リライト・ライト・ラスト・トライ

第十四章

2.異郷



 シキの森からハルソラの街へ戻ると、家の前の薄暗がりの中で、ミーシアさんが心配そうに立っていた。
「ミーシアさん」
 声をかけるわたしとロウガさんの姿を目に入れて、ミーシアさんが顔をくしゃっと歪める。すぐさまこちらへ駆け寄ってきて、飛びつくように両手でわたしの左腕を取った。
「まあ、まあシイナさま! お姿が見えなくなって、心配しました! ご無事でよかった……!」
「ごめんなさい」
 言えば絶対に止められるか、本当に自分もついていくと言いだしかねないと思って、ミーシアさんには何も告げずに家を出たのだ。てっきりロウガさんと一緒にいると思っていたのに、いつの間にか二人ともいなくなっていたのだから、さぞかし驚いたことだろう。
「せめて、書き置きでもしていけばよかったですね。すぐに戻ってくるつもりだったので」
 ミーシアさんの手の上に自分の右手を重ね、ぽんぽんと軽く叩いて、もう一度 「ごめんなさい」 と謝る。ぽっちりとした涙を目に浮かべたミーシアさんは、ぐしゅんと鼻を鳴らして、わたしの顔を見た。
「無理はなさらないでください。まだ、意識が戻られたばかりなんですよ」
「はい」
「大体、シイナさまは朝からろくにお食事も召し上がっておられないではないですか。そんな状態でずっと動き回られていては、またすぐにお倒れになってしまいます」
「はい」
「トウイと出かけられた後、ずっとお戻りにならなくて、それだけでも心配していたのに、戻られた時には酷い顔色で目をお開けにならなくて、私はどれほど胸の潰れるような思いをしたか」
「はい、ごめんなさい」
「……ミーシア、そのあたりで止めておけ。それではまるっきり小言を並べているような」
「兄さんは黙っていて」
「…………」
 苦々しい顔で窘めようとしたロウガさんは、ミーシアさんにぴしりと叱られて、そのまま黙り込んでしまった。
「とにかくシイナさま、今後はどうか……」
 ミーシアさんがまたわたしのほうを向いて言葉を続けようとした時、家のドアが開いた。

「シイナさま!」
 そこから顔を出したのは、トウイだった。

「……トウイ、さん」
 気がついたのか、とわたしは内心で胸を撫で下ろす。
 左目が包帯で覆われているけれど、それ以外では、トウイの動きに特に問題があるようには見えなかった。
 身体のあちこちに傷を負っているとしても、それは手足の動作に支障をきたすような深いものではない、ということだ。こうして実際に確認して、ようやく心からほっとした。
「よかった、無事に戻られたんですね。もしかしてシキの森に向かったのかと思って、俺もあとを追おうかと……」
 そう言いながら、トウイがこちらに歩いてくる。右目が優しく細められている表情は、いつもの彼のもの。生きていてくれたからこそ見られるその姿に胸が熱くなり、わたしも一歩を踏み出しかけた。
 が、その前に、すいっとミーシアさんが立ちはだかった。
 ん? とトウイが怪訝な顔になって、足を止める。
 ミーシアさんは、彼と向き合うようにわたしの前に立って、見ようによっては──というより、明らかに、わたしを庇うようにして立ち塞がっていた。
「……なに? ミーシア」
 困惑して問いかけるトウイに、ミーシアさんはにっこりと笑った。

「なに、とは何かしら」
 でも、なんだかちっとも目が笑ってない。

 え、とトウイはまごついた。こういうミーシアさんを見るのははじめてなのだろう。わたしもだ。
「いや、だから、シイナさまに……」
「シイナさまにご用があるのなら、私が承るわ。何かしら」
「はあ?」
 トウイが間の抜けた声を上げた。わたしの隣では、ロウガさんが、額を手で押さえて下を向いている。
「だって、承るも何も、そこに」
「──あら」
 ミーシアさんが、ゆっくりと微笑を深めた。その笑みは、もとの世界にいた時に見たことのある聖母像のように慈愛溢れていながら、周囲の温度を一気にすーっと下げるようなひややかさをも備えているという、非常に難易度の高いものだった。
「……え」
 トウイがじりっと半歩後ずさる。隠されていないほうの右目が、窺うようにミーシアさんとその後ろのわたしの間を、うろうろと行ったり来たりした。この態度、完全に腰が引けている。
「ひょっとして、シイナさまと直接お言葉を交わしたいということかしら」
「……あの、ミーシア?」
「それはちょっと、無理なのではなくて?」
「む、無理?」
「だってシイナさまは、あなたに近寄ってはだめと、はっきり言われているのだし」
「近寄ったらダメって……誰がそんな」
「まあ、どなただったかしら。いえ別に、それについてどうこう言うつもりはないのよ。シイナさまも黙っていらしたのに、私があれこれ口出しするようなことではないんだもの、ええ」
 あくまで柔らかい口調だけど、ミーシアさんは頑としてその場から動こうとはしない。
 今までひたすら、訳が判らず困っていたトウイの片目が、ふいに何かに気づいたように、大きく見開かれた。
「──もしかして、ルチアが何か?」
 その声に、わずかに険しいものが混じる。
 わたしが口を開く前に、ミーシアさんが微笑を引っ込めた真面目な顔になって、きっぱりと言った。

「トウイは、シイナさまよりも先に、話をすべき相手が他にいると思うわ」

「…………」
 トウイはわたしを見て何かを言いかけたけれど、きゅっと唇を引き結んで言葉を呑み込んだ。
 すぐに踵を返して、家の中に戻っていく。
「……ミーシア、やりすぎだ」
 顔を顰めて苦言を呈すロウガさんに、ミーシアさんは唇を尖らせて、「だって」 と不満を零すように小声で呟いた。ロウガさんを前にした時のミーシアさんは、言動の端々に幼さが滲んで微笑ましい。つくづく仲の良い兄妹なのだなと思う。
 ミーシアさんは、くるっと再びわたしを振り向いた。
「シイナさま、熱いスープをご用意してあります。どうか少しでも、お召し上がりくださいませ」
「はい。いただきます」
 わたしがそう答えると、ミーシアさんの瞳が嬉しそうに輝いた。これが見られるのなら、お鍋を空っぽにするまでスープを飲んで、カエルみたいにお腹をパンパンに膨らましてもいいな、と頭の片隅で考える。
 わたしのために、心配して、怒って、喜んでくれるミーシアさんに、他にどう返せばいいのかわからない。
 ……そっか。わたし、やっぱり、ちょっと疲れているみたい。

 傷もないのに、痛い。

「お身体を温めて、寝台にお入りになって、今夜はゆっくりお休みになってくださいね」
「そうします」
 言い含めるような確認の言葉に大人しく頷くと、ミーシアさんは安堵したように口許を緩めて、「では、すぐに準備いたしますから」 といそいそと家へと戻った。きっと、テーブルの上には、スープだけでなくて、他にもいろんな食べ物がどっさりと載っているのだろう。
「申しわけありません、シイナさま」
 ロウガさんが身を屈め、わたしの耳の近くでこっそりと囁いた。
「……ミーシアは、たまに怒ると、俺でも手に負えないのです」
「…………」
 我慢できずに、小さく噴き出してしまった。
 その場に立ち止まったままのロウガさんを置いて、わたしも家の中に入るため、足を動かす。
 今の顔を、誰にも見られたくない。

 口を変な形に歪めて、眉を下げて、目には涙を浮かべている、みっともないこの顔。
 可笑しいんだか、安心しているんだか、切ないんだか、つらいんだか、苦しいんだか、自分でも、まったくわからなかった。


          ***


 結局、トウイからは話が聞けないまま、夜が更けてしまった。
 ロウガさんはシキの森での惨状を伝えないでいるわけにもいかず、この街の責任者のもとへ話をするために出かけていった。トウイはトウイで、なによりも先に医者にきちんと診てもらえと厳命されたため、不在だ。二人とも、外が真っ暗になった今になっても、まだ戻ってきていない。
 目の上の傷は今後に影響を与えないのか。これからも残ってしまうのか。ベッドに腰かけながら、結果を気にして窓の外を眺めていたら、
「シイナさま、シイナさま」
 と、部屋に入ってきたニコに声をかけられた。
「うん?」
 振り向いてみると、ニコは口許に両手を添えて、内緒話でもするように、声を潜めて名前を呼んでいる。
 ミーシアさんは台所にいるし、ハリスさんとメルディさんは隣の部屋にいるのだから、そんなことをする必要はないんじゃないかなとは思ったけれど、わたしはベッドから下りて膝を曲げ、ニコの口の近くに自分の耳を持っていった。
「どうしたの?」
 ニコはちょっと戸惑うような顔つきをしていた。
「……あのね、シイナさまを呼んできて、って言われたの」
「誰に?」
 一瞬、トウイが帰ってきたのかと思ったけど、違うよね。トウイなら、ニコを使う前に、さっさと自分から来るだろうし。まだベッドから動いちゃいけないハリスさんかな。
 わたしの問いに、ニコはますます戸惑う顔になった。口を大きくへの時にして、眉を寄せる。
「あの人」
「あの人?」
 同じ言葉で問い返してから、ピンときた。
「ルチアさん?」
 その名前に、ニコが渋々といった感じで頷く。どうやらこの伝言役をするのは、本人にとってはあまり気が進むものではなかったらしい。
「どこにいるの?」
「外だよ。置いてある薪を取りに行こうとして出たら、呼び止められたんだ。他の人には黙ってシイナさまだけ呼んできて、って言われたんだけど……どうしよう」
 他の人には黙って、の部分が、ニコには引っかかっているのだろう。素直な子だから、隠し事には向いていないのだ。どうしよう、と言いつつ、わたし本人に話してしまったら意味がないような気がする。
「うん、わかった。ありがとう、ニコ」
「……シイナさま、行くの?」
 こちらを見上げるニコの目は、心配そうだ。
「ルチアさんは、わたしに用事があるんだね。すぐ戻るから、他の人には言わなくても大丈夫だよ」
「あの人に、いじめられない?」
 思わず、わたしが? と言いそうになったけれど、ニコが本気で不安そうにしているのでやめた。誰かにいじめられる弱々しいわたしの図、を想像してくれるのは、たぶんニコくらいだ。
「オレ、一緒に行こうか?」
「ううん。ルチアさんは、トウイさんのお友達だから、きっといい人だよ。わたしはそう思う」
「でも……」
「少しだけお話してくる。もし眠かったら、先に寝ていて」
 まだ心配そうなニコの頭を撫でて、わたしはドアへと向かった。



 外に出ると、ルチアさんはすぐ近くに立っている木の根元で、膝を抱えてしゃがみ込んでいた。
 わたしの姿を見ても、むっとした顔のまま口を噤んでいる。そこまで近づいて、ルチアさんの隣に自分も腰を下ろした。
 家のドアのすぐ脇についている燭台では小さな火が焚かれてあるし、大きな赤い月が皓々と地上を照らしているので、そんなに真っ暗というわけでもない。いつも思うけど、闇の中であらゆるものを赤く浮かび上がらせるこちらの景色は、妙に幻想的だ。

「……あんた、女の子だったんだね」

 しばらくしてから、沈黙を破って、ルチアさんが目線を前に向けたままぼそっと呟くように言った。
 わたしは自分の頭に手をやった。まっすぐに伸びた髪が、直接、指に触れる。
 目が覚めた時、すでに布は外れていて、それからこの状態のままだ。どうやらルチアさんは、これまでずっと、わたしのことを男の子だと信じて疑っていなかったらしい。
「あんたが部屋に飛び込んできた時に、あ、女の子だったんだ、って思ってさ。そうしたら、なんか一瞬のうちに、いろんなことが腑に落ちた、っていうか……あーそうか、そういうことかって、あっという間に全部が理解できちゃって」
「はあ」
 返事はしたものの、実を言えば、何を言っているのかちんぷんかんぷんだ。ルチアさんの言葉はあやふやすぎて、さっぱり判らない。何が腑に落ちて、何を理解したんだろ。
 とはいえルチアさんの横顔からは、それを問いかけてもきっと答えは返ってこないんだろうな、という頑なさばかりが伝わってくる。
「それで、つい、頭に血が昇って、怒鳴っちゃった。ホントはあたしがいちばん悪いんだって、わかってたけど。あたし、そういう見境ないところあって、よく母さんにも叱られるんだ」
 ルチアさんは、立てた膝に自分の顎を埋めて、ぼそぼそと言葉を続けた。怒ったような顔をしているのは、誰よりも自分に対して怒っているのかもしれない。
「……トウイにも、いろいろ言われて」
 ルチアさんの声が涙に滲んだ。顎だけを置いていた膝に、自分の顔を伏せて、隠してしまう。
「いろいろ、ですか」
「いろいろよ。なんて言ったのか、悔しいから、あんたには絶対に教えてやんない」
 すすり泣きしながらでも、憎まれ口は叩くんだなあ、と思うと、急にこのルチアさんという人が可愛く思えた。今まではどちらかというと、ちょっと苦手だったんだけど。

 わたしの知らない、昔のトウイを知ってる人。

「──シキの森で」
 ルチアさんが、顔を伏せたまま、ぽつりと言った。
「あたし、自分の願いを叶えてもらおうと思ったの。どうか昔の幸福な時間が戻りますように。あの頃のまま、トウイがあたしに笑顔を向けてくれますように。子供の時みたいに、この街でずっと二人仲良くいられますように、って」
「うん」
「それは間違いだったのかな……今でも、よくわかんない。父さんと母さんには、すごく怒られたけど。なんでも願いを叶えてくれるなんてことがあるはずないだろう、そんな胡散臭いものを信じようとするのが、どうかしてるって。けど、あたしはどんなものでもいいから、縋りたい気分だったの。急がないと、トウイはまたすぐにこの街を出ていっちゃう。それまでに、あたしのほうを振り向いて欲しかった。以前と同じように、ルチア、って笑いながら手を差し出して欲しかった。あたしのこの願いは誰にも負けないくらい本物で、真剣で、切実なものなんだから、叶えられてもいいんじゃないかって思った」
「……うん」

 たったひとつの望み。
 本物で、真剣で、切実な願い。
 それが叶わない時の、身が裂かれるような気持ちは、知ってる。

「あの男の人が言ったことは、どれも本当だった。あたしは、自分だけが不幸であることが、どうしても許せなかった。他の誰かが幸せなのに、あたしだけが一人で、寂しくて、惨めな思いをすることに、我慢ならなかった」
 どうして、どうして、自分だけがこんな思いを。
 それはきっと、すべての人の心の中にあるものなのだ。つらい時、苦しい時、弱くなった心に、するりと入り込む闇。イーキオの枝が見せる 「神の幻」 はその闇に巣食い、内側から触手を伸ばして侵食していく。
 気づいた時には、身動きも出来ないほど、雁字搦めにされて。
「特別な存在になれる、って言葉にも、どうしようもなく引きつけられた。自分がトウイにとってのただ一人の特別な存在になれたらいい、って、あの時確かにあたしは心底から思った。……けど」
 結局怖くなって自分だけ逃げた、と消え入りそうな声で呟いて、ルチアさんは泣き崩れた。
「なんて、恥ずかしい。こんなにも馬鹿で浅ましい人間を、トウイが好きになってくれるわけなかった」
「そんなことは、ないです」
 わたしはきっぱりした口調で言った。
 恥ずかしくなんてない。ましてや、浅ましいはずがない。
 だってあの時、ルチアさんは、いや、とはっきり拒絶した。
 ありもしないものに心を捉われた人々の姿を見て、自力で踏みとどまった。
 トウイと子供時代を楽しく過ごしたというこの人は、やっぱり健全な精神の持ち主だった。

「もしもあの時、煙を吸っていても、ルチアさんの目に神の姿は見えなかったと思います」

 わたしがそう言うと、ルチアさんはのろのろと顔を上げて、こちらを向いた。暗い中で、頬っぺたにたくさん残った涙の痕が、月の光に反射してきらきらと輝いている。
「そう、かな」
「うん、きっと」
「神様の姿じゃなくて、トウイの幻が見えたら、フラッとしちゃったかも」
「でもすぐに、これは現実じゃないと気づくでしょう?」
「……わかんない」
 自信がなさそうに眉を下げて、ルチアさんはまた膝の上に顎を乗せた。
 そしてその格好で、ちょっとの間、じっとしていた。唇をぎゅっと結び、前方の何もない中空を睨みつける。
「──トウイがさ」
 やがて、こちらを見もせずに再び話しはじめた。
「うん」
「トウイがいろいろ言った、って言ったでしょ」
「うん」
「その時に、ものすごく怖い顔されたの。あんなトウイ、はじめて見た。子供の頃のトウイは、絶対にそんな顔しなかったもん」
「…………」
 トウイはルチアさんに、一体何を言ったんだろう。「無礼な言動は慎め」 とか、ロウガさんみたいなことを言ったのかな。
「昔だって、よくケンカしたり、怒ったりしたこともあったけど、あんな顔は見たことなかった。それであたし、やっとわかった。ここにいるトウイは確かにトウイなんだけど、やっぱり昔とは違ってるんだって。あたしが好きだった昔のトウイは、もう、あたしの頭の中にしかいないんだ」
「…………」
 ルチアさんの言葉が、わたしの心臓を抉るように貫いた。

 もう、自分の頭の中にしかいない人──

「この世は不公平だね」
 悲しげな吐息と共に、ルチアさんがぽつりと零す。
「首都におられる神獣の守護人は、周りのみんなから大事にされて、王ノ宮で毎日、恋する人と一緒に楽しくお過ごしになってるっていうのにさ……そういうお方からすれば、国の片隅のちっちゃな街で、過去にしがみついてぐずぐず泣いてる女の子なんて、さぞかしつまんない存在でしかないんだろうな」
「……そんなことは、ないですよ」
 呟くようにわたしが言うと、ルチアさんはぷっと笑った。
「なんであんたにそんなことがわかるのよ。あんたって、それしか言えないの?」
 その笑いで、少しは何かが軽くなったのか、夜空の月を見上げながら、「あーあ」 と声に出してため息をついた。
「神様も、神獣も、不公平を正してくれるわけでも、人を救ってくれるわけでもないんだね。シキの森にいた人たちは、きっとそのことが、腹立たしくてたまらなかったんだろうね。……たぶん、それだけ、信じたかったんだ」
 独り言のようにそう言って、ごしごしと顔の涙を拭い、立ち上がる。
「帰る」
 うん、と返事をすると、ルチアさんは最後にわたしの顔をまっすぐ見て、
「──ごめん」
 と小さな声でぶっきらぼうに謝った。
 すぐに、くるりと背中を向けて、走り去る。
 わたしはそこに立って、遠くなっていくルチアさんの後ろ姿を眺めていた。それがすっかり見えなくなってから、ぽとりと言葉が口から滑り落ちた。
「……そんなわけ、ない」
 つまらないなんて、思うわけがない。
 誰よりも、過去にしがみついているのは、このわたし。

 だって、しょうがないじゃない。
 あの人は、本当にいたんだから。
 わたしはあの人のために、あの人との約束を守るために、今もこの世界にいるんだから。


 ルチアさんが好きだったという 「昔のトウイ」 は、ちゃんとこの地に、思い出となって残っている。
 街にいるみんなが、その存在のことを知っている。
 今のトウイを形づくった、この場所の至るところ、家の中のあらゆるものが、その痕跡を留めている。
 ……でも、わたしの頭の中にいる 「最初のトウイ」 は、わたししか知らないのだ。
 誰も知らない。ロウガさんも、ハリスさんも、ミーシアさんも、ルチアさんも。この故郷に暮らす誰一人として、その人のことを知らない。
 彼のことを覚えている人、覚えているものは、この世界に誰もいない、何もない。
 彼が異世界からやって来た女の子のために死んでしまったことを知るのは、わたし一人。
 もう、わたしの頭の中にしか、彼の居場所はないのに。

 わたしが忘れたら、その時こそ、あの人は完全に消えてしまう。


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