リライト・ライト・ラスト・トライ

第十八章

2.片糸



 シャノンさんが、大量の料理を作ってくれた。
 途中からミーシアさんも手伝ったとはいえ、よくもこんなにたくさん、と感心してしまうほどの量だった。お店の丸いテーブルを二つ並べても乗り切らない。わたしはこちらの食べ物について素材も調理法もよく知らないのだけれど、大皿からもわっと立ち昇る湯気や、香ばしい匂いや、油で艶々と光るお肉は、素直に美味しそうだと思った。
 メルディさんもこれを見たら喜んですぐに手を伸ばしただろうな、という感想は、お腹の下のほうに押し込める。
 シャノンさんは、顔ぶれの中から一人分が減ったことには気づいたらしいけれど、漂う微妙な空気を察してか、それについては何も言わなかった。やっぱり、頭の良い人なのだ。
 わたしたちはしばらく食事することに没頭した。メルディさんのこともあったけれど、大量の、しかもまともに調理された食べ物を前にして、自分たちがこのところずっとこういうものを口にしていなかった事実に気づいた、というのもある。
 そういえば、干し肉じゃないお肉を食べるのは、ずいぶんと久しぶりだ。イルマの乳は相変わらず臭いもクセも強いけど、これはこれで悪くない。あんまり自覚していなかったけど、「普通の食事」 に飢えていたんだなあ、と思う。
 わたしでさえそうなのだから、見るからに食事量を必要としていそうな男の人たちは、きっともっと飢えていただろう。特に旅の後半は携帯食ばかりで、内容は乏しく、量も少なめだった。成長過程のトウイだけでなく、大柄なハリスさんとロウガさんにとっても、かなりつらいものがあったかもしれない。
 彼らの口から、そんな言葉が出たことは一度もなかったけれど。

「……で、何があったのか、説明してもらえるんでしょうね」

 わたしたちがものも言わずにテーブルの上の料理を次々に平らげていく様子を眺めていたシャノンさんは、残りが三分の一くらいになったところで、そう切り出した。
 彼女の腕の中では、すでに満腹になった赤ちゃんが、またくうくうと眠りに入っている。この子、さっきから、眠ることとミルクを飲むこと以外は何もしてないな。赤ん坊って、こういうものなのかな。
「ちょっとお嬢さん、聞いてます?」
 わたしの視線が赤ちゃんに向かっていることに気づいて、シャノンさんの綺麗に整えられた爪が、トントンとテーブルを叩いた。お嬢さんって誰だっけ。わたしか。旅の間は 「坊主」 と呼ばれることが多かったから、自分でも性別を忘れそうだよ。
「はい、もちろん、ちゃんと説明します。ハリスさんが」
「え、俺?」
 ニョッキによく似た食べ物を口に運んでいたハリスさんが、びっくりしたように手を止めて、わたしを向いた。
「だって、この中でいちばん口が上手いのは、ハリスさんじゃないですか」
「そこはせめて、弁が立つ、と言ってもらえませんかね」
「赤ちゃんのことも、ちゃんと自分で弁明したほうがいいと思います」
「弁明って」
「んまあ! ハリス、あんたって子はやっぱり! 女にはだらしないけど最低限の節度くらいは知ってるもんだと思ってたわよ、このろくでなしが! 相手は誰なの、混血ってことはまさかこのお嬢さんじゃないでしょうね!」
「ちがっ、ちょっ、待っ、痛えっ! シャノン、俺を殺す気か! シイナさま、あんた一体なに考えてこの状況でしゃらっとタチの悪い冗談を言ってるんです?!」
 なにって、シャノンさんが赤ちゃんについてあらぬ誤解をしているようだから、その弁明を本人がしたほうがいいんじゃないですか、って言ったつもりなんだけど。
 シャノンさんの怒鳴り声と、ハリスさんの悲鳴じみた声を聞いていたら、マオールにまで戻ったんだな、という実感が湧いてきて、わたしは大きな息を吐きだした。


 ようやく騒ぎが一段落して、脇腹を押さえたハリスさんが、痛そうに顔を顰めて説明を始めた。
 たくさんの食べ物を胃に収めて満足したらしいトウイとロウガさん、そしてミーシアさんが、ハリスさんの言葉を自分でも確認するように頷きつつ聞き入っている。
 リンシンさんのこと、イーキオの枝のこと、この国を覆う暗い影のこと。
 シャノンさんは、頷くでも問い返すでもなく、眉を寄せながら黙ってそれに耳を傾けていた。けれど、話が草原地帯にまで進んだところで、とうとう我慢できなくなったように頭を手で押さえた。
「……妖獣……神獣にそっくりの幻獣……ニーヴァの滅亡……あらゆる場所に通じる扉……」
 ぶつぶつ言ってから、はあー、と重苦しいため息をつく。さすがに、そう簡単についていける内容ではないのだろう。
「それを全部、信じろって?」
「俺たちだって信じられないくらいだが、事実なんだからしょうがない」
 シャノンさんの問いかけに、ハリスさんが肩を竦めて両手を天に向けた。
「シャノンさん、マオールの街の現在の様子はどうなんですか。俺たちがここを発った時から、なにか変わりはありましたか」
 待っていてもすぐには理解が追いつかないだろうと思ったのか、トウイが身を乗り出して話の方向を変えた。口を曲げてむっつりと考え込んでいたシャノンさんが、我に返ったように顔を上げ、ぱちぱちと目を瞬く。
「マオール? そうね……変わった、といえば」
 そこで一旦言葉を切り、今度はわたしのほうを向いた。
 観察するようにまじまじと見る。しばらく間を置いてから、「──お嬢さん」 と真顔で言った。
「はい」
「その前に、お嬢さんの意見をお聞きしてもいいかしらね」
「わたしですか」
「ハリスの言うことを疑っているわけじゃないけど、こんな話をそうそうまるっと呑み込めやしないわよ。正直、ちっともわかりゃしない。けれどもね、とにかく事の中心にいるのは、お嬢さん、あなたなんでしょう。あなたがこれからどうするのか、どうしようと思っているのか、聞いてもいいかしら?」
 賢いシャノンさんは、とりあえず話の本質部分だけは掴んだようだ。その質問はきっちりと核心を衝いている。

 これから、どうするのか。

 わたしは少し黙ってから、ぐるりと視線を巡らせ、そこにいる全員の顔を見た。
「これから、なんですけど」
 その言葉に、みんなが揃って頷く。それを聞きたかったのは、シャノンさんだけではなかったらしい。
「とりあえず、王ノ宮の出方を待とうと思います」
「王ノ宮、ですか」
 そう問い返したのはトウイだった。
「そうです。メルディさんが王ノ宮に戻って、まずしなきゃいけないのは、カイラック王にわたしが戻ったと報告すること、ですよね? それから事態がどう動くかを見ようと思って」
「まあ──普通に考えるなら、戻ってきた守護人がマオールの街に滞在していると知れば、王ノ宮は迎えを差し向けてくるでしょうね」
 ハリスさんのその言葉に、わたしも頷いた。

 たとえば、わたしたちがこのまま王ノ宮に向かっても、あそこの門がすんなり開けられることはない。王ノ宮の大部分の人々にとって、「神獣の守護人」 は今も王ノ宮の中でひっそりと日々を暮らし、決して外には出ていないからだ。下手をしたら、守護人を騙った罪人としてその場で剣を向けられるかもしれない。
 だからわたしが王ノ宮に入るには、カイラック王の許可が必要になる。守護人が実際には不在ということを知っている人はごく限られているから、王はできるだけ秘密裡にこの街まで迎えを寄越してくれる──はず。
 普通に考えるなら。

「一方で、わたしたちは、幻獣に、『ニーヴァの行く末』 というけったくそ悪い映像を見せられました」
 あそこで自分が見たものを思い出したらしく、ミーシアさんが顔色を悪くしてうな垂れた。
「あの中で、一つはっきりしたことがありますね」
「はっきりしたこと、というと」
「現在、王ノ宮は、その内部に裏切り者を飼っている、ということです」
 すっぱり言うと、トウイとロウガさんが、はっとしたように息を呑んだ。
 ハリスさんは、小さく身じろぎした。
「他の大臣たちと並んで、末席に座っていた人です。わたしも今まで見たことがないので、きっと、表には出てこないような仕事を任されているんでしょう。あの人がいずれ、砂の国と結託して、この国に兵を攻め込ませる」
 砂の国の技術開発云々の情報が、未だ王の許に届いていないというのも、考えてみれば不自然な話だ。
 でも、王ノ宮の中に、あの国と通じている人間がいるとすれば、納得がいく。
「その人は、今も味方の顔をして、カイラック王の近くに侍っている。この国が滅びる姿を思い浮かべながら、忠臣の顔をして微笑んでいる。……ですね、ハリスさん?」
「…………」
 ハリスさんからの返事はない。
「その人にとって、守護人が戻ってきたという情報は良いものなのか悪いものなのか──その判断により、たぶん、今後の動きも変わってきます。それを見てからでないと、わたしもどうすればいいのか決められない、というのが正直なところです」
「しかしメルディもあれを見ているのですし、カイラック王に、かの者についての忠告をするのでは」
 わたしは首を横に振った。それは実直なロウガさんらしい意見だけれど、現実的に、無理だと思う。
「なんて言うんですか?」
「え──ですから、幻獣に」
「草原地帯の中に入って、幻獣に見せられた不思議な映像の中にその人がいた、と言いますか? カイラック王が、それをあっさり信じて、その人をすぐさま追放し、国を立て直すため心を入れ替える、と?」
「…………」
「無理ですね。シャノンさんがこの突拍子のない話を一応受け入れてくれたのは、話したハリスさんを信頼しているからです。カイラック王が、密偵にそこまでの信頼を置いているとは思えません。草原地帯の中のことなんて調べようがないし、万が一調べたとしても幻獣は絶対に見つからない。悪くしたら、怒った王がメルディさんの首を刎ねてお終い、というケースもあり得る。メルディさんだってそれくらいは予想がつくだろうから、幻獣のことなんて一言も口にしたりしないでしょう」
 神獣を戴くことで栄えてきたこの国の王に、「神獣と同じような生き物が別にいる」 なんてことを言うのが、どれだけ我が身を危うくする馬鹿げた行為か。
 メルディさんは、そんなことも判らないほど間抜けな人じゃない。
「大体、その人はまだ何もしていない(・・・・・・・・・)んです。今後の状況次第で裏切り行為を諦めたなら、無実の罪で陥れようとしているのはこちら、ということになる。忘れないでください、幻獣が見せた未来は、あくまでも 『あの時点で幻獣が把握していた未来』 である、ということを」
 全員が、口を引き結んで沈黙した。


 そこから先は、言葉にしないで考える。
 ──正確には、あの未来は、「わたしが草原地帯にいた時点」 での未来、だ。
 この世界の理に組み込まれていない異物、不確定要素のわたしが草原地帯を出たその瞬間に、あの未来とは別の未来が生じることになったはず。
 でもそれは決して、ニーヴァの滅亡の道が回避された、という意味じゃない。ここにトウイがいる以上、むしろ、滅亡までの期間が幻獣の言っていた一年よりも短縮される、という方向に向かってしまったかもしれないのだ。どちらかといえば、災厄はより一層強く大きくなって、降りかかる可能性が高くなった。
 「物事は、そして人の心は、縄目のように絡み合い、網目のようにもつれ合っている。ひとつの出来事が、次の出来事へとつながるきっかけとなる」──神獣は、そう言っていたんだっけ。
 運命は、どう動いていくのか。まるで、箱の中の迷路を彷徨っているような気分になる。
 でも、道が分岐するたび、選択し、進んだのは自分。
 その責任は、わたし自身が負わなきゃいけないんだ。


         ***


 扉を通ってシャノンさんのお店にやって来たのがすでに夕方近い時刻だったので、外はもうすっかり夜も更けて、真っ暗になった。
 まさかこの状況でお店を開けることも出来ず、「本日休業」 の札をドアの外にかけたものの、頭が飽和状態になったシャノンさんは、続きはまた明日、と疲れた顔で話を打ち切った。
「夜の間の赤ん坊の世話はあたしがするから、あんたたちは寝なさい」
 と言って、予備のベッドや、夜具の用意もしてくれた。ありがたく使わせてもらうことにして、ベッドにはわたしとミーシアさんが、トウイとロウガさんとハリスさんは、椅子やソファの上で寝ることにする。
 ミーシアさんはこれまでの疲れがどっと出たらしく、ベッドを整えている途中で、気を失うように眠りに落ちてしまった。
 その身体の上に毛布をかけ、ほつれた前髪をそっと直してから、わたしは静かに部屋を出た。


 一歩出た途端、「どちらに?」 という声が三人分、飛んできた。
 ソファの背もたれに身を預けていたロウガさん、お店から持ってきた椅子を並べてその上に横たわっていたハリスさん、床の上に直に座り込んで壁にもたれていたトウイが、一斉に鋭い視線をわたしに注いでいる。
「別に内緒で抜け出そうなんて思ってません」
 ただトイレに行こうとしていただけかもしれないのに。もうちょっと、わたしのプライバシーを尊重してくれてもいいと思う。
「はっきり言って、信用なりません」
「これまでの行いが行いですから」
「絶対ロクなことじゃないですよね」
 揃って疑り深い目をして、三人とも、とっても感じが悪いよ? なんだか酷い言われようだけど、ちょっと押し込み強盗の真似事をしてみたり、一人で草原地帯に入ろうとしてみただけじゃない。大体、テトの街ではトウイだって同じことをしたくせに。
「外の空気を吸いに行こうとしただけです。一人じゃダメって言うのなら、誰か一緒について来てもいいですよ」
 本当に、ほんの一分か二分で戻るつもりだったんだけどな。
「じゃ、俺が」
 トウイが毛布を跳ね除けるようにして、ぱっと立ち上がった。それでロウガさんとハリスさんも納得するのかと思ったら、二人はますます胡乱な目つきになった。
「お前らが二人組になると、もっとロクでもないことをやらかすんじゃないかと余計に不安になるな」
「今度勝手な真似をしようとしたら、その時こそ手加減しないからな、トウイ」
「なんでですか!」
 わたしの隣を歩きながら、トウイが 「信用ない……」 と心外そうにぶつぶつと零した。
 ほらね、トウイ。わたしの気持ち、わかった?


          ***


 お店の出口から外に出たら、思っていたより気持ちがよくて、大きく深呼吸をした。
 ロウガさんとハリスさんがうるさ……心配するといけないので、建物からは離れず、腰を下ろして石の壁にもたれ、夜空を見上げる。
 時刻が遅いこともあってか、外を歩いている人こそいなかったけれど、皓々と輝く月と、それぞれの家のドア近くに取り付けられてある小さな燭台が周囲を照らして、近くにいる人の顔を判別できる程度には明るい。
「……なんだかちょっと、変な感じがしますね」
 立てた膝頭で頬杖を突いて、頭上に顔を向けながら、わたしは呟いた。
 少し距離を置いた場所に座ったトウイが、同じように視線を上げる。
「そうですね。このところずっと、夜の明かりっていうと月と焚き火だけでしたからね」
 後半はほぼ野宿ばかりだったもんね。たまに見かける小さな街は、どこも夜ともなると怖いくらいに真っ暗で、ひっそりと静まり返っていた。
 マオールでは、街の中央のほうから、かすかに人の歓声や嬌声らしきものが流れてくる。ここにはまだ、荒廃の手は届いていない。
「……本当に、いいんですか」
 じっと夜空を見ていたトウイが、静かな声で問いかけてきた。
「いい、って?」
 彼のほうを向いたわたしと、空からこちらに顔を移したトウイの視線がかち合う。
「このままいくと、これから起こるかもしれないニーヴァの騒乱に、嫌でも巻き込まれることになる。それで、よかったんですか」
「今さら、その質問ですか」
「あまりにも急展開過ぎて、確認するヒマがありませんでした」
 そういえばそうだね。考えてみたら、わたしもじっくり自分の気持ちと向き合うヒマがなかった。
 口を閉じ、頬杖を外した手で今度は膝を抱えて、目線を虚空に据える。
 自分の気持ちと向き合うという作業は、自分の中にあるものをすべて外にまで引っ張り出して直視しなきゃいけない、ということだ。わたしはそういうのがあまり、好きじゃない。
 見ないでいるもの、隠してあるものまで、出てきてしまうから。
「──トウイさんはあの時、わたしに、『どうしたいか』 って聞いてくれたでしょう」
 目は同じところに向けたままぽつりとそう言うと、トウイが 「はい」 と返事をした。
「ニーヴァを救いたい、って思ったわけじゃないんです。ここに住む人たちみんなを助けたい、って思ったわけでもない」
 この世界が好きかと問われたら、わたしはやっぱり、首を縦には振れない。神獣が言うように、人は愚かで浅ましいとも思う。もちろん、自分も含め。
 生きとし生けるものはみな愛しいだなんてことは、口が裂けても言うつもりはない。そんな聖人のような存在にはなれない。もとの世界で暮らしていた時にはもしかして持っていたかもしれない美しいものを、わたしはこの世界でたくさん、手離してしまった。
 その代わり、今のわたしの中には、嫌悪と不信という真っ黒な感情がしっかりと根付いている。きっともう、取り去ることは不可能なのだろう。
 でも。
「……でも、草原地帯の中に引っ込んで、何もしないでいるのはイヤだと思ったんです」

 望みはひとつ。たったひとつ。
 それは最初から、ずっと変わらない。
 けれどだからって、他のすべてを捨ててしまうことは、したくないと思った。

 わたしはまたトウイを向いた。
「これじゃ、質問に対する答えにはなっていないかもしれませんけど」
「いや……」
 トウイはまっすぐこちらを見返し、ふわりと微笑した。
「それが、シイナさまにとっての答えなんですね。だったらいいんです」
 無言の時が少し続いた。
 もう中に戻ったほうがいいのかなと思うけど、足がちっとも動かない。トウイもぜんぜん 「中に入りましょう」 って言い出す気配がないし。
「えーと……トウイさん、は」
「あのー」
 なんとなく沈黙が居たたまれなくて、ほとんど何も考えずに口を開いたら、トウイがぼそっと声を出した。
 彼の目線はわたしから外れ、また上を向いている。
「あの、それ、どっちかに統一しませんか」
「は?」
「ですから、呼び方」
「呼び方?」
 統一も何も、トウイはトウイでしょ? わたし、他の名前や姓のほうで呼んだことなんて一度もないはずだけど。
「ですからその、トウイさん、か、トウイ、のどっちかで」
「は?」
 もう一回言って、首を傾げた。何を言っているのか、意味が判らない。
「……わたし、ずっと最初から一貫してトウイさんって呼んでましたよね?」
 一回目以外の扉では、ずっとそうだった。心の中ではともかく、面と向かって呼びかける時は、毎回さん付けで呼んでいた。
 それは自分自身に課した、線引きでもあった。
「いや、けっこう頻繁に、トウイって呼んでます」
「そんなことないです」
「ありますって。もしかして、自分ではまったく気づいてなかったんですか」
 驚くように言われて、わたしのほうが驚いた。ウソでしょ。わたし、トウイって呼んだことなんてあった? いつ? 呼んだとしても、ほんの一回か二回か、その程度でしょ?
「わりとよく」
「ウソだ」
「ホントです。この際、どっちかに統一しません?」
「トウイさん」
「……いや、だから、そっちじゃなくて」
 もごもごと言って、赤茶の髪の毛の中に手を突っ込んで掻き廻し、うーんと唸る。
 髪と手の動きに合わせてちらちらと見える耳が、赤い。
「…………」
 変な話だけれど、今この時、この瞬間になって、ようやく。

 これまでずっと不可解だと思っていたトウイの言動のあれこれが、いっぺんに腑に落ちた。

 ナミの花のこと、ハルソラの街でのこと。いろんな記憶が、ものすごい速度で駆け抜けていく。
 そうか。
 あれって、そういう意味だったのか……
 今になって、心臓が跳ねまわりだした。本当に、今さらだ。でも言っておくけど、わたしがニブいんじゃなくて、トウイの意思表示が異様にわかりにくい、ってことだと思うな。
 胸の中に、じわりとした感情が広がる。
 その感情は、温かく、優しく……でも、とても痛くて、切なかった。

 ──バカなトウイ。わたしが今までどれだけの罪を犯してきたか、なにも知らないくせに。
 わたしがどれだけ、たくさんのトウイを、仲間たちを、この世界の人々を、見捨ててきたか。
 嫌ってくれれば、いっそ楽だったのに。

 地面にぺったりと下ろしていた腰を上げ、横に二歩くらい進んで、また座る。お互いの身体が触れ合うほどに間近に寄ると、トウイがぎしりと固くなったのが判った。
「だったら、トウイさんも、わたしの名前から 『さま』 を取ってくれますか」
「たぶん、ロウガさんに殺されます」
 どうやら本気で言っているらしくて、真面目な表情で返された。つい、口元が綻ぶ。
「……じゃあ、二人でいる時だけ」
 ぽそりと言って、すぐそばにある肩に自分の頭を軽く乗せた。トウイは石になったように身動きしない。
「今日はちょっと、冷えるから」
「あ、うん。ですよね。今日はちょっと冷えますね」
 ウソばっかり。今夜は風もなくて、運動すればすぐに汗ばむくらいの、穏やかで暖かい気候だよ。
 そのまま、二人で黙って月を見上げた。

 ──きっと、キミにとってその変化は、さらなる絶望のはじまりにしかならないと思うよ。

 以前、神獣に言われた言葉が脳裏に甦る。
 そっか、あれはこういうことを指していたのか。これまでにはなかった、五十回目にしてはじめて起こった変化。
 最初のトウイがわたしに抱いていたのは、名前をつければ 「同情」 というものだっただろう。それ以降のトウイはずっと、神獣の守護人は神獣の守護人でしかなかった。悪感情を持ったこともあるかもしれないけれど、基本的には、それ以上でも以下でもなかった。
 わたしに、自分の幸せを考えて欲しい、と言ってくれたのは、ここにいるトウイただ一人。
 そうだね、「このトウイ」 を失えば、それはさらなる絶望にしかならないよね。
 でも、神獣。
 ──生きてさよならを言うのは、絶望なんかじゃないよ。
 悲しいけど、つらいけど、苦しくもなるだろうけど、でもそれは、決して絶望にはならない。


 暗い夜空には、丸くて大きくて赤い月。最初に扉を開けた時から不気味だとしか映らなかった赤い月が、この時はじめて、美しく冴え冴えと輝いて見えた。
「綺麗だね、トウイ」
 肩に頭を預けたまま呟く。聞き取りにくいほど小さな声だったはずなのに、隣からはすぐに、「はい、本当に」 という同意が返ってきた。
 それから、トウイがそっと言葉を落とすようにして、囁いた。
「俺、今夜のこと、ずっと忘れません」
「……うん」
 ゆっくりと、目を閉じる。


 忘れてしまうけどね。わたしがもとの世界に帰る時、さよならを言ったその瞬間に、トウイはこの夜のことも、赤い月のことも、自分が言ったことも、隣にいたわたしのことも、すべて忘れてしまうけど。
 ──でも、いいんだ。
 わたしは忘れないから。わたしだけは、ずっと覚えているから。
 今夜のこと。赤い月のこと。トウイが言ってくれたこと。こうして、触れた場所から伝わってくる温もりも。
 ぜんぶ、忘れないから。

 だから、生きていてね。


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