リライト・ライト・ラスト・トライ

第十四章

5.夢の夢



 久しぶりのスカートは、「変な感じ」 の一言に尽きた。
 普通に歩いているだけでも、なんだか足の間がスカスカして落ち着かない。風が吹くたび裾がめくれそうになって、そのたび押さえなきゃいけないのも面倒だ。ふわりと広がっている分、飛び出している枝や伸びている草に引っかかりやすく、新品だから汚しちゃいけないと気を遣って神経を消耗する。
 普段だったらぴょんと飛び越えている低い柵ですら、トウイに手を貸してもらってゆっくり跨いで越えなければいけない。わたしはちょっとうんざりして、はー、とため息をついた。
「そんなに動きにくいですか」
 ほとんど抱き上げるようにして、柵のあちら側からこちら側へとわたしを移動させているトウイが、笑いをこらえるように言った。包帯をしていないほうの右目が、楽しそうに細められている。ふんだ、他人事だと思って涼しい顔しちゃって。
「いつもの恰好に慣れきった身には、これはつらいです」
「いつものように走り回らなければいい、ってだけの話だと思うんですけど」
「歩くだけでも、けっこう鬱陶しいですよ」
「そうなんですか? 俺にはわかりませんけど」
「トウイさんもこの服を着てみたらどうですか。きっとお似合いです」
「真顔で冗談を言うのはやめてください」
 バカバカしい会話を交わしながら、トウイと並んでのんびり歩く。
 この窮屈な格好はともかく、外の空気は気持ちよかった。

 暑くもなく寒くもなく、柔らかな日差しがうらうらとのどかな景色を包み込み、時々吹きつける風が葉を擦り合わせて、さわさわと快い音を立てている。
 道沿いの家からは、食事の支度をしているのか香ばしい匂いが漂ってきたり、カチャンカチャンという食器を重ねるような音が漏れ聞こえてくる。街のどこかで遊ぶ子供たちの賑やかな声も耳に届いた。
 家の前で木箱に座って、お茶を飲みながら休憩しているおじさんがいる。道の端っこで噂話に興じているおばさんたちの姿もある。犬によく似た動物がのんびりと欠伸をしていたりもする。
 わたしがいた日本とはいろんなものが違うけど、それでもやっぱり同じ 「日常」 というものが、この世界にもちゃんと存在している。
 ──自分の裡に溜まった暗く淀んだものが、薄まっていくような気さえする。

 周囲を見回しながら歩いていたら、傍らを歩くトウイに、さりげなく腕を引かれた。
 どうやら足許に大きめの石があって、つまずいて転ばないようにと配慮してくれたらしい。
 女の子っぽい格好をしているからなのか、今日のトウイはいつもよりちょっと過保護だなあ、と足を動かしつつ思う。
 護衛と護衛対象という堅苦しさよりも、この旅の表向きの設定である 「お嬢様」 扱いをされている感じがする。
 ……いや、ていうか、なんか、これって。

 まるで、デート相手にエスコートされている、ような。

 ついうっかりとそんな思考が頭を掠めてしまった途端、歩調が乱れた。
 いきなり身体が前方に傾いだためか、左腕に添えられていただけだったトウイの手が、ぱっと素早くわたしの手を取って握る。心配そうな顔が、こちらを覗き込んできた。
「そんなに歩きにくいですか?」
 大丈夫。わたしだってもとの世界では、今どきの女子高生、という肩書きを持っていたのだ。ドレスとハイヒールという出で立ちならいざしらず、ちょっと丈が長めなだけのスカートにそこまで難渋したりはしない。
 だから早く手を離してください。
「──だ」
「よおトウイ、こりゃまた別嬪さんと逢引きかい?」
 大丈夫です、と言いかけたわたしの言葉は、通りすがりのおじいさんの軽口によって遮られた。
 この街の人たちはみんながみんな気さくなのはいいけれど、こんな時にそういう余計なことを言うのはやめて欲しい。今のわたしは、つい昨日までの、「小間使いのボウズ」 という呼称を切実に求めている。
「ああ、まあね」
 トウイまでなに言ってんの。なんで肯定してんの。冗談に冗談で返してるの?
 未だ彼の手の中にある自分の手を引き抜こうとしたら、寸前でぎゅっと握って阻止された。
「そりゃあいい。最近はこのあたりも物騒みたいだからなあ、可愛い嬢ちゃんが怖い思いをしないよう、お前さんが守ってやるんだぞ」
「うん、頑張るよ」
「はて、ところで、その嬢ちゃんはどこの……」
 首を傾げたおじいさんが問いを発し終える前に、わたしはトウイを引っ張って走り出した。本当はトウイを置いて一人で逃げようとしたのだけど、あちらの手がどうあっても離れなかったのだからしょうがない。
 脇目もふらずに全力疾走するわたしのすぐ後ろでは、トウイが走りながら笑い続けている。
「シイナさま、転びますよ」
 うるさいよ!


          ***


 トウイのお母さんのお墓は、街はずれの平坦な場所にあった。
 こちらの墓地は、故人の名前が彫られた、大きさも形もそれぞれ違う石が、ばらばらと無秩序に立てられているという、簡素なものだ。この世界では死者の肉体は埋められて大地に還る、とされているので、ある程度年数が経つと、古いお墓から撤去されて新しいお墓が作られるらしく、そんなにたくさんの墓石が並んでいるわけでもない。
 トウイに案内された小さな墓標には、お母さんのものらしい名前が記されてあった。
 膝を折り、刻まれたその文字を指でなぞる。少しだけ勉強をしたおかげもあって、これくらいならなんとか読めそう。
 クレイ、だ。クレイ・ウル・カディア。こちらの名はどういうものが一般的なのかは知らないけれど、綺麗で優しげな響きの名前だなと思った。

 その名に相応しい、綺麗で優しい人だったのかな。

「……ごめんなさい。わたし、何も用意していませんでした」
 こちらの世界にお線香を上げる習慣があるとは思えない。でも、お墓参りに行くとわかっていたのだから、せめてお供えするものくらいは持ってくるべきだったかもしれない。そう思いながら謝ると、隣の地面に腰を下ろしたトウイはきょとんとした。
「何かって?」
「お花、とか」
 わたしの言葉に、ぷっと噴き出す。
「そんなの必要ないですよ。ここにはいくらでも花が咲いているんだし」
 確かに墓地のあちこちには色とりどりの花が顔を出していて、場合によっては墓石に蔦がぐるぐる巻きついてるものもある。でも、咲いてりゃいい、ってもんじゃないような気がする。こっちの人は、そういうことにあまりこだわりがないのかな。
「シイナさまの世界では、墓には必ず花を持っていくもの、って決まりがあるんですか?」
「そうですね……でも、宗教によって違うのかな……わたしの家では、いつも持っていきましたけど」
 亡くなったおばあちゃんのお墓参りに行く時は、必ず事前に仏花を用意していた。お花を供え、ろうそくに火を点し、お線香を上げ、柄杓でお墓に水をかけて、お父さんお母さんと一緒に数珠を持って手を合わせる。それが普通のことだった。
 そう説明すると、トウイは右目をくりっとさせて、へえーと興味深そうな声を上げた。
「火を点けたり、香を焚いたり、水をかけたりするんですか。どういう意味があるんです?」
「…………」
 よく知らない。
「えーと、いろいろと複雑で難解な意味があるんです」
 たぶん。
 ごにょごにょと濁したら、トウイはまた 「そうなんですか」 と大きく頷き、納得してくれたようだった。この返事のどこをどう納得したのか、わたしのほうが聞きたい。
「こっちでは、そういう儀式のようなものは特にないですね。弔いをしたら、それでもう終わり、というか。人の心は風になり大気になって離れていくわけだし、肉体はやがて地に還る。時間が経てば経つほど、『ここには何もない』 ということになるんです」
「ここには何もない……」
 その考え方は、何代も前の顔も名前も知らないご先祖様のお墓参りをするよりも、よほど現実的だ。命が消え、身体が消え、生きている人たちの記憶からも消えれば、それはもう、何もない、という状態なのだから。

 ──人は死ねば無になる。

「人は死ねば風になる」
 トウイが、ぽつりと口にした。
 まるで測ったようなタイミングに、鼓動が高く跳ね上がる。目を向けると、トウイはわたしのほうではなく、頭上に視線をやっていた。
 見ているのは、青い空なのか、それとも別の何かなのか。
 彼の口から出たのは、わたしの内心と同じような、けれどまったく違うことだ。
「……俺はそれでいいと思うんですよ。目には見えないけど、そこにある。普段は忘れていても、思い出した時、いつでも近くにいてくれるんだと気づく。死も別れも悲しいことだけど、それにばかり捉われてちゃいけないんじゃないですか。ここにいる俺たちは生きていて、これからも生きなきゃいけないんですから」
 トウイは空を見ながら、半分くらい独り言のようにそう言った。
「…………」
 わたしは口を閉じて黙り込んだ。
「あのね、俺の親父はね」
 トウイが再びくるっと顔をこちらに向けた。真面目な表情から、どこか悪戯っぽい笑顔に変わり、それに伴って唐突に話の方向も変わる。

「風人だったんです」

「え──」
 びっくりして目を瞬き、トウイを見返す。
 風人といえば、トウイに傷を負わせた男の人が口にしていたものだ。種族や部族の名前みたいなものかと思っていたのだけど、違うのだろうか。
「風人ってのは……なんて言えばいいのかな、短期の契約のみを請け負って遂行することを生業とした剣使い……というか……いや、そんな格好いいものでもないんだけど」
 ぶつぶつ言いながら、頭を捻って眉を寄せる。つまり風人というのは、職業のひとつ、ということらしい。
「上流階級に仕える護衛とも違って、一件の契約ごとに金をもらいます。契約主との主従関係は発生しません。風人が従うのは契約の中身だけなんです。でも、一旦契約を交わせば、それがどんなことでも必ず忠実に仕事を完遂させます」
「……どんなことでも?」
 わたしが問い返すと、トウイは少し眉を下げながら苦笑して、頷いた。
「どんなことでも。盗みの手伝いでも、誘拐でも、変な枝に操られている得体のしれない集団の護衛でも。……人殺しでも」
 ちらっとお母さんのお墓に視線をやる。
「まあ、俺の親父の場合は、殺しだけはしない、という信条を持ってたようですけど。でも、それにしたって、後ろ暗い仕事であるには違いない。だから風人ってのは、住む場所を決めず、知り合いも作らず、一件の契約を終えればまた次の土地に移って、転々としながらその日暮らしをするのが普通なんです。家族を持ってしまった親父のような風人は、異質中の異質、ってところでしょうね」
「異質……」
 呟いて、わたしもお墓のほうに顔を向ける。
 静かに佇む小さな墓石は、トウイの話に黙って耳を傾けているように見えた。
「そういう仕事だから、風人は一般の民には忌み嫌われる。俺の親父は、実際にろくでもない人間でしたけどね。妻子をこの街に置いたまま、国のあちこちをウロウロして、時々思い出したようにぶらりと帰ってきちゃ、金を置いて、また出ていくんだから。帰ってくるたび小さな息子に剣技を叩き込むのはいいが、まったく手加減ってものを知らない、情け容赦ないやり方だったし」
 忌々しそうな言葉のわりに、トウイの瞳には懐かしげな色が乗って、口許はゆるく綻んでいた。
「まあ、子供ってものをどう扱っていいかわからなかったんでしょうけど。ちょっと鍛えるつもりでボロボロにして、息子には大泣きされるわ、妻には大目玉をくらうわで、本人もでかい図体を縮めてしょんぼり萎れてましたから」
「……そうですか」
 なんだかんだ言って、トウイはやっぱりお父さんのことが好きだったのだろう。
 剣を扱う時がいちばん嬉しそうで生き生きしているのは、きっとそれがお父さんの思い出にも繋がっているからだ。
「風人は流浪の民だ。いつどこで死ぬかわからない。死に方も惨いことが多い。でも、それを悔やみも、恨みもしない。どんな風人でも、その仕事を選んだ時点で、覚悟をしているからです」
「…………」
 それはお父さんのことだけではなく、シキの森にいた風人についても言っているのだろう。
 手首を斬り落とされ、剣も持てず、おそらくはあのまま妖獣に襲われ死んでしまった人。
 わたしが殺したも同然の、風人。
「常に死と隣り合わせにあるから、生きながら風になっている、という意味で自らを風人と呼ぶ。他人からは、人としての心を持たないそんなやつらは、たとえ死んでも風にはなれない、という蔑みを込めて、風人と呼ばれる」
「……でも、トウイさんのお父さんは」
 わたしが口を開くと、トウイの目許が和らいだ。ふわりと微笑む。
「俺は、親父は風になってると思いますよ。俺がそう思うんだから、それでいい。他の誰がどう思おうとね」
 そう言いながら墓石のほうに顔を戻し、ちょっとだけ黙る。その沈黙の中で、何かの報告や話を済ませたのか、すぐに立ち上がり、わたしに向かって手を差し出した。
「じゃあ、行きましょうか。せっかくだから、街の中を案内します。少しくらい寄り道したって、ロウガさんも怒らないだろうし」
「…………」
 しばらく迷ってから、わたしはトウイの手の上に自分の手を乗せた。


         ***


 それからトウイは、ぐるりと廻るようにしてハルソラの街を案内してくれた。
 小さな街、とトウイが何度も言うだけあって、ゆっくり歩いてもそんなに時間をかけずに一周できそうなくらいの規模だった。さすがにあまり遅くなるとみんなが心配するだろうからそこまではしなかったけど、それでも街の様子は大分掴めたと思う。
 何本かある広い道はすべて街の中心部に向かって伸びているのだから、頭の中に地図を描くのも簡単でいい。他の街もこうすれば便利なのに。たとえばどこかで迷ったとしても、とにかく広い道を選んで歩けば同じ場所に出られる、ということだ。
 歩きながら、トウイはこの街で暮らしていた時のことをいろいろと話してくれた。
 小さなところだから学校というものはなくて、時間をかけて他の街まで行っていたこと。腕白だったからよく怪我をして、街に一人だけいるお医者さんの世話になってばかりいたこと (今回診てくれたのもそのお医者さんで、「お前はちっとも変わってない」 と治療の間中ずっとがみがみ説教されて閉口したらしい)。美人のお母さんに言い寄ってくる男を懲らしめてやろうと向かっていったら、あっさり返り討ちにされてしまって、情けなさのあまり一人で隠れて泣いたこと。
 たくさんの彼の思い出が、この街には埋まっている。
 それらの記憶をひとつひとつ掘り返すたび、苦笑を混ぜ込んだ瞳をどこか遠くに向けるトウイは、今まででいちばん大人びて映った。
 それを聞きながら、わたしは、ここにいるトウイと、ここにはいないトウイたちの過去に、思いを馳せる。


 ──これまでに会ったすべてのトウイに、愛しい家族があり、積み重ねてきた過去があり、大事な思い出があったはず。
 違う、トウイだけじゃない。ハリスさんにも、ロウガさんにも、ミーシアさんにも。
 わたしはそれを、ちゃんと考えたことがあったのかな。


「シイナさま」
 ちょっとぼんやりしていたら、トウイに声をかけられて我に返った。
「はい?」
「喉が渇いたんじゃないですか。店があるから、飲み物でも買ってきましょうか」
「あ──はい。お願いします」
「じゃ、ちょっと待っていてくださいね」
 トウイが軽く手を上げて、くるっと背中を向けてお店のほうに駆けていく。
 お店にいるおばさんと二言三言会話を交わし、手に果物みたいなものを持ってまた戻ってきた。
「はい、どうぞ」
 ありがとう、と言って受け取る。見るとそれは、固い殻に覆われた、握りこぶし大の果実だった。先端部分が切り取られ、湯呑みのような形になっている。なるほど、ヤシの実ジュースのようなものかな。
 少しおそるおそる口をつけてみたら、すごく美味しくてびっくりした。ほんのり甘くて、口当たりがいい。
「おいしい」
 ぽそりと洩らしたら、トウイが嬉しそうに破顔した。
「よかった。はじめてその言葉が出ましたね。シイナさまは食べるものに一切文句を言わないけど、実はいろいろと我慢してるんじゃないかって、ミーシアが心配してたから」
「…………」
 言葉に詰まった。
 本当のことを言えば、こちらの世界の食べ物の味は、わたしには合わないことがほとんどだ。慣れはしたけれど、それでも美味しいと思うことはあまりない。内容が質素でも豪華でも、わたしにとってそれらはいつも、ただ咀嚼して飲みこむだけのものでしかなかった。
「……ごめんなさい」
 小さな声でそう言うと、トウイは首を傾げた。
「どうして謝るんです? ていうか、シイナさまはもっといろいろ口に出せばいいと思いますよ。どんなものが不味いと感じて、どんなものが美味しく感じるのか。そうすれば、俺もミーシアも、もっと好みに合ったものを見つけることもできるんですから」
「そんな必要は、ないです」
 それだけ言って、果実の殻に口をつけてごくりと飲む。トウイは何かを言いかけて口を噤み、「うーん」 と困ったようにぽりぽりと頭を掻いた。
「すみません、また少しここで待っててください」
 少し急いたようにそう言って、トウイが再び身を翻してお店に戻る。今度はおばさんと何かを話して、一緒に店の奥に行き、姿が見えなくなってしまった。「紙が……」 と言っているのがかすかに聞こえたから、この果実の仕入れ先でもメモするつもりなのかもしれない。
 そこまで、してくれなくてもいいのに。
 食事は、死なない程度に摂れればいい。
 わたしにとって、基準はそれだけだ。

 100日間だけ。
 その期間だけ続けられれば、それでいい。

 ──この世界は、儚い夢のようなもの。


          ***


「わあ……」
 道を辿った先にある、その大きな樹を目にしたら、知らず感嘆の声が洩れた。
 ここはハルソラの中心。蜘蛛の巣の、真ん中部分だ。
 建物の上からでも広がる緑の葉っぱは見えていたから、大きいんだろうな、とは思っていた。でも目の前まで来てみたら、そこにあるのは想像以上の巨樹だった。幹周りを測るのはとてもわたし一人の腕では足りず、数人の大人が必要なくらい。
 大きく伸びた枝にたくさん茂った葉っぱは、お椀を伏せたような形をしている。葉の間からは木漏れ日が降り注ぎ、地面の上に不規則な水玉模様を数えきれないほど浮かび上がらせ、ちらちらと揺れていた。
 近くに立って、下から見上げると、圧倒的な眺めに言葉を失いそうになる。こんな大きな樹、見たのははじめてだ。ケヤキに似ているような気もするけれど、ここまで存在感のある樹は、きっともとの世界にもあまりないだろう。
「すごいですね」
 そう言うと、トウイは少し照れくさそうに 「でしょ」 と鼻の下を指でこすって自慢した。うん、別にトウイを褒めたわけではないけど、きっとこの樹は、ハルソラの街の住人みんなにとっての、宝物なんだね。
 しばらく何も言葉を出さずに、じっと樹に寄り添って、大きく広がる緑の葉を見つめた。
 こんなにも巨大なのだから、樹齢は百年二百年どころではないのだろう。もしかしたら、千年くらい前から齢を重ねて、この世界と人々を見守ってきたのかもしれない。
 それはまるで、神獣のようだ──とわたしは内心で思う。
 長い時間を生き、ただ、見ているだけ。人が死のうと、争おうと、滅んでいこうと、何もしない。憎たらしいことを言ったり、腹の立つ笑い方をしたりしない分、この樹のほうがよっぽど好感度が高いけど。

「これ、『約束の樹』 とも呼ばれているんですよ」

 トウイの言葉に、わたしは上に向けていた顔を彼のほうへと戻した。
「約束の樹?」
「そうです。この樹の下で約束を交わすと、必ず守られる、って言われていて。だから結婚の申し込みをする時にはここに来て……あ、いや」
 いきなりちょっと慌てた顔になり、片手を振る。
「そ、それだけじゃなくて、子供同士が他愛ない口約束をする時でも、わざわざこの樹の下を選ぶんです。俺もよく、ルチアに無理やりここまで連れてこられて、つまんない約束をさせられました。『明日遊ぶ』 とか 『母親が大事にしてた髪飾りをなくしたことは誰にも言わない』 とか」
 幼い頃のトウイが、ルチアさんに強制されて、渋々約束させられている場面が目に浮かぶ。
「あとは、親が子どもを叱る時にもね。『もう悪さはしない』 ってここで約束させるんです」
 ロマンチックな方面だけでなく、なんでもあり、ということらしい。それだけこの街の人々の生活に密着している、ということなのだろう。
「……でも」
 わたしはちらりと傍らの樹に目をやった。
「それは、この樹が約束を叶える、ということじゃないですよね」
「そりゃそうです」
 トウイが軽く笑う。
「約束を交わすのも、守るのも、破るのも、忘れるのも、人間です。この樹はただそれを見ているだけですよ。いわば、自分の決意が強い、ってことを示すためなんでしょうね。約束が叶わない時があっても、この樹のせいだ、なんて誰も言いません。すべての責任は、選んだ自分たちにある」
「…………」
 すべての責任は、選んだ自分にある。
 もう一度、樹のほうに視線を移す。幹にそっと触れてみたら、ほんのりと温かかった。
 まるでこの樹自体が、生命を持っているみたいに。
「──わたし」
 呟くような小さな声が、自分の唇から零れ落ちた。

「わたしも、ある人と、約束をしました」

 トウイは笑いを収め、真面目な表情になって口を閉じた。
「……もう、この世にはいません。でも、わたしはその人との約束を、どうしても守りたいと思ってます」
 最後まで、けして諦めないこと。
 それが、最初のトウイと交わした約束。
 わたしはそれを守るために、ここにいる。
「大事な人、だったんですね」
 トウイの声は、静かに凪いでいる。わたしは頷いた。
「そう。そうです。とても……大事な人、でした」
 泣いていた女の子に手を差し伸べてくれた、たった一人の人。
 もう、二度と会えない。たとえ本当に時間が巻き戻ってあの時のトウイに会ったとしても、彼はもうあんな風に笑ってはくれない。
 だって、わたしのほうが、変わってしまったから。
 わたしが何も知らなかった頃には戻れないように、何も知らないまま異世界に迷い込んできた女子高生に優しくしてくれたトウイには、もう会えない。
 やり直す、とはそういうこと。喪失したものを取り戻すことは、不可能なのだ。
 だから、あの人は、わたしの頭の中にしかいない。
「その人は、俺に似てますか」
「……とても」
 トウイはトウイ。同じ人だ。でも、違う。やっぱり違う。旅の間に新しい傷がいくつも増えていくように、時間の経過と共に、トウイは様々な何かを心と身体に刻んで、変化し、成長していく。
 トウイが変わらなければ、きっと運命も、変わらない。
 でも、わたしはトウイが変わるのを、恐れてもいる。

 このままだと、最初のトウイの記憶が、今のトウイによって上書きされてしまいそうで。
 そのことに、怯えている。

「…………」
 トウイは短い息を吐いてから、いきなり手を上げ、自分の左目に巻いている包帯を解きはじめた。驚いて、止めようとしたけど、彼は無言のまま、取りつく島もない。
「トウイ?」
「……いくら似ていても、俺はその人にはなれません」
 包帯がすべて外れた。傷口を覆っていた布もはらりと取れて、地面に落ちる。
 まっすぐこちらを向いたトウイの左目の上には、まだ少し引き攣れた、赤黒く生々しい大きな傷がある。斜めに一本線を描くそれは、あの時の出血の酷さをありありと思い出させるほどに、ざっくりと深かった。
 説明されなくても、一目でわかる。この傷跡は、一生残るだろう。
 最初のトウイにはなかった傷。あの時の彼にはなかった強い光を瞳にたたえて、ここにいるトウイは正面からわたしを見据えた。
「シイナさま、俺とも約束をしませんか」
 トウイがズボンの後ろポケットに手を回し、そこから取り出した何かをわたしの右手の中に押し込んだ。軽い感触と、ガサッという音がする。
 そこにあるものを見て、わたしは目を見開いた。


 ──紙飛行機。


 真っ白で、どこも歪んでいない、綺麗な紙飛行機だ。
 わたしが最初のトウイにあげたもの、ニコに作ってみせたものと、同じ形をしている。どうしてここに、これが? ひとつは消えて、ひとつは握りつぶしてしまったはず。
 トウイの顔を見ると、にこりと笑われた。

「俺は、あなたが帰るべき場所に帰るその日まで、ずっとそばにいます」

「…………」
 わたしは手の中を見下ろした。

 もう存在しない、真っ赤に染まったあの時の紙飛行機。
 染みも汚れもない、まっさらな白い紙飛行機。
 最初のトウイとの、約束。
 ここにいるトウイとの、もうひとつの約束。

「……では」
 顔を上げ、震える唇から言葉を紡ぐ。何ひとつ嘘の混じらない、赤茶色の澄んだ瞳をまっすぐに見返した。
「わたしが帰る、その日まで」
「はい」
「そこに、いてください」
「必ず」
「──草原地帯に、向かいます」
「どこへでも行きます。一緒に」
 下を向くと、白い紙飛行機に、ぽとりと滴が落ちた。



 おそらく──
 リタイアしても、クリアしても、もとの世界へ帰った時点で、この世界の人々の頭から、守護人の記憶は消える。
 約束が守られたその瞬間、トウイはわたしのことをすべて、忘れてしまうだろう。

 ……この現実は、わたしにとっての夢なのではなく、トウイにとっての夢だ。



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