リライト・ライト・ラスト・トライ

第二十章

3.一蓮



 ゴホン、というわざとらしい咳払いが聞こえたのは、しばらくしてからだ。
 トウイの胸元から自分の顔を離して目をやると、いつの間にか部屋の入口のところに、ハリスさんがドアにもたれるようにして立っていた。
「……お取込み中申し訳ないが、あんまり悠長にしている場合でもないんでね」
 軽い口調でそう言ってから、改めて部屋に入ってきたハリスさんは、ベッドにまで近づいてくると、わたしを見てやんわりと目を細めた。
「気がついたみたいですね。時間はかかったが、一応、毒消しが効いたらしい。まだ顔色はよくないが、少しずつ回復してくると思いますよ」
「毒消し……」
 呟いてから、わたしはハリスさんの顔をまじまじと見返した。
 そういえばわたし、毒にやられたんだっけ、と思い出す。ハリスさんがいるということは、あの後でトウイと合流したのかな? ていうか、ここ、どこ?
 頭を持ち上げようとしたけど、ぐるぐる目が廻って非常に難しかった。手足にも、ろくに力が入らない。起き上がるのは諦めて、またぽすんと後頭部を枕に沈め、ベッドの傍らに膝をついているトウイのほうに視線を移す。
「トウイ」
「はい」
 呼びかけると、トウイの赤茶の目がまっすぐわたしに向かってきた。
「わたしが意識を失ってから今までにあったことを、話してくれる?」
「もちろん」
「現在の状況は、どんな感じ?」
「決して、よくはないです」
「──そう」
 そうだろうね。窓の外から聞こえるのは、地響きのような不穏な群集の喚声。まだここからは距離があるようだけれど、異様な熱気と興奮はびりびりと空気を通じて伝わってくる。この張り詰めたような切迫感、この刺々しい雰囲気、何度か経験したから判る。
 暴動が、起こってしまったか。
 結局、止められなかった。災厄の種はすでに芽を出した。放っておけばこのままどんどん大きく成長して、ニーヴァという国とそこに住む人々を呑み込み、混乱の渦へと巻き込んでいくだろう。
 ……これまでの扉と、同様に。

 違うのは、今のわたしにとって、これは終わりではなく、始まったばかり、ということだ。

 何度も見てきた。そして、何度も見捨てた。トウイを失った時点で狭間に落とされ、次の扉を開けてきたわたしは、「そこから先」 を知らない。災厄が起きることは知っていても、そしてたくさんの災厄の形をこの目で見てきても、どうやってその災厄を片付けて収束するのかという、肝心なことを知らない。
 状況は、決してよくはない。よくはない、どころじゃない。むしろ、困難しかない、と言ってもいい。どうしたらいいのかなんて、さっぱり判らない。
 ──けど。
「じゃあ、頑張ろうか」
 ため息をついてわたしがそう言うと、トウイが微笑んで頷いた。
 どこまで出来るかは判らないけどね。でも、やれるだけ、やってみようか。
 まだ、何も終わってはいないのだから。

 これからも続いていく、世界と時間のために。

「……というわけで、これまでのことを説明するのと今後のことを考えるのに、もう一人、面子を増やしてよろしいですかね」
 ハリスさんの言葉に、わたしとトウイが、ん? と同時に首を傾げる。もう一人って誰? とトウイの顔を見たけれど、彼もよく判っていないようで、「セラさんのことですか?」 と訝しげに訊ねている。セラさんって、王ノ宮の侍女の?
「外で様子を窺ってるのを見つけて、引っ張ってきた」
 まったく要領を得ないわたしとトウイの視線を受けて、ハリスさんは意味ありげににやりと笑い、後ろを振り返った。そちらには、まだ開いたままの部屋のドア。そこから姿を見せたのは──
「メルディ?!」
 トウイが仰天したような声を出す。
 兵の恰好をしたままのメルディさんは、トウイのその叫び声を無視してさっさと室内に入ってくると、ハリスさんの隣に立ってわたしを見下ろした。
 髪型も立ち居振る舞いも、もうどこからどう見ても男の人だ。でも、薄っすらと微笑を貼り付けたその顔は、以前と何も変わらない。その瞳と口許に、今はわずかな緊張が見える。
「シイナさま」
「はい」
「……カイラック王が、亡くなられました」
 メルディさんは、少し強張った声で、新たな爆弾を投下した。



 ──カイラック王が死んだのは、ほんの半限ほど前のことだという。
 てっきり、主殿に押し入った暴徒に討たれたとかそういう話かと思ったら、全然違った。
 表門に続き、三の門を破壊されて、ただでさえ頭に血の昇っていたカイラック王は、暴動が起こったと聞いて、さらに興奮し、ええい、どいつもこいつも! と大音量で叫んで、座っていた椅子から勢いよく立ち上がった。そこで突然、白目を剥いてぱたっと倒れ、そのまま息を引き取ってしまったのだそうだ。
「…………」
 開いた口が塞がらない。あまりのことに、トウイもハリスさんも石になったように固まってしまっている。今までの扉の中でも、災厄の最中にカイラック王が死ぬことはよくあったけど、こんなケースははじめてだ。
「まあ、なにしろ昨日から、ずーっと喚いておいででしたからねえ。ほとんど睡眠もとらず、朝から執務室に詰めっぱなしで、休む間もなくカッカと怒っていたら、頭の線が切れても不思議じゃありません。とはいえ……」
 メルディさんもさすがに複雑なのか、そこで一旦言葉を切って、深いため息を落とした。
「そういうわけで、現在、上の方々は大混乱に陥っています。宰相なんて、とにかく、何が何でも今はその事実を伏せておけと、泣きそうになって叫んでますよ。そりゃあ、暴動の真っただ中に王が急死したとは言えませんからね」
「それはそうですね……」
 わたしはベッドに横になり、天井に目をやりながら、呟くように言った。
 もしもこれが知られたら、暴動はますます激しくなる。
 いきなり王を失った側近も、さぞかしパニック状態になっているだろう。そのために軍が機能しなくなれば、あっという間に王ノ宮は、暴徒によって制圧されてしまう。
 そんな事態になったら、もう手のつけようがない。

 王が死に、多くの国民を失い、国土は廃墟と化して、地図上からニーヴァの文字は消える。

 幻獣の言葉が頭の中を過ぎった。
 砂の国の兵士によって首を落とされたカイラック王。暴動によって命を縮めたカイラック王。まるで、運命が別の道を辿って、同じ方向に進もうとしているかのようだ。
 ハルソラの街の、蜘蛛の巣のような道を思い出す。
 どの道を選んでも、結局行き着く場所は同じ──
 わたしは頭を振って、その考えを追い出した。ダメだ、諦めちゃ。違う道を進んでいるのなら、まったく別のところにも行けるはず。細く狭くても、必ずどこかに通じている道があるはず。
 その時になって、思いついた。
 あれ。ちょっと待って、そういえば。

「……カイラス王太子は、どうしました?」

 わたしの口から出たその名前に、メルディさんが虚を突かれたように一瞬口を噤んだ。
 二、三度瞬きしてから、「ああ……」 と、ようやくその人物の顔を頭に浮かべたような声を上げる。
「そういや、あの方、どうされてるんでしょうね。騒ぎが起きてからというもの、ちっとも顔を見ないので、半分以上存在を忘れてました。他の大臣たちも似たり寄ったりじゃありませんかね。なにしろ現在は、カイラック王亡き後、誰が政治の指揮権を取るかで揉めていますから」
 その指揮権を取らせるために、真っ先に王太子のことを考えるのが普通なんじゃないかと思うけど。そのことからでも、これまでの王太子の立場と、周囲からどういう扱いを受けていたのかが、察せられるというものだ。
 誰からも気にしてもらえない王の二番目の息子。気弱で、臆病で、無能だと、聞こえてくる話に褒め言葉が混ざっていることは、ほとんどない。
 幻獣に見せられた 「未来」 の映像の中にいた、小太りの男性のことを思い浮かべる。確かに、おどおどとした態度で、言いたいことも言えない性格であるようだったけれど。

 ……それでもただ一人、民のことを口にしていたのも彼だけだった。

「王太子は気弱でも、ものの考え方はまだしも真っ当な人だと思います。むしろ、この状況で他の大臣たちが争いはじめたら、事はもっと面倒になる」
 その前に、カイラス王太子を見つけたい、と言うと、メルディさんは少し微妙な顔をした。
「ですけど見つけたところで、役に立ちますかねえ」
「立ってもらいます、無理やりにでも」
 きっぱり言い返すと、メルディさんが噴き出した。
「──承知しました。そこらへんにいる同僚をとっ捕まえて、誰よりも早く王太子を探しだしましょう。みんな、唐突にあるじを失って、いささか途方に暮れておりますからね」
 メルディさんの同僚っていうと、密偵仲間、ってことかな。
 わたしは少し迷ってから、メルディさんに顔を向けて、口を開いた。

「メルディさん」
「はい?」
「なんで、ここに来たんです?」
「…………」

 わたしの問いに、メルディさんはぷつりと黙った。ややあって、唇の片端を上げる。本心を奥のほうにしまい込もう、という時に浮かべる笑いだ。
「今、それを聞きますか?」
「今、聞かなきゃいけないことだと思うので」
「やっぱり一度裏切った密偵は信用なりませんか」
「そんなことは言っていません。裏切ったとも思ってません。あれがメルディさんの 『仕事』 だったんでしょう?」
「…………」
 メルディさんは口をへの字にした。いかにも言いたくなさそうだ。けれど、じっと待っているわたしの顔を見て、はあっと息を吐きだした。
「申しましたでしょう、密偵は血の契約に縛られていると」
「聞きました」
「その契約は、自分が死ぬか、王が代替わりするまで有効、とも申しましたよね? つまり、現王が急死して何もかもが宙ぶらりんな今この時は、無効の状態、ってことですよ。正式に代替わりした新王と再び密偵の契約を結ぶまで、私は自由の身なんです。非常に稀な事例ですがね。何にも縛られず、誰にも仕えなくてもいい時間──こんなことは、そうあるもんじゃありません」
 それから、ものすごく聞き取りにくい小さな声で、ぼそっと言った。
「……ですからまあ、自分のしたいことをしようかなと、思っただけです」
 メルディさんの、したいこと。

 ここに来て、現在の王ノ宮における極秘事項を洩らすことが?

「シイナさまに刃を向けたのは事実です。申し開きは致しません。謝罪もしません。恨んでも怒っても結構ですよ」
 わたしは首を横に振った。
「そんな風には、思いません」
 経緯はよく判らないけど、トウイとハリスさんの態度を見れば、なんとなく想像がつく。
 メルディさんはきっと、密偵として、しちゃいけないことをしたんだ。
 そして、自由の身になった今、わたしのところに来てくれた。
 そのことが、本当に嬉しいと思う。
 ここには、トウイがいて、ハリスさんがいて、メルディさんがいる。わたしが自分から切り離そうとした人たちが、こうして手を差し出してくれている。
 わたし──わたし、やっと、わかった気がする。


 運命を変えるために、必要なもの。


 トウイのほうを向いて、手を伸ばす。彼はわたしの顔を見て、何をしたいか理解したらしい。すぐに手を取って、上半身を起こすのを手伝ってくれた。
「ハリスさん、メルディさん」
 くらくらするのを我慢して、両膝を揃えて正座する。ふらつく背中をトウイが支えた。
 両手をついて、頭を下げた。

「……どうか、わたしを助けて。手を、貸してください」

 一拍の沈黙の後で。
 その手の上に、誰かの大きな手がふわりと重ねられた。顔を上げたわたしと目を合わせ、ハリスさんが優しく口元を綻ばせた。
「──もちろん。そのために、戻ってきたんですよ。俺も、メルディも。自分の意志でね」
「まったく、そう簡単に頭なんて下げちゃっていいんですか。私を迂闊に信用したら痛い目を見るって、もう学んだはずでしょうに。今だって、誰かに命じられて、何かを企んでるかもしれませんよ」
 つんと顎を上げて、メルディさんがひねくれたことを言う。もう、素直じゃないんだから。
 わたしと同じことを思ったのか、ハリスさんがにやにやした。
「その場合、また、『ついうっかり』 失敗したりするんだろ?」
「意外と無能なんですよね。知ってました」
「あーもう! 可愛くない!」
 きいきいと怒るメルディさんを、わたしの背中に手を当てたまま、動きを止めたトウイがじっと見つめている。その視線に気づいたのか、メルディさんは少しバツの悪い顔で 「……なんです」 と言った。珍しく、居心地が悪そうだった。
「そういやメルディ、お前……」
「言っておきますけど、私はね──」
「お前、男だったのかよ?!」
「…………。あんた、本当にアホですか」
 今さら本気で驚いているトウイに、メルディさんが心の底から呆れた顔をする。それを見て、ハリスさんが笑い出した。
 わたしも、笑った。


          ***


 メルディさんが部屋を出ていくと、トウイとハリスさんから、これまでにあったことを聞いた。
 トウイは、神獣のことについて、何も言わなかった。だからわたしも口にするのはやめた。神獣の剣は、輝きを失い、またひっそりとわたしの横にある。
 そうしているうちに、青い顔をしたセラさんが部屋に戻ってきた。混乱の続く主殿から、隙を見て飛び出してきたらしい。わたしを見て、「もう大丈夫ですね」 と涙ぐんで喜んでくれた。
 セラさんから、中の様子を聞く。どうやらカイラック王の死は、まだごく一部の上層部しか知らないことのようだ。侍女だけではなく、警護も護衛官も政官たちも、自分たちがどういう行動をとればいいのか判らず、茫然としている状態なのだという。自分たちのことで手一杯な大臣たちは、彼らが同じく動揺しているという現実に、目を向ける余裕もないのか。
「カ……カイラック王が……そんな……」
 その事実を知らされて、身体じゅうから力が抜けたかのように、セラさんがへなへなとしゃがみ込む。ハリスさんが水差しからお水をコップに注いで、彼女に手渡した。
「ハリスさん、暴動のほうはどうですか」
 わたしが訊くと、ハリスさんはこちらを向いて、苦い表情をした。
「今のところ、膠着状態のようですね。睨み合いを続けたまま動かない、と言いますか。暴徒はそう簡単には引き下がらないだろうし、兵が強引に押し戻そうとすればそのまま戦いになりかねない。兵の陣形が崩れたら中央にまで突入してくるのもいるだろうから、そうしたら──」
 どれだけの死者が出るのか、想像もつかない。
 続けようとしたのだろうその言葉を呑み込んで、ハリスさんは重苦しい息をついた。
 わたしはじっと灰色の天井に目を据えて、考えた。

 不満をお腹の中いっぱいに溜め込んで集まってきた人々も、ひたすら忍耐を強いられている兵たちも、爆発寸前まで気が昂ぶっている。まずはそれを鎮めないと。彼らの動きを止めるような 「何か」 が起これば……

 その時、部屋のドアが開いた。戻ってきたメルディさんが、顔を覗かせる。
「シイナさま、見つかりました。呆れたことに、使われていない小部屋の隅で丸くなってぶるぶる震えておいででしたよ。……時間の無駄って気がしますね」
 メルディさんも、わりと言いたい放題だ。この非常時に、とお尻を蹴飛ばしたいくらいなのかもしれない。
「とにかく、行きましょう」
 そう言ってベッドからなんとか起き上がったはいいものの、床に足をついて歩こうとした途端、三歩も進まないうちにがくんと膝が折れた。トウイが慌てて 「大丈夫ですか」 と助け起こす。ああもう忌々しい。なんなのこの足、ちっとも使いものになりゃしない。
「無理ですよ。まだ全然体力が戻ってないんだから」
 困った顔をして、窘めるような言い方をするトウイに、むう、と膨れっ面を向ける。ぶっきらぼうに両手を突き出すと、は? という顔をされた。
「自力で歩けない」
「だから──」
「おんぶ」
「…………」
 トウイは少しの間わたしを見てから、黙って背中をこちらに向けた。
「じゃあ、案内してくれますか」
 トウイの背に負ぶさってそう言うと、メルディさんがちょっとぽかんとしながら、「はあ」 と返事をした。ハリスさんも、ものすごく驚いたように目を丸くしている。どうでもいいけど、二人してそんなに見ないでください。わたしだって恥ずかしいと思ってるよ!
「あ、あの、シイナさま」
 セラさんが焦ったように、たたっと駆け寄ってくる。
「どうか、わたくしも一緒にお連れください」
「危ないかもしれませんよ」
「構いません。ただじっと心配しながら待つだけなのは耐えられません。足手まといではございましょうが」
 セラさんも、ミーシアさんと同じようなことを言うんだな。
「そんなことはありません。セラさんがいてくれたら心強いです。手伝ってくれますか?」
「はい!」
 わたしの言葉に、セラさんの目が輝いた。
「──行きます」
 わたしを背負ったトウイが、しっかりとした口調でそう言って、ドアの外へと足を踏み出した。


 侍女の居住棟を出たわたしたちは、闇にまぎれて移動した。
 外気と一緒に、人々の叫喚や怒気が、肌に直接突き刺さる。トウイの背中からちらりと後ろを振り向けば、小さな点々とした赤い明かりが続く、ぞっとするような眺めがあった。あれがすべて人か。一人一人は、街の中で真面目に働いたり、隣人たちとお喋りして笑い合う、普通の住人たちなのだろうに。
「トウイ」
 耳元に顔を寄せて囁く。ん? とトウイが首を捻ってこちらに目を向けた。
 周りはもう真っ暗だけど、赤い月が彼の顔の線を浮かび上がらせている。伝わってくる温もりが、わたしを安心させた。
「身体、大丈夫?」
 以前、シキの森で神獣の剣の力を引きだした時は、しばらく意識が戻らないくらい消耗していた。大きな力は持ち主にも跳ね返る、と幻獣は言っていたんじゃなかったっけ。
「はい、なんともないです。逆に、なんだか、どんどん力が湧いてくるような感じがするくらいで。不思議ですよね」
「…………」
 不思議、という言葉であっさりと片付けて、トウイはそれ以上そのことについて深く考えるつもりはないようだった。この人、本当にわかってるのかな。自分がものすごい奇跡を起こしたってこと。わかって……なさそうだなあ。
 でも、トウイらしい。
 くすっと笑って、彼の肩に廻した手に力を込める。もう一度 「トウイ」 と呼ぶと、律儀にはいという返事が返ってきた。
「運命は……変わるかな」
 小さなその呟きに、トウイはもう少し振り向く角度を大きくして、わたしを見た。
 それから、目許を緩めた。
「俺は、もう変わりはじめてると思ってますけど」


          ***


 王ノ宮主殿の一角、小さな部屋の中、カイラス王太子は隅に隠れるように丸くなって身を縮めていた。
「カイラス王太子」
 声をかけると、ビクッと全身が大きく揺れた。彼は部屋の中に入ってきた五人にそれぞれ目をやり、蒼褪めた顔で怯えるようにガタガタと震え続けていた。
「わたしたちは、暴徒ではありません」
 そう言っても、眉を下げきった情けない表情で、首を振るばかりだ。信じられない、ということなのか、誰もかれもが彼にとっては恐怖の対象なのか、よく判らない。わたしはため息をついて、トウイの背中を軽くぽんぽんと叩き、背中から下ろしてもらった。
 トウイに半分くらい支えられるようにして、王太子の前に立つ。他に誰もいないこんな場所で、彼は今まで、一体何を思っていたのだろう。
 カイラス王太子は、全体的にふっくらとした感じの、見るからに気の弱そうな人物だった。二十代半ばくらいだろうか。これまでまともに顔を見たことがなかったけれど、草食動物を思わせるちまちまとした小さな目には、これっぽっちも攻撃性は含まれていない。唯一、カイラック王の血を感じさせるのは、ぐっと結ばれた口許くらいだ。そこも震えが止まらないみたいだけど。
「王太子、わたしのことを覚えていますか」
 そう言うと、彼はそこではじめて、怯えた表情の上に怪訝そうな色を乗せた。ようやくまっすぐに向かってきた視線がわたしの目と髪を捉えて、口をぽかっと開ける。

「あ……あなたは、守護どの?」

「そうです。お久しぶりです、カイラス王太子」
 お久しぶりも何も、実はわたしはこの人のことを、あんまり覚えていない。式典の時に紹介はされたけど、話まではしなかったし。
 カイラス王太子は、カイラック王の次男。これまでの扉の中では、彼の兄の長男が、王太子として扱われていた。確か結構評判が良かったはずのその長男は、この扉の中ではすでに亡くなっている。
  少しずつ、いろんなことが異なる世界。
 ──それが、「運命の扉」。
「ご、ご無事で、あられたか。それは、よかった」
 王太子は、ほー、と細い息を吐き、安堵するように言った。
 この言い方……彼は、カイラック王がわたしを殺そうとしたことを知っていたらしい。
 小さな目が、ちらっとメルディさんを一瞥する。そこでいっぺんに何もかもを理解したようにわずかに頷いたけれど、それだけだった。

 この時点で、判った。
 噂は当てにならない。

「私は……父王をお止めした。だが、聞き入れてもらえなかった。守護どのには、まことに、申し訳ないと思う。私の意見など、誰も耳に入れてはくれないのだ」
「──なぜ、カイラック王はわたしを?」
 わたしが訊くと、王太子はうな垂れた。
「父王はずっと以前から、神獣と神ノ宮を立てねばならないこの国の在り方に、疑問を抱いておられた。国を動かしているのは王なのに、その王よりも位が高い存在があるというのは、おかしくはないかと。あの方は、何事も一番でなければ気が済まないのだ」
 しょんぼりと肩を落とす。
「そんな折、守護どのが不思議な枝を送って来られただろう。調べさせて、すぐに、大変なものだと判明した。あれは、人を惑わせ、人の人たるものを奪い取る。守護どのが危惧されたのももっともだ。すぐに国から一掃させねばならないと私は思ったが、大臣の一人が、父王の耳に恐ろしい考えを吹き込んだ」
「恐ろしい考え?」
 カイラス王太子は、何かから逃げるように目を伏せた。

「──これを使えば、王こそが人々にとっての本当の 『神』 になることも可能だと」

 わたしは絶句した。
 王までが、イーキオの枝の幻に惑わされるなんて。
「父王はその考えに引きつけられた。本気でそれを実行するつもりであったかどうかは、判らない。しかし確実に、揺らいではおられた。兵で試してみよう、という案も否定はしなかった。自分が神獣の上に立てるというのは、そこまで魅力的なものだったのだろう。……けれど同時に、後ろめたさも、恐れもあった。そのような神に対しての冒涜に、罰が下されるのではないかという。神の上にありたいと願いつつ、それはまったく、矛盾しているけれども」
 王太子は顔を上げ、悲しそうにわたしを見た。
「父王は、あなたに脅威を抱いておられたのだ。異世界から来た娘は、こちらにはない不可解な力を持っている、と私に話してくれたこともある。最初は侮っておられたが、旅の報告を聞くにつれ、次第に不安を持ちはじめた。あの守護人は、何かとてつもなく大きなものを動かそうとしているように思える。私たちには知り得ないあの力で、いつか、妖獣さえも従えるようになるのではないか、と」
「…………」
「姿を見せず、いるのかいないのか判らないような神獣よりも、行動的で目的に向かってまっすぐ突き進んでいくあなたのほうが、父王は怖かったのだろう。それは、あの枝に誘惑されて民のことを踏みにじろうとした、罪の意識の裏返しでもあったと思う。あの方は、傲慢に振る舞っておられるが、小心さもお持ちなのだ。守護どの、許して欲しい。私がもっとちゃんとお止めすべきだったのに」
 王太子が頭を下げる。
 わたしは彼の前に膝をつき、その顔を覗き込んで、静かに言った。

「カイラス王太子」
「ああ」
「そのカイラック王が、亡くなられました。ご存知ですか?」
「な……なんと」

 カイラス王太子は、そのことを知らなかったらしい。顔からさあっと血の気が失せた。
 小さな目を限界まで大きく見開いて、ガクガクと贅肉のついた身体を揺らす。きっと知らせようとした誰かはいたのだろうけど、探しても見つからなかったのだろう。
「王を失い、王ノ宮は現在、まったく統制のとれていない状態です。大臣たちは右往左往するばかりで、役に立ちません。王太子、あなたが先頭に立って動いてください。早いところ打開策を考えないと、暴動は止まりませんよ」
「わ、私が先頭に……そ、そんなのは、無理だ、私には、とてもそのような」
 王太子は、両手で頭を抱えて床に突っ伏し、呻くような声を出した。
「私に、王など務まるわけがない……私には何も出来ない……兄上が生きておられた時は、全力でお助けしようと思っていたが……なぜお亡くなりになった、兄上。私は父や兄のようにはなれない。そのような器ではない……!」
 何度も首を横に振って、無理だ、無理だ、と繰り返す。すすり泣くような声が漏れた。
 ハリスさんとメルディさんが目を合わせて、「これはダメだ」 という顔をしたけれど、トウイはわたしの隣で同じように片膝をつき、王太子の震える手を取った。
「カイラス王太子、ニーヴァは今、危地に立たされているんです。あなたが逃げたら、国民はどこを向いて、誰に助けを求めたらいいんです? 別に頼りなくてもいい、上手にやれなくてもいい。無理だ、と放り出すことだけはしないでください。民には、王が必要なんです」
 強い調子の声に、うずくまった王太子がぴくりと反応する。
「ええ、そうですとも。王太子様がお優しい性格であられることは、わたくしどももよく存じております。お父上様や兄上様と同じでなくとも、よろしいではありませんか。お二方とは違う、カイラス様の道をお探しくださいませ。きっと、良い王になられます」
 セラさんの懸命な声が耳に入ったのか、ようやく王太子がのろのろと涙に濡れた顔を上げた。セラさんを見て、トウイを見て、わたしを見る。
「しかし……しかし、私は、守護どののようには、強くはなれない」
「わたしは強くなんてありません」
 眉を上げて言い返すと、王太子は目を瞬いた。

「いつだって怖くて怖くて、必死になって虚勢を張って、自分を取り繕うのに精一杯だった。それのどこが、強さなんです? 力もなくて、ちっぽけで、迷って足掻いて、何度も何度も、間違いを繰り返して。……だけどそれで、判ったこともある。得たものもある。今、自分がここにいることを、わたしは間違いだとは思いません。カイラス王太子、あなたはこんなところで一人で引っ込んだまま、何もせずに何もかもを失って、自分のことを許せますか? カイラック王でもなく、あなたのお兄さんでもなく、今ここにいるあなたにしか、出来ないことがあるのに」

 カイラス王太子は気が弱いのかもしれない。臆病なのかもしれない。けれど、無能ではない。
 この人にはちゃんと状況を見通す目があり、物事を論理的に考える力もあり、他者のことを思いやる情もある。

「大事だと思う気持ちがあるのなら、ニーヴァという国を、ここに住む人々を、守ってあげてください。あなた一人でやるわけじゃないでしょう。なんのためにこの王ノ宮には、こんなにもたくさんの人たちがいるんです?」

「…………」
 王太子は、口を閉じてわたしの顔を見つめた。おどおどとしたその目に、わずかに光が灯るのを、わたしは見つけた。
「さあ、立って、カイラス王。あなたの、王としての、最初の仕事です」
 言いながら、わたしも手をついて腰を上げる。ちょっとだけよろけたけれど、一人で立てた。
「──王ノ宮に預けた神獣の守護人の名、返してもらいます」


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