短編1

一万円の彼(2)




「どうしてまた、家に帰りたくなかったわけ?」
 私が訊ねると、真也はむっとした表情で口を結んだ。立ち入りすぎかな、と思わないでもないけれど、私には、それを問う義務と責任と、ついでに権利も、少しばかりあるような気がする。
 彼はしばらくの間、そうやって黙秘を続けていたが、私がずずずーっと冷めたコーヒーを啜っている姿を見て、諦めたのかバカバカしくなったのか、渋々のように口を開いた。
「……中間テストがさ」
「へ?」
 間の抜けた声を出してしまったのは、あまりにも久し振りにそんな単語を聞いたからだったのだが、真也はちょっと顔を赤くしてそっぽを向いた。
「中間テストの結果が、悪かったんだ。担任に、お前これじゃ志望校のランクを下げなきゃいけないぞとか言われて、ただでさえ面白くなかったのに、家に帰ったら父親にまで叱られてさ。それでアタマにきて、家を出て、ゲーセンとかふらついてたら、なんか、いろんなことがイヤになっちゃって。それでもう、うち帰るのはやめようって」
 目線は違う方向を向いているし、ぼそぼそとした声音だったけれど、一旦口を開いたら、言い終えるまではヤケクソのように一気呵成だった。
「ははあ……」
 感心したような私の相槌に、真也はますます顔を赤くしてふてくされる。
「……ガキだって思ってんだろ、まひるさん」
「え? あ、うんうん、そうだね、そう思う」
「そんなに思いっきり同意しなくたっていいじゃないか」
 多分いちばん、自分の行動を 「ガキだ」 と思って恥じているのは真也自身なのだろう。情けない声で言い返したものの、そこに怒りは入っていなかった。
「けど、大変だなあ、とも思う」
 真面目にそう言ったら、真也はようやくこちらを向いた。「ホントだよ」 と念を押すと、身体と表情から余計な力が抜けた。
「でも、それなら、『家出』 ってほどでもないんだね。気持ちが落ち着いたら、おうちに帰るんでしょ」
 私の確認に、真也は、「んー」 という、曖昧な返事をしただけだった。こいつ、今日も帰らないつもりだな、と私は思った。
「まあ、それはそれとしてさ」
「そ、れ、は、そ、れ、と、して?」
 嫌味ったらしく繰り返したが、目の前の相手は 「聞こえません」 という態度で押し通している。
「まひるさん、何かして欲しいこと、ない?」
「は?」
 唐突な質問に、私は瞳を瞬いた。「だってさ」 と真也は少しだけバツが悪そうだ。
「おれ、もう一万円貰っちゃったし。酒の勢いでも、まひるさんが覚えてなくても、いまさら返す気もないんだよね。でも何もしないのも悪いしさ。せめて、まひるさんが喜ぶようなこと、頑張ってやるよ」
 一瞬、エロ方面のことを言ってんのかな、と疑ってしまった私は、多分ちょっと汚れているのだろう。真也の裏表なさそうな顔をまじまじ見て、すぐに自分の勘違いに気づき、大いに反省した。
 きっと、彼が言う 「私が喜ぶこと」 というのは、皿洗いとか力仕事とか、その程度のことだ。ごめんね、変なことを勝手に思って。無邪気な瞳が眩しいよ。
「えーとね、じゃあ、とりあえず家に連絡して欲しい。今日帰るからって」
 私のその言葉に、真也は嫌そうに顔のパーツを中央に寄せた。面白い顔だね、と言ってやったら、今度は本当に怒ったように眉を上げた。悪いけど、全然怖くない。
「なにそれ。大人の判断ってやつ?」
「そりゃそうだね」
「おれより背が低いくせに」
「身長の高低は関係なし。あのね、シンヤ君、わかってる?」
 説教するように改まって言うと、真也は口を尖らせたまま、私を見返した。
「このままだと、私、下手すりゃ未成年者誘拐でお縄になりかねないんだけど」
「…………」
 真也は一瞬、怒るのも忘れてぽかんとした。私の鋭い指摘に恐れ入った、わけではない。すぐに、ぶはっと勢いよく噴き出したからだ。
「そんなこと、あるわけないじゃん」
「なんで言い切れるのよ」
「だってあまりにも設定に無理がありすぎだろ。それに、『お縄になる』 なんて表現、どっから持ってきたのさ。時代劇じゃあるまいし」
 お腹を押さえて、笑い続けている。なるほど、箸が転がるのも可笑しい年頃なのね、と私は思うようにした。高校生に馬鹿にされているとは思いたくない。
「とにかく」
 タイホされる、の方がよかったかしらと後悔しつつ、私は強い声を出した。
「とにかく電話して。それにやっぱり、お母さん、心配してると思うな。私だって落ち着かないし、家出の片棒担ぐのは嫌だよ」
 もはや半分以上、手遅れであるような気もするのだが。
 真也は少し無言で考えていたが、笑ったことで多少は胸のつかえがおりたのか、こちらを見上げてきた顔からは、さっきまでの強情を張ったような固さはとれていた。
「……じゃ、電話したら、もう少しここにいてもいい?」
「うん、いいよ。今日の夜までなら、好きなだけ」
 私が頷くと、真也はなんとなくほっとしたように息を吐き、ポケットから携帯を取り出した。


          *** 


 電話に出たのは真也の母親らしかった。
 どういう会話があったのかは判らないが、少なくとも怒られている様子ではなかった。真也は低い声でぼそぼそと相手と話をし、最後に、「今日中には、帰るから」 とはっきりした声で言った。
 通話を切り、携帯をまたジーンズのポケットにしまうと、どうだ、というような顔でくるりとこちらを振り向く。私は笑って、指でオッケーサインを出した。
「ねえ、まひるさん、おれ腹減った」
 真也に言われて、はたと思い当たった。そういえば、朝から何も食べてないんだっけ。私はまだ胃がムカムカしていて何かを食べる気にはなれないが、家出少年は昨日からロクに食べていないのだろうし、お腹が空いているに決まっている。
「そうかー、そうだよね。えっとね、今うちにあるのは」
 冷蔵庫や戸棚の在庫を思い出しながら、私は言った。うちにある、食べものは……
「柿ピーとか、チーズとか、サラミとか、さきいかとか」
「…………」
「なんか気のせいか、酒のつまみみたいなのばっかりだねえ〜」
 えへ、と笑ってみたが、通じなかった。どうでもいいけど、その哀れむような眼差しはやめていただきたい。
「気のせいじゃないよ。断固として酒のつまみだよ。オヤジだろ、それじゃ」
「失礼ね。ちゃんと自炊だってするんだから。時々、食材が切れることだってあるのよ。たまたまよ」
「食材は切れても、酒のつまみは切らさないんだ」
「外に何か食べに行こうか、シンヤ君。ファミレスもあるし、喫茶店もあるし、ファーストフードもあるし、ドーナツ屋さんもあるよ。わあ、選び放題」
 よし行こー、と元気よく言って玄関に向かう私の後ろで、真也がわざとらしく溜め息をついた。
「おれに家出の説教する前に、まひるさんは節制を心掛けたほうがいいんじゃないの」
 可愛くない。


 どこにしようかと話しながら、私と真也はアパートを出て、ぶらぶらと通りを歩いた。土曜日だからか、そこそこ人通りもある。お休みの人が多いのか、大部分がゆったりとした歩調だった。
 すれ違う道行く人々に時々視線を投げかけて、隣を歩く真也は少し落ち着きがない。
「おれ達って、ハタ目から見るとどういう風に見えるのかな」
「姉と弟にしか見えないと思うけど」
 さすがにお金で買った買われたの関係に見る人はいないだろう、と思いながらあっさり返事をしたのだが、真也はそれが気に入らなかったようだ。
「……まひるさんって、素面の時は常識人だよね」
 むっつりしながら呟くように言われ、私は当惑した。
「昨夜の私って、そんなに非常識なことばっかりした? 大声で叫ぶとか、路上で寝るとか、自販機を叩き壊すとか」
 なにしろ記憶がないのだから、そんなことを言われると、不安になってしまう。
「いや、そうじゃなくて」
 真也がぷっと噴き出す。
「なんていうかさ、よく喋って、よく笑って、わけのわかんないことで怒ったりしてた。かと思うと、すげえ真面目に仕事のこと語ったりさ。会社のことは、聞いても、おれ正直言ってよく判らなかったんだけど、そんな風に、年上の社会人に対等な話し相手として扱ってもらったのなんてはじめてだったから、けっこう嬉しかった」
「……愚痴、とか言ってなかった?」
 心配になって訊ねると、真也は首を振った。
「いや。ぜんぜん」
「そう」
 ほっとして、頷く。進路について悩んでいる受験生に、自分のした失敗談をぶちまけて、社会なんてくだらない、なんて恨み言を聞かせるほど、酔った私は愚かではなかったわけだ。
 昨日はサイテーな一日だったけれど、とりあえず、自分はサイテーにまではならなかった。……よかった。
 そう思ったら気分も浮上して、私は機嫌よく周囲を見回し、「あっ、ねえねえ、シンヤ君」 と隣の彼の腕を叩いた。
 なに? と聞く真也に、目に付いた花屋の店先を指差す。
「ほら、見て。カラーのかすみ草なんて、あるんだね」
 かすみ草というと普通は白だが、そこではそれ以外にも、赤や黄色の彩り豊かなものが売られていた。品種改良されたわけではなく、白花にカラーリングをしているのだろう。
 へえー、と感心した声を出す私に、真也の反応は今ひとつ鈍い。
「かすみ草って……あのちまちまとしたやつ? あれってさあ、よくバラなんかと一緒に飾られてる花じゃなかったっけ」
 男子高校生がそれだけ知っていれば上出来というところかもしれない。
「そうそう。清楚だし、可愛いから、どんな花にでもよく合うんだよね。だからやっぱりかすみ草は白じゃないとね。赤や黄なんて邪道だよ。チューリップじゃないんだから」
 かなり偏見に満ちたことを堂々と言うと、真也はくすっと笑った。
「ずいぶんあの花の肩をもつんだね。まひるさんは要するに、かすみ草が好きなんだ」
「うん、そう」
 素直に認めて、私も笑った。
「なんか、あの脇役っぽさが他人事じゃないんだよねー」
「脇役?」
「シンヤ君も言ったでしょ、バラなんかと一緒にある花だって。かすみ草って、結局、それだけでは花束にはならないの。何かメインの花があって、それを引き立たせるために、隣にちんまりと添えられる花。そういうところがいじらしいっていうか、身につまされるというか」
 余計なことを言ってしまったな、と思ったのは、こちらを覗き込んでくる真也の目の色を見たからだ。しかしここで強引に話題を逸らすのも変な誤解をされそうなので、そのまま続けることにした。
「……あのね、私はね、シンヤ君と違って、受験生の時、そんなに苦労したわけじゃないんだ」
「勉強しなくても、出来たから?」
「違う、違う。まったく逆。勉強しなくても入れるようなところを受けたから」
 陽気に笑って言うと、真也の口許も少しだけ緩んだ。
「うちの場合、お兄ちゃんが、昔からやたらと出来の良い人だったの。だから、父と母の期待は、ぜーんぶそっちに集中しちゃったんだよね。子供の時から、ずっとね。それでお兄ちゃんが医大に進むことが決まった時に、『これからお兄ちゃんにお金がかかるから、あんたにまで費用を廻せない。国公立にストレートで入るか、高卒で働くか、せめて近くの短大か。どれかを選びなさい』 って母親にきっぱり言い渡されたんだ」
「…………」
 真也は口元の笑みを引っ込め、ちょっと絶句した。
「……まひるさんがいくつの時に言われたの?」
「高一の時に」
「…………。なんかそれ、ひどくない?」
 本気で憤るように眉を寄せている。そんなつもりで話しているわけではないので、私はにこっと笑ってみせた。
「でも、そこで悔しさをバネに猛勉強してお兄ちゃんに追いつこう、と思わなかったのは私がナマケモノだからだし。別に、長男ばかりちやほやされて、両親に冷遇されてたとか、そういうわけでもないし。ていうか、出来の悪い娘なりに、可愛がられてたほうだとも思うし」
 愛情がなかったわけではない。塾だなんだと忙しい兄に時間もお金もとられて、妹の方がやや放任という形になってしまったのは、両親にとって、やむを得なかったのだろう。
 私にだって優秀な兄を誇る気持ちはあったし、この人はどこまで上にいけるのかな、という憧れや興味もあった。だから、どこまでも平均でしかない私より、そちらを優先させたがる親の心情も納得できた。
 うん──理性では、納得できた。感情では、多少、できなかったが。
「家の中でも親戚の中でも学校でも、いつでも中心はお兄ちゃんで、私は脇役でしかない。どう頑張っても、メインにはなれない。そのことに、時々ひがんでしまったのは事実だけど」
 けどね、と、真也のほうを、真っ直ぐ向いた。
「けど、今にして思うと、お兄ちゃんはお兄ちゃんで、大変だったと思うんだ。のほほんと遊んでばっかりの妹を横目に、周りから期待ばっかりかけられて、それにちゃんと応える努力をし続けるのは」
「…………」
 私の言葉に、真也は黙った。それから少し、目を逸らした。
 中間テストの点が悪かっただけで (という言い方は語弊があるかもしれないが)、教師にも親にも注意を受けてしまうのは、きっと真也の高校も、狙っている志望校のランクも、それなりに高いところなのだろう。だからそれだけ、周囲の期待だって大きいのだろう。
 彼が 「イヤになって」 しまったのは、叱られたことよりも、肩にかかるその重みの方だったんじゃないか──と、私は思うのである。
「だから、シンヤ君も、大変だなって思う」
 無責任な言い方に聞こえることは承知の上で、そう言った。

 ──だって、その重みは誰かに預けることは出来ないものだから、自分で何とかするしかないのだ。私にも、他の誰にも、代わってあげることは出来ない。逃げるか、乗り越えるか、選ぶのも自分。
 真也は、自分自身に 「一万円」 という値をつけたけれど。
 それが高いか安いかは、彼以外の誰にも、決められない。

「お酒飲んで忘れちゃうことも出来ないしねえ」
 冗談交じりに付け加えると、真也は皮肉げにふっと口の端を上げた。
「じゃあ、まひるさんも、大変なことがあったんだ? たくさん酒飲んで、忘れちゃいたいようなこと」
「うん、まあ。シンヤ君も、早くお酒が飲める年齢になるといいよね。楽しいよ」
「酔っ払って、大騒ぎしたり?」
「うん」
「ついでに行きずりの男を買っちゃったり?」
「申し訳ありません」
 速攻で謝ると、真也は声を立てて笑った。今度のそれには、皮肉は混じっていなかった。
「ホント、まひるさん見てると、大人になるのが楽しそうだって思えるよ」
 少しさっぱりしたような顔つきをしている彼に、私も笑みを零す。
「そうです。嫌なこともいっぱいあるけど、楽しいこともいっぱいある。今は大変かもしれないけど、シンヤ君の未来にも、きっと何か明るいものが待ってるよ」
「あっ、それ」
 突然大きな声を出されて、私はびっくりして立ち止まった。同じように真也もその場で足を止め、ひどく嬉しそうに目尻を下げた。
「それ、昨夜のまひるさんも言ってた。おんなじセリフだ」
「そ、そうなんだ?」
 酔っ払いながら、同じことを言ったのか、と少し驚く。全然覚えてないのだが。
「──酔ってても、酔ってなくても、やっぱり、まひるさんはまひるさんなんだね」
 そう言って、真也はもう一度笑った。澄んだ瞳を柔らかく細め、真っ直ぐに私を見て。
「…………」
 不覚にも、その笑顔に鼓動が跳ねた。
 慌てて前に向き直って歩みを再開させる。そうしたら、後ろから真也のぽつりとした声だけが追いかけてきた。
「おれさ、そんなに軽いわけじゃないんだよ」
「え」
「もともと好みじゃなかったら、最初から声なんかかけたりしない」
「…………」
 いやいや、待って。そういうことを突然言うのは反則だから。動揺しているのが自分でもはっきり判ったので、意志の力を振り絞り、今にも振り返ろうとする自分の首を前方に固定する。
「しかも、AB型でもない」
 続けられた言葉を聞こえないフリで流して、私は歩き続けた。
 本当に私たち、姉と弟に見えるのかな、と今更のように気になりだした。



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