短編1

一万円の彼(1)




 ──目が覚めたら、頭が痛くて、胸がムカムカして、吐き気がして、喉が渇いていた。
 つまりは、二日酔いである。やっぱり飲みすぎたなあ〜、と、私は顔を歪めて天井を眺めながら反省した。いつも飲み過ぎた翌日の朝は殊勝に反省して、午後にはけろりと忘れてしまうのだが。
 でもせめて、今回は夜まで反省していよう。それくらい猛烈に気持ちが悪い。いくら今日が土曜で仕事が休みだからって、ビール飲んでカクテル飲んで日本酒飲むのは、やっぱり絶対無謀な行為だった。
 とにかく水を飲もう、と思って、私はベッドの中で上半身を起こした。それだけのことで、頭がガンガンと鳴り響く。脳内で採掘工事でもしてるみたいだ。反省してるので、本日はもう作業を中止してください、と妄想内の労働者達に懇願してみる。
 そして、ベッドから片足を出し、床に下ろした瞬間。
 私は、「誰か」 と目が合った。
「………………」
 きっかり十秒間、思考が停止した。
 部屋の壁に背中を預けて座っていた彼は、私を見て、ふう、と息を吐き、
「やっと起きた」
 と、ちょっと疲れた顔と声で、そう言った。

 ……あんた、誰さ。


          ***


 この時、私の頭に真っ先に浮かんだのは、酒に酔って、「お持ち帰り」 をしてしまったのか、ということだった。というかまあ、普通に考えて、それしかない。うら若き乙女が、オトコに持ち帰られるならいざ知らず、持って帰ってしまうとは、情けない。
 いや、私の名誉に賭けて言うと、一人暮らしをはじめてからこちら、こんなことは一度もなかった。酔った勢いで男とホテルに行ってしまった、という経験もない。起きてみたらベッドの隣に見知らぬ男が寝ていた、ということもない。酒は好きだけれど、そういう点において、自分はわりと固いというか、真面目というか、奔放になる方ではないと思っていた。今までは。
 しかし現実に、こうして赤の他人の男が自分の部屋にいる以上、その認識は改めざるを得ないようである。あらまあ、とか思いつつ、実は私の頭の中はどパニックだ。
 とりあえず、自分を見下ろしてみて、下着を身につけていることに安堵した。すぐ下の床には、昨日会社に着て行った洋服が散乱しているが、真っ裸でないだけ慎みがある (ような気がする)。
「えっとー……」
 口ごもりながら、ベッドから出した足をまた引っ込めて、もぞもぞと薄い夏用布団を身体に巻きつける。今更かなとは思うのだけれど。
「おはよう、ございます」
 とりあえず、そう言ってみる。挨拶は社会人の基本だ。
「おはようございます」
 見知らぬ男は、律儀に挨拶を返してきた。そこでやっと、彼の顔をまともに見た私は、あれっと思った。
 ──若い、のだ。
 どう見ても、大学生くらいにしか見えない。服装もラフでカジュアルなジーンズ姿。社会人の私服、という感じではなく、いつもそういう格好をしているような気軽さが漂っている。着ている洋服の色とか形とかが、「若者向けです」 という方向性を明確に打ち出していて、けれど、まったく違和感がない。つまり、本人の容姿もかなり若い。
 認めたくはないが、「男」 というよりは……「少年」 に、近い、ような。
「あのう……」
 おそるおそる声を出すと、彼は軽く首を傾げた。
「年齢を、訊いてもいいでしょうか」
 その質問に、ちょっとだけ顔を顰める。その顔も、なんていうか、可愛い、としか表現しようがなかったりして、眩暈を覚えそうになってしまう。
「もうすぐ、十八歳」
 ぶっきらぼうに返ってきた言葉に、私は自分の顔からさーっと血の気が引く音を聞いた。
 ということは、今は十七歳なんじゃないか。大学生どころじゃない、高校生だ。未成年だ。間違っても、二十三歳の女が、アパートの部屋に引っ張り込んでいい相手じゃない。
 そこで少年は、咎めるような視線を向けてきた。
「なんにも、覚えてないの? まひるさん」
 いきなり名前を呼ばれて、動揺した。そりゃ自分が名乗ったのだろうが、本気で何も覚えていない。
「申し訳ございません、覚えておりません」
 正直にそう言って、布団を巻きつけたまま、ベッドの上で手をつき、深々と頭を下げた。成り行きはどうあれ、この年齢差とこの状況、悪いのは私に決まっている。
「…………」
 少年はしばらく口を噤んで私を見ていたが、小さく溜め息をついて、立ち上がった。
 え、帰るの? と思って目を上げたら、彼は少し赤い顔をして、視線を明後日の方向に向けている。
「……とにかくさあ、何か着てよ。おれ、あっちに行ってるから。こんなんじゃ、話も出来ない」
 一夜を共にしたわりに純情なことを言って、彼はくるりと背中を向けた。狭い1DKだから、何処にいたってお互いの姿は見える。どうしようかなと迷って、結局トイレに行くことにしたようだ。そこに入っている間に着替えろ、ということなのだろう。随分と紳士的な子だ。
 トイレのドアを開けて、そこに入る寸前で、またこっちを振り返った彼は、少しだけ意地悪そうに口の端を上げていた。
「まひるさんはね、昨夜、おれを買ったんだよ。一万円で」
 それを聞いて、私はぶっ倒れそうになった。自由に意識をなくせるもんなら、なくしたい。マジで。



 私が着替えて、「もういいよ」 と声をかけると、少年は大人しくトイレから出てきた。ざっくりした大き目のTシャツとショートパンツ、という普段着姿の私を見て、目を細める。
「そういう格好をすると、おれと年があんまり変わらないように見えるね。まひるさんってわりと童顔だけど、昨日はきちんとした服装してたから、すごく年上って感じがした」
「う、うん……まあ、実際、年上だからね」
 気まずく返事をして、小さなテーブルの上に、淹れたコーヒーをふたつ置く。自分は覚えていない、「昨日の私」 を、この子は知っているわけである。聞きたいような、聞きたくないような。
「あの、名前は?」
 床に座って、正面から彼と向かい合い、まず基本的なところから始めることにする。少年は、再び顔を顰めた。
「……それも覚えてないんだ」
 呆れたように言われ、小さくなるしかない。でも、ホンットに全然、まるきり何も覚えていないのだから、しょうがないじゃないか。
「堂本真也」
 名乗った後で、こちらに向けられた視線は、ちょっと不愉快そうにも、拗ねているようにも見える。
 こうしてまじまじと見てみると、彼は本当に若かった。肌なんかつるつるしていて、嫉妬しそうだ。幼さもまだ残っているけれど、顎の辺りには目立たないなりに無精ひげらしきものが見えたりして、そういうアンバランスさが、この年代特有の色気みたいなものを醸し出している。
 ……ううむ、変なものを拾ってしまった。
「真昼と深夜だね、出来すぎなくらいだね、って言って、笑ったじゃないか」
「あー……」
 なんか薄っすらと、記憶が甦ってきて、私は思わず声を上げる。そんなことを誰かに向かって言った、気がする、確かに。
 考えてみれば、別に突然異次元に放り込まれたわけでもないのだし、第二の人格が現われたわけでもない。酒を飲み過ぎて朦朧としていただけで、すべては自分自身のした行動なのである。よくよく辿ってみれば、頭の片隅には、ちゃんとメモリが残っているはずなのだ。
「えーと、昨日……」
 私は額に手を当てて、必死に記憶を遡った。


          ***


 昨日はまったくサイテーな一日だった、ということは、はっきりと覚えている。
 短大を出てから会社に入って三年近く、いつも同じようなルーティンワークに変に慣れてしまったのがマズかったのか、私は仕事で、非常に単純な、けれど信じられないほど大きな入力ミスをしでかしたのだ。
 そのおかげで、会議は遅延、部署の皆が総出で資料作りをやり直し、先輩にも後輩にも手伝ってもらって、私はただひたすら平身低頭で謝罪しながら、社内を端から端まで駆けずり回るしかなかった。
 部長に叱られた課長は、その怒りを当然ながら私に対して全力でぶつけることにしたらしい。部署の全員の前で、見せしめのように私を立たせて一方的に怒鳴りつけた。
 唾を飛ばして大声を張り上げる課長に、そもそもアンタの字が汚すぎて読みづらかった、とか、出来た書類に目を通して確認印まで押したのは自分じゃないか、とか、思ったってしょうがない。ミスをしたのは私で、非は完全にこちらにある。
 しっかり見直さなかった私がいちばん悪いことは自覚していたから、すべてが言い訳にしかならないことも判っていた。
 だから私はうな垂れて歯を喰いしばり、黙って課長の罵声を浴び続けた。
 同僚達から向けられる、同情のような、憐憫のような視線が、針みたいに全身に刺さって痛かった。ようやく課長の叱責から解放された後、こっそりと慰めてくれる人もいたけど、でもそれは、余計に情けなくて泣きたい気分になっただけだ。
 それで私は、その向けどころのない鬱屈と自己嫌悪を、終業後、友人と一緒に酒を飲むことで晴らそうとしたのだった。うん、そこまではちゃんと覚えている。
 要するにヤケ酒だから、とにかくへべれけになるまで飲み続けた私は、友人と別れてから一人、千鳥足で終電間際の地下鉄の駅に向かった。
 ああ──そう、そうだ。
 その地下鉄のホームで、電車を待っている間、後ろから、声をかけられたんじゃなかったっけ。
「おねえさん、楽しそうだね」
 と。


 楽しいわけあるか、と思いながら振り返り、私は嫌味なほどの笑顔で、その相手に言った。
「ふふん、そう思う?」
 声をかけてきた男の子は、ホームに据え付けられているプラスチック製の椅子に座って、私を見上げた。そして、「そうでもないかな」 と、呟いた。
「けどさ、どっちにしろ、そんなに酔ってると危ないよ。ふらふらだし、今にも線路に落っこちそうだ」
 彼はきっと、それを心配して、声をかけてくれたのだろう。
「電車に轢かれるのはイヤだなあ〜。手とか足とかがなくなったら、指輪も出来ないし、ペディキュアも塗れないし」
「いや、そういう問題じゃないから。迎えに来てくれるような家族とかはいないの?」
「アパートに一人暮らしでっす。彼氏はねえ、一年前くらいまではいたんだけど、別れちゃった。知ってる? O型女とAB型男は相性が悪いんだって。確かに合わないとこも多かったけど、たかが血液型で男女の運命を決め付けるな、っての。じゃあ吸血鬼なんかどうするのよ、ねえ、そう思わない?」
「言ってることが支離滅裂だよ、おねえさん。そんなんで、一人で帰れるの?」
「自信ない」
「……あのね」
 言いきる私を呆れたように見て、それから男の子はにやっと笑った。
「じゃあさ、おれを買わない?」
「買う?」
 ほえ? という調子で問い返すと、彼は頷いた。
「そう。おれ、金がないし、行くところもなくて、困ってたんだ。おれを買ってくれたら、きちんとおねえさんをアパートまで送ってあげる」
 それは多分、彼にとっても半分くらい冗談だったのだと思う。私が笑い飛ばしたら、自分も笑って、それでおしまい、という、軽い口調だった。
 そしてその時、酔っ払った頭で私は一体何を考えていたのだろう。今となっては永遠の謎でしかないのだが、とにかく、気がついたら、彼に対して、「幾らで?」 と訊ねていたのだ。
 その問いに、彼はちょっと考えて、
「一万円」
 と、返事をした。
「よっしゃ、買った!」
 私はそう言った。間違いなく、言った。この上なく、きっぱりと。


          ***


「………………」
 頭を抱えてテーブルの上に突っ伏した私に、「思い出した?」 という少年の声がかかる。うん、とっかかりのところだけね。けど、自分の馬鹿さ加減を思い知るには、それでもう充分すぎるくらいだけどね。
 ただでさえ二日酔いなのに、さらに痛みが激しくなってきた頭をなんとか持ち上げて、私は目の前の相手と、もう一度目を合わせた。
「……堂本君」
「真也でいいよ。昨夜も、シンヤ君シンヤ君って、何度も呼んでたし」
「…………シンヤ君」
 酒はやめよう、と決心した。
「シンヤ君は、高校生?」
「うん、高校三年。受験生」
 「受験生」 か、なんか懐かしい言葉だな、という気がする。
「とにかく、ごめんなさい」
 頭を下げると、真也はなんとなく嫌そうな顔をして、「なんだよ、それ」 と口の中でもごもご言った。なんだよも何も、この場合、私に謝る以外の何が出来ましょう。
「やめてよ。もともと、おれが言い出したことなんだしさ。それに、まひるさん結局、おれに一万円渡してくれたけど、おれが手を貸さなくても、自分で張り切って歩いてたし。泊まらせてもらって、金だけ貰って、その上謝られたら、おれホントにただのバカみたいじゃん」
 ん?
「泊まらせてもらって、金だけ貰って、って、えーと、もしかして、私、君には手を出してないの?」
 そこも覚えてないんだ、と真也はがっくりと肩を落とした。
「手を出すも何も、この部屋に入るなり、『じゃあねー、シンヤ君、おやすみー』 ってにこにこ笑って、ぐうぐう寝ちゃったじゃないか」
「…………」
 この時ほど、私は自分で自分を褒め称えたくなったことはない。記憶はないが、どろどろに酔っていても、きちんと常識を弁えた自分よ、素晴らしい!
「私って、偉いね」
 しみじみと自画自賛すると、真也は思いきり不服そうに口を曲げた。
「冗談じゃないよ。アパートに入れてもらってさ、おれだって、けっこう期待するだろ。どうしたってさ。しかもまひるさん、すたすたとベッドの方に進んで、気前よくぱっぱと服を脱いでいっちゃうし。え、いきなりか、ちょっと心の準備くらい、って思ってたら、そのまま下着姿でさっさとベッドに入って、おやすみーって爆睡だもんな。おれ、おあずけを喰らった犬みたいに、ぽつーんと部屋の隅に座ってさ、ほとんど眠れなかったんだぜ」
「…………」
 それは確かに気の毒な話だとは思ったが、置いてけぼりにされたその姿を想像すると可笑しくて、私はつい噴き出してしまった。どうりで、目を覚ました時、疲れた顔をしていたわけだ。私が笑うと、真也はさらに仏頂面になり、ますます可笑しくなってしまう。
 それでも、無理矢理の手段を取ろうとはしなかった真也は、ちゃんとした節度を持った男の子なんだな、と感心もした。
 ほっと安心して、テーブルに置かれたコーヒーに手を伸ばす。すっかり冷めてしまったが、真也もそれを見て、同じようにカップに口をつけた。それから、少し眉を寄せ、「濃い」 とぼそりと言う。
「ごめん。二日酔いだから、濃く淹れちゃった。ミルクと砂糖、持ってこようか?」
「ううん、いいよ、これで」
 そう答えて、苦そうにちびちびと飲んでいるところは、なんとも可愛らしい。その様子を見て、私も目元を和ませ、ついほのぼのとしてしまったが、いやよく考えたら、ほのぼのしてる場合じゃないじゃん! と我に返って、青くなった。
「ねえ、シンヤ君は家族と一緒に暮らしてるんでしょ? だったら、こんな風に突然外泊しちゃマズイんじゃない? 家にはもう連絡したの?」
 続けざまに質問を飛ばす私が、よほど心配そうな顔をしているのを見て取ったのか、真也は 「……あのねえ、まひるさん」 と、ひとつ溜め息をついた。
「もう高三にもなるとね、夜帰らなくたって、親はそう慌てたりしないって。友達んちに泊まったりすることも、よくあるしさ」
「けど」
「それにね」
 私の言葉を遮って、少し強い調子の声を出した。
「それに、昨夜はどっちにしろ、家に帰る気なかったんだ。まひるさんが泊めてくれなかったら、あのまま地下鉄の駅で寝ようかと思ってたくらいで」
「…………」
 私はそれを聞いて、口を噤んだ。
 ……そういえば、行くところがない、とか言ってたような。
 じゃあ何か、ここにいるのは、いわゆる 「家出少年」 ってやつか、と思ったら、また倒れそうになった。



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