短編5

最終列車(4)




 翌日から出社してきた悟志を見ても、凪子はあまりそちらを気にせずにいられた。
 仕事が忙しかったためや、別のことに意識を取られていたためもあるが、悟志の反応が思っていたほど弾んではいなかった、という理由も大きかったのだろう。
 同僚や上司に冷やかされても、ああ、まあ、などと曖昧な答えをして少し笑いを返すだけで、口を濁してしまう悟志に、周囲も何か思うところがあったらしくて、ほとんど盛り上がることもないまま、彼の部署はすぐに平常の状態に戻っていったようだった。
「新婚旅行で、早速夫婦喧嘩でもやらかしたんじゃないの」
「玲佳も、けっこう気が強いからねえ」
 他部署とはいえ、女性社員は同じフロアの人間の動向には敏感だ。既婚の先輩たちがそんなことを囁いてくすくす笑い合う声を、凪子はなるべく耳に入れないようにした。
 どうでもいい、と思うほど無関心に徹することはできないし、お喋りの輪に加わって笑えるほど図太くもなれない。どうやっても冷静でいられないのなら、せめて一歩離れた位置にいたほうがいい。夫婦、という言葉にちりちりと焦げつくような感情はあったものの、怖れていたほどの動揺はなくて、ほっとした。
 悟志はどうせ、午前中のうちに外回りに出てしまうだろう。あの姿が視界に入ることさえなければ、いつもと同じような顔をしているのはずっと容易くなる。それまでの辛抱だわ、と思いながら、凪子はなるべく悟志の部署のある方向へは目をやらずに仕事に精を出すことにした。
 ただ、噂話に興じていた先輩たちから、いきなりこちらに話題を振られたのは困ってしまった。彼女らにしてみれば特に他意はなく、結婚した玲佳と同期の凪子へ、という、自然な話の流れだったらしいのだが。
「あなたは、まだそういう話はないの?」
 既婚で、もう子供もいたりする先輩女性たちは、こういった質問にあまり遠慮がない。しかし悪意もないし深い意味もないことも判っているので、凪子は笑って軽く受け流した。
「残念ながら、まだですね」
「でも、彼氏くらいはいるんでしょ?」
「いえ──」
 言いながら、なぜか一瞬頭に浮かんだのは、悟志ではなく仁科の顔だった。なに考えてんの、とはっとして、すぐに打ち消したのだけれど、顔が赤くなったのは見られてしまったようで、先輩たちに 「正直ねえ」 と大笑いされた。
「いえ、あの、本当に」
 慌てて否定しようとしたが、彼女たちはすっかり何かを納得してしまっている。
「わかったわかった、もう聞かない。ああー、若いっていいわよねえ」
「その言い方がもうオバサンよ」
「そうなのよ、肌も張りがなくなってさあ」
 けらけらと笑い合う先輩たちは、すでに凪子のことなんか眼中にないようで、それから一気に化粧品の情報交換話になだれ込んでいった。そこまで変わってしまった話題を再び引き戻すのは至難の業なので、凪子は溜め息をついて誤解を解くのを諦める。
 その時、視線を感じた。
 振り向くと、ドアの手前に立っていた悟志が、じっとこちらを見ていた。
 凪子はすぐに逸らしたけれど、その視線はしばらく自分に注がれているような気がしてならず、自分でも驚くほど、それを不快に感じた。背中にねばつくものが貼りついているような気がする。
 二度と、そちらは振り返らなかった。


          ***


 告白なのかどうなのかかなり微妙な発言をして凪子を絶句させた仁科は、あの後、凪子のアパートの近くまで送ってくれただけで、特にそれ以上踏み込んでくることもなかった。
 別れる時も、じゃあ、と笑顔で手を挙げて、あっけないくらいの立ち去り方で、凪子のほうが戸惑ってしまったくらいだ。
 ……結局、あれは何だったのかしら。
 と、凪子としては思わずにはいられない。もう少し仲良くなりたい、などと言っておいて、電話番号を聞いてきたわけでもない。口説き文句みたいに思ってしまったけれど、言うだけ言ってその続きがないのでは、こちらだってわけが判らない。
 そんなことを思っていたところだったので、数日後、会社からの帰りで駅の改札を出たところに、またひょっこり私服姿の仁科が現れた時には、凪子は心底びっくりした。
「こんにちは、凪子さん」
 この間と同じ挨拶をしてから、仁科は照れくさそうに笑った。
「いやあー、実は僕、この間は浮かれすぎて、凪子さんの電話番号聞き出すの忘れちゃって」
「………………」
 忘れてたんだ……と、唖然とする。
「仕事が休みのたびに、こうして凪子さんの帰りを待ち伏せするような形になってしまって、ホントにすみません。なんかね、このままだと僕、凪子さんにストーカー認定されるんじゃないかと、不安でたまんないですよ。でも他に凪子さんと会う手段がないですしね、ちょっと見逃してもらっていいですか。今日はちゃんと忘れずに連絡先をお聞きしますから」
「え、はあ……」
 堂々と宣言されて、凪子は思わず頷いてしまった。頷いてから、これだと、「教えない」 という選択肢はないも同然なんじゃないか、という疑問が頭を掠めたのだが、仁科のニコニコ顔を見ていると、それも些細な問題だという気がしてくる。
「それで凪子さん、突然ですが、今日はお時間ありますか」
「あ、特に予定はない、ですけど」
「よろしかったらまた僕とお茶してもらえませんか。この間の話も、中途半端なところで終わっちゃいましたし」
「……は、い」
 少しためらってから、返事をした。どうしよう、という迷いもあったが、ここまで礼儀正しく聞いてくる人に対して、邪険に振り払うような真似は出来ないし──それに。
 自分のほうにも、また仁科と話してみたいという気持ちがあったというのも、本当だ。
 悟志にあんな振られ方をしたすぐ後なのに。こんな自分が、ひどく軽薄でいい加減にも思えて、答えながら、視線は下の方へと落ちていく。
 しかし仁科は、凪子の返事を聞いて、安心したように深い息を吐き、これ以上ないくらい嬉しそうに笑み崩れた。
「あー、よかった。実を言うと、ドキドキだったんですよ。昨日の夜なんて、十回くらいセリフの練習をしましてね。あ、僕、会社の独身寮に入ってるんで、後輩を相手に。そうしたらその後輩が十回目の練習で、『もうカンベンしてください』 って泣きだしちゃって。鉄道マンなのに、根性が足りないですよねえ。いやでも、練習の甲斐もあったようなので、後輩も泣いて喜んでくれると思います」
「………………」
 結局、凪子はやっぱり笑い出してしまった。


 それ以降、仁科とは数日おきに、何度か会った。
 無休で走り続ける電車を相手にする鉄道員の仕事は、毎週決まった曜日に休みが取れるわけではないらしい。というか、かなり不定期で、仁科にとっての休日は、凪子が仕事のある平日がほとんどだった。
 だから、二人が会うのは必然的に、仁科の休みの日、凪子の会社が終わってから、ということになった。携帯番号を教えてからは、必ず事前に誘いの電話があって、了承すると、仁科が駅で待っている。それから二人で軽くお茶を飲み、アパートまで送ってもらって、じゃあまた、というパターン。
 健全すぎて、これをデートと呼ぶのかどうかも怪しいが、仁科はいつも楽しそうだった。
 ある日、彼は鉄道マンに憧れるきっかけとなった出来事を、凪子に語ってくれた。
「小さい頃、間違えて特急に乗っちゃったんですよ」
 当時を思い出すように少し目を上げて、懐かしそうな顔をしていた。
「僕、昔から電車が好きでね、一人でふらふらと乗ったりしていたもんだから、もう大丈夫、っていう慢心があったんですかね。いつもの各駅停車に乗るつもりが、その時は何を勘違いしたんだか、特急に乗っちゃって」
 特急は通常の乗車券とは別に、座席指定券などの特急料金を払わねばならない。乗ってからすぐに自分の間違いに気づいた仁科少年は、真っ青になったという。
「だって、僕、余分なお金なんて持ってないですから。そうしてるうちに、後ろから車掌さんが 『乗車券を拝見』 なんて歩いてきますしね、どうしよう、ってパニックですよ。てっきり、怒鳴られるか、怒られるか、説教されるかのどれかだと思って、びくびくしながら電車のドアの前で座り込んでました」
 歩いてきた車掌は、そんな風に縮こまってしゃがみ込んでいる子供に、「どうした、坊や」 と気さくに声をかけてくれたらしい。
 間違えて乗った、お金もない、ごめんなさい、と仁科がしょぼくれて謝ると、車掌はちょっと黙ってから、はははと笑いだしたのだそうだ。
「しょうがない、次から気をつけるんだぞ、って頭を撫でてくれました。次の駅で降りて、ちゃんと各駅停車に乗るといい、って」
 そしてその車掌は、やわらかく目を細めて笑った。

 坊や、せっかく特急に乗ったのだから、そんなに下ばかり向いていないで、窓から外を眺めてごらん。
 各駅停車でのんびり進むのもいいけれど、特急には特急の、スピードに乗った美しい景色がある。
 こんなことで電車に苦手意識を持ってはいけないよ。電車に乗る時は、なんの不安もなく、いつも楽しい気分で乗って欲しいんだ。
 君たちの安心と安全を守るのが、おじさんの仕事だから。

「──その時見た窓からの眺めは、本当に、いつもよりもずっと早くて、綺麗で、わくわくしました」
 話しながら、仁科の瞳はどこか遠くに向けられていた。ずっと昔の、優しい車掌の面影を追うように。窓の外を流れる、次々に変化する胸を打つ景色を思い出すように。
「それから、僕、鉄道そのものより、鉄道マンに魅力を感じるようになっちゃって。僕もあんな風になれたらいいなって、思ったんですよね。電車に乗る人たちが、いつも楽しい気分で、快適に過ごせるように、あんな車掌さんみたいな人になれたらなあって」
「……きっと、なれますよ」
 凪子は微笑んでそう言った。社交辞令などではなく、本心からの言葉だった。
 仁科が話をしてくれている間ずっと、凪子には電車のガタンガタンという音が聞こえるような気がした。目の前を流れていく景色が見えるような気がした。それだけで楽しくなってくるほどに、彼の口調には愛情があり、優しさがあった。
「そうですか? 凪子さんにそう言ってもらえると、嬉しいなー」
 無邪気に喜ぶ仁科を見て、凪子はそっと目を伏せた。



 ……こんなことを続けていていいのだろうか、という申し訳なさばかりが募ってくる。
 ところどころおかしなところもある仁科だが、彼はとても誠実で、節度を持った青年だった。いつも天真爛漫で、親切で、紳士的な態度を崩さない。凪子に対する好意を示すだけで、ただちに返事や見返りを要求するような、強引さも、性急さもない。
 それは多分、凪子の中に躊躇があるのを見抜いているからだ。
 仁科はいい人だし、一緒にいるのは楽しい。凪子が笑顔を取り戻せたのは、彼のおかげだ。仁科の陽気さは、周囲をも明るく朗らかにさせる。
 凪子は、そんな彼に惹かれている自分を自覚している。
 ──でも、踏み切れない。
 向けられる好意に、はっきりとした好意を返すことが出来ない。もうれっきとしたいい大人の男性で、それなりに女性の扱いにも慣れていそうな仁科が、ただ単にお喋りで過ごして、それ以上のことを求める素振りがないのは、凪子のそういうところに気づいているからなのだろう。
 「友達」、というスタンスだから、凪子は仁科と会える。これが 「恋人」 に転じようとしたら、凪子は逃げるかもしれない。いや、きっと逃げる。多分、相手が仁科であろうとなかろうと。仁科はそれに、気がついている。
 手酷い失恋で、凪子はすっかり臆病になってしまった。心に負った傷は、まだ癒えていない。こんな状態で誰かと付き合うなんてことは出来そうにない。ちょっとしたことで疑ったり、責めたりして、自分も相手をも傷つける結果になるのは明らかだ。
 それは判っているのに、はっきりと仁科を突っぱねることもしない自分が嫌だった。これでは、彼を利用しているようなものではないか。仁科はもしかして凪子が立ち直るのを待ってくれているのかもしれないけれど、凪子にはそんな自信はまるでない。恋人と友人から受けたダメージは、あまりにも大きすぎた。とても修復できるとは思えない。
 仁科は二十六歳だというし、こんなものをずるずると重く引きずる年上の凪子なんかと一緒にいたって、いいことなんてないに決まっている。
 このままでは、もっと仁科を傷つけることになる、と思うと、自己嫌悪は深くなっていく一方だ。
 この笑顔を、曇らせるようなことだけはしたくない。


          ***


 凪子が憂鬱になっていたのは、他にも事情がある。仁科には話していなかったことだけれど。
 ──今さらになって、悟志が、何かと凪子に接近してくるようになったのだ。
 玲佳と結婚してから三カ月以上が経つ。もう臨月も間近だろう。そんな男が、どういう腹積もりで元カノにのこのこと近寄ってくるのか、凪子にはさっぱり理解できない。
 最初は、様子を見ながらという感じだった。
 その時、たまたま社内で、凪子は一人でいた。そこへあたりを憚りながら悟志がやって来たのだ。彼はこそこそと近寄ってくると、凪子に向かって声をかけてきた。
「式での凪子は、ものすごく綺麗だったな」
 それが第一声。凪子は怒りもすっ飛ばして呆れかえった。別れた男、しかも、あんなやり方で凪子を切り捨てた男が、言うことではないだろうに。その顔に悪びれない笑みが乗っかっているのを見て、凪子は自分の目と耳を疑い、ついでに悟志の神経を疑った。
「凪子、二次会には出なかったろ。あの時にさ、俺、散々友達から、あの美人を紹介しろってせっつかれたんだぜ。けっこう、妬けたな」
「…………」
 悟志の言葉に、凪子は口を引き結んで黙り込んだ。
 そうよ、だって、そう思わせるために、精一杯着飾ったんだもの──と、心の中だけで呟く。
 こんないい女を手放して惜しいことをした、とあんたに後悔させるために、わざわざあれだけのお金と手間をかけたんだもの。
「正直、玲佳よりも綺麗だった」
「…………」
 それは、自分自身が望んでいた台詞のはずだった。
 そう言わせてやりたい、と我ながらうんざりするくらい思い詰めた気持ちで、震える手でアイラインを引いていたのを思い出す。哀れなあの時の自分が、悟志のこの言葉によって、報われた、と思ってもいいはずだったのに。
 ちっとも、嬉しくない。
 喜びの代わりに湧いてきたのは、嫌悪感に近いものだった。目の前にいる男に対してもそうだが、なにより、そんなことを必死に思っていた過去の自分にぞっとした。
 あの時の凪子は、心を病んでいたのだ。それにも気がつかないくらい、自分の殻に閉じこもって、暗くて狭い世界しか見えていなかったのだ。そう思えるようになっただけ、今の自分はまともになったのだ。
「……どうもありがとう」
 素っ気なく言って、踵を返した。悟志はまだ何かを言おうと口を開きかけたようだったが、その先を待つ必要も感じなかった。


 しかし、悟志はその件で、何もかもが帳消しになったとでも思ったらしい。別れる前と同じような気安さで、凪子に話しかけてくるようになった。
 頭が廻って、てきぱきしていて、何事につけ、自分に自信を持っている。悟志にはそういうところがあって、以前はそれを頼もしいと思っていたこともあったが、こうなってみると、そういう性質は、ただただ強引で、無神経なものにしか感じられない。
 なまじ本人に、容貌も才覚も人並み以上に優れている、という思い込みがあるためか、いくら凪子が 「迷惑だ」 という態度をはっきりと表に出しても、悟志にとっては、「拗ねている」 程度にしか思えないようなのだ。
「そうつんけんするなよ。俺だって、玲佳に騙されて結婚させられたようなもんなんだからさ。ハメられちゃったんだって。俺はちゃんと、凪子と付き合ってるから、って言ったんだぜ」
 その日も、悟志から逃れるために、終業と同時にそそくさと会社のビルから出てきたというのに、悟志はどういうつもりなのか、ぴったり凪子を追いかけてきた。玲佳と暮らす家とは全然方向が違うのに、図々しく同じ電車にまで乗って、そんな弁明をする。
「どうだっていいわよ、もう」
 座席に座ると隣に座られそうだったので、ドア付近に立って、凪子は小さな声で言った。電車の中でこんな話をするのは、電車を純粋に愛する仁科のような人たちに悪い、という気がしてならず、自然と俯きがちになってしまう。
 それをどのように勘違いしたのか、悟志は身を屈め、顔を凪子のすぐ近くまで寄せてきた。温かい息がかかって、身震いしそうになる。
「もうさあ、結婚一日目から後悔してたんだ。凪子と違って、玲佳は気が強いしさ、いちいち反抗的で、可愛くないんだよ。今じゃすっかり腹も大きくなっちゃって、あれじゃ女とはいえないし」
「………………」
 むらむらと怒りが湧きあがった。
 あんたにとって、「従順な女」 っていうのは、あたしみたいにすぐ騙されて利用しやすい、都合のいい女、って意味しかないんでしょうよ。それはあたしに対しても、玲佳に対しても、この上ない侮辱だってことがわかんないの? 大体、女じゃなかったら何だっていうの。そういう風にしたのは、すべてあんたの責任なのに、ちょっとは妻を気遣うくらいのこと、したらどうなのよ。
 しかし、その言葉を口にすると、悟志はきっと、「ヤキモチを焼いてる」 などという、どこまでも自分本位で身勝手な誤解をして、かえって喜んでしまうのだろう。まだ凪子の心が自分にあるものだと信じて疑わないこの鈍感さは、一体どこからきているのか、不思議なほどだ。
 不本意ながら黙っていると、悟志はますます調子に乗った。
「このまま、凪子の部屋まで行ってもいいだろ?」
「…………」
 バカにしないで、と怒鳴ろうとした時、駅に到着して、すぐ前のドアが開いた。
 自分のアパートのある駅よりもふたつ手前の駅だったが、頭に血を上らせた凪子は、構わず足を踏み出しホームに降りた。このままアパートに帰ったら、本当に悟志がついてきかねない。
「おい、待てよ」
 悟志も慌てて凪子に続いた。まだくっついてくるつもりなら、真っ直ぐ交番に直行してやるわ、と足音も荒く歩いていたら、改札の手前で後ろから強引に腕を引っ張られた。
「待てってば、凪子」
「馴れ馴れしく呼ばないで」
「そう冷たいこと言うなよ。謝るからさ。悪かったよ、な?」
「謝ってもらいたくなんかない」
「なあ、おい──」
 ぐいっと後ろから強く腕を引っ張られ、つんのめった。身体のバランスを失いかけて、転びかけたところで、誰かの手に支えられる。
「……どうしました?」
 聞き覚えのある静かな声がかかって、はっとして顔を上げた。
 制服姿の駅員が、すぐ近くで凪子を見下ろしている。
 ──仁科だった。
 今日は、この駅に勤務していたのか。帽子を目深にかぶっているから、表情がよく見えない。でも、いつものニコニコした人の好さそうな笑いが、今はどこにもないということだけは、はっきりと見て取れた。
「ああ、いや、別に」
 世間体を気にする悟志が、駅員の登場に、ひるんだようにぱっと凪子の腕を離す。それを確認してから、仁科が支えていた凪子の身体から手を離した。離れていく白い手袋が、ひどく余所余所しいような感じがして、凪子は泣きたくなった。
「すみませんでした、ありがとう」
 それだけを言って、くるりと身を翻して駆けだした。悟志は追ってこない。仁科がどんな顔でこっちを見ているのかなんて、とてもじゃないけど確認できない。
 恥ずかしくて、情けなくて、逃げるように改札を抜けた。



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