リライト・ライト・ラスト・トライ

第十九章

2.楔石



 暗くなったら、守護人を連れて外に出よう。
 そう考え、俺はじりじりとしながら、その時を待った。
 陽が落ちさえすれば、兵や警護の目をかいくぐるのは、明るい時よりもずっと容易になる。王ノ宮がいくら堅固さを誇っているとはいえ、今は平常時とは違う。ここには街から連れてこられた住人たちもいるのだから、連中はそちらにも注意を向けなければならず、監視の目はかなり分散させられているはずだ。
 窓の外と扉の外にピリピリと神経を張り詰めさせ、俺は暗くなるのをひたすら待ち続けた。
 寝台の守護人は苦しそうな呼吸を繰り返すのみで、時々ぎゅっと目を強く瞑ったりはするものの、その瞼が開くことはなかった。何度拭き取っても、次から次へと浮かんでくる汗で、顔も身体もびっしょりだ。
「……シイナ」
 呼びかけても、まったく反応がない。
 額に置かれた布を取って、冷たい水に浸し、ギュッと絞ってから、守護人の顔に押し当てる。その一瞬だけ唇が震えるようにわなないたが、すぐにまた短い息を零しはじめた。
 首筋や頬の線を辿って落ちていく汗の粒を拭ってから、布を額に乗せた。どれだけ頻繁に取り換えたって、彼女の発する熱で、布はたちまち乾いてしまう。気休めにもならなかった。
 医療品や清潔な布や水などをせっせと用意してくれたセラさんは、あまり姿を見せないと怪しまれてしまうからと、後ろ髪を引かれるようにして仕事へと戻っていった。機会を見てまた来ますと申し訳なさそうに言っていたが、彼女には感謝をしてもしきれない。
 どちらにしろ、暗くなれば、他の侍女たちも居住棟に戻ってくるだろう。この部屋は、セラさん以外に二人が寝起きする場所として使っている。見つかって騒ぎだされては意味がない。その前に出て行かなければ。
 せめて馬が用意できれば。しかしこの状態の守護人を連れて、厩から馬を奪い取ってくるような真似が可能とは思えない。彼女を置いて単独行動をするのも論外だ。今、この場所では、何が起こるかまったく予測がつかない。
 八方塞がりだ。
 ちくしょう、と小さく呻いて、両手で頭を抱えた。

 ──どうして俺は、こんなにも無力なんだ?


          ***


 責め苦のような時間が過ぎた。
 俺にとって、これまでの人生で経験したことがないほどの、長い時間だった。時計の針が進むのが、おそろしく遅く感じられる。なすすべのないもどかしさで、頭がおかしくなりそうだった。
 ようやく空が赤く染まりだし、あと一限もすれば闇が覆いはじめるか──という頃。
 俺の耳は、誰かの足音を捉えた。
 その音は、廊下を慌てたように駆けて、一直線にこの部屋へと向かってくる。
 しかもそれは、一つじゃなかった(・・・・・・・・)
 最低でも、二人。軽い足音と、それよりも重量のある音。おそらく、女と男だ。一人はセラさんだとしても、あと一人は誰のものなのか判らない。
 ひやりとした冷気に包まれる。一気に全身を緊張させた。剣の鞘を左手で掴み、右手で柄を握る。音を立てずに足をずらして、寝台で寝ている守護人を庇う位置に移動した。背中を汗が伝っていく。
 二人分の足音は、この部屋の扉の前でぴたりと止まった。
 声は聞こえなかった。あちらも、中の気配を窺っているのかもしれない。セラさんの行動が疑われて兵が様子を見に来たのか。それが一人なら、倒すことは出来る。でも、すでにこの建物を他の兵たちが囲んでいたとしたら……
 ちらりと守護人に視線をやって、剣を抜いた。とにかく、やるしかない。

 諦めるもんか、絶対に。

 ガチャリという音と共に、遠慮がちに扉が細く開いた。剣の柄を握った俺の手が、ピクリと動く。
「……トウイさん?」
 壁と扉の間から、顔を覗かせたのはセラさんだった。
 俺はまだ構えを解かず、じっと扉の向こうを見据えていた。彼女が連れてきたのは誰だ。兵か、警護か、それとも。
 セラさんは、俺の殺気立った眼を見て、ビクッと身を竦ませた。困惑したように俺を見て、それから、背後の誰かを振り返る。その誰かが彼女を押しのけて乱暴に入ってくるようなら、有無を言わさず剣を振り下ろして昏倒させるつもりでいたが、その様子はなかった。
 大きく扉を開けて、セラさんが身体をずらし、道を譲るような仕草をした。
 ギシリと廊下の床を軋ませ、もう一人の人物が姿を見せる。真っ先に目に入ったのは、兵の黒い制服の袖口だった。
 右手に力を込めて剣を振るおうとした瞬間、その声が耳に届いた。
「……おいおい、とりあえずその物騒な空気はしまっておけよ。それじゃ、かえって敵を警戒させちまうだろ。そういうところが、まだガキだってんだ」
 扉の向こうからひょいと現れたハリスさんが、そう言った。


          ***


 思わず、その場にへたり込みそうになった。
 ハリスさんは構わずにすたすたと部屋の中に入ってくると、俺の肩をぽんと叩いた。そのまま寝台に近寄り、守護人を見下ろして眉を曇らせる。
「……どうして、ここが」
 その問いを発した俺のほうを見もせずに、ハリスさんは守護人に視線をやったまま、手を動かしてセラさんを示した。
「彼女に教えてもらった」
 部屋の中に入って扉を閉じたセラさんが、少しもじもじしながら頷く。
「わたくしを助けてくださった時にいた、もう一人の方なら毒物に対する知識がある、とトウイさんに聞きましたから。仕事の合間に、主殿の中を探し回っていたのです」
「運が良かったんだ」
 ハリスさんも頷いた。
「俺もお前たちを探して、あの建物の中を駆けずり回っていたところだった。そっちはそっちで、王の執務室を目指しているもんだと思ってたからな。時間が経ってもちっともそれらしい動きがないし、何か想定外のことが起こったんじゃないかとヒヤヒヤしてた。これは外を探したほうがいいかと思って出ようとしていた時に、セラさんと会ったんだ」
 そう言って、やっとハリスさんが俺のほうを向いた。まっすぐ目を合わせ、確認するように強い調子で繰り返す。
「──運が良かった。お前は兵たちの手からシイナさまを守り通した。懸命に動いてくれるセラさんという貴重な味方も得た。俺はちゃんとお前たちのところに戻ってこられた。誰も命を落としてない。普通に考えたら、こんなことは滅多にないんだ。幸運は、まだ俺たちの側にある。いいか、トウイ」
「はい」
「だからそんな、この世の終わりみたいな顔をするな。まだ何も終わっちゃいない」
「……はい」
 俺もハリスさんの顔を正面から見返し、返事をした。
 拳を握る。
 まだ、何も終わっていない。



 俺から一通りの話を聞かされると、ハリスさんは驚いたように目を見開いたが、それだけだった。
「メルディが……そうか……」
 考えるように、手で顎の線をなぞる。難しい表情で、寝台の守護人をじっと見下ろした。
「ハリスさんは、アザニの毒っていうのがどういうものか知ってますか。メルディは、ミニリグほど即効性じゃないと言ってたけど……」
「アザニ?」
 ハリスさんが突然、声の音量を跳ねあげた。喰ってかかるようにこちらを振り向くその勢いに、俺のほうが押されたように後ずさる。
「アザニの毒、とメルディは言ったのか? 間違いないな?」
「は、はい」
「バカ、それを早く言え」
 ハリスさんにしては珍しいくらいに慌てた表情になってそう言うと、やにわに守護人に向かって手を伸ばした。
 横になっている彼女の胸元へと向かったその手は、迷うことなく、首からかけられたニコの石をぐっと掴んだ。
「これだ」
「は?」
 これ?
「だからこれ……ああ、くそっ、そういや、ちょっとやそっと引っ張ったくらいじゃ切れない、とか言ってたな」
 苛ついたように眉を上げ、腰から剣を抜く。何をするのかと思ったら、ハリスさんはその剣の刃先で、ニコの石を括ってある淡い緑色の紐をぶつんと切った。
「セラさん」
 それを持って、今度はセラさんのほうをくるっと振り返る。あまりの剣幕に、セラさんもちょっと怯え気味に 「は……はい」 と返事をした。
「悪いが、これを煮てくれないか」
「は……? その石を、ですか?」
「違う。この紐になっている草のほうだ。綺麗に洗って、器一杯分くらいの水で、半限くらい煮詰めるんだ。あまり沸騰させないように。出来るか?」
「は、はい。それくらいなら、ここでも出来ると思います」
 セラさんの答えに、ハリスさんはほっとしたような顔になった。「じゃあ、頼む」 と石の部分だけを切り取って、紐のほうを彼女に渡す。セラさんは首を捻りながらも、急いで部屋から出ていった。
「あの、ハリスさん……」
 ぽかんとする俺に、ハリスさんはやれやれというように息を吐きだした。
「あの紐は、キルケの草で編まれたものだ。キルケってのが、お守りとして使われるってのは聞いただろ?」
「はい」
「頑丈だから、って理由ももちろんあるが、それだけじゃない。キルケの草には特殊な成分が含まれていてさ、それが毒消しとして有効だから、ってのもあるんだ」
 俺は目を瞠った。
「毒消し……」
「もちろん、すべての毒に作用するわけじゃない。キルケの草に含まれる成分が、中和して無毒化させられるのは、ごく一部の毒物だけだ。それでも、毒素が少なかったり薄かったりすれば、他の毒物でも多少は効果が出ることもある。だから、『万能毒消し』 とも呼ばれるんだ。そういう意味で、キルケってのは希少だし、高価なんだよ」
「じゃあ」
 気持ちが昂ぶるのを抑えられずに、俺は声を上げた。守護人の近くに駆け寄り、その手を取る。自分の手のほうが震えていた。
「アザニはキルケの草が完全に中和して無毒化できる、数少ない毒物のうちのひとつだ。あの密偵は、やることが回りくどいんだよ」
 ハリスさんは忌々しそうに吐き捨てた。



 おそらく、メルディはこうなることを薄々予想していたんじゃないか、とハリスさんは言った。
「こうなることって」
「カイラック王、あるいは王ノ宮が、いずれ守護人を排除しようという動きに出るってことをさ。そういうこともあるかもしれない、と可能性の一つとして考えてはいただろう。王ノ宮のものの考え方に、誰より通じていたのはあいつだっただろうからな」
 守護人を排除しようという動き……
「どうして、そんな」
 顔を歪める俺に、ハリスさんは首を振った。
「真意はわからん。……だが、王ノ宮やカイラック王にとって、神獣すら、もうすでに 『神』 ではなくなっていたのかもしれない。王自身、実際に、神威ってやつを目の当たりにしたことはないんだ。人間ってのは、自分の力に驕ると、それよりも上があるとは思えなくなるもんだろうから」
 神獣も守護人も、政治の道具。王と大臣たちには、そうとしか、見えていなかったのか。
「それでメルディは、彼女に刃を向けるような真似を?」
「王ノ宮の密偵は、血の契約ってやつに縛られてるそうだぜ。王の命令には絶対服従で、背けば自分自身が殺される。もしもカイラック王に、『守護人を殺せ』 と言われたら、密偵であるメルディには逆らえない。いや……むしろ」
 ハリスさんは少し声音を落とした。
「そんな話が出ようもんなら、メルディは率先して、その役目は自分がやると志願しただろうさ。なにしろ、他の密偵に任せたら、そいつは確実に、守護人を 『本当に』 死なせちまう」
「じゃあ、メルディは……」

 最初から、守護人を助けるつもりで?

「そうとしか考えられないだろ。大体、毒で殺そうとするのなら、どんな毒を使ったかなんてことをわざわざ口にするやつがいるもんか。普通、それだけはなんとしても黙っておくもんだ」
「…………」
 俺に向けられた、作りものじみた微笑を思い出す。本当はあの時、メルディは心の中で何を思っていたんだろう。
「けど……それならそうと、言ってくれれば」
「おおかた、他の密偵に見張られてでもいたんだろう。メルディは表向きには、どうあっても、シイナさまの敵として映っていなきゃならなかった。そういう事態になるかもしれないと予測して、あれこれ事前に手を打っておいたんだ。やけに俺に毒の話を振って、シイナさまにはキルケの草を渡して」
 メルディなりに、出来るだけのことを。
「きっと、俺が近くにいるもんだと思って、こういう方法を取ったんだろう」
 メルディは、毒物に詳しいハリスさんがいれば、すぐに適切な処置をとることが判っていた。だからアザニの毒を使った。それを使っても、ハリスさんなら、キルケで中和し無毒化させることが出来るだろうと考えて。

 ──ハリスさんを信じて、託したんだ。

「…………」
 俺は口を結んで下を向いた。ハリスさんも、重いため息をついて、顔を伏せる。
「すまん……俺があの時離れていなければ、すぐに毒消しが使えたのに」
 メルディが現れたのは、俺たちとハリスさんが別れてすぐ後のこと。ハリスさんの離脱は、突発的なものだ。いくら優秀な密偵でも、そこまでは知りようがないし、予想しようもない。
「ハリスさん、キルケの草は、まだ間に合いますか」
 毒を体内に入れてから、もう数限は経過している。今から毒消しを使って、果たしてそれはちゃんと作用するものなのか。
「わからない……。正直、どうなるかはやってみないと」
 ハリスさんは守護人に目を移し、暗い面持ちで言った。


          ***


 しばらくして、セラさんが器に緑色の汁を入れたものを持ってきた。
 メルディが守護人に飲ませた薬湯ほどドロドロとはしておらず、色も薄い。これで効き目があるのか……とにかく見届けるしかない。
「ほれ」
 ハリスさんが渡された器の中をちらっと見てから、俺に向かって差し出してくる。は? と問い返したら、呆れたような顔をされた。
「これをシイナさまに飲ませるんだが」
「はい」
「俺がやってもいいのかよ」
「……やります」
 俺はその器を受け取った。
 守護人の上半身を起こし、左腕で支えて顔を上に向かせる。器を傾けて中身を自分の口に含んでから、彼女の唇を開かせ、ゆっくりと中に流し入れた。
 守護人は目を閉じたままで苦しそうだったが、口中に入った液体を吐き出すこともなく嚥下した。
 白い喉が上下に動くのを確認して、俺はほっと安堵の息を洩らした。



 毒消しを飲ませて、守護人の身体を再び横たえる。
 俺とハリスさんは、寝台に張り付くようにしてじっと見守った。すぐに何かしらの変化が起こるはずもないのだが、そうせずにはいられなかったのだ。
 セラさんは、また部屋を出ていった。居住棟に侍女たちが戻る頃になったら真っ先に飛んできて知らせますから、と請け負う彼女に、ただ頭を下げるしかない。もしもこれが知られたら、セラさんにもどんな罰が下されるか判らないのに。
 守護人に意識があれば、彼女を巻き込むことを、決してよしとはしないだろう。ハリスさんと相談して、セラさんに迷惑をかける前に、なるべく早いうちに守護人を連れてここから出ようという結論を出した。
 ……それまでに、少しでも快方に向かうといいのだが。
 脱出方法をいろいろ検討したが、やっぱりハリスさんがいると、気持ちの上でも戦力的にもぜんぜん違う。全身から突き出していた無数の針が、徐々に和らいでいくのを感じた。

 ハリスさんは、離れていた間に自分がしてきたことを、少しだけ、話してくれた。

 探していた相手は、主殿の奥のほうにいたという。
 兵の恰好をしているとはいえ、そんな内部にまで入り込むのは相当大変であったろうと思うのだが、ハリスさんは 「まあ、そこはそれだよ」 と適当に受け流した。どんな手段を使ったのか、深くは問うまい。
「馬鹿げた話さ。こっちは十年以上血眼になって探してたってのに、あっちはまるで俺のことなんざ覚えてなくてよ」
 ハリスさんは肩を竦め、乾いた目をして少し笑った。
「まったく、虚しいったらありゃしない。まあ、それは要するに、奴がこれまでどれだけの政敵を闇に葬ってきたのか、ってことでもあるがな」
 政敵、か。
 父親が権力争いのいざこざで狙われたということは、つまりハリスさんが、もともと非常に高い階級の生まれであったということを意味する。トルティックの街で、ヴィルマさんがハリスさんに、「会ったことがあるのではないか」 と言っていたのは、そういうことだったのだろう。
「絶対に殺してやると決めてたんだぜ。そいつを殺すことが出来れば、もう自分はどうなってもいいと思ってた。スッキリした気分で、弟と妹のところに行ける、ってな。……けど」
 口元の笑みが、苦笑に変わる。
「いざとなったら、なんかもう、ひたすら虚しいだけなんだよ。シイナさまが以前、言ってたろ。『奪われる前に殺さないと、意味がない』 ってさ。ホントにそうなんだよなあ。今になってこいつを殺しても、誰が帰ってくるわけでもないし。別にあいつの命なんざどうなってもよかったんだが、トウイがここにいたら絶対に止めるんだろうなーとか、余計なことばっかり考えちまって」
 どうしても、剣を持つ手が動かなかった、とハリスさんは言った。
「そんなことをしても弟と妹は喜ばない、とか言いそうだろ、お前」
 ドヌクの時のことを言っているらしい。俺は少し恥じ入った。
「……メルディに、綺麗事だと言われました」
「うん」
 ハリスさんがくすりと笑う。
「綺麗事だよ。確かにな。……でもさ、それは多分、真理でも、あるんだよ。死んだ人間が喜ぶか悲しむかは知らないけど、あいつに手を下したその瞬間に、間違いなく、俺の中の何かは汚れてしまう。『弟と妹のために』 なんていうのは要するに口実で、結局、俺は俺の怒りと恨みを晴らしたいだけだからな。俺はいつまでも、あいつらにとっての、『カッコイイ兄ちゃん』 でいたいのにさ、やっぱり、私怨で人殺しをする人間になったらダメだろ。それじゃ、あいつらをあんなにも怯えさせたあの男と一緒だ。悲しい記憶もあるけど、楽しくて綺麗な思い出だってたくさんあるのに、それを自分の手で塗り潰したら、やっぱり、ダメだろ……」
 目を伏せて、小さな声で呟いた。

「だから、お前は間違ってない。俺はそう思うよ。あの時、シイナさまを止めたのは、綺麗事かもしれないけど、でも、正しかったんだ」

「…………」
 ──正しかった。
 そうなんだろうか。
「そんなわけで、殺すのはやめて、足腰立たないくらいに痛めつけておくだけにしておいた。許しはしないがね。一生、あいつの罪は消えないし、俺が許すことはないけど、まあ、スッキリした。当分の間は身動きも出来ないし、まともに喋ることも出来ないから、悪だくみをする余裕もないだろうさ」
 殺しはしなかったけど、手加減もしなかった、ということか。相手にしてみれば、ひと思いに殺されたほうがまだしも楽だったかもしれない。
「スッキリしましたか」
「うん」
「──もう自分はどうなってもいい、と思いますか」
 俺が訊ねると、一拍の間を置いてから、ハリスさんは笑った。
 今度は、苦さの混じらない、いつもの笑い方だった。
「思わねえよ。だから、お前たちのところに戻ってきたんじゃねえか」
 それから、守護人のほうに目を向けた。

「……いつの間にか、俺も楔を作ってたんだ、と思ったね」
 と、ぽつりと零す。

「くさび?」
「この地に繋ぎ止める楔さ。十年以上探してた仇敵に会ったってのに、ついそっちのほうを考えちまうんだ。早く戻らないと、って焦った気分じゃ、復讐の炎だってちっとも燃え上がりゃしない。あーあ、そういうものは作らないように気をつけてたのになあ」
 独り言のようにぶつぶつ言ってから、ふと真顔になった。
「リンシンには、そういうのがないんだろうな。一つもない。だからあいつは止まらないんだ。誰にも止められないだろう。……トウイ」
 厳しい目で、俺を見る。
「はい」
「シイナさまにとっての楔はお前だ。お前がしっかりと、彼女を繋ぎ止めるんだぞ」
「…………」
 俺は言葉に詰まった。
「俺に……そんなことが出来ますかね」
 繋ぎ止める? どうやって? こんなにも自分は無力で、守護人は俺を必要とはしていない。いつだって彼女は一人で、誰からの介入も干渉も拒んできたのに。
「お前しかいないんだ」
 ハリスさんは強い口調で断言して、また守護人に目を戻した。


          ***


 暗くなってきた頃、異変は起こった。
 複数の人間の大声が外から聞こえて、俺とハリスさんははっとした。すぐに窓へと駆け寄り、壁に身を寄せて、そっと窺う。
 兵たちが一斉に、門の方向に走っていくのが見えた。彼らが向かっていく先で充満しているのは怒鳴り声だった。それも大勢の。まるで大地を揺るがすように、ぐわんぐわんと空中いっぱいに反響している。

「──暴動だ」
 ハリスさんが茫然として言った。

 暗い中、はるか向こうに、たくさんの人間が蠢いているのが見える。まだ遠いが、間違いなく彼らがいるのは王ノ宮の敷地内。
 つまり、すでに王ノ宮の門が突破された、ということだ。
「まさか、マオールの街の住人が?」
 兵への怒りが爆発して、王ノ宮にまで押し寄せてきたのか、と思ったが、ハリスさんは眉を寄せて首を横に振った。
「マオールのやつらもいるかもしれないが、それだけじゃないな。……見ろよ、あの数」
 兵たちの頭の向こうに、小さな明かりがいくつも灯っている。あれは松明の炎か。暗闇の中に点々と連なる明かり。
 その数の多さに、戦慄が走った。
 今は兵が人の波をなんとか留めている。しかしあの数では、いずれそれさえも押し切って、主殿にまで向かってくる連中がいるかもしれない。そうしたら、ここも危険になる。切迫感が足元まで忍び寄ってきた。
「ハリスさん、今のうちに外に」
「ダメだ、兵と警護だけじゃない。今はどいつもこいつも敵だ、門に向かうところを見つかったら襲いかかってくるぞ。迂闊に出られない」
 ハリスさんが唸るように言って、剣の鞘をぐっと握る。
「トウイ、俺はとりあえず外の様子を見てくる。お前はここにいて、シイナさまを見てろ、いいな」
 鋭く言って、ハリスさんは素早く身を翻し、部屋を出ていった。
 バタンと扉が閉じられる。
 俺はすぐに寝台のそばに取って返し、いつでも守護人を担いで動けるように態勢を整えた。
 守護人はまだ目を覚まさない。呼吸の荒さと顔色が悪いのは変わらずで、毒消しが効いているのかどうかもさっぱり判らなかった。
 手遅れだったのでは、というざわりとした不安が背中を這い上る。
 頭を振ってその考えを追い払った。今はまず、目前に迫った危機を脱することだ。
「くそ、一体何が……」
 低く罵るように呟いた時だった。

「──災厄だよ(・・・・)
 と、高い声が聞こえた。

 弾かれたようにビクッと反応する。
 声の方向に顔を向けると、いつの間にか、部屋の中に人の姿があった。しかもその人物は、ひどく落ち着いた態度で、椅子に深く腰かけていた。
 いつ、どこから入ってきたのか。扉を開ける音なんてしなかったはずだ。ついさっきまで、俺と守護人以外の人間は室内にいなかったのに。
 そこに座っているのは、白い肌と、銀色の髪、それから黄金の瞳を持った子供だった。
 子供は、感情の存在しない瞳を細め、ニコニコと楽しそうに笑っていた。


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