リライト・ライト・ラスト・トライ

第十七章

5.廻る輪



 守護人が俺を見た。
 真っ黒で、大きく深い瞳が一直線にこちらを向く。さっきまで流していた涙で出来た透明な膜がゆらゆらと揺れて、澄んだ泉のような光を放っていた。
「……本当に、勝手ですね。自分でもそう思います」
 少し苦笑しながらそう言うと、守護人は目を伏せた。
「でもねシイナさま、人ってのは、生きている限り、幸福を求めるものなんじゃないですか。生きるってことは、幸せになれるよう努力するってことと、ほぼ同義だと言ってもいい。みんな、そうやって生きてる。誰かに救って欲しい守って欲しいと思うのは、自分が幸せになりたいからだ。誰かの幸福を妬むのは、自分も幸福を得たいからだ。違いますか?」
「…………」
「俺だってそうです。シイナさまに笑って欲しいと思うのは、それを見たら自分が幸せな気分になれることをよく知ってるから」
 だから願う。だから望む。
 勝手だけれど。
「……どうしたら、シイナさまは笑ってくれますか」
 その問いに、守護人は口を引き結んだ。
 地面を向いて、小さく首を横に振る。拒絶というよりは、他にどうしていいのか判らないからそうしている、ように見えた。
「じゃあ言い方を変えます。シイナさまはどうしたら、自分が幸せになれると思いますか」
「……わたしは、そんなの」
「望まない? どうして、自分の幸福まで放棄しようとするんです? まるで自分には、そんな権利がないと思っているみたいに」
 黒くなった指が、びくりと痙攣するように動いた。
「前々から思ってた。シイナさまは、どうして──」
 俺は、下に向けられた彼女の顔を覗き込む。

「どうして、何もかもを自分のせい(・・・・・)であるように考えるんです?」

 ずっとそうだった。いつだって、たくさんの死や流れていく血に、傷つき、打ちのめされ、それを表に出さないようにしながら、守護人が小さな声で呟くのは、「ごめんなさい」 ばかりだった。
 直接手を下したのが別の人間でも、すべての責任は自分にある、とでも言いたげに。
「それは……」
 守護人がうな垂れたまま、何かを言いかけ、口を噤む。言っても無駄だと思っているのか、それとも、言いたくても言えない事情があるのか。せめて後者だと思いたい。
「シイナさま、これだけは言っておきます。たとえこの先ニーヴァが滅んだとしたって、それはあなたの責任なんかじゃない。いや──誰にも、他人の行動、他人の人生の責任を取るなんて、そんなことは出来ないんです」
 なにもかも全部を背負い込むことなんて。
 神獣だって幻獣だって──神と呼ばれるものでさえ、見ているだけなのに。ちっぽけな人間に、そんなことが出来るはずがない。
「ニーヴァのことは、ニーヴァの民がなんとかすべきことだと、俺は思います。どこかで違う道に入ってしまったのなら、それを正すのも自分でなきゃいけない。誰かのためではなく、自分のため、自分の幸福のために、己の頭と手足を使って考えなきゃいけないんだ」
「…………」
 守護人がゆっくりと顔を上げる。俺はその目を真っ向から見て言った。

「だからあなたも、自分の幸せを考えて欲しい。あなた自身が幸福になるためにどうしたいのか、言ってください」

 大きな瞳見開き、守護人は俺を凝視した。
「──わたし、は」
 次の言葉を発するために彼女の唇が開きかけた時、唐突に、建物の入り口脇にいた妖獣が動いた。
 今まで何をするでもなくただ座っていた妖獣が、いきなり後ろ脚をまっすぐにして立ち上がったことに、俺も守護人もぎくりとした。二人して咄嗟に腰の剣に手をやり、妖獣の動向を窺う。
 だが妖獣は、俺たちのことになんてちっとも関心を払わなかった。見ている先は前方の生い茂っている草の向こう。金色の目は警戒しているのか怒っているのかも不明だが、じっと顔をそちらに向けて、何かを聞き取ろうとしているかのようにわずかに耳をぴくぴくと動かしている。
 何かがいるのか。ひょっとして、別の妖獣が近づいてきたのか。俺の耳には、草の揺れる音すら拾えず、その分だけ緊張が増す。身を低くしたまま剣の柄を握り、地面を擦るようにして守護人の前に出た。
「シイナさま!」
 後方からの大きな声に、心臓が飛び出そうになる。
 なんなんだ、次から次へと。
 バタバタと賑やかな足音を立てて外まで出てきたのは、ミーシアとロウガさんだった。 ちらっと妖獣のほうを一瞥したが、そちらは二人に目もくれず、同じ姿勢を保ったまま、何かに注意を向けている。妖獣が見ているほうに背中を向けないようにして、俺は守護人を庇いながら、じりじりと後退した。
「どうしました」
 一転して厳しい表情になった守護人が訊ねる。すっかり動転しているようなミーシアの腕を、しっかりと掴んだ。
「げ、幻獣が」
「アレのことはどうでもいいです。何かありましたか」
 すっぱりと幻獣のことを脇に追いやる守護人の目は、ミーシアの頭からつま先まで、異常がないかと辿るように動いている。とりあえず、彼女の心配や気遣いというものが、これっぽっちも幻獣には向いていない、ということだけはよく判った。
「ち、違うんです。何かあったのは私ではなく、草原地帯のほうなんです」
 はあ?
 ミーシアはどうやら相当混乱しているらしく、説明しようとすればするほどわけが判らない。俺と同じく戸惑う表情になった守護人は、ミーシアから、その後ろにいるロウガさんへと目を移した。
 怖いくらいの真顔をしたロウガさんが頷く。

「──シイナさま、幻獣がたった今、『草原地帯に人が入った』 との啓示を下しました」

 その言葉に、俺と守護人が同時に息を呑んだ。
「人が……」
「今? 俺たちとは別に?」
 俺を見返して、「そのようだ」 と肯うロウガさんにも、はっきりと詳細が判っているわけではないらしい。ひどく難しい顔つきで、視線を周囲にぐるりと巡らせる。
「俺たちにはまったく何も掴めない。ずっと黙っていた幻獣がいきなり口を開いて、そう言ったんだ。『招かざる者が草原地帯の中に二人入り、一人は出ていった』 と」
 二人入り、一人は出ていった。
 ……じゃあ、もう一人は?
「どこか別のところを見ているようだったが、その時の幻獣の目に、何が見えていたのかも、さっぱり判らない。どのあたりに、と訊ねたら、かろうじて、『ドランゴとの境界近く』 とは答えてもらえたんだが、それっきりまた黙ってしまった」
 大地の国、ドランゴか。
 草原地帯は世界の中央にあって、七国すべてと隣接している。しかしニーヴァの境界からここまで来た道のりはとても一般的であるとは言い難いため、方向感覚がまるで掴めない。太陽の位置で測りたくとも、伸びた草が頭上を覆って、よく判らないときている。
 果たして、どちらにどの国があるのかも──いや。
 はっと気づいて、俺は傍らの妖獣を振り仰いだ。
 妖獣は、相変わらず一方向に目線と注意を向けている。そうか、こいつが今見ているのがドランゴ方面。この妖獣の目には、おそらく幻獣と同じような光景が見えているんだ。
「幻獣のご神託が本当だとしたら」
「別に神託でもなんでもないですが、幻獣がそう言うのなら事実です」
 焦燥感に駆られているのか、両手を組み合わせ、しきりと揉みしだくような仕草をするミーシアに、守護人がきっぱり断言した。その目は、やはり妖獣が見ている方向に向けられている。
「残されたほうの人は、妖獣に」
 ミーシアはそこまで言って口を噤んだが、その先は続けなくても判る。俺たちが他の妖獣に出会うことも襲われることもなくこの場所に辿り着けたのは、幻獣が俺たちを 「入れた」 からだ。招かざる者、と幻獣が言うのなら、その人間は無事に済むとは思えない。
「二人で入って、一人は出ていったって、どういう理由で? 幻獣はそのことについては」
 俺の問いに、ロウガさんとミーシアが揃って首を横に振る。なんなんだよ、事実の一片を述べるだけで、それ以上の情報はまったく与えてはくれないなんて、それが 「お告げ」 かよ。
 ニーヴァの砦の番人の言葉を思い出す。

 ──稀に世の中には、自分の死体を骨も残らないほど妖獣に始末してもらいたい、なんて思うのもいてね。

 そういうことなのか? 二人で死のうとして草原地帯の中に入り、一人は怖くなって逃げたと? いや、それとも……
 こうして考えている間にも、誰かが妖獣に喰われそうになっているのかと思うと、じっとしていられない。でも、俺たちが短時間でこの場所に来られたのは、ひとえに幻獣の力が働いていたためで、普通に歩いていったら、ドランゴの国境まで何日かかるのか判らない。いやそもそも、この迷路のような草原地帯の中、どこをどう目指して進むんだ。
 幻獣に、と言いかけて唇を噛んだ。
 ドランゴの国境まで向かうのに力を貸してくれ、と頼んだところで、返される答えは判りきっている。一国の滅亡にも興味を持たない生き物だ、白い部屋でのやり取りと同様に、容赦なく撥ねつけられるだけだろう。
 けど……

 すぐそこに、手を伸ばせば届きそうなところに、これから災厄の降りかかる人がいる。
 それが判っていながら、何も出来ない。
 これじゃ、ニーヴァと同じだ。

「……なあ!」
 俺が顔を向けたのは、青黒い毛並みを持つ妖獣だった。
 ロウガさんとミーシアが驚いたように目を丸くしたが、構わない。幻獣がダメなら、こっちしかいないじゃないか。
「草原地帯の中、ドランゴとの国境付近に、人がいるんだろ? 頼む、俺をそこまで連れて行ってくれないか」
 俺はそう言って、頭を下げた。しかし妖獣は、感情のない目をちらりと向けただけで、また草の向こうへと戻してしまう。
 人の言葉が伝わらないのか──暗い方向に傾きかけた心を立て直す。そう簡単に諦めてたまるか。
「案内してもらえないか。その人がどこにいるのか、正確な場所がお前ならわかるんだろ?」
 やっぱり無視だ。
 言葉を尽くして何度頼んでも、妖獣にはそれを聞き入れようとする素振りがちっともなかった。それどころか、目は草の向こうへとやったまま、後ろ脚を折って座り込んでしまった。気にしてはいるが動く意思はない、ということか。何を考えているのか判らない、体毛に包まれた横顔は、もう二度とこちらを向こうとはしない。まるで、つんと冷たくそっぽを向いているようだ。
「妖獣、頼むから──」
「……アオ」
 今まで、緊張した表情で、妖獣に対して必死に懇願する俺を見ていた守護人が、ふいに口を開いた。
 彼女の目は、ぴたりと妖獣の顔に据えられている。もう一度 「アオ」 と言うと、妖獣がゆるりと首を傾けてそちらを向いた。
 妖獣は凶暴かつ獰猛な生き物だ。俺はずっとそう聞かされていたし、自分の目で見た経験としてもそう思う。その黄金の瞳には、人の感情など理解し得ない、残忍な光が乗っているだけ。
 それなのに守護人は、一歩も退かず、怯えも見せなかった。
 対等に──いや、もっと正直に言えば、結構偉そうな態度で、妖獣の視線を捉えた。
 守護人も、俺と同じように頭を下げようというのか。
 と思った俺は、甘かった。

「アオ、他の妖獣が来る前にすぐに行って。その人をここへ連れて来て」

 依頼じゃない。命令だ(・・・)
 俺は唖然として、声も出なかった。いくら神獣の剣を持っているからといって、妖獣が人間の命令に従うと、守護人は本気で思っているのか。下手をしたら、その牙が彼女に向くという可能性だってあるのに。
 じっと守護人を見つめていた妖獣の耳が、ぴくりと動いた。
 のっそりと、大きな尻を上げる。俺とロウガさんの手が剣の柄へと伸びた。こんな剣では妖獣に歯が立たないことは承知だが、そうせずにはいられない。
 もしもこの妖獣が、守護人に飛びかかるようなことがあったら──
 が、妖獣は、そんなことはしなかった。そして、もっと驚く行動に出た。

 守護人の顔から目線を外した妖獣は、後ろ脚で地を蹴り、跳躍して草の中へと飛び込んでいったのだ。
 今までずっと見ていた方向、ドランゴの国境方面に向かって。

「な……なんで?」
 息を詰めていた俺とロウガさんも、呆気にとられる他ない。ミーシアは、一気に力が抜けたように、青い顔でへたへたとその場にしゃがみ込んでしまった。守護人は、駆けていく妖獣の後ろ姿を見送っている。
 草と草の間を突っ切るようにして疾走する妖獣の姿が、ある地点でいきなり、ふっと消失した。あとは揺れる草があるばかりで、もうなんの音も聞こえない。
 俺たちも、ああやって進んできたのか。あれは一体どういう仕組みなんだ。いや待て、問題はそこじゃない。
「ど、どうなってるんです?」
 自分の声がちょっと上擦っている。ロウガさんの顔も、俺と似たようなものだ。今まで何を言っても動かなかった妖獣が、守護人の命令をすんなり聞くなんて。
 やっぱり、神獣の守護人だから、なのか?
「シイナさま、あの妖獣が自分に従うとわかってたんですか」
「いえ、ちっとも」
 こちらを振り返った守護人が、ぱちぱちと目を瞬く。
「本当に聞いてくれるとは思いませんでした。なんでもやってみるもんですね」
 びっくりです、と言っているのを聞いて、今さらながらどっと冷や汗が噴き出した。頼むから……ホントに頼むから、そういう無謀なことするのやめて。心臓が保たない。
「アオ、っていうのは」
「あの妖獣の名前です」
「な、名前?」
 妖獣に、名前?
 なんだそりゃ、と目を白黒させる。妖獣に個別の名があるのか? 世界の管理者をどう呼べばいいか、なんていうのとは話が違う。
「そういう名があることを、シイナさまは知ってたんですか」
「今、わたしがつけました」
「…………」
 どうしよう、意味が判らない。そういえば、守護人のいた世界では動物にもいちいち名前をつける、という話は聞いたことがあるが、しかしだからってどうしてこんな成り行きになるのか、ちっとも判らない。
「……意外と、名前っていうのは、わたしたちが考えているよりも、重要な意味を持っているのかもしれないですね」
 守護人は何かを考えるようにそう言って、ふうん、と納得していたが、俺とロウガさんはミーシアと同じように、その場にへたり込んだ。


          ***


 少しして、ハリスさんとメルディも、建物の中から出てきた。
 幻獣は、草原地帯に人が入ったと告げてから、二人が何をどう問いかけても、目を閉じてなんの反応もしなかったらしい。
 それが突然、ぱちりと目を開けたかと思うと、「──異物が、また、」 と口にしたのだという。
「無表情のままでしたけど、なんか雰囲気がね、ムッとしたような感じだったんですよ。それで、ああこりゃシイナさまがまた何かをしでかしたんだな、とピンときまして」
 それで二人とも、急いで外に出てきたのか。
「あそこにいるのもそろそろ限界だったしな」
 と付け加えるハリスさんの顔色は、あまりよくない。あの白一色の部屋にい続けるのは、確かに精神的にキツいだろう。
 ハリスさんとメルディは、ロウガさんの説明を聞いて、二人して絶句した。「妖獣をお使いに出すなんて、ちょっと意味が判らないんですけど」 と呟くメルディに、俺も心から賛成だ。
「……とにかく、待つしかないってことか」
 ハリスさんが、息を吐きだしてそう言った。



 一限以上、じりじりして待った。
 妖獣は、去っていくのと同様に、戻ってくるのも唐突だった。それまで静かだった草がいきなり動き、ザザザッという音と共に、妖獣が 「何もないところ」 からぽんと出現したのだ。一体どういう仕組みで……ああ、もういいや。
 しかし、走っているのは妖獣だけだ。隣にも後ろにも、人の姿はない。
 背中がひやりとする。
 そこに人はいなかったのか。あるいは、自分も逃げたのか。
 ……それとも、もう、間に合わなかったのか。
 駆けてきた妖獣は、身軽に跳んで、音もなく守護人の前に着地した。
 一人と一匹で、向かい合う。
 守護人は眉を寄せて黙っているが、妖獣も黙ったままである。いや、そもそも妖獣は喋らないわけだが。しかし、妖獣が何も行動を起こさなければ、何があったかを俺たちが知るのは至難の業だ。
 じっと妖獣を見つめていた守護人の黒い瞳に、ふと、理解の色が広がった。
 手を伸ばし、妖獣の顔へと近づける。
 俺たち全員が身を固くするその前で、妖獣が頭を低くし、その手に自らを寄せていった。
 守護人の手が妖獣の鼻を撫ぜるのを、信じられない思いで眺めるしかない。妖獣は大人しく撫でられるに任せ、その上、気持ちよさげに目を細めてすらいる。まるで、従順な馬を見ているようだった。
「アオ、口を開けて」
 守護人の言葉で、妖獣がぐわりと口を開ける。
 耳許まで裂けたような大きな口だ。剥き出しにされた牙は、あっという間に人なんて噛みちぎれそうなほどに、鋭く尖っている。その牙に囲まれた中央には、分厚くざらざらとした、真っ赤な舌──
 その上に、乗っているのは、人間。
 粗末な布にくるまれた、赤ん坊だ。
 守護人が、そっと妖獣の口の中に腕を差し入れる。そこから取り出された赤ん坊を見て、一目ですべてが理解できた。

 ……灰色の髪。

 まだ自力では移動できない赤ん坊が、自らの意志で草原地帯に入り込めるはずがない。何かの間違いというのも考えにくい。明らかに、何者かの手によって故意に置いていかれたとしか。
 つまり、捨てられたんだ。
 草原地帯に入ったという二人、そのうちの一人は、この子の父親か母親だったということだ。生まれてきた我が子が灰色の髪を持っているからと、親は草原地帯にその子を捨てに来て、自分だけ立ち去った。
 妖獣に見つかれば、骨まで残さず喰われてしまうのが判っていて? いや、むしろそれを望んで、その父親か母親かは、草原地帯にまでこの赤ん坊を連れてきたっていうのか。
「…………」
 俺は奥歯を強く噛みしめた。
 この憤りを、どこにぶつければいい。守護人の言葉が、痛いくらいにがんがんと頭の中で響く。

 この世界がわたしに見せるのは、人の醜いところばかり。

 守護人は、自分の腕の中の赤ん坊をじっと見ていた。怒っているのか、嘆いているのか、人間というものに絶望しているのか、その表情からは読み取れない。
 その時、妖獣に運ばれていたというのにすやすやと眠っていた赤ん坊が、薄目を開けた。
 もぞりと身動きし、灰色の目が、自分を見下ろしている人のほうを向く。
 くしゃりと顔を歪めた。
 泣くのか。どこかが痛むのか。今自分がいるところが親の腕の中ではないと気づいて不安なのか。
 そう思った俺は、すぐに自分の勘違いに気づいた。
 泣き出す、んじゃない。


 ──笑ってるんだ。


 赤ん坊は、すぐ上にある守護人の顔を見て、笑っているのだった。小さな小さな手を伸ばし、灰色の目をぱっちりと見開いて。
 無垢で、一点の汚れもない笑顔を、彼女に向けている。
「──……」
 守護人が、そろそろと自分の顔を赤ん坊に寄せた。柔らかそうな肌に、自分の頬を優しく当てる。
 赤ん坊のぺちゃんとした低い鼻に、まるく開けられた唇に、そして色づいた頬っぺたに、いくつもいくつも透明な滴が落ちていく。
「……トウイ、さん」
「はい」
 震えるようなか細い声に、俺は出来るだけ静かに返事をした。
 今この瞬間、何か──ものすごく大事な何かが生じようとしている。それを決して、壊さないように。
「この世界では、亡くなった人は、風になるんでしたね?」
「そうです」
「……わたしの世界では、人は死ぬと生まれ変わる、という話があります」
「生まれ変わる?」
「死んだ人の魂が、新しく生まれた命に宿って、また最初から人生をはじめるんだそうです」
「…………」
 少し、黙る。
「──この赤ん坊が、ニコの生まれ変わりだと?」
 その問いに、守護人はしばらく返事をしなかった。
 やがて、首を横に振った。
「ちがう」
 はっきりと、そう言った。瞳からはまだ涙が零れているのに、彼女はそれを拭うこともしない。
「いいえ、違う。そうじゃない。ニコはニコ、この子はこの子です。わたしが愛したニコは、あのニコだけ。この子はニコの生まれ変わりなんかじゃない。それでいいんです。…でも」
 目許を和らげ、小さな声で呟いた。
「でも、わたしはこの子のことも、好きになれます。そう、思えます」

 みんな嫌い、こんな世界は大嫌いだと泣いた守護人は、「好きになれる」 と言って、また泣いた。
 はらはらと落ちる涙は、ニコの石のように透き通って、綺麗だった。

 それから顔を上げ、まっすぐ俺を向く。
「──草原地帯を出ます。ニーヴァへ戻りましょう」
 守護人は、毅然とした口調で言った。


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