リライト・ライト・ラスト・トライ

第二章

2.抜剣



 それ以来、トウイは見張り番のたび、わたしとこっそりお喋りをしていくようになった。
 外にも見張りの人が立っているためか、極限まで声を抑えてのお喋りだったけれど、これまでずっと空気のような扱いをされてきたわたしにとって、彼と言葉を交わすのは、本当に楽しいことだった。
「……ここがこの国、ニーヴァ。一ノ国、光の国ともいう」
 トウイは、小さく折り畳んで持ち込んだ地図をテーブルに広げ、少しだけ、こちらのことを教えてくれたりもした。これまで、この部屋に閉じ込められるだけでなんの説明もされなかったわたしは、トウイの話に、ただ目を丸くして聞き入るしかない。
 地図には、ドーナツみたいな形の地図が載っていた。歪な円の真ん中が、ぽっかり空いている、という感じ。そのドーナツは、不均等に七つに区切られている。
 これがこっちの世界地図なんだろうか。変な形。輪の周りは何もなくて、つまり海ということなのかもしれないけど、右端と左端、そして上端と下端が、繋がっているようには思えなかった。これだと、球形にならないんじゃないのかなあ、とわたしは首を傾げる。
「で、これが二ノ国ゲルニア、砂の国。こっちが三ノ国カントス、火山の国。四ノ国スリック、湖の国……」
「そんなにいっぺんに言われても、覚えられないよ」
 トウイに倣ってわたしもひそひそ声で言うと、彼はちょっとこちらを見て、「……ま、七つの国があるってことさえ知ってりゃいいさ」 と大雑把なまとめ方をした。
 それから、ドーナツの穴の部分を指で示す。
「この七国の真ん中にあるのが、草原地帯。妖獣の国、八ノ国とも呼ばれる」
「妖獣?」
「大きくて凶暴な獣のこと。姿は四つ足だったり、二本足だったり、鳥の形をしていたり、いろいろだ。この草原地帯に入らない限りは手出しをしてこないけど、一度ここに入ってしまうと、そいつらに骨まで残さず喰い殺される」
 怪獣とか恐竜みたいなものかな、とわたしは考えた。この世界には、人間や普通の動物以外に、そういう生き物もいるらしい。
「怖いね」
「普通に暮らしてる分には、関係ないな。俺だって実際に見たことはないから。……この妖獣と対極にいるのが、神獣」
「神獣……」
 この間、トウイが口にしていた単語だ。
「神獣はこの世界で最も高潔で、賢い獣だとされている。過去も未来も見通せることが出来て、時に託宣をし、人々を安寧へと導いてくれる。つまり神が現世に形となってあらわれたもの、それが神獣だ。だから神獣は、王よりも位が高い。その神獣が唯一心を許す人間が、守護人」
 守護人は異世界からやって来て、神獣に安らぎを与える。神獣の心身が健やかならば、世界には秩序と安定がもたらされる。だからこそ守護人の存在は、この国ではなにより重要なものとされている──と、トウイは続けて言った。
「はあ……」
 首を捻るわたしが、まるっきりちんぷんかんぷんな顔つきをしていたのが可笑しかったのか、トウイがぷっと噴き出した。
「ま、どう考えても、あんたじゃないだろうから、安心しなよ」
 なんだか失礼なことを言われている気もするが、この流れでわたしがその守護人だと言われても困惑するだけなので、そうだねと素直に頷いた。
 本当の守護人というのは、一体どういう人なんだろう。それはつまり、神様に仕える巫女のような役割なんだろうか。そんな尊い生き物が心を許すというのだから、よっぽどの人格者なのかな。
「あんたがいた世界は、どういう世界なんだ?」
 今度は、トウイがわたしに質問をしてきた。外に声が漏れないように、顔を寄せて話しているから仕方ないとはいえ、赤茶色の髪と瞳が近くてドキドキする。こっちの人は、みんな彫りが深くて端正な顔立ちをしているけれど、トウイはわずかに茶目っ気のある、親しみやすい顔をしていて、それもわたしが彼に対して安心できる要素の一つでもあった。
 まるで本当に、同年代の友人と話をしているみたいだ。
 トウイはそれなりに仕事や命令に対して真面目で、でも同時に、それ以外のことに無関心にも冷淡にもなりきれない、ちゃんと温かい心を持った男の子だった。彼と話していると、こちらの人々が、見た目は少々違っていても、考えることはわたしとそんなに変わりない、血の通った人間であることが判って、とてもほっとする。
 わたしが突然やって来たこの世界で、見知らぬ人々にそれほど恐怖心を抱かずに済んだのは、トウイのおかげだった。
「えっとね……人の外見はあんまり変わらないかな。髪や目の色は国によって違うけど。妖獣とか、神獣とかはいない。あとは、電気があって、車があって、飛行機があって」
「デンキ? クルマ?」
 トウイの頭の上で、クエスチョンマークが乱舞している。やっぱりこっちにはないんだろうなあ。この部屋も、四隅の壁の上のほうにコンパクトな燭台のようなものが造ってあって、それに火を点けて明かりにしているのだ。だから夜は、室内であっても非常に薄暗い。
「スイッチ一つでぱっと周りが明るくなったり、タイヤがついててペダルを足で踏むだけで前に進んだり」
「…………」
 わたしの説明に、トウイがますます理解不能、というような顔をした。自分の言い方が拙いことくらいは自覚があるが、どのようにして電気が点いて、どのようにして車が走行するのかなんていう仕組みはわたしだって詳細に知ってるわけじゃないから、これで勘弁してもらいたい。
「あと飛行機は、空を飛んで何百人っていう人を乗せて運ぶんだよ」
「鳥の仲間なのか?」
「鉄の乗り物」
「…………」
 あ、思いっきり疑わしそうな表情になった。この顔、絶対に信じてないな。本当だもん!
 わたしからすると、怪獣みたいな獣が人を食べる世界のほうが異常だよ。
「うーんと、どこかに紙はないかな」
「紙?」
 狭い部屋の中をきょろきょろ見回す。目の前のテーブルにある地図は大事なものだろうから使えないし。
 トウイが、部屋にある棚から、数枚の紙を出して持ってきてくれた。あ、あんなところにあったんだ。そこには数冊の本も置かれてあるのだけど、わたしには解読不可能な文字がぎっちり書かれてあったので、さっさと意識の片隅に追いやってしまっていた。
「あのね、こんなような形のね」
 と言いながら、手渡された紙を手早く折っていく。その紙は、厚みがあって、ごわごわしていて、折り紙にはまったく適していなかったけれど、それでも無理というわけでもない。
「これが紙飛行機。実物とは形が違うけど」
 わたしが作る紙飛行機は、自分で言うのもなんだがよく飛ぶのだ。親戚のお兄さんに、コツを教わっているからね。
「で、こうやって」
 指でつまんで構え、力を抜いてすっと放す。紙飛行機は、重量があるわりになかなか頑張って空中をふわりと飛行し、こつんと壁にぶつかって落下した。
「へえっ」
 トウイが目を丸くして、感嘆の声を上げた。もちろん、音量はギリギリ絞ってあったけど、これが人目のない外なら、興奮して口笛を吹きそうなくらいに瞳を輝かせている。そういう顔をすると、本当にもとの世界の同級生たちと変わりなく見える。どうだ、とわたしは自慢げにふんぞり返った。
「これがヒコウキ?」
「うん」
「実物はもっと大きいのか」
「うん、これの数万倍はあるよ」
「すごいな、そんな大きいものを、こうやって手で飛ばすのか」
「え、あのね、ホントの飛行機はエンジンでね」
「人が乗るんだろ? 着地する時は、ああやってぶつかる前に飛び降りるのか?」
「……うーん」
 なんだか余計に知識を歪めてしまったかな。でも、紙飛行機を手に、嬉々としてひっくり返してみたり飛ばしてみたりしているトウイに、あれこれと言うのもちょっと憚られる。
「これ、もらってもいいか?」
「うん、どうぞ」
 いくらこの部屋の中に閉じ込められてヒマだといっても、紙飛行機を飛ばして時間を潰そうとは思わない。トウイが楽しんでくれるのなら、そのほうがずっといい。
「じゃあね、ちょっと待って」
 棚には、本や紙と一緒に、ペンらしきものもあった。インクにつけて書くのなんてはじめての経験だけど、シャーペンやボールペンもないんじゃしょうがない。もとの世界でわたしが持っていた鞄は、いきなり闇に包まれた時に、どこかへ放り出してしまった。
 わたしはそのペンで、紙飛行機の翼の隅っこに、「希美」 とサインした。
「のぞみ一号機、と命名しました」
「これ、あんたの名前? 変な字だな」
 トウイがまじまじとわたしの名前を見て眉を寄せる。変じゃないし。
「希望の希、っていう字だよ。願う、とか、望む、とか、そういう意味なの」
「ふうん」
 希望の希か──と呟き、
「だったらきっと、いい名前なんだな」
 そう言って、トウイはにこりと笑った。



 ……この時のわたしの望みは、「家に帰ること」、それだけだった。
 夜、眠る時だけは、部屋の中の見張りもいなくなる。ドアの外には立っているのかもしれないけれど、わたしにはその気配すら判らない。ぽつんと一人になった部屋で、格子のついた窓から真っ黒になった外を見て、いつになったら帰れるのかと、そればかりを考えていた。
 こちらでは、街灯も、お店の明かりもない。車のエンジン音や、どこかの家から漏れてくるテレビの音もない。あるのは、しんとした静寂だけ。
 夜空に浮かぶ月は、わたしが知っているものよりも一回り大きくて赤みがかっている。なんだかいかにも不吉に見えるその赤い月を見上げて、わたしは毎晩、一生懸命祈りを捧げた。
 早く帰れますように。
 お父さんとお母さんに、早く会えますように。
 ぎゅっと強く目を閉じると、ぽろぽろと涙が落ちる。寂しい。心細い。毎日が怖くて怖くてたまらない。どうか一刻も早く、この間違いが正されて、わたしはわたしのあるべき場所へと帰れますように。
 ただそれだけを、願っていた。


          ***


 護衛官の他の二人は、ロウガさんとハリスさんというのだと、トウイに聞いた。
 ロウガさんは真面目な堅物、ハリスさんは不真面目で女好き、でも二人とも腕はいい、ということらしい。彼らは、わたしが何を話しかけても返事をしてくれたことが一度もないので、どんな声で、どんな話し方をするのかも知らないままなのだけど、見た目的にはなんとなく納得できる。トウイは、この二人のことを先輩として尊敬しているのだそうだ。
 その日の午前中は、ハリスさんという人が、わたしの見張り番だった。ただじっと立っているだけ、退屈そうな顔をすることはあっても、彼はトウイのように決して感情を表に出すことはない。
 同じ部屋に人が二人いながらずっと沈黙の続く居心地悪さも、もう大分慣れてきた。気持ちのいいものではないけれど、だからって自分だけぺらぺら喋るわけにもいかないし。
 特にすることもないから、ベッドに腰掛け、ぶらぶらと足を揺らす。
 考えることは、いつも同じだ。

 ──いつになったら、帰れるのかな。

 日にちが経つにつれて、不安が大きくなっていく。
 ここから出る時は、またあの白装束のおじさんが来るのだろうと思って待ったが、彼は一向にわたしの前に姿を見せなかった。神獣なんて知らない。わたしが守護人だなんてあり得ない。間違いだったなら間違いだったで、すぐに解放されてもよいものだと思うのに。
 どうなってるんだろう。どういう話になってるんだろう。本当の守護人はまだあの扉を開いてはくれないのか。神獣は神様と同じというのなら、どうしていつまでもわたしを帰してくれず、このまま放っておくのだろう。
 なまじ、帰れる、と思ってしまったばかりに、跳ね返る焦燥は以前と比べようもなく大きくなっていた。この状態で騒いだり反抗したりすると、要らぬ怒りを買ってしまうかもしれないと思うから大人しくはしているものの、ふいに襲ってくる苦しさの波は押さえつけるのが難しい。
 じわっと目に涙が滲む。まさかとは思うけど、あのおじさん、わたしのことなんてもう忘れてるんじゃないのかな。
 トウイは、この件については、困った顔で 「今はどうなっているのかわからない」 と言うばかりだ。護衛官と、神官と呼ばれる人の間には、どうやらとんでもなく大きくて分厚い身分の壁が立ちはだかっているらしく、特に用事もない時には近づくことすら出来ず、あちら側から情報を遮断されると、ぱったりと話が耳に入らなくなるのだという。
 お父さんとお母さん、今頃どうしてるだろう。きっとわたしのこと、心配してる。お母さんは泣いてるかもしれない。早く帰りたい帰りたい帰りたい──
 コン、とノックがして、ドアが開いた。
 見張りの交代らしい。入ってくるトウイの顔を見て、ほっとした。彼の存在は、馴染めないこちらの世界で、日々精神が疲弊していく今のわたしの、ただ一つの救いだ。思わず安堵の息を吐き出してしまう。
 その瞬間。
 出て行こうとしていたハリスさんに、鋭い視線を向けられ、びくっとした。ひょっとして、今の、聞かれた?
 彼はすれ違いざま、トウイの顔を睨んで、チッと舌打ちした。
「──アホが」
 その呟きはわたしの耳にも届いたけれど、入ってきたトウイは強張った表情のまま、そちらを振り返りもしなかった。パタンとドアが閉じられ、いつもと同じようにその前に立つ。
 もしかしたら、気づかれてしまっただろうか。トウイははっきり口にはしないけれど、どうやらわたしと話をすることは、彼にとっての重大な命令違反にあたるらしいのに。わたしの迂闊さのせいで上の人に叱られたらどうしよう、と心配になる。
 眉を下げてトウイを見ると、彼はわたしを見返して小さく微笑した。
 けれどその顔色は、ひどく悪いように見えた。



 その夜のことだ。
 いつものように眠れず悶々とベッドの中で寝返りを繰り返していたわたしは、ドアの外から、ゴッ、というくぐもった音がしたことに気がついた。
 続けて、ドサッという何かが倒れるような音がする。部屋の中に閉じ込められているわたしには、外のことは何も知りようがない。でも、今まで常に静寂を保っていたこの場所で、なんらかの異変が起きていることは判った。上半身を起こして、ベッドの上をいざるようにして移動し壁にべったりと身を寄せる。
 ……なに?
 心臓が早鐘を打っている。もしかして、強盗でも入って来たんじゃないだろうか。あるいは、トウイが言っていた妖獣が襲ってきたとか。夜間は見張りは外にいるだけ。押し入って来られたら、わたし一人じゃどうにも出来ない。
 ドアが開き、黒い人影が中に侵入してきて、わたしはひゅっと息を呑む。悲鳴を上げそうになった手前で、「しっ」 という声がかかり、ようやく喉の奥へと押し戻した。
 近づいてきた人物を認めて目を瞬く。
「ト……トウイ?」
 窓からほんのりと差し込む月明かりに照らされたトウイは、ベッドの上で縮こまっていたわたしに笑いかけた。
「……?」
 どうしてだろう。確かに笑っているのに。
 ……彼はなんだか、泣きそうな顔をしているように、見える。
「ど、どうしたの?」
「おいで」
「は?」
 どっと緊張が解けて間の抜けた声が出てしまったわたしに、トウイは短く言った。
 その右手には、いつも鞘にしまわれている剣が抜き身のまま握られている。
 空いている左手で、上掛けを強く握りしめていたわたしの手を取り、軽く引っ張った。
「ここから出るんだ。急いで」
 は? とか、へ? とかわたしの口からは次々に疑問形が出たが、引っ張る力には抗わず、ベッドから出て、トウイに従った。わたしにとって、彼はこの世界において唯一の信用できる人だ。彼がわたしの不利益になるようなことはしない、と頭で考えるよりも先に、心が理解していた。
 トウイは、わたしの手をぐっと握ると、部屋を出た。
 ドアの前では、一人の男がうずくまって倒れていたが、そちらには目もくれないで、走り出す。
 ところどころ、壁の上のほうで火が灯されているだけの暗い廊下を、彼はほとんど迷いなくまっすぐどこかを目指して足を動かした。人工灯の眩しさに慣れたわたしの目には、どこに何があるのかも、建物の内部がどうなっているのかも、どこに向かって走っているのかもまったく判らない。ただ必死で、トウイに引っ張られるがまま走るしかなかった。

「……そこまでだ、トウイ」

 暗がりから、誰かの声がして、トウイがぴたりと足を止める。同じく止まったわたしは息も絶え絶えにぜいぜいいっていたが、すぐ前にいる彼はわずかに肩を揺らしているだけだった。
「イヤな予感がしてたんだ、このアホが。監視の対象に情を移すなって基本も忘れたか」
 吐き捨てるような台詞と共に、灯火の下に姿を現したのはハリスさんだった。頭上で燃える赤い炎に映し出されるその表情は、今まで見たことのない厳しさを帯びている。
 彼も、右手に剣を持っていた。
 白刃が、きらりと不気味な光を放つ。
「彼女は守護人じゃない」
 返すトウイの声は固い。
 わたしは二人が発する険悪な空気についていけず、まごまごするばかりだ。
 突然なにを言ってるの、トウイ? そう、わたしは守護人じゃない。自分でもそう言ったはず。こちらでも、そういう話に向かっていたはず。それが、どうしたの?
 ハリスさんが息を吐く。
「その娘は守護人じゃない。今朝の神官たちの協議で、正式にそういう判断が下された。……だから」
 だから、帰してくれるんでしょう?
「だから、消す(・・)ことに決定した」
 ──え?
「おかしいんだよ! 勝手に呼びつけておいて、人違いだと確定したら殺すって?! そんなの納得できるもんか! 違うんだったらもとの世界に帰してやりゃいいじゃないか!」
 トウイが眉を上げて怒鳴りつける。なにを言ってるの? 殺す? わたしを?
 守護人じゃなかったから?
「お前が納得しようがしまいが関係ない。神官と大神官が、神獣が何の反応もしない以上、その子は守護人じゃないという結論に達するしかない、と判断した。守護人じゃない人間がここにいる限り、正しい守護人がやって来られない。だからいなくなってもらう。事実がどうであろうが、実際にその子が守護人だろうがそうじゃなかろうが、それさえも関係ない。上がそう決めた、俺らはその決定に従うしかない。それだけの話さ。大体、帰すったって、どうやって? そんな方法、誰も知りゃしないのに」
 帰す方法を、誰も知らない?
 そんな──と、力が抜けてその場にへたり込みそうになるのを、トウイがぐんと強く引き戻す。握られた手に力がこもった。
「俺はそんなのは嫌だ」
「だからガキは面倒見きれねえってんだよ。個人的な感情は捨てろ、トウイ。お前だって、この仕事を選んだ時点で、命令ひとつで人を殺さなきゃならなくなることくらい覚悟してたろうが」
 ハリスさんの声も目も、氷のようにひえびえとしていた。足許から、冷気が這い上がる。
「ただ単に巻き込まれて違う世界に来てしまった女の子を殺すのか。なんの罪もない、家族から引き離されて泣いてただけの女の子を殺すのか! それが護衛官の仕事なんて、俺は認めない!」
「だったらお前が死ぬだけだ」
 ハリスさんが持っていた剣の先をトウイに向ける。トウイはわたしを背中に庇いながら、握っていた剣をハリスさんに向けた。
「ト、トウイ」
 ぐらぐらとブレて定まらない暗い視界の中、二人が剣を手にして対峙している。心臓が鷲掴みにされているように痛い。呼吸もままならない。揺れる声で名前を呼ぶのがやっとだ。
 ……だってトウイ、言ってたじゃない。剣の腕では、俺なんてハリスさんには到底敵わないって。
 しばらく、息詰まる沈黙が続いた。
 けれど、結局、二人のうちどちらも動くことはなかった。はー、とうんざりしたような長い息を吐き、先に剣を下ろしたのはハリスさんのほうだった。
 また、チッと舌打ちする。
「まったく、ガキの相手なんてやってられっかよ」
「ハリ──」
「俺がいい加減なのはお前がよく知ってるだろ。ちょっと余所見してる間に逃げられた、なんていかにも俺らしいよな。……早く行けよ。ロウガさんが今頃、護衛官を数人、捜索の名目で見当違いな場所に連れていってる。でも、時間稼ぎもそうはもたない」
「……すみません」
 トウイは剣を下ろすと、ハリスさんに頭を下げ、再びわたしの手を取って走り出した。わたしは足を動かしながら後ろを振り返る。そして、その場に立ったままこちらを見送るハリスさんの、かすかな呟きを聞いた。
「──どっちにしろ、もう」
 その瞳には、永遠の惜別の色があった。


 トウイとわたしは、建物を出るところまでは進めた。
 でも、そこまで、だった。
 建物から出て月が照らす外を走り、このまま塀を乗り越えて街に行こう、と言っていたトウイ。
 彼は、その塀に辿り着く前に、後ろから矢で射抜かれた。
 ひゅん、という空気を切る音が、何度も闇の中で響く。
 飛んできた矢は、まっすぐトウイの背中を貫いた。
 次々に。何本も、何本も。
 トウイが呻き声をたてて倒れる。勢いよく倒れた反動で、身体が跳ねるように動いた。後ろから、駆けてくる数人の足音がする。わたしは急いでその場に膝をつき、彼の身体を抱き起こした。
 暗くてよく見えない。掌に、ねっとりとした生温かい感触が伝わる。
 これはなに? どうして? 何が起こってるの?
 混乱して、何も考えられない。トウイが咳き込んで、わたしの頬に真っ赤な血飛沫が散った。ねえ、どうして? どうしてこんなところで寝ているの、トウイ。早く起きて。起きて一緒に逃げよう。
「ト……」
「に、げろ」
 トウイはぶるぶると震える掌で、わたしを押し返そうとした。なんて弱々しい力。その手も、こんなに赤く染まってしまって。
「トウイ」
「早く、あいつらが来る、前に、塀を越えて、街に」
 顔が血で汚れている。どうして、どうして。ついさっきまで、あんなにも血色のよかった肌が、こんなにも土気色になってる。髪よりも、瞳よりも鮮やかな赤色が、全身に広がっていく。痙攣したようにびくびくと身を動かしながら、吐血の合間に出す声が濁る。どうして。どうしていつもみたいに、笑ってくれないの。
「トウイ、トウイ」
「か、帰るんだろ、あんなにも、帰り、たがってただろ、ここで捕まったら、帰れなく、なる。早く」
 ゆるゆると首を振って、呆けたようにトウイの名前を繰り返すことしか出来ないわたしの身体を、またトウイが押した。今度は、どこにこんな力が残っているのかと思えるくらいの強さで。
 赤茶色の瞳が闇に輝く。
「早く……! 諦めちゃダメだ、あんたの名前、き、希望だって、そう言ったろ。最後まで、捨てちゃダメだ、ノゾミ。俺は」
 ノゾミ、と、はじめて名前を呼んで。
 最後の力を振り絞って、わたしの手の中に、何かを押しつけて。
 それから何かを言いかけたけれど、突然くずおれるように頭ががくんと下がり、手から剣の柄が離れて落ちた。
 ……そしてトウイは、そのまま、動かなくなった。
 瞬間、またあの音が響いた。

 ガシャン!


BACK   TOP   NEXT


Rewrite・Right・Last・Try

Copyright (c) はな  All rights reserved.