのか、おそらく両方だと思うけど。
「で、そのハルソラという街が……」
「そこには、まあ、たぶんですけど、俺の住んでた家がまだ残ってるはずなんですよね。燃えたり潰れたりしていなければ、の話ですが。そこなら一応最低限の家具があるし、この人数が休めるくらいの空間もあります。厩はないですけど、馬を飼っている人はいるんで、そこに頼めば預かってもらえると思います」
「なるほど……」
 ロウガさんが腕を組み、思案する顔になった。
「まあ、問題は」
 俺はちらっと守護人を見る。
「……街の中の住人ほとんどが顔見知り、って感じなので、あれこれと事情を詮索されるのは避けられないだろう、ってことなんですけど」
 ふん……とロウガさんの口から声が洩れる。
「そこの人々はお前が神ノ宮の護衛官になったことを」
「知らないはずです。街を出てからの俺が、どこで何をしていたかも」
 世話になった人や、親しい人がいなかったわけではないのだが、なにしろハルソラを出てからは、その日暮らしで転々と居場所を変える、という日々だった。手紙をやり取りしようにも明日には自分がどこにいるのか判らなかったし、正直そんな余裕もなかったから、彼らとはずっと音信不通の状態だ。

 ……みんな、元気にしてるのかな。

「だったら……なんとかなるだろうか」
 ロウガさんもまた、守護人を一瞥する。ここにいるのが神獣の守護人であることが知られたら何かと厄介だ、ということを考えているのだろう。
 でも表向きには、守護人は王ノ宮にいることになっているしな。言っちゃなんだけど、神ノ宮から離れた場所で暮らす人々の頭の中にある 「神獣の守護人」 のイメージと、目の前のこの男の子のような恰好をした少女とを結びつける人間は、ほとんどいないだろうと思う。
 少ししてから、ロウガさんは決定を下した。

「よし、その街に行って、しばらく二人を静養させよう。どこかで馬車を調達できないか、掛け合ってみる」

 そう言って、足早に外へと出ていく。俺はその後ろ姿を見送って、守護人にぴったり寄り添っているニコに視線を移した。
 星見の塔の階段を上ったのが昨日の夜。今はもうすっかり陽が昇り、あと数限で昼になろうかという頃合いだ。昨夜からバタバタしっぱなしで、ろくに眠ることも出来なかったニコは、今にも沈没してしまいそうにうとうとして目を擦っていた。
「ニコ、今のうちに少しでも休んでおきな。またすぐに出発しなくちゃいけないかもしれない」
 頭に手を置いてそう言うと、ニコは半分とろんとした顔でこちらを見上げ、うんと頷いた。
「ハリスさんとメルディさん、もう平気?」
「ああ、平気だよ。二人が元気に文句ばっかり言ってたの、お前も見てたろ」
「うん……」
 こくんと首が前に垂れる。
 それから、
「……二人とも、死んじゃわない?」
 と囁くような声で聞いた。
「…………」
 俺は口を閉じて、じっとその小さな頭のてっぺんを見下ろす。

 そうか。
 ニコはニコで、怖かったんだな。
 また、誰かを失うことになるかもしれない──と。

「……大丈夫だって」
 もう一度言うと、ニコが顔を上げた。笑いかけてやったら、やっと安心したように目許を和らげる。
「じゃあ、寝るね。シイナさまも、一緒に寝ようよ。オレ、手を繋いでいてあげる」
 どちらが保護者なのか判らないことを言うニコに手を引っ張られ、守護人が 「でも」 とためらうように俺を見た。
「トウイさんも疲れてるでしょう?」
「俺なら平気ですから、どうぞ休んでください」
「いっそ三人で一緒に手を繋いで寝ましょうか」
「冗談ですよね?」
「ニコの隣はわたしのものですよ」
「なんで俺がその場所をかけてシイナさまと張り合わなきゃならないんです?!」
 守護人の言うことは、どこからどこまでが本気なのかちっとも判らない。人の気も知らないで。
「いいから早く部屋にどうぞ。ミーシアも俺が交代して休ませますから」
 疲れているといえば、誰もかれもが疲れているのだ。ハリスさんたちの負傷がなくても、休息は必要だっただろう。
 動くことは出来なくても、考えることはたくさんある。
「……トウイさんの、育った街、ですか」
 ニコに引っ張られて部屋に向かいながら、守護人が思いを馳せるように言った。
 何の気なしに出したものだったかもしれないが、その言葉に、俺の胸が疼いた。
 帰りたいか、という問いに、はい、と答えた弱々しい声が耳に甦る。浮かべていた自分の笑みが、途端にぎこちなくなった。
「平和で、のんびりしたところですよ。せっかくだから、この機会にゆっくり身体を休めるのもいいでしょう?」
「はい、そうですね」
 守護人の返事は、どこか上の空だ。何か別のことを考えているらしい。
「──綺麗な名前の街」
 独り言のようにそう呟いて、守護人とニコは部屋の中に入っていった。


          ***


 遠慮するミーシアを強引に部屋から出して休ませ、俺はハリスさんにまた場所を移ることになると告げた。
 隣の寝台では、メルディが目を閉じて、寝息を立てている。彼女の眠りを邪魔しないよう、低く抑えた声でぼそぼそと話した内容に、ハリスさんはほんの一瞬、遠い目になった。
「へえ、お前が前に住んでた街か……」
 その時、ハリスさんの心や頭を過ぎったものが何であったかなんて、俺には知りようがない。神ノ宮の護衛官で、自分の生い立ちなどをべらべら喋るような人間はもともといないが、ハリスさんの過去については、本当に誰も何も知らないのだ。聞いたとしても、明らかに嘘だと判るようなことを戯れ交じりに返されるだけだから、当人に話す気がこれっぽっちもないのだろう。
 俺は別に、それでもいいと思っている。本人が隠したいと思っていることを無理やり掘り返して訊ねることに、意味や意義があるとは思えない。人と人の間には、言いたくないこと、言わなくてもいいこと、っていうのが必ず存在するということくらいは弁えているつもりだ。

 ──でも。

「……お前さ」
 ハリスさんが寝台に横になったまま、視線を中空に投げてぽつりと言った。
 その声に、いつものように人をからかうような調子はまったく含まれていない。痛み止めの薬が効いて、ちょっとぼんやりしているのかもしれない。表情も、ハリスさんらしくないくらい、生真面目なものに見えた。

「お前、相手は守護人だぞ。わかってんのか?」
 淡々とした口調で言われた。

「…………」
 俺は表情を改めて、ハリスさんを見た。その声にも顔にも、責めたり怒ったりするような色はない。トルティックの宿屋で、厳しい口調で忠告してきたあの時とは、まったく響きが違っていた。
 わかってるのか、という言葉は、まるで。
 確認のような、諦めのような。
 ……俺の覚悟を問うような。
「わかってます」
 ハリスさんのほうにまっすぐ顔を向けて、俺はそう答えた。
「今は旅の仲間でも、神ノ宮に戻ればまた雲の上の存在になる。明るい結末なんて、まず無理だぞ」
「わかってます」
「──しかもどうやら、何かとんでもない隠し事を抱え込んでる」
「わかってます」

 わかるよ、そりゃ。
 彼女は、誰にも言えない、大きな秘密を背負っている。
 ……それが何かなんて、俺にはまだ判らないけど。

「お前には、支えきれないかもしれない」
「……そうですね」

 今のままの俺では、まだ。
 だからまだ、それは隠されたままでいい。言えないこと、言いたくないことは、言わなくてもいい。
 ──でも、このまま放置はしない。見過ごすこともしない。
 いつかは必ず。
 そのためにも。

「俺、頑張りますから」

 今は、ただ。
 何も言えない彼女が、たったひとつだけ口に出せる望みを叶えられるように、努力しようと思っている。
 俺がこの旅に出ると決意したのも、それが理由だった。あれはやっぱり、間違っていなかったんだ。
 近くにいる。そばにいる。
 いつでも、どんな時でも、手を伸ばした先で待っていられるように。
 彼女が求めているのが俺ではなくても。
 ……それだけが、現在の俺に出来ることだから。


「…………」
 ハリスさんが、こちらを見て、大きなため息をついた。いかにも、あーあ、しょうがねえな、と言いたげな顔をしていた。
「それでお前は、その決意を相手に伝えようとして、見事に失敗した、と」
「え、なんで知ってるんですか!」
 思わず大声を上げてしまってから慌てて口を塞ぐ。メルディのほうを窺ったら、変わらない寝息を立てているのでほっとした。
「お前さあ、一体なんて言ったわけ?」
「そんなの内緒ですよ」
 なんだかやけに苦々しい表情をしているハリスさんに、ぶっきらぼうに返す。思い出すだけでも恥ずかしいのに、人になんて言えるわけがないじゃないか。
「いや、俺にも責任の一端があるかなと思ってさ。いくらでも時間と機会があったのに、お前に女の口説き方のひとつも教えてやれなくて。俺がもうちょっと知恵をつけてやっていれば、あそこまでアホなことには……」
「大きなお世話です」
 だんだん耳が熱くなってきた。ハリスさんが冗談ではなく本気で、悪かった、と言っているのが判るから、なおさらだ。
 なんなんですか、その可哀想なものを見る目は。
「俺が悪いんじゃないですよ。あっちがニブいんですよ」
 俺はむすっと膨れて投げやりに言った。
 だって俺、けっこう判りやすく言ったはずだもんな。どうしてあれでまったく伝わらないなんて事態が起こり得るのか、こっちのほうが意味が判らない。守護人は普段は敏いのに、このテのことには鈍感なのか。
「お前、花がどうとかって言ったんだろ」
 なんでそんなことまで知ってんだ?! と、ますます赤くなる。
 いいよ、もういいよ、と完全に捨て鉢な気分になった。この際だから白状するよ。どうせあっちには通じてなかったみたいだし!
「……言いましたけど。だって、それってけっこう一般的なやり方でしょ」
 男性が女性の前で花の話題を持ち出すのは、普通はそういう意味だ。そっちの方面に詳しくない俺でさえ知ってる、常套句みたいなもんだ。だからあれで伝わらないなんてケースは、実のところちっとも想定していなかった。なんなんだ、俺の言い方がそんなに悪かったのか?
 けど、しょうがないじゃないか。

 守護人の笑顔を見た時、俺はずっと、痺れる頭の片隅で、ああナミの花みたいだな、と思っていたんだから。

 ハリスさんは、さらに深いため息をついた。
「……そうだな。まあ、一般的だな」
「でしょ?」
「『こっちの世界』 ではな」
「…………」
 しばらくの沈黙を置いて、「あっ!」 と俺は叫び声を上げた。
 眠っていたはずのメルディが、こらえきれなくなったようにぶぶっと噴き出した。


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