短編5

最終列車(5)




 それから、二駅分の距離をひたすら歩いてアパートに帰った。
 ようやく自分の部屋に着いた時には、ミュールで締めつけられた足のつま先が、じんじんと痺れるように痛んでいた。それを脱ぎ捨て、電気も点けずにベッドの上に腰を下ろし、顔を両手で覆う。
 ……仁科はどう思っただろう、とそればかりを考えた。
 悟志を見て、ああ、これが例の男かと気づいただろうか。どう見ても揉めていた自分たちの姿に、誤解しなかっただろうか。まだ関係が続いているのかと思われていたらどうしよう。あんな男一人、うまく振り払うことも出来ないなんて、あたしはどうしてこうも、間抜けなんだろう。
 電話をしてみようか、と、何度も迷った。
 でも、仁科の勤務時間が何時までかも判らない。終電まで勤務の場合は、自分は電車に乗れないから、駅の仮眠室で眠るんですよ、と以前に教えてもらったことがある。そんなところに電話をかけてもいいものか、まったく判断がつかない。
 第一、電話をして、なんて言うつもりなのだ?
 あれは違うんです、悟志が勝手に追いかけてきたんです、少なくともあたしの方では、もうあの人とは完全に切れているんです、とでも?
 凪子に、そんなことを言う権利はあるのだろうか。だって、仁科とは付き合っているわけでもなんでもない。彼の好意を素知らぬふりで流して、そのくせ拒みもせず、あの優しさに甘えていたのは凪子自身である。この件について仁科が何を思おうと、凪子はそれに対して言い訳や反論などする立場にはない。
 悩んだ挙句、結局凪子には何をすることも出来なかった。電話をすることも、もう一度あの駅に戻って仁科に会うことも。
 もしかして、もう仁科から連絡の来ることは二度とないかもしれない。彼と会うことも、あの笑顔を見ることもないかもしれない。そう思うと、胸がぎしぎしと音を立てて痛むような気がしたが、それでも自分から動くことは出来なかった。
 もう会わないなら会わないで、今まで楽しかったと伝えることも、ごめんなさいと言葉にすることもせずに。
 ただ、自分が傷つくのが怖かったから。
 凪子は開きかけていた扉を、自分自身の手でぱたんと閉じた。
  ──こんなあたしは、本当に最低だ。
 そう思ったら、瞳から涙がぽろりと落ちた。


          ***


 翌日、出社した凪子は、悟志のことを一顧だにしなかった。
 悟志のほうは、何かを言いたげにちらちらと凪子のほうに視線を寄越してきていたが、凪子は冷酷なくらいにそれを無視した。一人にならなければ、悟志は凪子に話しかけてきたりはしない。新婚ほやほやの男が、他の女に近づくのを見られて、不用意に噂を立てられるのを何より恐れている。結婚式の仲人は彼の部署の部長だった。世間の目と上司からの評価ばかりを気にする、ちっぽけな男なのだ。
 だから凪子は、注意深く悟志に隙を見せないでいるようにしているだけでよかった。もう、あんな男と関わるのは真っ平だ。昼休みも、帰る時も、必ず同僚の女性たちと一緒に行動し、一人きりには絶対にならないようにした。
 とはいえ、今の凪子に、誰かと食事をしたり飲みに行ったりするほどの気力もない。これから雑誌に載っていたイタリアンの店に行く、という同僚たちの誘いを断り、駅で別れて、一人電車に揺られて帰路を辿った。
 昨日と同じようにドアの手前に立って、窓から外を眺める。
 そこから見える景色はいつもと同じで、夕暮れの中、何事もない穏やかさに包まれていた。ぽつぽつと明かりが灯りはじめている。平和で、優しくて、温かい。足元の振動を感じながら、家や、人が、緩やかな速度で流れていくのをぼんやりと目で追った。
 仁科が愛するこの景色。楽しい気分で見たかったのに、凪子の胸に湧いてくるのは、たまらない寂しさだけだ。
 どうしてあたしは、こんな気分で電車に乗っているのだろう。
 駅に到着したら、顔を半ば伏せながら、ホームに降りて、改札を通った。とても、駅員の姿を目に入れる気にはなれない。制服を着た仁科と遭遇する偶然を、怖れているのか望んでいるのか、それさえもよく判らなかった。
 駅の出口を出たら、「凪子」 と名前を呼ばれた。
 びくっとして顔を上げる。こんな風に名を呼びながら、ニコニコした笑顔とともに近寄ってくる人の姿を一瞬期待してしまったけれど、そこにいたのは、彼ではなかった。
「悟志」
 抑えようとしても、声に苛つきが出てしまう。なんなのよ──と、叫びだしたいような衝動を堪えるので、精一杯だった。
 悟志は厳しい表情を浮かべ、大股でこちらに向かってくる。会社からなのか、出先からそのまま来たのか、きっちりとしたスーツ姿だった。決して安物ではない生地、趣味の良いネクタイ、まるで何かのカタログから抜け出たようなスマートさだ。ほんの半年ほど前まで、凪子が 「あなたにはスーツがいちばん似合う」 と褒めていたその姿が、今こうして改めて見ると、まるで実体のないもののように見えるのはなぜなのだろう。
 思うに、悟志が着ているのは、「スーツ」 というよりも、「社名」 であるからなのではないだろうか。凪子たちが勤めているのは、一応名の通った上場企業だ。悟志はその会社に勤めていることに、なにより自負を持っている。要するに、「一流企業の社員である自分」 が自慢なのだ。彼にとって大事なのは会社の名前、仕事の内容ではない。自分の仕事をこよなく愛する仁科とは、根本的に違う。
 だからこんなに、薄っぺらに見える。
「いい加減にして」
 その場に立ち止まり、寄ってくる悟志を睨みつけ、はっきりと言った。もう逃げたりなんてするものか。自分は逃げなきゃいけないようなことは何もしていない。
 駅から出てくる乗客たちが、険悪な雰囲気を漂わせる凪子と悟志をじろじろと振り向きながら通り過ぎていくけれど、そんなこともどうだってよかった。
「凪子、あいつ、なんなんだよ」
 しかし、凪子のすぐそばまで来た悟志は、険しい顔でいきなりそんなことを言った。意味が判らなくて、凪子は 「は?」 と眉を寄せる。
「あいつ?」
「あの駅員だよ」
 悟志の言葉に、息が止まりそうになった。
「どういう関係なんだよ。昨日、お前が走って行ったあとで、突然言われたぜ。 『明日、凪子さんと、ちゃんと話をしたほうがいいですよ』 って。ここにいたら会えるから、待ってたらどうですかって」
 凪子さんはイヤがるでしょうけどねえ──と、仁科は薄く笑いながら、悟志に向かってそう言ったのだという。
「………………」
 凪子はすっかり混乱してしまった。
 どういうつもりで仁科はそんなことを言ったのだろう。ちゃんと話し合いをして、ケジメをつけろということか。それともやっぱり、凪子の態度に怒っていたのだろうか。
「あいつ、お前のなんだよ」
 悟志の横柄な詰問に、かっとなった。こんな風に言われる筋合いもなければ、仁科のことを 「あいつ」 呼ばわりされる筋合いもない。
「知り合いよ。どうだって関係ないでしょ、あんたには」
「関係ないことないだろ。……なあ、凪子」
 凪子がさらに眉を吊り上げたことに気づいたのか、それとも、現在の自分たちが本当にそんな関係ではないことに今さら思い当たったのか、急に悟志は軟化した。表情を和らげ、機嫌を取るような猫撫で声を出す。
 付き合っている間も、こうしてよく誤魔化されたんだったわ、と思い出したらなおさら腹が立ってきた。一度気持ちが離れてしまえば、男のそんなところは、もう可愛いとも何とも思えない。ひたすらに忌まわしくしか感じられないのだということに、悟志はどうして気がつかないのか。
「まだ玲佳とのこと怒ってるのか? 結婚はしたけどさ、そんなの書類上のことじゃないか」
「ああ、そう」
 怒りのあまり、目の前が真っ赤になってきた。意地の悪い気分が、耐え難いほどむくむくと喉元までこみ上げる。「じゃあ」 と口を開いたら、一気に言葉が迸り出た。
「あたしがここで頷いたら、また付き合っていただける、ってわけね。ありがたくって涙が出そう。だったらその場合、当然玲佳とは別れてくれるんでしょう? 正式に離婚して、慰謝料払って、これから何十年も養育費を払い続け、結婚式に出席した同僚や上司に謝って廻って、そうしてあたしとやり直そうって言ってるのよね?」
「え、いや」
 悟志は明らかにたじろいだ。
 曖昧な笑みを顔に貼り付け、「そんな子どもみたいなこと言うなよ」 と宥めようとする。どっちがよ、と凪子はますます腹を立てた。図体ばっかりでかくて、あんたの中身は、捨てたオモチャが惜しくなってやっぱりあれがいいんだと泣き喚く、幼児そのものじゃないの。
「妻なんて、名前だけのものだって。愛情のない、形だけのそらぞらしい夫婦よりさ、愛し合った恋人同士のほうがいいじゃないか。いつでも新鮮でいられるし。凪子もそう思うだろ?」
 要するに、「愛人になれ」 ってことだ。この男は、どこまで凪子という存在を軽んじれば気が済むのか、と思ったら、怒りよりも、悲しみが押し寄せてきた。
 お願いだから、とぐっと奥歯を噛みしめる。
 ──お願いだから、これ以上、あたしの昔の恋心に泥を塗らないで。
「俺が好きなのは、前から凪子のほうだったよ。今の玲佳は、『女』 っていうより、もうすっかり 『母親』 って感じでさ。興ざめなんだよ。腹が出て体型も変わっちゃって、抱く気にもならない。凪子のほうがずっと綺麗だ。なあ、やり直そうよ。今度は、もっとお姫様みたいに大事にするからさ」
 な? と凪子に向かって笑いかけた。
 そこには、まったくなんの反省も後悔も、罪悪感も見えなかった。
「………………」
 凪子は半分口を開いて、まじまじと悟志を見返した。
 ──やっと、判った。
 どうしてこうも会話が噛み合わないのか、その理由が。

 悟志にとって、大事なのは、「自分」 だけなんだ。

 悟志の中にあるのは、「自分が好きだから、それでいいだろう」 という、身勝手というのとも少し違う、どこか欠落した価値観と考え方だけなのだ。そこには、凪子の気持ちを斟酌する、だとか、慮る、という行為の一切が抜け落ちてしまっている。
 悟志に別れを告げられ、玲佳に裏切られて、凪子がどんなにつらかったか、身を切るほどに嘆き苦しんだか、悟志はまったく考えようとも、想像すらしようともしないのだ。
 悟志が必要なのは、「自分を好きな」 凪子、であって、それ以外の凪子のことを見ようともしていない。玲佳を貶め、代わりに凪子を持ち上げることによって、凪子が喜ぶだろうと単純に考えている。
 ……もしかして、と背中が寒くなった。
 仁科と会う前の自分がこんなことを言われていたら、もしかして、凪子は肯っていたのかもしれない。悟志への情はまったく消え失せてしまっていても、「玲佳よりも優位に立てる」 という、ただその一点だけでもって、妻の玲佳には知られないように悟志に尽くさせて、仕返しができたような気分になって優越感に浸っていたのかも。
 そう考えたら、すとんと憑き物が落ちるように、気持ちが軽くなった。
 ──なんだ、あたしはちゃんともう、立ち直れているじゃない。そんな考えを、愚かだとしっかり認識できる今のあたしは、もう悟志に対しても、玲佳に対しても、冷静になれているじゃない。
 自分がつらい時、悲しい時、その気持ちを知ろうともしない男なんて御免だ。
 凪子のことを、一人の人間として認めてくれないような男と恋は出来ない。
 凪子は別に、強くも、清くもないけれど、偉いじゃないですか、格好いいですよ、と言ってくれた人の言葉を、自分自身で汚すような真似だけは、決してしない。

 凪子は確かにたくさん傷ついた。もう二度と、あんな思いは嫌だと思った。だから臆病になっていた。
 けれどあれだけ真っ暗な中ででも、きちんと心を整備して、掃除して、また新たに走り出そうとしていたのだ。
 どんなに大きな傷を負っても、いつかは塞がる。それが判っていれば、傷つくことをそんなに怖がる必要が、一体どこにあるだろう?

「……玲佳のこと、大事にしてやりなさいよ。あたしには無理だけど、玲佳なら、あんたのそういうところをビシビシ叱って、叩いて、立たせてやることが出来るかもしれない」
 あのまま付き合っていても、玲佳のことがなくても、遅かれ早かれ破綻はやってきていたのだろう。悟志がどうこうというより、凪子には無理だという、それだけの話だ。
 でも、玲佳なら、こんな悟志の手綱をうまいこと捌いていけるのかもしれない。あの気の強さ、意志の強さで。
 そこですっぱり興味が失せて、凪子はくるっと回れ右して悟志に背を向けた。もうそこに彼がいたことさえ忘れたように、帰ろう、とそれだけを思っていた。
「おい、凪子」
 後ろから声がかかる。また昨日みたいに腕を引っ張られるのかも、と警戒して、ちらっと肩越しに振り向いたその視界に──
 悟志以外の人物の姿が見えた。
 え、と足が止まる。鼓動が大きく跳ねあがった。
「すみません、凪子さん、遅くなっちゃって」
 と、まるで約束でもしていたみたいなことを言って、いつものように笑いながら現れた仁科は、ここまで走って来たのか、息を弾ませていた。
「いやあ、参っちゃいますね、仕事っていうのは突然抜けようとするといろいろと支障が生じて。いや突然ったって、ちゃんと昨日からそう言ってたんですよ。上司の許可も貰ったんですよ。なのに先輩にバレちゃって。そりゃ多少は迷惑かけるかもしれないけど、一日のうちのほんのちょっとの時間のことなんだし、今後の僕の人生に関わるかもしれない一大事なんだし、いいじゃないですか。それなのにあの人ときたら、女のために仕事を抜けるのか、って後ろから羽交い絞めですよ。信じられないですよ、自分に彼女がいないからって。武士の情けって言葉を知らないんですかね、別に武士じゃないですけどね。そんなわけで、遅刻してしまいました。すみません」
「………………」
 普段とまったく同じ調子でぺらぺらと滑らかに喋り、ぺこんと頭を下げる仁科に、悟志はすっかり毒気を抜かれて茫然としていた。凪子だって驚きのあまり、すぐには言葉が出てこない。
「に──仁科さん」
「お前、昨日の駅員か?」
 しばしの後で、ようやく出た声は、悟志のものと重なった。仁科が凪子を見て、悟志を見て、「はい」 とにこやかな顔で両方に返事をする。
「凪子、お前、やっぱりこいつと何かあるのか」
 悟志の口調は、まるで凪子を責めるみたいだった。あんたに関係ない、ともう一度言おうとしたら、その前に仁科が答えた。
「いやー、何かって言われると、照れちゃいますね。もちろん僕は凪子さんと何かあればいいなあと願ってはいますけど」
「…………」
 凪子はもう、どうしていいか判らなくなって、顔を赤らめるしかない。
「おい、ふざけるのもいい加減にしろよ」
 悟志はそんな仁科の態度に、おちょくられているような気がしたらしい。実際はもしかして本当におちょくっていたのかもしれないが、仁科は爽やかな笑顔のまま、「はい?」 と問い返した。
「凪子は俺と付き合ってたんだ」
「でももう、別れたんでしょ? あなたは凪子さんを捨てて、他の女性と結婚したんでしょ? だったらいつまでも未練たらしく追い回すのはやめましょうよ。そんな風にみっともないところを見せたら、あなたを好きだった以前の凪子さんが可哀想ですよ」
「なん──」
 平然と言われて、悟志は顔を朱に染めた。羞恥からではなく、怒りからだ。順調にエリートコースに乗ってきてこれまでの人生で挫折を知らない分、悟志は他人から侮辱されることに慣れていない。ずばりと言い当てられて、激高した。
「お前みたいなただの駅員が、偉そうに言うな」
 世間体を気にする悟志が、この時ばかりは人目を忘れて仁科の胸倉を掴んだ。さすがに凪子も黙っていられずに、「ちょっと」 と慌てて二人の中に入ろうとしたが、悟志は手を離さない。
 掴まれたまま、仁科は何も抵抗をしなかった。黙ってちょっと首を傾げてから、凪子の方を見て、
「困ったな」
 と、苦笑する。
 凪子は恥ずかしくて、穴にでも潜りたい心境だった。こんなくだらないことに仁科を巻き込んでしまって、申し訳なさで涙が浮かんだ。
「凪子さん、怖がらないでくださいね」
「……こ、怖くなんてない、こんな人」
 口から出る声は、もうすでに涙声になってしまっている。怖さなんかはカケラもない。あるのは情けなさと怒りだけだった。どうせ、悟志に暴力なんて振るえっこない。駅員という職業を見下す悟志の傲慢さが、たまらなく腹立たしかった。
 仁科が鉄道のことを話す時の、あのきらきらとした瞳を知りもしないくせに。
 凪子の返事に、仁科はもう少し、苦笑を深くした。
「いや、そりゃ、この人は怖くはないでしょう。こういうタイプは、せいぜい大声で怒鳴って威嚇することしか出来ませんて。これからすることで、僕を怖がらないでください、ってことです」
「……え」
 意味が判らなくて聞き返そうとしたが、その前に仁科が動いた。
 彼が、素早く身体を捻ったのは見えた。でも、ほんの一瞬のことだったので、何が起こったのかは把握できなかった。仁科が悟志の肩を掴み、右脚が上がったような気がしたけれど、とにかくスピードが速くて、よく見えなかった。気がついたら、悟志が、ぐえっ、という呻きとともに、腹部を押さえていた。
 膝で蹴り上げたんだ、と凪子の頭が思いつくよりも先に、前かがみになった悟志の身体を、今度は仁科ががっちり掴んで無理やり真っ直ぐに立たせた。一連の動きに全く無駄がなく、普段の彼からは想像もできないくらい、速くて鋭い。仁科よりも悟志のほうが背が高くて体格もいいのに、仁科の力強さはその差をものともしなかった。
 痛みを堪えるというより、悟志は恐怖で真っ青になっている。
「あのね」
 仁科が悟志の顔に自分のそれを近づけて、のんびりと口を開く。にっこり笑っていたが、非常に凄味のある笑い方だった。
「突然子供が出来て、結婚して、家族持ちになっちゃって、責任とか、これからの人生設計とか、いろんなものをいっぺんにかぶらなくちゃならなくなったのは、そりゃ大変だと思うよ。日に日に奥さんのお腹は大きくなるし、追いつめられるような気分もあったのかな。そんな諸々にイヤになって、そこから逃げたくなっちゃう気持ちも、判らないではないけど」
 けどね、と続けた。細めた目に迫力がある。
「……それは全部、あんたが自分で引き起こしたことじゃない? 面倒でも、大変でも、自分でなんとかしようよ、大人なんだからさ。奥さんと子供を守るのはあんただけだろ。逃げようとするのは勝手だけど、凪子さんまで巻き込むんじゃないよ」
 唇の端を上げながら低い声で言われて、悟志の顔からますます血の気が引いた。
 言うだけ言うと、仁科はぱっと悟志から手を離し、またにっこりした。今度のは、いつもの明るい笑顔だった。
「引き際はキレイにね。女性を諦めるのも、電車を降りる時も。立つ鳥跡を濁さず、ですよ。……わあ、僕、うまいこと言ってますよね?」
 と凪子に向かって、子供みたいに自慢げに胸を張る。
 いかにも褒めて欲しそうだったので、ちょっとどもりながら、そうですね、と凪子は答えた。
 答えてから、たまらなくなって笑い出した。


         ***


 それ以来、悟志はぴたりと凪子に近寄ってこなくなった。よっぽど懲りた、というのもあるだろうし、仁科の言葉に、少しは何かを感じたのもあるのだろう。そうあって欲しい、と凪子は思う。
 そのうち、けろりとした顔で、赤ん坊の写真を嬉々としてみんなに見せて廻ったりするのかもしれない。その姿を想像したら、なんだか無性に可笑しかった。
 玲佳からは、一度だけメールが来た。
 ──ごめんね。
 という、一言だけの、短いものだった。何に対しての謝罪なのか、凪子にはよく判らなかったけれど、元気な赤ちゃんを産んでください、とだけ返信した。
 そして凪子は、あの後で正式に、仁科から、「付き合ってください」 と申し込みをされた。
 ものすごく緊張しながら出されたその言葉に、凪子が、はい、と返事をした時の彼の喜びようは、今思い出しても笑えてしまうくらいだ。後輩をまた練習台にして泣かせ、彼女のいない先輩に散々ノロケて怒らせ、独身寮ですれ違うたび殴られる、とのことである。
 彼といると、凪子はまるで、電車の中で心地よい揺れに身を任せているような気持ちになる。

 ゆったりと座席に背をもたれさせ、流れていく景色を見ているように。
 めまぐるしくて、綺麗で、落ち着いて、気分がよくて、新しい発見にわくわくする。
 とても、幸せだ。

 仁科にそう言ったら、彼はひどく嬉しそうな顔になった。
「じゃあ、凪子さんがいつも楽しい気分で乗っていられるように、僕、頑張りますね。乗客の安心と、安全を守るのが、鉄道マンの使命ですから」
 できれば人生の最終列車まで仲良く同乗できるといいですね、と、さらりと付け加えた。

Fin.



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おまけ・始発列車


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