リライト・ライト・ラスト・トライ

第十六章

4.返済



 翌日になると、熱は完全に下がった。
 メルディさんが作ってくれた薬湯の効能もあってか、体調も戻った。ロウガさんからの許可も下りて、これでようやく、グレディールの街を出発できる。
 結局、予定より数日もオーバーして、ここに滞在していたということだ。他にお客さんが入る見込みもなかったらしい宿屋の主人はホクホク顔で代金を受け取ると、わざわざ厩から馬を連れて来て見送ってくれた。部屋の鍵だけ渡して、「あとは勝手にどうぞ」 という感じだった最初の態度を思えば、サービスの大盤振る舞いといったところだろう。宿代が相当なぼったくり金額なので、主人の満面の笑みに、ロウガさんは苦々しそうな表情をしていたけど。
 馬上では、自分の前にぽっかりと空いたスペースを詰めるようにして鞍に座った。ニコは小さいからそんなに場所をとっていたわけではないものの、やっぱり三人と二人ではぜんぜん違う。馬も一人足りないことが判るのか、長い首を後ろに捻って、しきりと気にするような素振りを見せていた。
 わたしはその馬の首筋を、ゆっくりと手で撫ぜた。
「──行きましょう」
 その合図で、三頭の馬が同時に歩き出す。グレディールの門をくぐるまで、誰も何も言わなかった。
 街を出ても、一度として後ろを振り返らなかった。
 ……ただ、最後に、ニコのお墓がある方向を見返った。
 そうしたら、後ろにいるトウイも、同じようにそちらに視線を向けていた。
 唇を引き結んだ、厳しい横顔。
 今、彼の胸の中にあるものは、きっと、わたしとは違う。


          ***


 ここまで来たら、草原地帯までの距離は、もうそんなに多くない。
 そこに着けば、実質、この旅の折り返し地点に到達したということになる。わたし以外の人たちは、着いた時点でほぼ旅の目的は達した、と考えているだろう。失ったものはあったけれど、収穫もまたあった。あとは神ノ宮へ引き返すだけだ──と。
 でも、一行の雰囲気に、「もうすぐ目的地」 という浮かれたものはまるでなかった。普段と変わらないメルディさんはともかく、みんなしてずるずると重いものを引きずっている。表面上だけでも、「いつも通り」 を保たせようとしているのはよく伝わってくるけれど、会話はぶつ切りでちっとも続かず、浮かべる笑みもぎこちない。
 トウイはふとした拍子に虚空に目を向けるようになり、ハリスさんは考えごとをしているのか黙り込むことが多くなった。


 草原地帯に近づくにつれ、街の数はだんだん少なくなっていった。
 荒廃も、酷くなっていく一方だ。
 以前は馬で進んでいればそのうち街が見えてきたものだけど、行けども行けども街を囲む壁が見えてこない、ということもよくあった。街はあっても、住人が離散してしまったのか無人のところも見かけた。放置されたまま捨てられた畑も多い。
 そんな状態では、小さな街だと載ってもいないような地図に頼るわけにもいかず、ひとつ街を見かけたら必ず立ち寄り、可能な限り物資の補充をして、住人にいちばん近い街はどこかと訊ねながら進む、という方法を取らざるを得ない。場合によっては回り道になることもあり、結果、余計な時間がかかる。
 距離的にはそんなに遠くないはずなのに、じりじりとしか前に進まないというのは、精神的にも負担だ。その上、たまに立ち寄る街はどこも貧しく、滅多に見ない旅人に対する警戒と悪意が、無数の針のように突き刺さる。下手をすると襲いかかって来そうな物騒な空気も孕んでいたりして、ピリピリと緊張し通しでいなければならない。
 疲労が現れているのはどの顔も同じだけれど、特にミーシアさんは、日ごとに、全身を覆う憔悴の色が濃くなっていくようだった。


「あそこに川があるので、休憩しましょう」
 ロウガさんの声に、一同から安堵の息が零れた。
 ここしばらく難所続きで、ろくに身体を休めるヒマもなかったのだから無理もない。このあたりは人家も畑もないような荒れ地だけど、さらさらと流れている川は底が見えるほどに透き通って、飲み水としても問題なさそうだった。
 全員が馬から降りて、大きく息を吐きだしたり、屈伸運動をしたりする。ミーシアさんが、「残り少なくなっていたからちょうどよかったわ」 と、瓢箪のような形の飲み物を入れる器を手に、いそいそと川に寄っていくのを見て、わたしはそのあとをついていった。
 川べりにミーシアさんと並んで腰を下ろす。後ろにちらっと目をやってみたら、他の人たちはそれぞれ座ったり、馬の面倒を見たりと、バラバラに散らばっていた。障害物のない見通しのいい場所だから危険もあるまいと思っているのか、特にこちらには注意を向けてはいないようだ。
 この距離なら、声も聞こえないだろう。
「まあ、シイナさま、ご覧くださいませ。なんて綺麗な水」
 器を満たす前に、ミーシアさんは手の平に水をすくって嬉しそうに目を細めた。本当ですね、と同意し、わたしはばしゃばしゃと音をさせて勢いよく顔を洗った。
「気持ちいいですか?」
「とっても」
 わたしの返事に、頷いて微笑む。神ノ宮であんなにもふっくらとしていた彼女の頬は、大分肉が削げ、健康的なピンクだった顔色も、今はずいぶんと青白い。
「シイナさま、お身体の調子はいかがですか」
 自分のほうこそ病人に見えそうなくらいなのに、ミーシアさんは気遣うようにわたしを覗き込んで、問いかけた。
「もうすっかり元気です」
「無理をなさらないでくださいね。体力が落ちた病後にはイルマの乳がとても良いのに、お出しできないのが残念でなりません。次の街で手に入るといいんですけど」
 器を傾けて川の水を入れながら、心配そうに言う。
 非常に栄養価が高いというイルマの乳は、最近めっきりお目にかからなくなった。臭いがあってクセも強く、はじめのうちは苦手だったけれど、神ノ宮を出てから毎日のように飲んでいたからか、今になるとちょっとだけあの味が懐かしい。
「わたしが熱を出していた時、ずっとミーシアさんがお世話をしてくれたそうですね。ありがとうございました」
 寝たり起きたりの繰り返しで、何もかもが曖昧になっていたあの時、ほとんど寝ずに看病してくれていたのはミーシアさんだとトウイに聞いた。そのことに対するお礼を述べると、ミーシアさんは 「まあ、いいえ」 と慌てたように手を振り、その拍子に持っていた器をぼちゃんと川の中に落とした。
 少しおっちょこちょいなのは、相変わらずだ。

 毎回、毎回、どの扉の中でも。
 ミーシアさんはいつも、ちょっとドジで、ちょっとニブくて、朗らかで、優しい。

「そんな、とんでもございません。それに、私だけではありません。トウイもずっと部屋の扉の前で座り込んで、何度言っても、そこから動こうとしませんでしたのよ。……兄も、ハリスさんも、メルディも、みんな」
 そこまで言って、何かが喉に詰まったように言葉を切り、下を向く。わたしは、落ちてしまった器を川の中から救出するミーシアさんの手を見ていた。白くてすべすべだった綺麗な手も、いつの間にかこんなにも荒れてしまった。
「……わたしがお母さんだと思っていたのは、ミーシアさんだったんですね」
 そう言うと、器を拾い上げた手が、ぴたりと動きを止めた。
「そう、でございましたか?」
 再びゆっくりと川の中で器を傾けはじめたミーシアさんは、そこに目をやったきり、こちらを見なかった。もう器の中は水で満たされて、それ以上は入らなくなっているのだろうに。
「わたし、おかあさん、って呼びましたよね」
 意識と記憶が混濁していたわたしは、目の前にいた優しい女の人を、自分のお母さんと取り違えた。頭のはっきりした今ならわかる。そう呼ばれて泣きそうな顔をしていたのは、間違いなく、ミーシアさんだった。
「……高いお熱が出ていらっしゃいましたから、いくつかうわ言のようなものを口に出されておられたかもしれません」
「熱で朦朧としていたのは確かですが、あれはうわ言なんかじゃありません。わたしは、ずっと──」
 ひとつ息を吐いてから、ミーシアさんのほうに向き直る。

「ずっと、ミーシアさんのことを、『母親の代用品』 として見てました」
「…………」

 ミーシアさんは口を閉じて、何も返事をしなかった。器を持った手は川の中に浸かったままで、これでは冷え切ってしまう。
「顔が似ているとか、そういうことじゃないんです。ミーシアさんの全体的な雰囲気が、わたしにとっての 『母親』 を思い起こさせたんです。ミーシアさんを侍女に選んだ時からずっとそう思ってました。いいえ、ミーシアさんを侍女に選んだのは、そういう理由があったからです。この人なら、わたしの母親の代わりになってくれそうだから。ただ、それだけだった」
「…………」
「ミーシアさん自身の資質を見て選んだわけじゃありません。逆に言えば、母親の代用品になってくれるような人なら、ミーシアさんでなくても誰でもよかった。わたしはどこまでも、自分のことしか考えていなかったんです。今も、自分のことしか考えていません」
「…………」
 器を持った手を、やっと水中から引き上げたミーシアさんが、こちらを向いた。内心でほっとしつつ、その視線を正面から受け止める。
「なぜ、今になってそのようなことを仰られるのですか?」
「目が覚めた時に、ミーシアさんはわたしの本当の母親とは違う、ということを再確認したからです。やっぱり違う、と。あなたは、わたしの母親にはなり得ない(・・・・・)。そのことに気づいた。ミーシアさんは 『母親の代用品』 としての意味を失いました。わたしには、もう──必要ないんです」
 視線を合わせ、必要ない、ときっぱり言うと、ミーシアさんの口許がぐんにゃりと歪んだ。
「それで……それで、どうしろと仰せなのですか」
 声は震えているけれど、そのひたむきすぎるほどの瞳は、まっすぐこちらに据えられて、動かない。ここから逃げずに踏ん張るのは、相当な意志の力が必要だ。わたしは無表情を保ったまま、お腹に力を入れた。
「神獣の守護人の侍女としての仕事は、充分すぎるほどに果たしてもらいました。これ以上は明らかなオーバーワークです。次に街を見つけたら、ミーシアさんはそこで待っ」
「いやでございます」
 返事は、最後まで言い終わらないうちに、ものすごい勢いではね返ってきた。
「……そこに置き去りにするわけじゃなく、わたしたちが草原地帯に行く間、ちょっと休んでいてくださいというだけの話です」
「いやでございます」
 ミーシアさんのこの目この顔この口調、時々出てくるアレだ。兄バカのロウガさんはもちろん、トウイもビビって腰砕けになっていたやつだ。額を押さえて唸り声を上げるしかないロウガさんの気持ちがよく判る。
 唸りはしないけど、わたしも額を押さえて深いため息をついた。
「ミーシアさん……」
「いやです」
「一緒に来られたら足手まといだからと言っても?」
「いやです」
「邪魔だと言っても?」
「いやです」
「──お願いします、と手をついて頼んでも?」
「…………」
 今度は、いやです、とは来なかったが、堪えきれなくなったのか、ぼろぼろと涙を落としはじめた。
 この時点で、すでにわたしの敗北は決定的になったも同然だ。何度も扉を開けてきたにも関わらず、わたしがミーシアさんのこの顔に勝てたことは、ただの一度もない。
「わ、わ、私、が」
 しゃくり上げながら、真っ赤な顔で、ミーシアさんはつっかえつっかえ、懸命に言葉を喉から絞り出した。

「あ、足手まといであることも、邪魔であることも、重々承知しております。そんなことは、旅に出た最初の頃から、わかっておりました。でも、いやです。も、もう、シイナさまに置いて行かれるのは真っ平です。私はトウイのように、シイナさまの手を止めさせることは出来ません。ですが、いいえ、だったらせめて、次からは、一緒に行きます。剣を持つシイナさまの後ろに立って、振り下ろすその先を見届けます。シイナさまが受ける血も傷も、私も共に受けます。それはシイナさまが、神獣の守護人だからではありません。私が侍女だからでもありません。そっ、そのことをどうか、わかってください……!」

 泣きながら、ミーシアさんが顔を伏せる。わたしはその頭のてっぺんにあるつむじを、無言で見つめた。
「……わたしが、ミーシアさんを母親の代わりとしか見ていなくても?」
 ぽつりとそう言うと、ミーシアさんはまたぱっと顔を上げた。今度ははっきりと眉が上がっていた。
「もちろん、それでよろしいのです。なぜそれを、いけないことのように言われるのです? なぜご自分の罪のように思われるんですか。異なる世界にやって来られて、故郷や家族を愛しくお思いになるのは当然のことではありませんか。私でよければ、いくらでもそのように思われていいのです。シイナさま、申し上げますが、そんなことでご自分をお責めになるのは間違いです。ええ、断言しますとも。それは、間違いです!」

 今まで、一度としてわたしの言葉を否定したことのなかったミーシアさんが。
 間違いだ、と何度も繰り返した。

「侍女としての私も、母親の代わりとしての私も必要ない、と言われるのでしたら、ただのミーシアとして、一個人の私として、シイナさまと一緒に参ります」
 ミーシアさんは毅然とした口調で言いきると、ぐいぐいと服の袖で顔を拭い、水を入れた器を持って立ち上がった。
 馬のほうへと向かっていくその後ろ姿を見やってから、わたしは川のほうへと顔を戻す。
 透明な水は太陽に反射して、きらきらとした光を放っていた。あんまり眩しくて、目が痛い。
「──シイナさま」
 少しして後ろからそっと声をかけられても、わたしはそちらを振り向かなかった。誰なのかは見なくても判る。
「ミーシアが、また何か」
 いつものことながら心配性だね、ロウガさん。いや、いくら声は聞こえなくても、さすがに何かがあったことくらいは、みんなにもバレちゃったか。

 あーあ。
 わたしがすることは、いつも上手く進まない。

「ロウガさん」
 川に顔を向けたまま、呼びかけた。後ろで、律儀に 「は」 と返事がある。
「以前、わたしに言ってくれたこと、覚えていますか」
 ぼそぼそと小さな声で話しているので、聞き取りにくいだろう。でも、これ以上音量を上げるわけにはいかない。後ろのロウガさんからは、少し困惑するような気配が伝わってきた。
「以前、と仰いますと」
「サザニの街を出た後で、『この恩を忠誠に代えて仕える』 と」
 ロウガさんはさらに困惑したらしい。「もちろん覚えておりますが」 と答える声には、訝しげなものが混じっている。けれど、わたしが彼を見ないまま話していることで察してくれたのか、ロウガさんの声もみんなには聞こえないように低く抑えられていた。
「あれはまだ、有効でしょうか」
「有効?」
「あの時、今までと同じように、と言いましたが、それを変更することは可能でしょうか」
「…………」
 少し黙ってから、ロウガさんは慎重な口ぶりになった。
「変更、と言われますと、どのように」
「今後、わたしはたぶん、ロウガさんにお願いをします」
「は?」
「わたしのたったひとつの、最初で最後の、お願いです」
「お願い……それは、どのような」
「今は言いません。でもいつか、近いうちに」
 わたしは目の前の川の、澄んだ水だけを見つめて、続けた。
「その時、ロウガさんには、何も言わず、何も聞かず、何も反論せず、必ず、そのお願いをきいてもらいたいんです」
「……命令、ということであれば」
「命令じゃありません。お願いです。でも、わたしの心からのお願いです」
「…………」
 ロウガさんは無言になった。どう答えていいものか、迷っているのだろう。当たり前だ。何かは言えないけどとにかくその時になったら黙って言うことを聞いて、なんて、滅茶苦茶な言い分だ。自分でも呆れるくらいだ。
 でも。
「──承知しました」
 しばらくの沈黙の後、ロウガさんから返ってきたのはその言葉だった。それ以上のことは、何も言わなかったし、聞かなかった。
 ややあって、ロウガさんもその場所から立ち去っていく足音がする。
「…………」
 水面で踊る、白い光が眩しい。
 わたしはぐいっと自分の腕で目をこすった。


 「この扉」 を開ける時、思った。
 これが最後、だと。



          ***


「──どうやらここが、草原地帯のようですねえ」
 その場所に到着して、そんな第一声を発したのはメルディさんだった。長い時間をかけて旅をしてきて、ようやく辿り着いた目的地を見た最初の言葉にしては、間が抜けている。
 わたしは身じろぎもしないで、馬上から目の前に広がる、その景色に見入っていた。

 これが、草原地帯。

 その呼称に偽りはない。確かにそこは一面の草原だ。
 ……でも、想像していたのとは、かなり違った。
 わたしのイメージでは、もっと牧歌的な眺めだと思っていた。一口で人間を食い殺してしまう妖獣たちが住み着いているのだとしても、それらが外に出てこないのならば、光景としては穏やかなものなのかな、と。
 たとえば、もとの世界の教科書に載っていたモンゴル高原であったり、映画に出てくるような見渡す限りの緑の芝と青い空であったり、子供の頃両親に連れられて訪れたのどかな牧場のようなものであったり。

 そんなものを頭に思い描いていた身としては、自分の身長よりもずっと高い丈の草が密集して生え、その先なんてちっとも見通せない、眼前の 「草原地帯」 には、ただもう呆気にとられるばかりだ。

 確かに、草、だよね。太く硬い幹はないし、地面から緑のものがにょっきり上まで伸びているのだから、これを樹木とは言えない。サイズが違うだけで、形としては雑草っぽいし。
 そういう草地が果てが見えないほど延々と続いているのだから、草原といえば草原だ。そうとしか呼べないだろう。 
 でも、これじゃ、ほとんど密林と変わりない。
「なんていうか……すごいですね」
 わたしの後ろで、トウイも唖然として言葉に詰まっている。他の人たちの顔の上に乗っているのも、似たような驚きと当惑だった。彼らも草原地帯をその目で見たのははじめてということなので、考えている内容はわたしとそう大差ないらしい。
 トウイに手を貸してもらって、馬から降りる。
 ニーヴァ国の領土と、草原地帯の境界は、非常にくっきりと明確だった。ごろごろとした石の転がる砂地が、ある地点からいきなり、丈高い草に覆われはじめるからだ。同じ気候、同じ環境条件で、こんなことってあるのだろうか。
 ニーヴァと草原との間は、太い鉄線のようなもので仕切られている。これがすなわち、国境、ということなのだろう。

「なんだい、あんたら。旅の人かい」

 わさわさと茂っている三メートルくらいはありそうな 「草」 を、半分くらい口を開けながら見上げていたら、背中から軽い調子で声をかけられた。
 そちらを見ると、ひょろりと痩せた三十代くらいの男の人が、気楽な様子でひょこひょこと近づいてくるところだった。わたしのすぐ隣に立つトウイ、そして馬から降りたロウガさんとハリスさんが、さりげなく剣の柄に手をかけたことにもまったく気づかず、無警戒だ。鈍感なのか、逆に大変な手練れなのか。
「草原地帯を見物かい? こんな何もないところに、ヒマなこったねえ」
 男の人は、目許に皺を寄せて笑った。口には細く長いストローみたいなものを咥えていて、先端から白い煙が上に向かって伸びている。こちらの世界の煙草かな? というか、煙管と言ったほうがいいか。どちらにしろ、はじめて見た。
「言っておくが、その柵を越えて手を伸ばしちゃいけねえよ。その途端、妖獣にばっくりと噛みちぎられることだって、ないとは言えないからねえ」
 唇に煙管をぶら下げたまま喋っているので、今ひとつ発音が不明瞭だ。へらへら笑っているけど、その目を見ると、忠告自体は冗談というわけでもないことが窺える。この鉄線は、動物園の檻的な意味もあるらしい。
「こんな近くまで妖獣が来ることもあるんですか」
 わたしが訊ねると、男の人は笑い声を立てた。
「そりゃあ、この草原地帯は妖獣たちの住処だからね。どこをどううろつき回ろうと、そりゃ連中の勝手ってもんさ。こちらからは見えないだけで、坊主のすぐ後ろに来ているかもしれないよ?」
 からかうように言って、唇の端から白い煙を吐き出す。
 わたしは草の向こうに目を凝らしてみたけれど、やっぱり何も見えなかった。ガサガサと草が動くとか、生き物の気配を感じるとか、そういうこともない。あたりは静けさに満ちていて、本当にここに恐ろしい妖獣が暮らしているのかと疑問に思ってしまうほどだ。

 腰を一瞥したが、マントの下の神獣の剣は、とりたてて何の反応もない。

「あんたはこのあたりの住人か?」
 ハリスさんの問いに、男の人はあっさり 「いんや」 と答えて、首を曲げて顔で後方を示した。
 その先には、三階くらいの高さの、小さな塔のようなものがぽつんと建っている。
「あれが草原地帯を見張る砦さ。俺はあそこの番人をしてる」
「砦の番人……」
 わたしは呟いた。なるほど、それでこの人は、何も知らない無知な旅人が誤って草原地帯に踏み込まないようにと、警告がてら注意をしに来たのか。
 トウイたちも納得したのか、警戒を解いてそれぞれ柄から手を離した。同時にその場の空気も変わったのがわたしにも判ったのだけれど、男の人はやっぱり何も気づかないまま、のんびり煙を吐いている。砦の番人っていうのは、こんなに呑気な性格でも務まるものなのか、と感心した。

 ──きっとそれだけ、何もない毎日が続いている、ということだ。

「番人って、一人で?」
 今度はトウイが口を開いた。おそらく彼も、こんな頼りなさそうなのが番人で大丈夫なのかと思っているのだろう。
「いんや、番人自体は俺の他にあと何人かいるよ。けど砦には一人いりゃ十分だからね。普段はいちばん近い街に住んで、交代制で詰めてんのさ」
「一人で十分、なんですか」
 わたしが訊くと、男の人は煙管を咥えたまま両手を広げた。
「だろう? 毎日毎日、変わり映えのしない草原地帯を眺めているだけの仕事だ。やることなんて、なーんにもありゃしねえ。退屈を持て余すことはあってもな」
「ここを訪れる人はいませんか」
「たまーに、あんたらみたいな物好きな旅人が来るくらいかね。あとは、自分を殺したいやつか。俺だったらそんな死に方は御免だが、稀に世の中には、自分の死体を骨も残らないほど妖獣に始末してもらいたい、なんて思うのもいてね」
 青木ヶ原の樹海みたいな扱いなのか。
「こっそり入っていくことは可能、というわけですね」
 男の人は、はははと笑った。
「死にたきゃあな。俺らはまあ他にやることもないんでね、見つけたら声くらいはかけるが、どうしてもこの中に入りたいってやつを止めることまではしない。番人の仕事は、草原地帯に異常がないかどうかを見張ることだからな」
「…………」
 わたしは口許に拳を当てて、目線を地面に向けた。

 つまり、大きな危険は伴うとしても、草原地帯に入ること自体はいくらでも出来る、ということだ。もっと厳戒な侵入禁止の態勢が敷かれているのかと思っていたけれど、まったくそんなことはなかった。
 それほどまでに、人々は、妖獣が草原地帯から出るはずはないと信じ切っている。

「──あの、砦の中を見せてもらうことは出来ませんか」
「んん?」
 わたしの頼みに、男の人は目を瞬いて、首を傾げた。んー、と考えるように声を出し、両手を腰に当てる。
 ふいに、にやりと笑った。
「砦ん中に一般人を入れるのは禁止されてんだよ。とはいえ、街から食料を運んでもらったりすることもあるし、タチの悪いやつだと女を連れ込んでよろしくやってるのもいたりするから、あくまで建前として、ということだがね。……ま、俺の場合は条件次第かな」
「じゃあ、決まりですね」
 お金の交渉事が上手なハリスさんに目を向けると、やれやれという様子で肩を竦められた。こういう人は、話が簡単でいい。
 二人がひそひそと話をまとめている間、わたしは目の前の草の壁をじっと眺めていた。

 八ノ国、妖獣の国。
 この中には、何があるのか。
 それとも、何もないのか。


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