リライト・ライト・ラスト・トライ

第十九章

3.二身



「……幻獣?」
 俺の問いに、子供の唇の両端がさらに吊り上がった。
 その顔を見て、眉を寄せる。湧き上がるのは、圧倒的な違和感だった。目の前にいる子供の姿をした存在は、草原地帯の白い建物の中にいた幻獣と、どこもかしこもまったく同じ容姿容貌をしているというのに、どこかが明らかに異なっている。
 あの時、守護人が口にした言葉を思い出した。

 違うのは、笑っているか、いないか。それくらいです。

 確かに、彼女はそう言っていた。世界の管理者の双極の、差はそれだけだと。
 じゃあ、ここにいるのは……
「神獣?」
 改めて発した問いに、子供は無言で目を細めた。黄金色の瞳を持ったその目と、ほとんど赤味のない唇が、細くしなった弓形になる。そこに感情というものがない分、幻獣の無表情よりも、神獣の笑みのほうがはるかに不気味に映った。
 神獣が、どうしてここに?
 俺は咄嗟に傍らの寝台を振り返った。そこに横たわり、苦悶の表情を浮かべている少女は、神獣の守護人。守護人が神獣に対してあまりいい感情を抱いていないらしいことは判るが、それでも両者の間に余人には理解できない深い絆があるというのも、至極当然のことに思えた。
「──守護人を、救ってくれるのか」
 神獣の目がぱちりと開いた。その仕草は、驚いたというより、面白いものを見つけた時の子供に似ていた。
「ボクが?」
 さも、楽しいことを聞いたというように、笑いながら言う。その顔、その口調には、慈悲も憐れみも一片も含まれてはいない。いや、それだけなら幻獣と同じだ。神獣の場合は、そこにさらに悪質なものが上乗せされていた。
 ぞくりとした。なんともいえない不快感が、胸を撫で上げる。
 笑っているのに、神獣がこちらに向ける目の温度のなさは何だろう。俺たちのことをちっぽけな虫程度に見ているのが幻獣だとしたら、その虫の脚を一本ずつ引きちぎっては喜ぶのが神獣だ。そんな気がする。

 ……こんなのが、神だって?

 吐き気が込み上げてくるのをこらえて、俺は左手で剣の鞘を掴んで寝台ににじり寄った。よく判らないが、現在の無防備な状態の守護人を、神獣の視線に晒しておくのがたまらなく嫌だった。
「何を警戒してるんだい? ボクが、ボクの守護人に危害を加えるとでも?」
 神獣がそう言って、あははは、と高い声で笑う。
「ボクは人間に何もしやしない。人は人と争い、傷つけ合うものだ。人を追い詰めるものは、いつだって人の欲、人の気持ち、人の心さ。そうだろう?」

 人の欲、人の気持ち、人の心。
 ──どこかで、聞いた。

「聞こえるかい、人々の怒りと嘆きの声が。押し寄せてきたのはマオールの街の住人ばかりではないよ。愚かなカイラック王によって被害を受けた近隣の街の住人たちが、一斉に蜂起したんだ。王ノ宮はもはや、彼らを守ってくれる存在ではない、と気づいたんだね。一方的に日常を荒らされ、捕縛され、連行され、痛めつけられたんだもの、当然さ。このままじゃあ、ただ奪われ壊され踏みつけられるだけ。踏みつけられないためにはどうするか。簡単だ、こちらのほうが先に踏みつけてやればいい。そのように裏で操っている者がいるにせよ、易々とその思惑に乗ってしまうのは、あまりにも人間というものが脆く弱いからだ。まで自分たちが平穏な暮らしをしてこられたのは国の庇護下にいたからだというのに、それさえも都合よく忘れてしまっている。人よりも恵まれた立場にいたいという浅ましい欲望、自分だけは不幸を蒙りたくないという身勝手な気持ち、他人を貶めて愉悦を感じる醜い心。災厄はいつもそこから生じて、膨れ上がる。災厄の源は、人間の存在そのもの、ということさ」

 流れるようにその長い台詞を口にしてから、神獣は俺をまっすぐに見た。
 唇が綺麗な弧を描く。

「──守護人を助けたい(・・・・・・・・)?」

「当たり前だろ」
 間髪入れずにそう返すと、神獣はさらに笑みを深めた。
 その途端。
 周囲の空気が急に、ぐにゃりと歪んで軋んだ。
「……っ?!」
 背中に冷や汗が滲む。なんだこの異様な感覚は。
 窓の外から聞こえてくる人々の叫喚が、遠くなり、近くなる。
 どうしたんだ、これ。
 二本の足はしっかりと床について立っているはずなのに、いきなりぐらぐらと覚束なく揺れはじめたような感じがした。揺れているのはどちらだ、床か、俺か。
 俺の視線は確かに、椅子に座る神獣の姿を捉えている。数歩進んで手を伸ばせば、あっさりと触れられる位置のはず。それがどうして、こんなにも難しいことのように思えるんだろう。
 額から浮き出した汗の粒が、次から次へと頬を伝い、顎の線を辿って下へと落ちた。目の中にも入ってきて、視界が滲んだ。拭いたくても、腕が重くて動かない。しきりと目を瞬いたが、なぜか辺りはぼんやりと霞んでいく一方だった。
 すべての音が、耳に届かない。外では、まだ暴動が続いているはずなのに。
 それにつれて、周囲の景色も白っぽくなっていった。
 椅子も、机も、窓も、棚も、寝台も。
 あらゆるものの色が、消えていく。
 まるで、幻獣のいた、あの白い部屋のように。
 ──バカな。

「守護人の言葉が理解できないんだろう? それはそうさ。キミは何も知らないのだから。ボクの守護人のことも、キミ自身のことも。だからどうやって救えばいいのかも判らない。……ねえ、神獣の守護人とはなんだ、という疑問を抱いていたね?」

 とうとう、色を残しているのは俺自身と、寝台の上の守護人だけになった。白い肌と銀色の髪を持つ神獣は、すでに背後の白にすっかり同化してしまっている。
 その中で、黄金色の瞳だけが、光を放ってこちらを向いていた。

「その答えを、知りたいかい? すべてを知る覚悟はあるかい? キミは守護人にとってどういう存在であったか、守護人はどうしてこの世界に在り続けようとするのか、それを自分の目で確認してみるかい?」

 神獣の声は、耳で聞くというより、頭に直接響いてくるようだった。
 がんがんとした痛みが全身を駆け巡って、眩暈がする。
 神獣は、明らかに俺に対して、なんらかの圧力をかけてきていた。攻撃とも呼べないくらい、あちらにとっては取るに足らないものだっただろう。強いて言えば、ちょっとしたイタズラ、程度のものだったかもしれない。
 それでも俺は、正直、その場に座り込んでしまいそうなのをこらえるのだけで精一杯だった。神獣と人間とでは、それほどの力の差がある、ということだ。
 意地でも倒れてやるもんかと、必死で耐えた。ニコニコして俺を眺めている神獣は、そんな様子さえも、楽しんでいるらしかった。
 今にも崩れてしまいそうな自分の膝を叱咤し、その金色の瞳を見返す。強く奥歯を噛みしめた。
「──ああ」
 しっかりとした声で応じると、正面から見据えた神獣の目が、にいっと細められた。
 次の瞬間、白一色だった世界が闇に包まれた。



          ***


 闇が消失すると同時に、俺の前にはまた一面の白が広がっていた。
 が、すぐに気づいた。今度の白は、衣服の白だ。眼前にずらりと並ぶ人々が、揃いも揃って白い服を身にまとっている、というだけのことだ。
 なんだ、ここ。
 そうは思っても、自分の身体がちっとも自由に動かせないので、周囲を見回すこともままならなかった。
 まだ神獣の力が働いているのかと訝ったが、どうにも変な気がしてならない。なんか──変なんだ。俺は確かにここにいるはずなのに、ちっともそこに存在しているような気がしない、っていうか。
 目は見えている。耳も聞こえている。思考も廻っている。でも、何も感じない。その場の空気というか、肌に触れているはずのそれが、まったく 「自分のもの」 として実感できない。いや、身体は確かにそれらを知覚しているはずなんだけど……でも。
 ここに立っているのは俺だ。だけど、俺じゃない。まるで、違う身体に自分の意識だけがへばりついているような、そんな奇妙さがつきまとって離れない。

 そこにいる 「俺」 は、腰の剣に手をやって、こころもち前傾姿勢で何かを待機していた。
 掌にはちゃんと剣の柄の硬質の感触があって、「俺」 はちょっとした退屈さと、どこか疑うような、少し高揚するような、複雑な気持ちを抱えている。

 俺はそれを、透明な壁を隔ててただ見ている、そんな感じなのだ。
 まるで、夢の中の俺を、現実の俺が眺めているかのような。
 夢の中の俺は、現実の俺とは関わりなく、勝手に考え、勝手に行動する。現実の俺はそれを見ることは出来るけど、実際に触れたり質感を得たりすることは出来ない。そういうことなんだろうか。
 一応その結論を出して冷静になってみれば、この 「俺」 が見ている光景がどこであるかというのも、すぐに判った。
 広い部屋、灰色の壁、高い天井、窓のない部屋。

 ──神ノ宮の、現れの間だ。

 ずらりと並んで跪いているのは、白い衣装を着た神官たちだった。彼らのいちばん前にいるのが大神官。奥の壁には、炎を焚く灯火台に挟まれた 「絵の扉」 が見える。
 神官たちの後方で、「俺」 は、本当に来るのかねえ、などと考えながら、ひたすら時間が過ぎるのを我慢していた。そろそろ疲れてきたし、かといって力を抜くとロウガさんにあとで叱られるし、だけど絵の扉なんてもんが本当に開くのかそこからして信じられないってのに──
 もちろん、俺はこの光景にもその心情にも、覚えがあった。今だってあの時の記憶はまるで薄れることなく、くっきりと頭の中に刻み込まれている。

 神獣の守護人の来訪の場面じゃないか。

 ということは、つまりこれは、「過去」 なのかな。神獣が、俺の意識だけを過去に飛ばして見せているものなのか。どうやってそんなことが、なんてことは考えたってしょうがない。それは草原地帯でイヤってほど経験済みだ。
 ……けど、なんのために?
 よく判らないまま、俺は経緯を見届けることにした。この先起こることはもう知っているから、少し困惑はするものの、取り乱したりはしない。そうだった、守護人がはじめてやって来た時はこんなんだったなあと、しみじみと懐かしい気持ちにもなってくる。
 やがて、絵の扉が動いた。
 それまでは存在もしなかった壁の境界が浮き上がり、絵の扉が実物の扉へと変貌する。神官たちの間にどよめきが走り、「俺」 は一気に全身を緊張させた。
 はじめて目の当たりにする神威に、空気がぴんと張り詰める。
 そうそう、そうだったそうだった、と透明な壁のこちら側で、俺は気楽にその様子を眺めていた。
 あの時は、呼吸するのも忘れるくらいだったもんな。この後、現れる守護人があまりにも堂々としているので、そんなことも吹っ飛んでしまうのだが。
 扉と壁の隙間から、人の姿が覗く。これは過去の一部分だというのに、なんとなく胸が上擦ってくるのが抑えがたかった。守護人の登場だ。見慣れない黒い衣服を身につけた、あの時の──

 え?

 無表情の守護人が、ぴんと背筋をまっすぐにして扉を通ってくるところを頭に描いていた俺は、次の瞬間、予想とはまったく違うものを目にして混乱した。
 扉から姿を見せたのは、黒い衣服を着て、黒い髪を背中に垂らした少女。いや、守護人だ。俺が彼女の顔を見誤ることなんてあり得ない。
 でも。
 でも、違う。守護人と同じ顔をしたその少女は、全然まったく無表情などではなかった。頬にははっきりと判るほどの涙の跡。その黒い瞳が喜びに溢れていたのは最初に一歩を踏み出した瞬間だけで、それはすぐに戸惑いに、それから怯えに占められた。
 そう、彼女は怖がっていた。当惑していた。落胆し、失望していた。表情は悲哀に満たされて、どこをどう探しても、それ以外のものは見つけられないほどだった。

 守護人、じゃない、のか?

 そんなはずない。守護人だ。姿は間違いなく、彼女のものだ。
 これは一体、なんなんだ? 過去じゃないのか? そこにいるのは守護人だが、俺の知っている守護人ではなかった。
 一度も俺が見たことのない守護人が、そこにいる。
 守護人は──いいや、黒髪の少女は、茫然自失の状態から抜け出ると、大神官の言葉も耳に入らないように、「間違えた」 と 「帰る」 の言葉を繰り返した。

 わたし、帰りたいんです、と、はっきりと。

 大神官の制止を振り切り、くるっと踵を返して扉に向き直った彼女は、それがまた絵に戻っているという事実に、心底愕然としたようだった。いや、いや、と錯乱した様子で、痛切な悲鳴を上げて、もう開くことのない扉に爪を立てる。
「いやあっ!」
「いかん、守護さまが……お前たち、早くお止めしなさい! とりあえずこの場からお連れするのだ、決して傷をつけてはならんぞ!」
 大神官の命令で、ロウガさんとハリスさんが機敏に動く。「俺」 も床を蹴って走り出した。この身体は、俺の意志とはまったく無関係に動く。あっという間に、ロウガさんとハリスさんと 「俺」 は、泣き叫んで暴れる少女の身を拘束した。
「いや、帰る! 助けて! 誰か! お母さん、お母さん、助けて!」
 ロウガさんに担がれても、彼女は死に物狂いで抵抗していた。ぼろぼろと零れ落ちる涙が、頬をびっしょりと濡らし続ける。あまりの痛ましさに、ロウガさんだけでなく、ハリスさんも目を逸らしていた。
 おかあさん、と叫ぶ声が現れの間に響き渡る。
 ひどく痛む胸は、俺ではなくて、この時の 「俺」 のものなのだと、ようやく気づいた。


         ***


 ──なにがなんだか判らない。
 夢にしては、すべてにおいて鮮明で、詳細でありすぎた。そして、俺の過去をなぞっているようで、まったく違う。
 扉を通って現れた少女は、そのままひとつの部屋に押し込められ、軟禁状態にされてしまった。神獣は、彼女が現れてから一言も口をきかないという。
「どういうことなんでしょうね」
「俺が知るかよ。やーれやれ、神獣の守護人の護衛官に任命されたと思ったら、あんな弱々しいお嬢ちゃんの見張りをさせられるとはね」
「とにかく、我々は大神官様の命に従って動くのみだ」
 ロウガさんとハリスさんと 「俺」 が、困惑したように話し合っているのを、俺はただ見ているしかない。俺が何を思おうとどう感じようと、この身体の持ち主である 「俺」 には一切伝わらないらしい、ということだけはよく判った。俺には俺の意識がちゃんとあるのに、それはここではなんの意味も持っていないのだ。
 ロウガさんも、ハリスさんも、間違いなく、俺が知っているその人だった。細かい仕草や喋り方に至るまで、俺の記憶にあるものと同じ。でも、話している内容はまったく記憶にない。俺たちは、こんな会話を交わしたことはなかった。
 敢えていうなら、仮定の世界、とでもいうものか──と、俺は考える。
 もしもあの時違う道に進んでいたら、というのは、誰しも一度くらいは考えたことがあるだろう。今、俺が見ているのは、まさにその 「別の道」 なのではないか、という推論を立てるしかなかった。

 ……もしも守護人が、こちらに来た時、見知らぬ世界と人々に怯え、逃げようとし、泣き喚いて、すべてを拒絶しようとしていたら?

 その、「もしも」 であったほうの道。
 もちろんそれは実際にあった出来事とは違うが、幻獣は俺たちに 「まだ起こっていない未来」 なんてものを見せたのだし、神獣がそれと似たような芸当が出来たとしても、驚くことではないのかもしれない。
 そういえば、俺も以前、そんなことを思った覚えがある。「もしもそうであったなら」、その時は俺たちが神獣のところに強制連行しなきゃならないわけで、そうならなくてよかった、とほっとしたんだっけ。
 俺が知っている守護人は、最初から何も拒むことはなく、こちらの要求を受け入れていたから──

 そこまで考えて、はっと胸を衝かれた。
 自分の中にあったものが一気に引っくり返るような気がして、背中が粟立った。

 なに言ってんだ、俺。
 見知らぬ世界にはじめて足を踏み入れた時の人間の反応として、普通なのはどっちだ。
 怯えて、逃げようとして、泣き喚いて、拒絶する。それが当たり前じゃないか。俺が知っている守護人のほうが、奇異に過ぎるのだ。
 ずっと最初からその姿を見続けていたから、よく判らなかった。守護人とはこういうものなのか、という納得の仕方をしていた。でも、こうして 「普通の反応」 を見て、思い知った。
 ようやく、気づく。

 おかしいのは、俺が知る道のほう(・・・・・・・・)なんだ。

 神獣は、俺に対して 「何も知らない」 と言いきり、「答えを知りたいか」 と聞いた。
 ──すべての謎の理由が、今、俺が見ているものにあるということか。
 それが判れば、守護人を救えると?


          ***


 一室に閉じ込められた少女は、最初、青い顔でひたすら小さくなっていた。
 何をされるのかと怯えていたのだろう。当然だ。大神官はおろか、神官の一人さえ、彼女の様子を見に来たり、訊ねてくるようなのはいなかった。神獣がなんの反応もしないといったって、せめて説明くらいはすべきだと思うのに、連中はずっと、「あれは本当に神獣の守護人なのか」 というところで揉めている。
 重要なのは、守護人かどうか。ただそれだけであって、神官たちが少女自身にはまったく関心を抱いていないのは一目瞭然だった。
 本来なら神獣の守護人の護衛官という大役を任されるはずだった 「俺」 たちは、そのまま少女の監視役としての仕事をさせられることになった。彼女が不必要な情報を得ないように、決して話さないこと、という厳しい命令つきだ。事がはっきりするまでは、逃がすな傷つけるな弱らせるなと上官に言われて、ハリスさんは裏でさんざん毒舌を吐きだしていた。
 少女の見張りに、ほとんど労力は必要なかった。彼女は泣いたり怖がったりする以外は、おおむね大人しい虜囚だったからだ。暴れたり大声を上げたりすることもない。侍女が食事の支度をすれば、小さな声で 「ありがとう」 と礼を言ったりするので、言われた侍女のほうが驚いていたくらいだった。
 しかし、少女が勇気を振り絞って話しかけてきても、こちらは何も答えられない。表情も変えてはならないと言われている。無言しか返されず、か細い肩をしょんぼりと落とす少女の姿が痛々しかった。
 もとの世界から引き剥がされ、監禁されても、けれどこちらを責めるよりもまずは事情を聞きたい、話し合いをしたいと求める少女は、非常に優しくて真っ直ぐな心根を持っているのだろう。それがよく判るだけに、「俺」 を含めた三人にとって、その仕事はかなり苦痛を伴うものだった。
「やってらんねえよ」
 いちばん文句を言っていたのはハリスさんだ。
 見張りの時は完全に冷たい表情で覆い隠しているが、護衛官の詰所ではしょっちゅう物に当たり散らしていた。彼女が出された食事にほとんど手をつけないので、味付けをいろいろ変えてみたらどうかと侍女に注文を出していたのも知ってる。
「…………」
 ロウガさんは難しい顔つきで、無言を貫いている。
 少女に対して説明が必要であることを上官に何度も交渉して粘っていたけれど、今のところその努力はまったく実を結んでいない。このままでは彼女の精神が参ってしまうのではないかと、ぼそりと心配そうに呟くのを聞いた。
 「俺」 は──
 この身体の持ち主である 「俺」 は、あの子が早くもとの世界に帰って、母親に会えるといいなと、そればかりを考えていた。



 少女がやって来て、数日が経った。
 神官たちの間で、「あの異世界人は神獣の守護人ではない」 という意見が優勢になってきたと聞いて、「俺」 はほっとしていた。
 神獣は相変らず、黙ったままなのだという。この調子なら、結論が出るのもそう遠くないだろう。そうすればあの女の子は、またもとの世界に帰れるということだ。伝承にしか聞いたことのない守護人が来訪するよりも、あんなにも泣いていた女の子が笑えるようになったら、そっちのほうがよっぽど喜ばしいことじゃないか。
 同情もあったし、罪悪感もあった。誘拐の片棒を担いでいるような後ろめたさも、もちろんあった。もうすぐそれらから解放されると思い、「俺」 は久しぶりに重たい気分を払い落として、心を浮き立たせていた。
 だからだろう。
 「俺」 は、あれほどきつく言われていた命に背いた。
 お湯が欲しいと言いだした彼女の求めに応じ、言葉を交わした。話してみれば、彼女は本当に普通の女の子だった。これが伝説の神獣の守護人のわけないよなあ、という気持ちも手伝って、「俺」 はこちらの事情を簡単に説明した。ずっと身を縮めている彼女を少しでも安心させてやりたかったし──
 そうすることで、自分の罪悪感から逃れたい、というのもあった。
 間違いだった、と聞いて、少女の目が輝く。
「じゃ、わたし、帰れるよね? ね? 間違いだってはっきり判ったら、わたしを家に帰してくれるよね?」
「うん、きっと帰れるって」
 「俺」 はその時本当に、心からそう思っていたのだ。間違いだったと判れば、神ノ宮は彼女を家に帰してやるのだろうと。大神官にその力がなくとも、神獣は神と同等とされるのだから、それくらいの慈悲は持ち合わせているのだろうと。
 こんな弱く頼りない女の子の切なる願いが、叶わないわけがないと。
 そこには、なんの根拠もなかったのに。
 確実性のない希望を与えることは、同時に、絶望を与えることにもなるという可能性を、まったく考えもしないで。
「……ありがとう」
 そう言って、守護人と同じ顔をした少女が笑う。
 唇を綻ばし、少しはにかむように頬を赤く染めて、嬉しそうに。
 無邪気さがふわりと零れて、見ているほうの心までが温かくなるような、愛らしい花のような笑顔を浮かべた。


 ──こんな風に、笑うのか。
 そう思ったのは、彼女の目の前にいる 「俺」 ではなくて、ただ見ていることしか出来ない俺のほうだった。


「そういえば、名前も知らないな。いくら人違いったって、大神官も、最低限の説明くらいはしてやりゃいいのに──俺はトウイ。トウイ・ウル・カディア。あんたは?」
「椎名……椎名、希美」
 少女は、俺の知らない名を口にした。

 ノゾミ、と。


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