リライト・ライト・ラスト・トライ

第十八章

1.陰陽互根



 草原地帯を出て、ニーヴァに戻る。
 そうと決まったら、まずしなければならないのは、幻獣に会って話をすることだ。あの取り澄ましたいけすかない顔をまた見るのは嫌だけど、しょうがない。
 わたしは、片手で赤ちゃんを抱いたまま、もう片方の手で、ぐいぐいと涙を拭った。
 すっぽりと収まってしまう小さな身体から伝わる、重みと温もり。怯えることも、警戒することもなく、赤ちゃんは安心しきったように、わたしの頼りない腕に自分の身を委ねていた。
 純粋で、無防備で、剥き出しの生が、今ここにある。

 自分の中に、迷いがまったくないとは言わない。
 ──だけど、それでも。

 踵を返し、再び建物の入口から中に入った。
 外側からは狭い小屋のようにしか見えないその建物は、一歩足を踏み入れれば、長ったらしい廊下が奥へと延びる、不思議な空間になる。
 幻獣のいる部屋へと続くこの道が 「存在している」 ということがつまり、幻獣のほうでもわたしたちに会う意志がある、ということなのだろう。何かの間違いでここまで来てしまった人間がいたとしても、その人間の前にはきっと、扉どころか廊下も現われない。がらんとした空っぽの、見かけどおりの小さな建物だけを見て、首を捻ることになるのだ。
 まったくなんなの、その一方的な選別は。「僕は僕が会うと決めた人としか会わないよ」 的な? 常に上から目線で、傲岸不遜。やっぱり根本的に、神獣と幻獣はそっくりだ。ホントに腹が立つ。

「……あの、シイナさま」
 ムカムカしながら廊下を歩いていたら、後ろからトウイが困惑したように声をかけてきた。

「ちょっと、大変なことになってるんですけど」
「はい?」
 問い返して、足を止める。
 何が大変なのかは、後ろを振り向いたら、同じように困惑した表情になっているロウガさんやミーシアさんを見るまでもなく、すぐに判った。
 なんだか陽が翳って暗いなと思ったら、建物の入口をアオが塞いでいたのだった。塞いでいる……というか、その巨体を強引に中へとねじ込もうとしている。四角い入口は妖獣のサイズに合わせられてはいないので、どう考えても無理っぽいんだけど。
 なんとか頭を入れたはいいものの、肩のところでつっかえて、アオは前脚を折り畳んだ格好のまま、ぐいぐいと力任せに自分の身体を押し込もうと奮闘していた。努力の成果か、入口付近の壁が、みしみしと不吉な音を立てはじめている。
「頑張ってますね」
「なに感心してるんですか。このままだと、破壊されますよ」
「わたしは別に構いませんけど?」
 いいじゃん、この容れ物が壊れたって、困る (かもしれない) のは幻獣だしー、と思って気軽に答えたら、トウイに咎めるような目をされた。
 ……もう、しょうがないな。
「アオ、外にいて」
 人差し指で外を指し示し、金色の目を見つめて、ぴしりと指示をする。アオは少し不服そうに、もう一度ぐいっと前に出ようとしたけれど、やっぱり入らない。そこでようやく諦めて、渋々のように頭を外へと引っ込めた。
 一緒について来たかったのかな。
「……疑問は、溢れるほど、あるんですけど」
 その様子を眺めていたトウイが、呟くように言った。気のせいか、口許がひくひくと引き攣っている。
「もう、いいです。考えないようにします。いくら考えたところで、無駄な気がするし。こういうもんなんだって、思うしかないんですよね。もういいや……」
 ここに至って、思考を放棄することにしたらしい。まあ、気持ちはわかる。草原地帯に入ってから、理屈では説明できないことばかりに遭遇してきたからね。
「その調子です。この先も 『考えてもわからないこと』 がたくさんありますよ。神獣と幻獣がすることにいちいち驚いてたら、身が保ちません」
「…………」
 トウイが何かを言いかけようとしたけれど、考え直したのか、また口を閉じた。
 代わりに、ぐったりと疲れた風情で、はあー、と深くて長いため息をつく。その背中を、ロウガさんとハリスさんが、ぽんぽんと励ますように叩いた。


          ***


 廊下を進み、行き止まりにある扉を乱暴に開け──ようとして、思い止まった。
 わたしの腕の中では、再び眠りに入った赤ちゃんが、すやすやと穏やかな寝息を立てている。以前トルティックの街で、ヴィルマさんの子をほんのちょっと触れただけの経験くらいしかないわたしは、たぶんお世辞にも抱っこするのが上手なほうではない。それにも関わらず、こんな風に熟睡できてしまうこの赤ちゃんは、きっとかなり度胸が据わっているのだろう。
 でも、とにかく今は、起こさないように。
 わたしにしては相当おしとやかに、「手を使って」 扉を開けたのに、中にいた幻獣は愛想のない目をじろりと向けて、

「一体どういうつもりで僕のものに名をつけた」

 と、いきなり文句を投げつけてきた。
「僕のもの? アオのこと?」
「判っているのか、君がしたことは、他人の所有物に対しこれは自分のものだと勝手に権利を主張したのと同じだ。それがどれほど厚顔無恥な振る舞いであるか、君にはその自覚もないのか」
「ないよ、そんなの」
 鬱陶しくなって、蠅を追い払うように顔の前で片手を振る。
「あれは僕のものだったのに、なんて恨みがましいことを言うんだったら、さっさと名前くらいつけてあげればよかったんだよ」
「君は、他者に名をつけるという行為がどんな意味を持っているか──」
「じゃああんたもアオって呼べばいいでしょ」
「そういう問題ではない」
「ところで幻獣、わたし、ニーヴァに戻ることにした」
 面倒だったので話を無理やり本筋に移したら、後ろで、誰かがぷっと噴き出すのが聞こえた。見なくても判る、メルディさんだ。
 幻獣が口を閉じ、わたしを見返す。その無表情の顔、冷たい黄金色の瞳には、こちらが読み取れるようなものは何も乗っていない。神獣のニコニコ顔も苛々するけど、これはこれでやっぱり苛つく。

「……その赤子の運命を変えたのと同じように、ニーヴァの運命も変えられる、と?」

 わたしもまた、口を噤んだ。その問いに返す言葉は、すぐには見つけられなかった。
 腕の中の赤ちゃんを見下ろす。
 神獣なら、きっとここで、「あそこで妖獣に喰われていたほうが、その赤ん坊にとっては幸せだったのかもしれないよ?」 とでも、あの厭らしい笑いとともに、面白そうな口調で言うのだろう。
 うん、そうなのかもね。だってそんなの、わたしには知りようがないもの。違う、そんなはずない、ときっぱり否定しきれるだけの根拠も自信も、わたしは何ひとつ持っていない。
 人の生はあまりにも頼りなく、あまりにも不確かで、時に容赦ないほど残酷だということは、よく知っている。
 この子がこの先、どんな人生を歩むかなんて、わたしには判らない。幸せになれるかどうかなんて、保証してあげられない。わたしはこの子の未来についての責任は負えない。
 目の前の幻獣に、顔を向けた。

 でも、この小さな命がここにあることを、決して後悔したりはしない。

「……世界にはいつだって、無限の可能性があって、無限の道があるんじゃないの? わたしが運命を変えたって言うけど、この子がこの場所にまで来たのは、あんたが知ってる道ではなかった、っていうだけの話でしょ。これもまた、道のひとつだったと、そう思わない? この子のこれからの運命は、この子自身が切り拓く。わたしみたいなのが、どうにか出来るようなものじゃない」

 ちらっと後ろを振り向く。
 トウイがわたしを見て、真面目な顔でこっくりと頷いた。
 背中を押してもらえたようで、ほっとする。

「ニーヴァだってそう。決定事項だ、ってあんたは言ってたけど、示された道以外の道は、きっといくつもある。もしもそれ以外の道を探すことがわたしに出来るっていうのなら、そうしてみようと思う。自分がそうしたいから、そうする。でも、どの道を選ぶのか、どの道を進んでいくのかは、やっぱりニーヴァの人たちが決めることだよ」

「…………」
 幻獣はしばらく黙ってから、「──では」 と重々しい口調で言った。
「好きにするがいい」
「うん、好きにするから、ニーヴァに戻してよ」
「…………」
「出来るでしょ?」
 神獣と幻獣が同根の存在だというのなら、「あれ」 と同じことが出来るはず。
 すっぱり要求を突きつけたわたしに、幻獣は何も言わなかった。無表情は変わらないものの、なんとなく不穏な空気が漂いはじめたのは伝わってくる。神獣はわたしをいたぶって上機嫌になると、やたらべらべらとお喋りになるけど、幻獣の場合は不機嫌になればなるほど無口になるらしい。
「……なんか幻獣、怒ってません?」
 トウイも同じことを思ったようで、口の近くに手を当て、こそっと耳打ちしてきた。
「そのようですね」
「いいんですか?」
「ものすごく気分がいいです」
「…………。そうじゃなくて。どうして怒ってるんですか? シイナさまはただ、草原地帯から出る許可を得ようとしているだけなんですよね?」
「なんでわたしがそんなことで、幻獣にわざわざ許しをもらわなきゃいけないんです」
「は? だって……」
「なぜ僕がそんなことをせねばならない」
 やっと口を開いたと思ったら、呆れるほどにつまらない答えが返ってきた。性格の悪さでは神獣と似たり寄ったりだけど、幻獣は神獣ほど口が廻るわけではないようだ。
「もともとあんたが切り出した話でしょ」
「違う。ニーヴァはどうなると問われたから答えてやったまでのこと。それ以上のものをなぜ君たちに施してやる必要がある」
「誰が施してくれなんて頼んだわけ? わたしを煽ったならそれだけの責任を取れ、って言ってるの。それがイヤなら最初からここにも呼び寄せなければよかったんだよ」
「詭弁だ。僕が口にしたのは事実のみで、君を煽ってなどいないし、ここに入れたのは妖獣を」
「ああ、アオに頼むってテもあるよね。ここの護り役がいなくなろうと、草原地帯がどうなろうと、別にわたしには関係ないしね」
「…………」
 幻獣の口が曲がった。神獣の場合は上に向かう半円形だけど、こっちは下に向かっている。引っくり返っただまし絵みたい。トウイが後ろで 「脅しだ……」 と呟いているけど、気にしないことにした。
「──これ以上、この場所を荒らすな」
 幻獣はそれっきり言葉を発しなくなった。でもたぶん、オッケーということだ。忌々しいけど、判るのだから仕方ない。

 よし。

 くるっと振り返り、ぽかんとしている一同のほうを向く。
「ということで、みなさん、ニーヴァに戻ります」
「あの……申し訳ないのですがシイナさま、何が 『ということで』 なのか、私どもには、さっぱり……」
 ものすごく不得要領な顔つきで、ミーシアさんが首を捻った。
 そうだよね。だけど、説明しても、すんなり通じるとは思えない。
 大体、説明ったって、わたし自身、どうしてそうなるのかなんて、ちっとも判らないし。それは、さっきトウイが言っていたように、「こういうもの」 だと思うしかない類のものなのだ。
「いいですか、わたしたちはこれから、草原地帯を出て、ニーヴァに戻り、王ノ宮か神ノ宮まで行かなきゃいけません。災厄はそこに向かって集中する。そこからどうするかはまた考えるとして、まずはその場所まで戻るのが急務です」
 そこまで言うと、全員が、うんと頷いた。
「とはいえ、行きと同じ道のりを辿って帰るわけにはいきません。それだと、あまりにも時間がかかりすぎる。リンシンさんが何をしようとしているにしろ、わたしたちが戻るまで、悠長に待っていてはくれないでしょう。あの人の思惑通り事態を進ませないためにも、わたしたちは一刻も早く戻る必要がある」
「しかし、一刻も早くといっても……」
 ロウガさんが当惑したように首を捻る。
「ここからニーヴァの境界までの距離はまだしも、その先は馬を使うより他に」
「行きと同じ道は使いません。ニーヴァの境界からここまで一時間くらいかけて歩きましたが、そんなに時間を使うこともしません」
 はあ……? とひたすら 「意味が判らない」 という顔をするみんなに、わたしはぽりぽりと自分の頭を指で掻いた。あのね、すごく説明がしにくいの。説明したって 「もっと意味が判らない」 って顔をされるに決まっている。
「やっぱり、経験してもらうのがいちばんですね。そうだ、馬も預けっぱなしだし。まずは砦に、馬と荷物を引き取りに行きましょう」
 そう言って、わたしは赤ちゃんをミーシアさんに渡して抱いてもらうと、空いた両手でロウガさんの腕を掴み、こっちこっちと引っ張っていった。怪訝な表情を浮かべながらも、ロウガさんはわたしに引かれるまま足を動かし、扉の前に立った。
「さて、これは扉です」
「……そうですね」
 ロウガさん、そんな不安そうな顔をしなくても。わたしの頭は普通に働いてます。
「この扉を開けると、どこに通じていますか」
「廊下、ですね」
「違います。ニーヴァと草原地帯の境界にある砦です」
「は……?」
 さらに不安な色を増してこちらを見るロウガさんを放って、わたしは幻獣のほうを向いた。幻獣は無言のまま、憮然としている。よし、大丈夫。
「扉を開けて、出て、すぐに閉めてください」
「はい」
「そして、出た扉から(・・・・・)またここに入って(・・・・・・・・)きてください」
「──はい」
 諸々諦めたのか、ロウガさんは素直に頷いて、わたしの言うとおりの行動をした。きっと、それで守護人の気が済むのなら、とか思っているのだろう。
 扉を開けて、出て、閉める。閉じられた扉の先で、ロウガさんがどんな驚愕の表情を浮かべているのか、見られないのは少し残念だ。
 何が起きているのか判っていない他の人たちは、ただ口を半開きにして閉じられた扉を見ている。トウイはともかく、ハリスさんやメルディさんのこんな間の抜けた顔は、なかなかお目にかかれない。
 少しして、扉が開いた。
 入ってきたロウガさんは、ひどく顔色が悪かった。前方に据えられた両目がちょっと虚ろになっている。大丈夫?
 ロウガさんの後ろから、手綱に引かれた馬が三頭、姿を見せた。
 トウイたちが目を大きく見開く。半開きになっていた口が、ぽっかり開いた。

「なんなんだ、なんなんだよ、あんた! 突然現れて! 草原地帯に入ったんじゃないのかよ! あの妖獣はどうしたんだ?!」

 扉の向こうから聞こえる悲鳴のような声は、砦の番人のものだ。ロウガさんが扉を閉じると、その声もふっつりと消えた。
 あーあ、あの人も大変だよね。自分が見たことをありのまま他人に話しても、絶対誰にも信じてもらえないだろうし。
「ということです。わかりましたか?」
「さっぱり判りません」
 ロウガさんに強張った顔で即答された。だから理屈で考えちゃダメなんだってば。
「まあいいや、とにかくそういうわけで、今から首都セラリスに戻ります。えーと、どこがいいかな」
 神ノ宮……はまずいよね。一旦あの中に戻ってしまったら、今度は出るのが大変だ。王ノ宮の中にいきなり出たら、侵入者としてすぐに捕まりそう。かといって、その二つからあまり離れた場所では意味がない。うーん。
「やっぱりマオールかな。シャノンさんのところにお邪魔することにしましょう。あの街ならまださほど物資にも事欠いていないだろうし」
 そろそろ赤ちゃんも目を覚ますかもしれないからね。
 まだ茫然としているみんなを引きずるようにして、扉の前に立たせる。馬も一緒だ。こんな大人数が突然部屋の中に乱入したら、シャノンさんはきっとびっくりするだろう。
「あ、あの、この扉を通ったら、そこはマオールの街、なんですか」
「そうです、ミーシアさん」
「意味が判らないんですけど」
「意味は判らなくても平気です、メルディさん」
「少し考える時間をもらえませんかね」
「そんな時間はないんです、ハリスさん」
「展開が早すぎて、俺ちょっとついていけないんですけど」
「あとでゆっくりついてきてください、トウイさん」
「──みんな、シイナさまのお言葉に従おう」
 諦念の塊みたいになったロウガさんが、悲壮な決意で締めくくる。よしよし。
 扉を開き、赤ちゃんを抱いたミーシアさんはそうっと、それ以外の全員は突き飛ばすようにして向こう側へと押し出していく。
 最後の一人になってから、わたしは幻獣のほうを振り向いた。
「じゃあね、幻獣」
 幻獣はもちろん、わたしの挨拶に返事なんてしなかった。ふん、というようにそっぽを向く。
「アオに、ありがとうって言っておいて」
「妖獣に礼を言うか」
「あんたよりはよっぽど可愛げがある」
「──君は、史上最もタチの悪い異物だ」
 失礼な。
「もとの世界では、普通の女子高生だったんだからね」
「何も出来ない、非力で、ちっぽけな子供だったのだろう」
「…………」
 わたしは口を閉じ、幻獣を正面から見返した。「……そうだよ」 と静かに言って、頷く。
「今も、同じ。非力で、ちっぽけな子供だよ」

 狭間で扉を開けるたび、いつも痛いほどに思う。
 迷って、悩んで、揺らいで、もがいて、足掻いて、その繰り返し。
 それでもやっぱり、前に進むことを止められない、愚かな子供だよ。

 扉に目を戻した。足を踏み出し、外へと向かう。その向こうにあるのは、色のある世界だ。
「君ももうすぐ、大きな選択を迫られることになる。どちらの道を選ぶのかは──」
 幻獣の声は、扉を閉じるのと同時に、ぱたりと消えた。


 一瞬後、シャノンさんのけたたましい叫び声が響いた。


          ***


 そこは、シャノンさんのお店の中だった。
 後ろを見ると、わたしたちが通ってきた扉は、店内の隅にひっそりとあった。どうやらシャノンさんの住居に通じるものらしい。もとの世界だったら、「従業員以外立ち入り禁止」 の札が貼ってあるような扉。もうこれを開いても、その先には普通にシャノンさんのプライベートスペースがあるだけだろう。
 突如として、計七人の人間と馬三頭が、外からではなく、家の中から(・・・・・)ぞろぞろと店に入ってきたのだから、シャノンさんが腰を抜かすのも無理はない。
「ななな、なんなの、なんなのよ、あんたたち! 一体どうしてそんなところから、大体いつ戻って、ちょっとこれどうなってんのよ説明しなさいよ!」
「悪いなシャノン、説明したくても俺たちにもまったく判らないんだ」
「騒がせて申しわけない、馬はすぐに外に出そう」
「ここ、どこなんですか。私ははじめてお邪魔するんですけどね」
「そうね……私も見覚えがないのだけど、食堂とは少し違うようね」
「ここは飲み屋だよ。シャノンさんの店なんだ。開店前でよかった……ていうか、今、何時なんだ?」
「シャノンさん、この街にオムツとミルクは売ってますか」
 めいめい勝手なことを話すわたしたちにブチ切れたのか、シャノンさんは 「あんたたち人の話を聞きなさいってのよ!!」 と、鼓膜を突き破るような大音量で絶叫した。



 しばらく時間はかかったけれど、なんとかシャノンさんは落ち着きを取り戻すことが出来たらしい。
 「まずは何か食わせてくれ」 とのハリスさんの訴えにより、詳しい説明はあとでゆっくりと、ということになって、シャノンさんは街中へ買い出しに走ってくれた。ついでに、赤ちゃん用品も一通り揃えてもらうよう頼む。
「で……なんなのよ、この赤ん坊は」
 灰色の髪の赤ちゃんを見て、シャノンさんは目を丸くしたけど、理解してもらうためにはおそろしいほど長い前置きが必要になる。今のところは適当に流しておこう、と思って、「少し訳ありで」 と言ったら、シャノンさんはなぜか眉を吊り上げて鬼のような形相になり、ハリスさんの耳を思いきり引っ張っていた。何か誤解してるみたいだけど、まあいいや。
 子供のいる家から分けてもらったという布オムツを、わたしとミーシアさんとシャノンさんとで頭を突き合わせ、ああでもないこうでもないといじくり回しながら、なんとか装着した。この中の誰一人として子供を持った経験がないのだから、何をするにも一苦労だ。
 ちなみに赤ちゃんは、女の子だった。
 ミルクは、イルマの乳を温めて飲ませた。この世界では、母乳の代わりにイルマの乳を使うのは、ごく普通のことなのだという。成分が近いのかもしれない。ちょっと臭いもあるのに、赤ちゃんは美味しそうにこっくんこっくんと飲み干している。
 これでとりあえずは、大丈夫かな。
 わたしは、ふうと息をついた。


          ***


 ミーシアさんが赤ちゃんにミルクを飲ませ、シャノンさんは食事の支度をするために住居のほうへと行った。
 残りの人たちは、お店の中の椅子に腰かけ、これからのことを相談している。
「……メルディさん」
 わたしはそこへ近づき、呼びかけた。
 適応力と現実認識能力の高いメルディさんは、もう平常心を取り戻したようで、その顔に貼りついているのは、いつものちょっと胡散臭い微笑みだ。
「はい、なんです? シイナさま」
「ここがマオールの街だということは、もう理解できましたか」
「そりゃ、理解せざるを得ないでしょうよ。どうやったら、瞬きほどの間にあの遠大な距離をないものにしてしまうのかは、逆立ちしたって理解できそうにありませんがね」
「空間と空間をくっつけているだけだと思います」
「いや、判りませんて。シイナさまも絶対判ってないでしょう」
 くくくと笑う。そうやって笑うと、性格の悪さが滲み出るのは相変らずだ。
 ……メルディさんは「この扉」ではじめて会った人だけど、それでもけっこう長いこと、この顔を見てきたな。
「マオールの街から、王ノ宮はすぐそこです」
 わたしがそう言うと、メルディさんは笑うのをやめた。薄っすらとした笑みの名残だけを口許に留めて、わたしの顔を見る。
「……ですね。それが?」
「王ノ宮に戻るべきなんじゃないですか」
 メルディさんが表情を変えずに黙る。同じテーブルについていた、トウイ、ロウガさん、ハリスさんが、一斉に驚く表情を浮かべた。。
「それは、どういう意味で仰ってるんですかね。王ノ宮に戻って、中の様子を探って来いと?」
 その問いに、首を横に振る。

「ふりだし地点であった神ノ宮に戻ることが出来ない以上、マオールの街に戻った時点で、わたしたち一行の旅は終了した、と言ってるんです。カイラック王の命令は、『旅の道中』 のわたしの監視および報告だったはず。王の前まで連れ帰れ、とは言われていないんでしょう。だとしたら、メルディさんの仕事もこれで終わり、ということです」

「シイナさま」
 トウイが慌てて口を挟んできたけれど、わたしは無視した。
「仲間であったのは、旅の間だけ。それが終われば、メルディさんは王ノ宮の密偵です。これ以上、行動を共にする必要はない。そうじゃありませんか?」
「つまり、仲間でなくなった密偵は、余計な情報を耳に入れる前に、ここからとっとと抜けろと」
「そうです」
「…………」
 メルディさんはじっとわたしを見つめた。ロウガさんもハリスさんも口を結び、測るようにわたしとメルディさんとを見比べている。後ろで、赤ちゃんにミルクをあげているミーシアさんが、「シイナさま」 と悲しげな声を出した。
 メルディさんが、ふっと笑う。

「……まったくもって、仰る通りです」

 両手を軽く挙げて、降参のポーズをした。
「油断ならない密偵は、ここで退場することにいたしましょう。私は私で、戻った以上は、しなきゃならないことが山ほどございますしね」
 椅子から立ち上がり、わたしのすぐ前に立つ。
「それでも、餞別くらいは渡しておきましょうかね。なにせ、短くはない間、同じ部屋に寝泊まりした間柄でもありますし。……シイナさま、ニコの宝はお持ちで?」
 どうして今それを聞くのかよく判らなかったけれど、わたしは頷いて、ずっとポケットに入れてあるそれを取り出し、掌の上に乗せた。
 メルディさんがごそごそと服の中を探り、どこかから紐のようなものを出す。細い三つ編み状に編まれた……なんだろう、植物、かな? 淡い緑色をしている。
 わたしの掌の上から透明な石をひょいとつまみ上げ、メルディさんは見栄えよく器用にその紐を巻きつけていった。

「これはね、キルケっていう草なんです。一本一本は細いんですが、こうして十本くらい束ねて編むと、ちょっとやそっと引っ張ったくらいじゃ切れないくらい頑丈になる。ですから、自分の命も安全に繋いでくれるだろうという意味で、お守りとして持ち歩いたりもするんですよ」

「お守り……」
 メルディさんでも、そんな縁起担ぎのようなことをするのか。
 ハリスさんが目を瞠り、「いいのかよ」 と呟く。わたしがそちらを向くと、少し複雑そうな表情になって、肩を竦めた。
「……キルケってのは、非常に珍しい植物でね。滅多に手に入るもんじゃないから、えらく値も張る。この欲深なやつが、ずいぶんと気前のいいことをするもんだと驚いて」
「心配しなくても、あなたには何もあげませんよ。分けられたお金は私の取り分としてそのまま頂きますから、これくらいはね」
 ちゃっかりしたことを言いながら、メルディさんは中央に石を括りつけた長い紐の端を結び、ペンダントのようにわたしの首にかけた。胸元で揺れる石が、きらきらとした輝きを放つ。
「これで落とす心配はないでしょう」
 そう言って、メルディさんはにっこり笑った。
「──では、この時をもって、仕事は終了です。王ノ宮に戻れば、私はカイラック王の密偵としての働きしかしません。必ずしも、あなた方と足並みを合わせるとは限りませんが、それでよろしいですね?」
「はい」
「結構。シイナさまのそういう割り切りの良いところ、嫌いじゃありません。いいですか、もう一度言いますが、王ノ宮の密偵なんぞを、信用しちゃいけませんよ」
 それではみなさん、ごきげんよう、と明るい調子であっさりと別れの口上を述べるメルディさんに、トウイもロウガさんも、なんと返事をしたものか迷っているようだった。ハリスさんは何かを考えるような難しい顔、ミーシアさんは赤ちゃんを抱いて立ち上がり、泣きそうになっている。
「メルディ……」
「メルディ、せめて、食事だけでも一緒に」
「湿っぽい雰囲気は御免なのでお断りします。あなた方はどうしてそう、甘っちょろいんでしょうねえ。いつか手痛いしっぺ返しをくらう前に、性根を叩き直したほうがよろしいんじゃないですか」
 笑いながら意地の悪いことを言って、メルディさんが軽く手を挙げ、お店のドアを開ける。
 ついさっきまで仲間だったその人が去っていくのを、他のみんなは無言のまま、見送っていた。


 一人目……と、わたしは内心でそっと呟いた。


BACK   TOP   NEXT


Rewrite・Right・Last・Try

Copyright (c) はな  All rights reserved.