リライト・ライト・ラスト・トライ

第十三章

5.目覚め



 まだ陽が高いというのに、シキの森の中は薄暗かった。
 そりゃあそうだ。シキの木は背が高く、枝を伸ばすのも上のほうだけ。しかもそれは、大人の標準的な身長よりも上方で、ときている。木々が密集した森とはいっても、視点の高さにあるのは幹ばかりだ。おかげで普通の森よりもずっと見通しは良いが、代わりに上のほうで茂った枝と葉が頭上の視界を覆い、降り注いでいるはずの太陽の光も遮断してしまっている。
 しかしシキの木の幹が、人の身体を隠すことが出来るくらいに太いのはありがたかった。なにしろ、何が待ち構えているのかさっぱり判らないのだから、気配を殺しながら、様子を窺いつつそろそろと進んでいくしかない。
「……この先に、人がいますね」
 声の音量を極限まで絞って囁くと、すぐ近くにいる守護人が、前方にじっと視線を向けて頷いた。
 ──そうなのである。守護人もいるのである、ここに。

 最近、シキの森の中に、得体の知れない集団が潜んでいるようだ。噂では、彼らに願いごとをすれば、なんでも叶えてもらえるという。ルチアもそこへ行ったのかもしれない。

 ルチアの母親にそう聞いて、すぐさま森へ向かおうとした俺に、守護人は、「わたしも行きます」 と主張した。
 当然だが、俺は反対した。一緒には連れていけない、と断固として言った。今すぐ家に戻ってロウガさんに事情を話し、ハリスさんたちと共に大人しく待っていてくださいと、俺なりに精一杯怖い顔になって説得も試みた。
 でもすべて、徒労に終わった。
 ……ま、要するに、テトの時と同じだ。俺がなんと言おうと、いくら言葉を尽くそうと、守護人はまったく聞く耳を持っちゃくれなかった。「わたしを殴り倒して気絶させない限り、置いていくのは無理ですよ」 と脅迫じみたことまで言われた。ものすごく、本気の顔つきで。
 その顔を見たら、これは本当に当身で意識を失わせでもしないと、守護人を置いていくのは無理だな、と悟るしかなかった。もちろん、俺にそんなことが出来るわけがない。その身体を力ずくで抱え上げて強制的に家まで運び、ロウガさんに預けていくこと自体は可能なのかもしれないが、きっと彼女はどんな手段を使ってもそこから脱出し、俺を追って森まで来るだろう、というのも簡単に想像がついた。考えるだけで、そっちのほうが肝が冷える。
 ……そして、なにより。

「お願いします」
 と俺の目をまっすぐに見つめる守護人を見たら、何も言えなくなった。

 その黒い瞳に現れているのは、焦燥か、恐怖か。
 星見の塔での守護人の姿が脳裏に甦る。ハリスさんとメルディが倒され、剣を手にしたリンシンが俺のほうを向いた時、彼女はこれと同じような瞳をしていた。
 俺の腕をしっかりと掴む細く小さな手。あの時も、こんな風に強い力で、俺にしがみついていたっけ。
 ──ずっと震えて。
 わかりました、と俺は深い息と共に返事をするより他になかった。護衛対象を何があるか判らない場所にわざわざ同行させるなんて、正気の沙汰じゃない。それは護衛たる人間が絶対にしてはいけないことだと、判ってはいたけど。

 守護人には、きっと、どうしてもそうしなければならない理由があるのだろう。
 ……俺はたぶん、それを跳ね除けるようなことをしちゃいけないんだ。

 そういうわけで、俺たちは今、二人でシキの森の中にいる。ルチアの母親に伝言を頼んでおいたから、いずれロウガさんが応援に駆けつけてくれるはず。それまでは様子を窺うだけにしよう、と考えていたのだが。
 どうやら事態は、そこまでのんびり出来るほどの猶予はないらしかった。
 森の奥のほうまで進んできて、俺たちが目にしたのは、十人ばかりの男女が地面に円を描いて座り、何かを一心不乱に祈っている場景だった。
 陽の光が射し入らないので、そいつらの顔ははっきりとは見えない。いや、見えないのは、みんながみんな、頭に布を被っているからだ。布の下から覗く青白い顔は、どれもこれも俯きがちに円の中央に向けられていた。
 全員が口を小さく動かしていて、何かを呟いているのだと俺は気づいた。揃って同じ言葉を唱えているというわけではなく、それぞれ勝手放題に好きなことをぶつぶつ言っている、という感じがする。というより、そこにいる誰も、隣にいる人間のことなんてまったく気にもしていないようなのが、非常に薄気味悪い。
 みんなして、自分の……自分だけの世界に浸り込んでいるみたいだった。

 ──そして、この匂い。

 そんなに近づいたわけでもないのに、周囲にははっきりと甘い匂いが漂っている。間違いない、リリアさんのところで嗅いだものと同じだ。テトにいた連中が持っていたといい、ニコが泣きそうなほど怯えていた、乳白色の枝が放つ匂い。リンシンは、「イーキオの枝」 と呼んでいたのだったか。
 男女が囲む円の中心からは、細い煙がゆらゆらと頼りなく立ち昇っていた。その煙は確かに上へと昇っているはずなのに、恍惚とした表情を浮かべる人間たちの身体に、ねっとりとまとわりついているようにも見えて、背中が寒くなる。
「みんな、客人だ」
 その時、彼らの向こうの暗がりから、新たな男が現れた。
 そいつも、頭に布を被っている。暗くて、瞳の色も判別できない。テトにいた男たちと同様に、頬がこけて痩せ細り、不健康そうな白っぽい顔をしているが──
 その男の後ろに続いて、別の人物が姿を見せて、俺は全身を緊張させた。
「あ、あの……」
 怯えた表情で、胸の前で両手を組み、今にも方向転換して逃げ出したいのを堪えるかのように、一歩ずつにじり寄ってくる、若い娘。

 ──ルチアだ。

 お前、どうしてこんなところに来たんだよ、と出ていって叱りつけてやりたいのを、必死で耐えた。出来るものなら、すぐにでもあの手を引っ張って、ハルソラの街へと連れて帰りたいところだ。
「あの、私……」
 ルチアはどう見ても、怖がっていた。その場の異様な雰囲気に呑まれている。ルチアのことを一顧だにせず小声で何事か呟き続けている男女と、自分の傍らに立つ怪しげな男を、びくびくしながら交互に見やり、泣きそうな顔をした。
「私、やっぱり、帰……」
「いや、申しわけない。彼らは皆、非常に熱心な信者なもので、祈りに没頭すると、人の声が聞こえなくなってしまうのです。これも神への忠誠のしるしと思い、許してあげてください」
 一人だけ立っている男は、微笑をたたえたまま、ルチアに向かって優しげな声を出した。こいつはまだしもマトモなのか、と俺は息を詰めて、幹の陰から二人のやり取りを窺う。
 すぐ隣の幹に隠れている守護人は、身動きもせずに、じっと前方に目線を据えつけていた。
「わ……私、ここに来れば、願いが叶うって、聞いて」
「ええ、その通りですとも。ここには私たちの神がおられる。ここにおられる神は、神ノ宮にいる神獣とは違い、私たちの願いを叶え、私たちに幸福をもたらしてくれる、まことの神だ。ほら、ここにいる人々をごらんなさい。みんな、幸せそうでしょう?」
 円になっている男女は、たまに呟きを止め、すぐ前の細い煙を眺めて、弛緩した表情の上に笑みを浮かべていた。人形のような動きでかくんかくんと頷いては、また祈りはじめる。
 粘ついたその目にあるのは、理性も知性も感じられない狂信的な光。うっとりと鼻孔を膨らませ、身体をぶるると震わせる。半開きになった唇から零れる満足そうなため息には、どこか淫靡なものが滲んでいた。
 これが、「幸せ」 なのか。正直、吐き気がする。
「あなたにも見えるでしょう? 彼らの中央に、神の姿が」
 男に言われて、ルチアが困惑した表情になった。円になっている男女、男が向けている方向に自分も目をやり、顔を歪ませ、じりっと後ずさる。
 無理もない。

 そこには、何もない(・・・・)のだから。

 神の姿なんて見えやしない。当たり前だ、そこにあるのはただの空間。何も、何ひとつ、存在していない。
 あるとしたら、取り囲む連中が描いている 「神の幻」 だけ。一人一人が抱く、身勝手な欲望が、甘い匂いの中に神の姿を借りて現れるだけ。全員の頭の中を覗くことが出来たなら、そこにあるものがすべて、まったく異なる形をしていることが、よく判るだろう。
「あ、あの、私、やっぱり帰る!」
 この時点でようやくくっきりと恐怖に目覚めたらしいルチアが、ぱっと身を翻して走り出そうとした──が、その寸前、傍らに立つ男によって素早く腕を取られた。
「帰る? どうしてです? あなた、言ったじゃないですか。自分の願いを叶えて欲しいと。自分の気持ちが通じないことが、苦しくて、悲しいと。好きな男にこちらを振り向いてもらうためなら、なんでもするから──と」
 俺は自分の手をぐっと拳にして握った。
「あなたは願ったはず。その男の目が、自分だけに向けばいいと。そして望んだはず。その男の心の中にいるのが、自分だけであればいいと。今、男が見て、その心に住まわせているのは誰です? あなたのことなど眼中になく、男の気持ちはまっすぐ他の誰かに向けられている。あなたは思ったでしょう?」

 どうしてその 「誰か」 が、自分ではないのかと。

「現在も、あなたではない誰かが、男の心を独り占めだ。あなたはこんなにも一人きり、寂しく惨めな思いをしているのに、その誰かは男の胸の真ん中にのうのうと居座って笑っている。この不公平、不平等を、あなたは許せるんですか? あなたばかりが不幸で、他の誰かだけが幸福を甘受していることを、あなたは許容できますか? ずるいと思いませんか。ひどいと思いませんか。あなたが不幸なら、他の人間はもっと不幸になるべきだ。みんなは幸福なのに、自分だけが不幸であることに、あなたは耐えられますか。どうしてどうしてと、思いませんか」

 どうして、どうして、自分だけが。

「あなたは幸せになる権利がある。苦しみも悲しみも打ち捨てて、他の人間たちに笑顔を振りまいておやりなさい。神獣などを崇拝する愚かで無知な連中を、憐れんでおやりなさい。あちらはどれだけ祈ろうと、何も得られはしない。まことの神に仕えることを決めた人間だけが、幸福を授かることが出来るんです。あなたは特別な存在になれる。──さあ、ごらんなさい」
 男はルチアを引っ張りながら、円になっている男女の中に割り入って、その中から何かを持ち上げた。人に囲まれて見えなかったが、あそこに置いてあるのは、イーキオの枝だけではなかったらしい。自分が作り上げた幻の神を見ている人間たちは、自分の外で起きている何事に対しても、まったくの無反応だ。
 男が持ち上げたのは、何かの 「卵」 だった。
 白くて丸い、卵。普段俺たちが食べるような家畜の卵とは、比べ物にならないほどの大きさをしている。大人の顔の二倍──あるいは、それ以上。
 まるで勝手に割れるのを封じるためのように、ぐるりと縄で括られたその卵を、男は恭しく地面に置き、いとしげに目を細めて撫でている。
 俺と守護人は顔を見合わせ、眉を寄せた。

 あれは一体、なんの卵なんだ?

「この卵が、私たちの望みを叶えてくれる。私たちはもう、不当に貶められた立場に甘んじてはいない。もう誰にも、私たちを馬鹿にし、見下すことは許さない。私たちこそが、特別な、選ばれた人間になる。私たちはこの世界を、私たちのための美しい世界に、新しく作り替えるんです」
 ルチアに向けて使っていた 「あなた」 という言葉は、今や完全に、自分に向ける 「私たち」 という言葉に変わっていた。男の目はもうルチアのほうを向いていない。白い頬を紅潮させ、恍惚感に支配された笑いは、明らかに歪んで曲がっている。やっぱりこいつもマトモなんかじゃなかったか。
「いや!」
 ルチアははっきりと拒絶の言葉を出した。
 目に涙を浮かべ、その場から逃げようとしているが、ルチアの腕を掴んだ男の手はびくとも動かない。
 それどころか、男はルチアのもう一方の腕を取って後ろから拘束し、身体を強引に前へと突き出した。
「いいえ、あなたもその気になりますとも、すぐにね。さあ、あの煙を吸って──」
「やめろ!」
 俺は左手で素早く守護人を制し、右手で剣を抜いてその場へ飛び出した。人を惑わせるあの煙を、ルチアに吸わせるわけにはいかない。
 見たところ、誰一人武器は所持していない。地面に座り込んだ連中は立ち上がろうとすらしないし、まだしも気力のありそうな男も、あの痩身と血色の悪さで、相手になるとも思えない。無力化して、ルチアを取り戻しこの場から逃げだすのは容易だ──と、俺は瞬時のうちに判断して、剣を構えながら走った。
 が、その判断は誤りだった。

 ルチアを捕らえている男まであと数歩、というところで、突然、誰かが横合いから現れたのだ。

「っ!」
 俺は完全に虚を突かれた形になった。そんなところから敵が出てくるとは、予想もしていなかった。そいつは俺の前に姿を見せるまで、まったく気配を感じさせなかったからだ。
 現れたのは、ルチアを捕らえている男と同じように痩せた男だった。しかし、峻烈なスピードと、敏捷な身のこなしは、明らかにその場にいる不健康な連中とは違っていた。 煙を囲んでいたやつらが骨と皮ばかりの幽鬼のようなものだとしたら、そいつは全身を筋肉で覆われた野生の獣だ。
 急いで剣を構え直したが、もう遅い。その時にはすでに、相手の剣が、ひゅ、と音を立てて空気を切り裂いていた。咄嗟に飛び退ったが、それでも間に合わなかった。
 刃先が唸りを上げてすぐ目の前を通過していく。掠って斬られた前髪が宙に散った。そして──

 左目の上から、鮮血が噴き出した。

「トウイ!!」
 ルチアの悲鳴は、ほとんど俺の耳には届かなかった。男は、俺に傷を負わせて、それで攻撃の手を休めるような、生易しい相手じゃなかったのだ。目の上からは、どんどん血が溢れて流れ、俺の視界を奪っていく。その死角を狙って相手はするりと俺の左側から後ろへ廻り込み、易々と俺が右手に持っていた剣を弾き飛ばして、武装解除してしまった。
 あっという間に、俺は空手の状態になった。飛ばされた剣は、離れた場所の地面に転がっている。取りに行く余裕を、この相手が与えてくれるとは思えない。
「くそ……」
 頭を振って血を振り払おうとしたが、とてもじゃないが無理だった。目の上から流れ出す出血量は増える一方、もう開けることも出来ない左目は使いものにならない。
「悪いな」
 俺の前に剣を手にして立つ男は、感情のこもらない低い声でそう言った。相当の遣い手だということは、その隙のない構えからでも判る。
「これも風人の仕事だ。邪魔をする侵入者は有無を言わさず排除しろ、と言われてるんでね」

 かざびと──

 そうか、それなら納得だ、と俺は思った。この男はどう見たって、神の幻なんかよりも、自分の力だけを信じる手合いである。
 自分の主義信条とは関わりなく、交わした契約の中身にのみ従う風人に、仕事の是非や理非を訴えたところではじまらない。それは俺も、よく知っている。
 殺せ、と契約の中にあれば殺す。理由や事情には一切頓着しない。相手が誰であっても気にしない。それが風人だ。
「こんな気味の悪いやつらに関わったのが不運と思え」
「ホントはあんたもイヤなんだろ、こんな仕事」
 肩で息をしながら、素手のまま構えを取って唇を上げると、風人の男も冷たい双眸を少しだけ眇めた。
「好悪の感情なんざ、とうの昔に捨てた」
「意外と、諦めるほどでもないかもしれないよ? 風人でも、妻子を持つようなやつもいるし」
「そんなやつは、人でなしの風人の中でも最低だ」
 最低って言われちゃったよ、親父。
 口を開いて言葉を出しながら、ちらっと視線を別の方角へと向ける。今この時、守護人はどうしてるのか。頼むから、無茶なことはしないでくれ、と祈るように思った。
 風人は契約に忠実だ。姿を見せなければ、こちらから追いかけて攻撃するようなことはしない。
「大人しくしていろ。暴れると苦痛が増す」
「あいにく、俺はあんたと違って諦めが悪いんだ」
 びゅっと突き出された剣を紙一重でかわした。確かに強いが、リンシンほどじゃない。まだ勝機はあるはず。
 軽々と向かってくる男の剣さばきを避けながら、じりじりと後退する。自分の剣はまだ遠い。その上、周りはシキの木が密集している。後ろへと動かしていた足が木の根に触れた。
 これ以上は退がれない。
「じっとしていろ、と言っただろう」
 風人の振り上げた剣が、まっすぐこちらに向かってくる。
 間一髪で俺が身を伏せ、弧を描いた刃は空を切って幹に刺さった。その気を逃さず跳ねるようにして立ち上がり、男の腹に拳を叩き込む。
 ぐ、と男が呻いて前屈みになった。
 続けてもう一発、今度は後ろ首に手刀を入れようとしたところで、ふっと男の身体が沈んだ。身構える暇もなく下から突き上げられて、吹っ飛ばされる。
 地面を転がり、すぐさま上体を起こしたが、男の姿はなかった。
 また左だ、と腕を立ててそちらを向いたところに、強烈な蹴りが入った。直撃は免れたが、再び地面にしたたか打ちつけられる。
「──しぶといガキだな」
 俺の顔のすぐ前に剣を突きつけて、風人が言った。
 相手もさすがに、息が荒くなっていた。口元を片手でぐいっと拭い、俺を見下ろす両の目が、さっきまでの冷然としたものではなく、獲物と対峙して爛々と輝く肉食獣のそれに変わっている。
「……諦めが悪いって、言ったろ」
 固い地面に右手を突き、俺は掠れた声で言い返した。ついでに、口の中の血をぷっと吐き捨てた。
 まだ、大丈夫。手も足もまだ動く。俺はちゃんと戦える。
 多量の出血のためか、頭がくらっとした。左目をごしごしとこすってみたが、どんどん赤い血が流れ落ちてくるので、到底視覚は戻りそうにない。
「せっかく苦しまずに死なせてやろうと思ったのに」
「死ねないんだ」
 そうだ、俺は死ねない。まだここには、守護人とルチアがいる。彼女たちを安全な場所に連れて行かないと。俺がいなくなったら、誰が二人を護るんだ。
 ──いや、違う。

 俺は、死ねない、のではなく。

「俺は……」
 言いかけたところで、舌が止まった。
 まだ自由なほうの右目を、大きく見開く。それに気づき、怪訝そうな表情になった風人が、ほんの少し剣を持つ腕を引いた──瞬間。
 目の前で、輝く軌跡が閃いた。
 何が我が身に起こったのか、風人自身にもすぐには判らなかっただろう。それくらい、その動きは速くて鋭かった。……剣闘訓練で硬い鞘を一刀両断にした、あの時のままに。
 男がぽかんとする。
 一拍の間を置いて、その右腕から、一気に真っ赤な血が噴出した。
 それと同時に、ガシャンと音を立てて剣が地面に落ち、続けてポトリと何かが落ちた。
 ──切断された、男の手首が。
「あ、あ、あ、ああっ!」
 男の叫び声がこだまする。
 神獣の剣で男の手首から先を斬り落とした守護人は、一直線に刃を振り下ろした格好で固まっていた。喰いしばった歯の間から大きく息を絞り出し、目だけはぎらぎらとした光を放って血に塗れた刀身を見つめながら。
「……シイナ、さま」
 詰めていた息をほどき、俺がそっと呼びかけると、守護人がようやくぴくりと動いた。
「──トウイ」
 それだけ小さな声で言って、全身からふうっと力が抜ける。俺は弾かれたように跳ね起きて、彼女の身体が倒れる前に抱きとめた。
 ぼんやりとした目が、俺の顔に向けられる。何かを言おうとしたようだが、すぐにその目は閉じられた。意識を失ってしまったらしい。
「ルチア!」
 守護人を抱きかかえて怒鳴る。目の前で起きた急展開についていけなかったルチアは、その声で我に返ったようにはっと瞬きした。同じく茫然と立ち竦んでいた傍らの男は、いつの間にかルチアの拘束を解いている。
「何ぼさっとしてる! 早く走れ!」
「う、うん!」
 ルチアが泣き声で返事をして、だっと走り出した。それを追おうと足を踏み出した男に、間髪入れず 「動くな!」 と威嚇する。俺のその声が殺気立っていることに気づいたのか、男の動きがぴたっと止まった。
 風人は、失った自分の右手の先を左手で押さえて、転げまわるようにして悶絶していた。止血をしてやろう、なんて思うほど、俺も善人じゃない。神獣の剣を鞘にしまい、守護人を抱き上げ、素早く立ち上がる。
 一刻も早く、守護人を連れてこの忌まわしい場所から離れないと。
 自分の剣を目で探し、地面に放置されていたそれを見つけ、近づこうとした時。

 新たな災厄がやって来た。


          ***


 最初、大風が起きたのかと思った。
 ごお、という何かが唸るような音。頭上の枝が揺れ、茂った葉が煽られて千切れて、ぱらぱらと降り注ぐ。
 なんだ? と右目を眇めて上を振り仰いだが、縦横無尽に伸びた枝と葉が邪魔をして、その先が見通せない。ぐおおん、という風とは違う音もする。……まるで何かの鳴き声のような。
 よくよく見れば、シキの木の葉を通して薄っすらと明るく見える太陽の光が、不自然に暗くなったりしていた。陽の光を遮るように、影が差している。雲? にしては、動きが早い。
 森の上に、何かがいるんだ、と気づくのに時間はかからなかった。
 その 「何か」 は、木々の上を旋回するように飛んでいる。バサッ、という羽音もした。鳥か──でも。
 皮膚が粟立った。

 でも、この影、あまりにも大きすぎないか。

 そう思った途端、凄まじい大音響が轟いた。
 膝をつき、腕の中の守護人を自分の身体で庇う。頭上からバラバラと勢いよく落ちてきたのは、たくさんの枝と葉っぱ、そして木の破片だった。
「な……」
 顔を上げて、俺は言葉を失った。
 痺れを切らしたのか、森を破壊しながら飛び込んできたのは、今までに見たこともないくらいの大きさの鳥だった。
 いや、鳥と言っていいのかも判らない。羽があって、二本の脚がある、という点を除くと、その生き物は俺が知っているどの鳥とも異なっていた。
 羽を広げると、ゆうにこの場にいる全員を覆ってしまえるほどの巨体。シキの木の幹と見まごうような太い脚。その先には、鋭く尖った爪が光っている。獰猛な嘴に至っては、そのまま人を丸呑み出来そうだ。
 あんなの、鳥であるわけがない。あれは、むしろ──
 俺ははっとして、振り返った。今までずっと外で起きていることには無関心だった連中が、さすがにこの事態に蒼褪めて上を向いている。
 そのすぐ近くの地面にあるのは、白い卵。
「おい!」
 俺の声に、全員がびくっと身じろぎした。

「まさかその卵──妖獣の卵か?!」

 さっきまで、さぞありがたそうに卵を撫でていた男までもが、震えながら後ずさる。
 馬鹿が、と俺は舌打ちした。妖獣の卵なんて、一体どうやって手に入れた。
 それはどう考えても真っ当な手段ではなかったに違いない。草原地帯に入っただけで人を喰い殺すという妖獣が、自分の卵を奪われ、怒り狂って襲いかかってくるほどに。
 はじめて見る妖獣は、想像をはるかに超えて凶暴そうな外観をしていた。黄金色の目は、人間の言葉なんて一切受け付けない、無慈悲で残忍な光を放っている。頑丈そうな翼は一振りしただけで、脆い質のシキの木の幹を一撃で粉砕してしまう力があった。
 こんなものを相手に、どう戦えばいいんだ。いや、戦うも何もない、妖獣はまるで虫を潰すようにあっさりと、俺たちを殺してしまうだろう。
 ごおん、と重い唸りを上げて、妖獣が翼を動かす。次の瞬間には、おそろしい速さで、下に突進してきた。
 悲鳴を出す間もなく、その場にいた人間が、次々にやられた。妖獣は爪の先を振っただけで臓腑を切り裂き、嘴で突いただけで手足を引きちぎる。あまりにも凄惨な光景に正気を失ってしまった人間までも、容赦なく殺戮されていった。
 瞬殺とは、このことだ。圧倒的な力によって呆気なく命が奪われていくのを、ただなすすべもなく見つめるしかない。いや違う。……視線が、外せない。
 ルチアを捕まえていた男の頭部を空に飛ばしてから、妖獣がこちらを向いた。
 俺は表情を強張らせ、守備人を抱いた手に力を込めた。
 顔から血の気が引く。どこをどう攻撃すれば、傷を負わせられるのかさっぱり判らない。そもそもあれは、剣で敵うような相手なのか。その剣だって、今の俺の手許にはないというのに。
 次元が違う。そうとしか、言いようがない。決して人間が手を出してはいけない存在があるとしたら、間違いなくそれは妖獣のことだ。
 どうすれば、守護人を助けられるのか──俺の頭には、それしか浮かばなかった。忙しく思考を働かせてみても、ちっとも名案が思いつかない。口の中がかさかさに乾いて、噴き出した汗がびっしょりと全身を濡らした。
 守護人は未だ失神から覚めないでいる。俺が囮になって妖獣を引きつければ、彼女の命は助かるのか。この小さな身体に覆い被さっていれば、俺は食われても彼女は無事でいられるだろうか。
 いや……いいや、ダメだ。
 奥歯を強く噛みしめる。頭ががんがん響いて痛いほどだった。
 それは、駄目だ。
 もしもそれで助かったとしても、守護人はきっと救われない。そんなやり方は、彼女を苦しませるだけ。その心を、闇の底へと突き落とすだけ。
 俺は死ねない、のではなく。
 俺は、俺は……


 ──生きるんだ。


 バサッ、と大きな羽音を立てて、妖獣が跳躍した。
 それと同時に、俺は守護人の腰にある神獣の剣の柄を握った。刀身を引き抜きざま、勢いをつけて、襲い来る鋭利な嘴に向けて薙ぐ。
 妖獣の嘴の先と、神獣の剣の切っ先が触れた……その時。
 眩い白光が迸った。


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