リライト・ライト・ラスト・トライ

第十五章

4.救済



 もう一度、ダウスの北から南へと戻った。
 この街ではじめに入った食堂へと向かい、預けてあった馬を引き取り、金を払って礼を言う。主人は嬉しそうな顔で手の中の小金を数え、「またこの街に立ち寄ることがあったらここにおいで。首都からのお客さんだ、出来るだけのことはさせてもらうよ」 と快く店の外まで出て見送ってくれた。
「…………」
 かなり複雑な心持ちで、俺たちはちらりとお互いの顔を見合わせる。しかし言うべき言葉が思いつかず、結局、馬に乗って別れを告げた。
 馬を進ませながら後ろを見返ると、主人が挙げた手をこちらに向けて大きく振っている。
 俺は重苦しい気分で、小さくなっていくその姿を見つめた。

 ──この街は、これからどうなるんだろう。

 広がっていく貧困と、この先の生活への不安と。
 解消の見込みが立たないそれらのものを抱えながら、ひとつの街の中で、南北での対立を続けていくのだろうか。
 人々の裡にある闇は深く、とてもではないが容易に払えるようなものではない。妬み、嫉み、恨みや怒りの負の感情は目に見えず、本人たちに自覚がない分、非常に厄介だ。
 今はまだ微妙に均衡が取れている、ダウスの南北。どちらかをちょっと突いてやれば、呆気ないほどにその均衡は崩れるだろう、というのは俺でもすぐに判る。ほんの些細なきっかけが、下手をしたら怪我人が出るような大きな諍いや混乱を招きかねない。
 たとえば、ダウスの北に、イーキオの枝が持ち込まれるようなことがあったら。
「……やっぱり、街の人たちに忠告しておくべきなんじゃ」
 ぼそりと落とした俺の呟きへの返事は、前にいる守護人ではなく、傍らを歩く馬の上からあった。
「何度も話し合っただろ。今のこの状況で、俺たちがイーキオの枝の危険性なんて説いたって、誰も耳を貸しゃしないだろうってな」
「そうです。その枝を使うと、なんでも言うことを聞いてくれる神が見えるらしいです、ってわざわざ教えてやるんですか? 余計なことを言えば、ますます話がこじれるだけですよ」
「……うん」
 ハリスさんとメルディの言葉に、反論できずに口を噤む。その点に関して、俺たちの間でもう結論は出ている。それは判っているんだけど。
 でも、あの街がこれから、テトの街やシキの森のように悲惨な末路を辿ることになるかもしれないと思うと、どうしようもなく焦燥が突き上げてくる。
「とにかく一刻も早く、王ノ宮が正式にあの枝の使用を禁止し、国から一掃させる措置をとってくれるよう、祈るしかない」
 そう言うロウガさんも、胸の中のものを外に吐きだすような口調だった。みんな、焦る気持ちは俺と同じなんだ。自分ではどうしようも出来ないから、手をこまねいて見ているしかないこの現実に苛立っている。
「メルディ、確かにイーキオの枝は王ノ宮に送ってあるんだよな?」
 俺の確認に、メルディはやや不本意そうに片目を眇めた。
「もちろん、ちゃーんとね。シイナさまの動向と共に、この国で何が起こっているのか、逐一報告しておりますとも」
「それについて、何かないのか? 返事とか」
「あのねえ、何か勘違いされているようですけど、私の仕事は基本、監視と報告のみなんです。たかが密偵一人に、あちらから懇切丁寧な現在の状況説明なんてあるわきゃないでしょうに」
「すると、今あの話はどうなっているのか」
「まるで、わかりません」
「無能な……」
「何か仰いました?! シイナさま!」
 前を向いたままボソッと呟いた守護人に、眉を上げたメルディがやかましく文句を言い立てる。それを聞きながら、俺は大きなため息をついた。

 もしもあの枝が、ダウスの北に持ち込まれるようなことがあったら。
 ……それは決して、あり得ない仮定の話じゃない。

 あっという間に、あそこにいる人々は、それの虜になるだろう。シキの森で見た男女のように、何もないところに彼らだけの神の幻を見つけて、身も心も捉われるようになる。
 その姿を容易く頭に浮かべられるのは、すでに彼らの心に、それを受け入れる素地が出来上がってしまっているのを見たからだ。
 あの枝に手を伸ばすのは、ほんの一部の偏った精神の持ち主じゃなく、ごく普通に暮らしている一般人なのだという事実を、実際に、この目で。
 きっと俺たちは今まで、そのことをよく判っていなかった。テトの街やリリアさんやシキの森での出来事は、あくまでも特殊な事例なのだろうという思いが、否定しがたく胸の片隅にあった。
 でも──違う。おそらくイーキオの枝によって心身を損なうまで、神の幻に魂を吸い取られるまで、彼らも街の中で他の住人たちに混じって日常を送っていた、普通の人々だったんだ。
 現在一生懸命真面目に生きている人たちが、数日後には、灰色の髪の子供を攫ったり、妖獣の卵を手に入れようと画策するかもしれない。弱い立場の……いいや、すべての人間が、その可能性を秘めている。少しだけ風向きが変われば、誰にでも起こり得ることなのだ。
 それをまだ王ノ宮は理解していない。おそらく、首都で安穏とした暮らしをしている人々に、そんなことはまったく実感の湧かないものであるのだろう。だから未だに、なんの対策も取ろうとはしていない。そうしている間にも、イーキオの枝はニーヴァ国内に蔓延していくかもしれないのに。
 ダウスの南北はニーヴァの縮図、という言葉が、胸の冷たくなるような恐怖心を伴って、俺の頭に響いた。


          ***


 ダウスを出て、さらに先を進み、ようやくグレディールに到着した。
 やっぱり名前が地図に載っているだけあって、近在の街と比べればそこそこの規模があった。通りに出ている人の数も多い。小さいながら、店も並んでいる。
 しかし──なんていうか。
 雰囲気がよくない。サザニのように、治安が悪い、というわけではなさそうなのだが。

 一言で言うと、荒んでいる。

 グレディールの街は、計画性もなく建てられたのか、粗末な四角い家がひしめき合っていた。狭い道には家に入りきらない雑多なものが溢れていて、歩くだけでやっとという有様だ。
 細い道はあちこちに分岐している上に、不規則に曲がりくねっているので、進んでいくうち方向感覚が狂ってくる。道の先は袋小路になっていることも多く、その場所には、家を持たないのだろう住人が、板と布で仮小屋のようなものを作っていたりして、ぎょっとさせられた。
 その小屋の中からは、痩せて、腹だけが異様に出っ張った男が、どんよりとした顔つきで、こちらに目を向けるだけだ。
 男の目には、およそ感情らしきものが見えない。ただの真っ黒な穴のようでもある。その視線がじっと守護人の上から下までを這うように動いて、俺は咄嗟に彼女を庇い前に出たが、男はすぐに興味が失せたように、ごろりと地面に敷いてある薄い布の上に横たわった。
「──行きましょう」
 守護人を促し、袋小路を出た。そっと額の汗を拭う。
 こんなにも閉塞感に満ちた街は、はじめてだ。門を入って中央方面に向かっているというのに、この状況。まるで、グレディール全体が、「街の端」 のようだ。いや、マオールの街の端でも、路上生活者はいなかった。
 守護人も少し強張った表情をしている。すぐ横にいるニコは、ようやく自分の故郷に帰ってきたというのに喜びのカケラもなく、どこか固い目で前方を見据えながら、まるで縋るように守護人の手を握っていた。
「あっ、あれ、ニコじゃないか?」
 その時、甲高い声が聞こえて、ニコの小さな肩がぴくりと揺れた。
 そちらに目を向けてみれば、ニコよりも年上っぽい、こまっしゃくれた感じの男の子供が二人立って、こちらを指差していた。知り合いか、とは思ったものの、同時に、あまりいい知り合いではないらしい、ということもなんとなく窺えた。

「あいつ、帰ってきたのか」
「ドヌクさんとこから逃げだしたんだろ。結局また戻ってきたんだな」
「バカなやつだ、灰色の髪の子供が、一人で生きていけるわけないのに。きっとまた、ドヌクさんにめちゃめちゃ殴られるぞ」
「面白そうだから、見に行くか」

 そう言って、声を揃えてひひひと笑い声を立てる。ニコはそちらを振り向かず、口を結んで黙っているが、二人がニコに聞こえるように、わざと音量を上げて喋っているのは明らかだった。
「おいニコ! おまえ、外で何したんだよ! 捕まって連れ戻されるなんて、カッコわりいな!」
 子供の一人が、そう言いながら、地面に転がっていた拳くらいの大きさの石を掴んで、投げつけてきた。
 その石を、素早く抜いた剣で弾き飛ばしたのは俺だ。そして、同じく地面に落ちていた石を拾って、二人の子供に向かって投げ返したのは守護人だ。
 あ、と思う間もない。
 わあっ、と悲鳴を上げて逃げる子供たちに、守護人は無表情のまま、どんどん石を拾って投げている。ほとんどの建物は端が欠けたり崩れたりしているから、そこから落ちたものなのか、路上には手頃な石がごろごろと無数に転がっているのだ。
「ちょっ、ちょっと待ったシイナさま、やりすぎです」
 俺は慌てて止めたが、ハリスさんとメルディは笑い転げて、手まで叩いている。
「見事なもんだ」
「お上手ですねえ」
 いや、ここは褒めるところじゃないから。
「これでもわたし、ソフト部だったんです」
 と言いながら、絶妙な制球力で投げた石は、逃げる二人の子供の後頭部に命中した。いてえ! と叫び声が上がる。ちゃんと小さめの石を選んでいるあたり、本気でぶつける気満々だったらしい。
「シイナさま、宿屋があります。厩もあるようですが」
 この暴挙を完全に見ないフリをしていたロウガさんが、建物のひとつを示して言った。守護人はもう何事もなかったように、「じゃあまずは馬を預けて荷物を置きましょう」 とニコの手を引いてすたすたと足を動かしていく。
 はー、とため息をつく。俺が言うのもなんだけど、この人はたまに、子供じみたところがあるよなあ。
 これまでの成り行きをただ目をぱちくりさせて眺めていたニコは、戸惑ったようにこちらを振り向いて、俺と目を合わせた。
 一拍を置いてから、ちょっとだけ頬を赤く染め、えへへ、と口許を綻ばせた。



 確かに宿屋はあって、しかもこのあたりでは珍しく厩もあったが、法外な料金を要求された。
 マオールよりも、ゲナウよりも高い。相場の数倍の額に呆気にとられ、すぐには声も出ないほどだった。部屋は小さく、食事も出ず、厩だって馬が気の毒になるほど貧相なのに、よくもそんな値段を堂々と口に出せるなと感心するくらいだ。
 なんとか粘って交渉してみたが、あちらにまったく退く気がなかった。それなら他のところに行くと言っても、厩つきの宿屋はグレディールではここだけだよ、と薄笑いを浮かべられてしまう。こちらが三頭の馬を連れているのを知った上で、足許を見ているわけだ。
 やむを得ず、渋々その値段で了承する他ない。案内されて入った部屋は、外観から予想できた通り、壊れかけた寝台が並ぶだけの、なんとも侘しいものだった。
 陽も差さない窓からは隙間風が入り、一応燭台はあるが、油が少ないから火を点けてもすぐに消えそうだ。暗く、じめじめとして、すえた臭いまでがするこの部屋に、守護人を寝かせることになるのかと思うと気が重い。これじゃ、星があって、気持ちのいい風が吹き渡る分、外のほうがまだマシなんじゃないだろうか。
「良いところといえば、雨が降っても濡れない、というところでしょうかね」
 メルディが面白そうに室内を見回して言った。まあ、そう思うしかないよな。今のところ、雨が降りそうな気配はちっともないけど。
「あっちにしたら、旅人なんてもんは大事な金ヅルだからな。ここぞとばかりに搾り取ろうとするんだろうさ」
 ハリスさんも軽い調子で流して、「少し街を見てくる」 と部屋を出ていった。でしたら私も、とメルディが続く。
 馬を厩に連れていったロウガさんは、まだ戻らない。残った俺たちは、自然とニコを囲むようにして寝台の上に座った。

「……あのね、ニコ」
 ミーシアが、やわらかい声を出して、ニコに話しかける。
 その手には、大きな包みがあった。

「お家に持って行ってもらおうと思って、これを用意したの」
 差し出された包みを見て、ニコはきょとんとした。訊ねるように俺のほうを見たが、俺もそれが何か判らないので、首を傾げるしかない。なんだこれ。
「開けてもいい?」
「ええ、もちろん」
 承諾をもらって、ニコがたどたどしい手つきで包みを解いた。
 中から出てきたのは、菓子を含めたたくさんの食べ物と、数枚の洋服だ。
 わあ、と目を真ん丸にしてニコがそれらを手に取る。洋服は大半が今のニコが着ているのと同じ男の子用の上下だったが、一枚だけ、女の子のものもあった。
 色も、形も、守護人がハルソラの街で身につけた衣装とよく似ている。
「わあー、これ、オレに?」
「そうよ。ニコはとても可愛らしいから、きっとよく似合うわ。残念ながら作っている時間はなかったから、ニコと同じくらいの身の丈をした女の子のものを譲ってもらったのだけど」
 そういや、ハルソラを出てからというもの、立ち寄ったどの街でも、ミーシアが忙しそうに走り回っていたな、と俺は思い出した。食料を調達するためだとばかり思っていたが、その他にこれらのものを集めていたからだったのか。
「ぜんぶ、ミーシアさんが?」
「私から──ということにしておいて、と言われているわ」
 ミーシアがにこやかに笑いながら、わざとらしいことを言った。嘘のつけない性格だからというより、最初から隠す気がないのだろう。寝台の上で渋い顔をしている守護人を見て、俺は噴き出しそうになった。
「こんなにたくさん……あれ、まだ、他にも」
 服の下から、今度は硬いものが出てきた。文字や数字のたくさん書かれた、子供用の本だ。それから……
「……これ」
 ニコが大きく目を見開く。そうっと伸ばした手の先にあるのは、複雑な形に折り畳まれた、いくつかの白い紙だった。
「覚えてる?」
 守護人の問いに、大きく頷く。
「うん、覚えてるよ。これが 『ツル』、これが 『フウセン』、これが 『ヨット』……」
 ニコがひとつずつ、指で差しながら名前を口に乗せていく。俺は見たことも聞いたこともないものばかりだ。たぶん、ハルソラの街で、勉強の合間に守護人が作ってニコを楽しませてやっていたのだろう。
 複雑な形に折られた紙の一枚一枚を、ニコはよく覚えていた。

 ……きっとそれだけ、嬉しかったんだ。

「これ、ぜんぶ、もらっていいの?」
「全部、ニコのものだよ」
 守護人に言われて、ニコは長い息を吐きながら、紙細工の一つ一つを確かめるように手にして眺めた。
「でもオレ、こんなにもらっても、なんにも返せるものがないよ」
 困ったように眉を下げてから、何かを思いついたように、あっ、と短い声を上げ、目を輝かせる。
「あのね、オレ、綺麗な光る石を持ってるんだ。ずっと前に拾って、大事に取っておいたんだよ。オレしか知らない秘密の場所に隠してあるから、まだおじさんにも見つかってないと思う。それ、シイナさまにあげるね」
「ううん」
 守護人が首を横に振り、一瞬ためらったが、手を伸ばし、軽くニコの灰色の髪に触れた。
「それはニコの宝物でしょ?……わたしはもう、ニコからいっぱいもらったから」
 その言葉に、ニコが不思議そうに首を傾げる。
「オレが? けど……」
「ニコの強い心を、わたしはとても、尊敬してる」
 守護人はニコを見つめ、真面目な顔でそう言った。


          ***


 本当なら、理不尽に攫われた子供が無事に故郷に戻れたのだから、喜ばしいことであるはずだ。
 しかし、ニコを連れて、保護者であるべき 「おじさん」 と呼ばれる人物の住むところへ向かう段になっても、俺の心はまったく晴れなかった。
 ニコの姿を見た住人たちが交わす、「ニコだ」 「戻ってきたのか」 というひそひそ声に、まるで歓迎の色が乗っていなかった、というのも理由の一つに挙げられる。そこにあるのは、憐憫と、侮蔑の感情ばかりだ。石を投げてきた子供たちの会話からでも推し量れるものはいろいろあって、それはちっともニコの今後を安心できるような材料にはならなかった。
 今までずっとこんな街で暮らしていながら、ニコが明るさを失わなかったのは、それだけですでに奇跡に近い。

 本当に、ニコをこのまま返していいんだろうか。
 でも──

 その不安と迷いがあるのは俺だけではないらしく、道を歩く全員が口数少なくなっている。守護人に至っては、さっきからずっと無言のままだ。ニコは 「笑ってさよならを言ったらシイナさまは喜ぶかな」 という言葉を実践すべく、頑張って笑顔を浮かべようとしているが、その試みはどう見てもあまり上手くいっていない。
「……おい、トウイ」
 ハリスさんが俺のすぐ近くまで寄ってきて、こそっと声音を抑えて言った。
「感情的になるなよ」
「わかってますよ」
 そのくらい、注意されなくても俺にだって判ってる。ドヌクというのがどんな人柄であろうとも、一応これまでニコを育ててきたのはその人なのだ。なんの責任も負えない第三者が、その育て方や教育方針に、あれこれ口を出すわけにはいかない。その程度の常識は弁えている。
 せめて、ニコがこの街からいなくなったのは、本人にはまるで非のないものであったこと、帰すのが遅れたのはこちらの事情に付き合わせたからであることを十分に説明して、理解を得る努力をするくらいだ。
 ……それくらいしか、俺たちに出来ることはない。
「余計なことは言いません」
 重い息を吐きだすのを呑み込んでそう言うと、ハリスさんは頷いた。
「うん。いいか、何があっても(・・・・・・)、黙ってろ」
 何があっても、という部分を強調し、なぜかくくっと笑う。
「もしかしたら、面白いことになるかもしれないからな」
「はあ?」
「──神を必要としない人間には、じゃあ何が必要なのか、って話だよ」
 ハリスさんは、俺の耳元で囁くように低い声で言って、前を歩く守護人を素早く一瞥した。
 口は笑いの形になっているが、その目は笑っていなかった。



 しかし実際、ハリスさんと交わした約束を守るのは、並大抵ではない忍耐力を要した。
 ドヌクというのは、こちらが想像していた以上に、横暴で、居丈高で、人の話を聞かない男だったのである。ニコの姿を見るなり、眉を吊り上げて殴りかかってきたことからでも、この男が平時においてどんな態度でニコに接してきたのかが簡単に判ろうというものだった。
 ニコと守護人とミーシアを後ろに廻し、その前に俺たちが壁として立ちはだかっても、油断すればすぐに掴みかかってきかねない勢いで、罵声を飛ばしてくる。ロウガさんがそれをなんとか押しとどめ、辛抱強く説明を繰り返していたが、それも耳に入っているか定かじゃないくらいだった。
 どちらかといえば背が低く、体格でいえば、ロウガさんが手を振っただけで飛んでいきそうなほどの差があるというのに、ちっともそれを気にするようでもない。
 それほど頭に血が昇っているのか、それとも自分に逆らう人間がいるはずがないと信じ切っているのか。

 ニコは大きな包みを両手でかき抱くようにして、養い親の言葉を、青い顔で聞いている。

「おいニコ! お前、なに隠れてやがる! さっさと出てこないか! 今まで育ててやったのに、この恩知らずが! これまで食わせた分の金も払わないで逃げやがって!」
「ちょっと落ち着いて、話を──」
 堂々巡りになりつつある話に、ロウガさんもげんなりしているのが見て取れた。ハリスさんは知らん顔でただ立っているだけだし、メルディは少し離れた位置で見学に徹している。俺はひたすら自分の中に湧き上がってくる怒りを押さえつけるのでやっとだった。
 ドヌクという人物は、この街では実力者のうちに入るのだろう。小さな家がゴタゴタと立ち並ぶ景色の中で、その住居はひときわ大きな建物だった。端が欠けてもおらず、崩れてもいないそれは、綺麗な四角形を保っている。それだけでも、裕福さの証だ。
 なんの仕事をしているのか、外からはまったく判らないのだが、店を出しているわけではないらしい。建物の奥から馬のいななきが聞こえるから、この街の中で商売をしているのではないかもしれない。
 建物の外の道には他の場所と同じように、不要物らしきいろんなものが放り出してある。水の溜まった大きな甕といい、くるくると丸まった長い敷物といい、他の家では見られないようなものも多かった。

 子供を育てる余裕は十分にあるはず。それなのにその口から出てくるのは、二言目には、金、金、そればかりだ。

「ニコ!」
 野太い怒声が響いて、びくびくと身を縮めたニコが、じりっと一歩前へ出てきた。
「お、おじさん、ごめんなさい……けど、しょうがなかったんだよ、オレ、いきなり、目と口を塞がれて」
「デタラメぬかすな! 働くのがイヤで、この街から逃げようとしたんだろうが!」
「だからそれは違うと……」
「ふん、あんたらもご苦労なこった、こんなガキの嘘にコロッと騙されて。こいつは前々から俺のところから逃げだす機会を窺ってたんだよ。頭は悪いくせに、そういう知恵ばかりは廻るんだから、まったく手に負えねえよ」
 荒い息を鼻から洩らして、ぺっと脇に唾を吐く。
「灰色髪の子供を育てるのに、今まで、どれだけの金がかかったと思うんだ? 本当なら、そこらで野垂れ死んでたところを拾ってやったんだぞ、一生を費やして感謝しても足りないくらいじゃないのかい」
「…………」
 ああ? と威嚇するように声を出されて、眉を寄せたロウガさんが口を噤んだ。俺も唇を引き結び、左手でぐっと剣の鞘を握りしめる。
「それをこのガキときたら、何かっちゃ、仕事の手を抜くことばかり考えやがってよ。やっぱり混血の出来損ないなんざ、どいつもこいつもろくでなしばっかりさ」
 そこまで忌々しそうに言ってから、ふいに、ドヌクが分厚い唇をにやりとまくり上げた。醜悪な笑い方だった。
「……そんな役立たずの出来損ないでも、俺がこの家に置いてやってたのはなぜだと思う? 髪はこうだが、こいつの顔は悪くないからな。将来見栄えがよくなるだろうと期待して、我慢して傷もつけないでおいてやったのさ。まあ、灰色の髪の女がどこまで客を取れるかは判らないが、世の中には物好きな野郎もいるからな、それまでこいつにかけた食費分以上の金くらいは稼げるだろう。それなのにこのガキときたら──」
 その時だ。

 ガッシャーン! という、街中に響き渡りそうな大きな音が後ろから聞こえた。

 今にも剣の柄に向かいそうな自分の手を必死に制御しているところだったので、心臓が飛び出そうなくらい、仰天した。一瞬、無意識のうちに身体が勝手に動いて、何かを破壊してしまったんじゃないかと思ったほどだ。
 もちろん、違う。
 動いたのも、破壊したのも、俺ではなく、背後の守護人だった。
 さっきまでただひっそりと立っていたはずの守護人は、いつの間にか抜かれた神獣の剣で、傍らにあった大きな甕を叩き割っていた。
 彼女の腰ほどはあろうかという大きくて重そうな甕が、見事に真っ二つだ。中に溜まっていた水が溢れだして、彼女の下半身をびしょ濡れにしているというのに、そのことを気にする素振りもない。
 剣を振り下ろし、甕をかち割った態勢のまま、守護人は無言で静止している。俯いているので顔は見えないが、全身から立ち昇る空気がやけにドス黒いのは、おそらく俺の気のせいじゃないと思う。
「やったな」
「やりましたねえ」
 ハリスさんとメルディが、二人して口に手を当て、肩を震わせている。ロウガさんはまたしても余所を向いて見ないフリ、ミーシアもだ。俺は迷ってから、やっぱり同じように一歩下がって明後日の方向に目をやることにした。


 ──うん。
 たぶん、これでいいんだ。


 守護人は、地面に向けていた顔を上げ、目の前の男に真っ向から視線を向けた。
 頭を覆う布の下から、黒々とした眼がまっすぐに射抜く。ドヌクがつい後ずさったのも、無理はない。
「……いくらです?」
 守護人に静かに訊ねられ、びくっと反応したドヌクが、さらに後方にいざった。
「な、なに?」
「あなたがニコを育てるのにかけた費用です。いくらですか」
「そ……そんなの、あんたに、何が」
 どうやらドヌクはすっかり度を失っているらしい。この男の子の恰好をした人物が何者なのかと頭の中では考えているのだろうが、彼女の発する強烈な覇気に当てられて、まともに口もきけないようだった。
「だったら、これで」
 肩から下げていた鞄の中から、ガレ硬貨の入った布袋を取り出した。これまでの旅で半分くらいは使ったろうが、それでもその袋は、まだずっしりとした重みがある。
「言っておきますが、このお金でニコを買う、というわけじゃありません」
 放り投げるように袋をそのまま渡して、守護人は身を屈めると、茫然と立ち竦んでいるニコを両手で抱き上げた。同じく茫然としたままのドヌクが、手にした袋と彼女たちとを見比べる。
「これですっぱりと縁切り、ということです。今後一切、ニコには関わらないでください。このヒヒジジイが」
 最後にぼそりと悪態をついて、守護人はニコを抱いたまま、くるりと踵を返した。

「……ニコは、わたしがもらいます」

 その言葉を聞いた時のニコの顔を、俺はきっと、一生忘れないと思う。
 目も口もくしゃくしゃに歪め、うわあん、と大きな声を張り上げて、透明な珠のような涙の粒をぽろぽろと落として。
 ──あんなにも幸せそうに泣く人間を、これまでに一度も、見たことがない。


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