短編1

一万円の彼(3)




 少し歩いて、結局、ファミレスに入ることにした。味は良くもなければ悪くもなし、値段が安いのだけが取り柄です、という店だ。
 席に着くと、真也はサンドイッチを注文した。男子高校生というのは、朝からでもがっつり食べるものかと思っていた私は、ちょっと驚く。
「それでいいの?」
「うん、とりあえず最初は」
「…………」
 どうやら、追加でどんどん食べていくつもりらしい。真也は細すぎではないけれど、今時の男の子っぽく、すらっとした体型をしている。きっと、食べても食べても、エネルギーで消費されて、余分な脂肪とかにはならないんだろうなあ、と思うと、けっこうムカッとした。
「まひるさんは? 何食うの?」
「私はトマトジュース」
「ああ……二日酔いだもんね」
 本人がどういうつもりなのかはともかく、真也が言うと、不思議と嫌味に聞こえない。彼の内面から滲み出る性質のようなものが、そういう風に感じさせるのかなと思う。
 何を言っても何をしても他人を不快にさせない、というのは、生きていく上で、非常に大きなプラスポイントだ。こればっかりは、努力だけでどうにかなるもんでもない。真也はそういう点、かなり神様に贔屓されているような気がする。
 それから二人でお喋りをはじめて、私はますますその思いを強くした。真也は特に話術に長けていたわけでもないし、むっとした時などはその感情を隠しもしなかったが、私を不快にさせるようなことは一度もなかったからだ。
 それどころか、私たちは、まるでずっと昔からの友人のように、ふざけ合って、冗談を飛ばし、けたけたと笑い転げた。この店のメニューや店員について勝手に批評して、私の後ろに座ったカップルがどうやら朝帰りらしいことに気づいてこっそり聞き耳を立てたりした。学校のことや、会社のこと、お互いに判らないことなんかもたくさん話したが、ちっとも気にならなかった。
 要するに、気が合った、のだと思う。五つや六つの年の差なんて、相手によってはまるで会話の妨げにはならないんだな、ということに、私自身がびっくりしたくらいだ。
 真也がサンドイッチを食べ終わり、それからパスタを平らげた後で、二人してドリンクバーを頼んだのは正解だった。気がついたら、私たちはその店で昼過ぎまで居座り続けていたからである。私がここの店長だったら、こんな客はイヤだろう。
 その頃になったら、さすがに私の胃も復調してきたので、真也がジャンバラヤを頼むついでに、雑炊を注文した。ファミレスってホントに便利だなあ、と思う。でもだからって、三食すべてをここで済ます気にはならない。
「夕飯は──」
 何気なく言いかけたら、真也の面にさっと緊張が走ったのが判って、私は内心で、「?」 と首を傾げた。
「夕飯は、家で食べようね。ここを出たら、スーパーに寄って、買い物していこう」
「あ、うん」
 目に見えて、真也がほっとしたように表情を和らげる。
 ああそうか、とそれを見て理解した。彼は多分、「夕飯は、自分の家で食べなさい」 と言われるのを警戒したのだろう。遊びの時間はもう終わりだよ、と大人に告げられる時の子供のように。
 もちろん、私はそれには気づかない顔をした。
「なに食べようか。今日はちょっと暑いし、焼きそばと冷やっこ、なんてどう?」
「またそんなビールの友みたいな献立を」
 真也はそう言って、楽しそうに笑った。


 支払いをする時、私がレジで財布を出そうとしたら、真也はちょっと慌てた顔になった。
「あ、おれ──」
 と、ジーンズの後ろポケットに手を伸ばす。そこには彼の携帯だけでなく、私が昨日渡した (らしい) 一万円札が入っているのだろうことは察しがついた。
「いいよ」
 私が止めると、真也は不満そうに眉を寄せた。気にせずに、さっさとお金を出して支払いを済ませる。私はつましい一人暮らしだが、金額的には一度飲み会に行くのとそう大差はない。
 真也にあげたという一万円は確かに痛い出費だけれど、それを惜しむ気持ちは、私の中にこれっぽっちも湧いてこなかった。昨日までのモヤモヤは、綺麗さっぱり吹き飛んでいる。
 彼はもう、支払った分に見合うだけの役割を、充分果たしてくれたのだ。
「……言っとくけど、私が年上で社会人だから奢る、って話じゃないからね」
 店を出ながら言い含めるようにそう言うと、真也は怪訝そうに 「え」 と訊き返した。
「シンヤ君のその一万円は、もっと大事な局面で使うべきだと思ってるだけ。それは、今のシンヤ君が、今の自分に付けた値で得たお金なんだから」
「………………」
 真也はしばらくの間沈黙し、やがて、こっくりと頷いた。


          ***


 それから二人であちこちの店を冷やかして、買い物に行って、アパートに帰り、のんびりと夕飯を作った。真也が 「まひるさんはもっと野菜を摂らなきゃダメだよ」 などと説教くさいことをうるさく言うので、ソース焼きそばのつもりが、五目焼きそばになった。無論、ビールは抜きである。
 時間が経つにつれて、お互いに少しずつ無口になっていくことは判っていた。 「今日の夜までなら、好きなだけ」 とは言ったが、具体的な時間は明示していない。やけに、時計の針が進んでいくのが早いように感じられた。
 それでも、憂鬱そうにちらちらと時計を気にしていた真也が、
「──おれ、そろそろ帰るよ」
 と言い出したのは、夜の十時頃だった。
 そう、と頷き、私は彼を見送るため、玄関まで一緒について行く。
 スニーカーを履いてから、真也はくるりと私の方を向き、真面目な顔をした。
「また、来てもいい?」
 そんな質問をしながら、真也はきっと、私が 「いいよ」 と了承することを、疑っていなかったのだろう。
 私が口許に少しだけ曖昧な笑みを浮かべながら、でもはっきりと首を横に振ると、彼は目を大きく見開いた。
「……なんで?」
 本気で驚いている。声が強張っていた。
「おれが、受験生だから?」
「そうだね、それもある」
 そう答えると、真也は険しい目をした。
「また、『大人の判断』? おれ、女にうつつを抜かすあまり勉強に身が入らなくなって、どん底まで成績を下げるようなアホじゃないつもりだけど。ていうか、まひるさんが変に気を廻さないように、却ってこれまでより気合いを入れるよ。志望校のランクも下げたりしない。頑張るから」
「うん、シンヤ君は、きっと頑張るよね」
 早口で言い募る真也を見て、私は微笑んだ。
 真也が真面目で誠実な一面をちゃんと持っていることは、この一日でよく判った。それなりに軽いところもあれば、甘ったれたところもあるが、基本的に彼はしっかりとした考えを持った、非常に健全な男の子だった。彼が 「頑張る」 と言うのなら、本当にそうするだろう。だからこそ。
「……頑張って頑張って、くたくたになった時、勉強やいろんなことに疲れた時つらくなった時に、シンヤ君はここに来る」
「…………」
 真也が口を閉じて、黙り込んだ。
 けれど私は、容赦をしなかった。

「──私は、そんな風に、誰かの 『逃げ場所』 としてだけの存在になるのは、嫌だ」

 真也を正面から見据えて静かに告げた。先に、いたたまれないように視線を逸らしたのは、彼のほうだった。
「……そんな、つもりじゃ」
 口から出たその言葉は弱々しい。そんなつもりでなくとも、結果としてそうなってしまうかもしれないことは、きっと彼自身が一番よく判っている。なぜなら、彼が逃げた先で、私たちは出会ったからだ。
 逃げるのが悪いことだとは、私は思っていない。私だって、嫌なことがあると、わりとすぐに酒に逃避したがるタイプだ。どうしても勉強や受験やいろんな重みがしんどくなったのなら、一時的にでもずっとでも、真也の気が済むまで逃げればいいと思う。
 でも、「私が」、その逃避先になるのは御免だ。
 ──いや。
 たとえば私が、真也のことを、弟とか、年下の友人だとしか思えなければ、それでもよかったかもしれない。疲れた時、行き詰った時にだけやって来る彼の頭をよしよしと撫ぜて、気を紛らせ、また笑って背中を押して送り出すことだって、出来たかもしれない。
 ……けど、この先、弟にも友人にも思えなくなりそうな予感がする男の子に対して、ただ頭を撫ぜて送り出すだけで満足するほど、私は人間が出来ていない。
「じゃあ」
 真也は顔を上げ、再び口を開いた。瞳には、どこかしら懇願が滲んでいる。
「おれが大学に合格したら、そうしたら会ってよ。それならいい? おれ、これからしっかり勉強して、絶対一発で受かってみせるから。それまで、彼氏とか作らないで、待ってて」
「…………」
 私はまた首を横に振った。今までと同じような顔を保つのは、かなり、努力が必要だった。
「──なんでさ」
 真也は今度こそ、傷ついた顔をした。
「約束っていうのは、相手を縛ることでもあるからだよ」
 私は言ったが、こちらを見返す真也の目つきは、全然納得していなかった。そりゃそうだろうなと思う。私だって、自分が高校生の時にんなことを言われたら、納得なんてしたりしない。
 真也は私なんかよりもずっと頭の良い子だが、それでもやっぱりどうしたって、年齢を重ねないと判らないことというのはあるのだ。
「シンヤ君が思ってるより、今から春までの時間は長い。きっと、いろんなことがあるよね。苦しいこととか、つらいこととか、楽しいこととか。その中で、また新しい出会いがあって、シンヤ君は、好きな女の子が出来たり、彼女が出来たりするのかも。たった一日だけ一緒に過ごした私のことなんて、あっという間に忘れちゃうのかも。今の気持ちが続かなければ、『約束』 は 『枷』 にしかならない。続くかどうか、それは誰にも判らない。私にも、シンヤ君自身にも」
 真也は何かを言いかけたが、私はそれを無視した。
「そういえば、約束してあったんだっけ、なんて、そんな義務感だけで会いにこられるのは、嫌。大学受かったよ、って晴れ晴れとして報告に来て、あ、この子おれの彼女なんだ、なんて照れながら女の子を紹介されたりしたら、いくら私でもヘコむ」
 私だって。
 忙しい毎日にまぎれて、真也のことをすぐに忘れるかもしれない。けれど、忘れないかもしれない。
 忘れなかったとしたら、私はきっと、春まで待ってしまうんだろう。合コンでいい男を見つけても、誰かに付き合ってくれと言われても、約束のことを思い出し、二の足を踏んでしまうだろう。
 春まで待っても、誰も会いになんて来ないかもしれないのに。
 そこで苦く深く失望を味わうより、真也に怒りや恨みを向けるより、私は、お互いの連絡先も知らないまま、ここで別れてしまうほうを選びたい。
「………………」
 真也はうな垂れてずっと黙っていたけれど、やがて再び顔を上げた。眉を吊り上げ怒ったような顔つきで、突然、少し乱暴に私の両腕を掴んで引き寄せる。
 そして、唇を重ねてきた。
 ちょっとぎこちない、でもどこか巧妙なキスだった。離れていく直前、するりと舌が唇をなぞるように撫でていく。けっこう慣れてるな、と私は心の中で思った。
「……あんまり、酒を飲みすぎないようにね、まひるさん」
「うん、ほどほどにする」
 苦笑して答える。別れの言葉がそれとは、私はとことん酒についての信用がないらしい。無理もないけど。
 真也が、顔を歪ませた。泣きそうにも見えたけど、でもそれは、彼の精一杯の笑顔だったのだろう。
「──酔っ払っても、もう、おれ以外の男を買っちゃダメだよ」
「……うん」
 それから私たちは、もう一回、キスをした。
 こんなつらい思いをするのなら、二度と男なんて買うもんか、と私は思った。





          ***


 ──そして、季節が二つか三つ過ぎて。

 私の毎日はさほど大した変化もなく進んでいた。働いて、落ち込んで、ちょっとしたことで嬉しくなって、友人たちと騒いではしゃいで。仕事で失敗したり、理不尽なことで怒られたりすると酒を飲もうという発想になるのは変わらないが、記憶をなくすほど酔うことはもうない。
 同僚の男にアプローチをされたりしたこともあったが、なんとなく気が進まなくてやんわりと断ってしまった。そういえば、その男もAB型だったっけ。血液型にこだわっているわけではなくて、たまたまなんだけど。
 そうしていつものように、仕事を終えてアパートに帰り着いた、ある日。
 アパートの廊下を歩いていた私は、途中でぴたりと足を止めた。時刻は七時過ぎで、廊下についているショボい蛍光灯の明かりでは、昼間のように視界がはっきりとはしない。私は目を眇め、「それ」 をまじまじと見つめた。
 自分の部屋のドアの前に、何か白い塊が──あれ、何?
 と。
 その白い大きな塊がふわりと動いた。そこで判った。あれは、花だ。
「………………」
 かすみ草、だ。
 真っ白い、しかも大量のかすみ草の花束だった。こんな巨大な花束、見たことがない。それを持っている人間は、完全に花に隠れて顔が見えなかった。
 ゆっくりと、私は足を動かして、それに近寄っていった。カン、カン、というヒールの音と共に、心臓の音が不規則に早く、高まっていく。
「──まひるさん」
 と、懐かしい声がして、花の後ろから、にこりとした朗らかな笑顔が現われた。
 その顔は、なんだか以前よりも、ちょっと精悍になった感じがした。髪形も少し違う。背もまた伸びた気がする。こんな些細な違いが判ってしまうほど、私は今まで、彼の顔や背格好や声なんかを、何度も何度も思い出していたんだな、ということに気づいて悔しくなった。
「……すごい、でっかい花束」
 なので、私の第一声がそんな言葉になったのは仕方ない。さりげなく周囲に目をやったが、見知らぬ女の子が隠れているわけではないようなので、ほっとした。
「苦労したんだから、これ。かすみ草ってさあ、どの花屋でも、そんなにたくさんは売ってないんだよ。三百円とか四百円とかのちっこい花束がさ、多くてもせいぜい十束くらい置いてあるだけでさ。五件くらい廻って、やっとこれだけ集めたんだぜ。全部くださいって言うと、どこの店員も変な人を見るような目で見るしさあ」
 真也は不平を言うように口を尖らせている。そういう顔は、以前の彼とまったく変わっていなかったので、私は笑ってしまった。
「そりゃ、そうだろうね」
「最後の店で、ひとつにまとめてもらったんだよね。──はい、どうぞ、まひるさん」
 まるで捧げものをするように、真也が仰々しく差し出すその大きな花束を、私は両手で受け取った。これを入れられるような花瓶はどこに売ってるんだろう、と考える。まあいいや、ユニットバスに水を張ってそこに入れよう。私は銭湯に行けばいいことだし。
 一本一本だと頼りないその花は、これだけ数が多くなると、本当に立派で、綺麗だった。白い雲を空から切り取ってきたみたいに、幻想的でもあった。花もどこか誇らしげに、堂々としているように見える。
 その姿は、どこからどう見ても、ちっとも 「脇役」 なんかではなかった。
「ありがとう。……でも、どうして、こんなにたくさん」
「一万円の、いちばんいい使い道が、これしか思い浮かばなかった」
 その言葉に驚いて真也を見ると、彼はひどく生真面目な顔をしていた。
「まひるさんが、大事に使うべきだって言ったから、ずっと考えてたんだ。考えて考えて、それで、やっぱりこれしかないって思った。かすみ草、一万円分」
「……私があげた一万円を、返しに来たってこと?」
「違う。いや、違わないけど、突っ返すって意味じゃない。おれ、まひるさんとは買ったとか買われたとかの理由で関わりたくないんだ。だからこれで、ただの男と女に、一万円を介在しない関係に、戻したい。戻して、その上で」
 すう、と息を吸って、吐くと同時に言葉を出した。相変わらず、真っ直ぐな瞳を私に向けて。
「改めて、まひるさんに、好きだって言うために来た」
「…………」
「おれ、ちゃんと志望校受かったよ」
「……おめでとう」
「うん、自分で言うのもなんだけど、頑張った。逃げ出すことも、しなかった。しんどくなったり、疲れたりした時、まひるさんのことを思い出したのは否定しないけど」
 そこまで言って、真也は強い光を宿す目で、私を見た。
「けど、楽しいことや、嬉しいことがあったりした時も、やっぱりおれ、まひるさんのこと、思い出したよ」
「…………」
「まひるさんならどんな顔をするかな、なんて言うかな、どんな反応をするかな、って、よく考えた。一緒に笑えたら、どんなに楽しいかなって思った。隣にいて、同じものを見られたらよかったのにな、って、何度も思った。また酒を飲み過ぎて危ないことしてんじゃないのかな、とか、野菜も食わずに酒のつまみみたいなのばっかり食って、身体を壊してなきゃいいけど、とか、ふとした拍子に考えて、よく心配もした」
「……シンヤ君の中で、私はどんだけ手のかかる女なわけ」
 憎まれ口が、微妙に震えているのに気づいて、口を噤む。俯いて、喉につかえる何かを懸命に飲み下した。
「うん、おれもホント、なんでかなって思うんだけど。まひるさんより素直で可愛い女なんてのは、きっとあちこちにいるんだろうにさ」
 そこで彼は、ふと口調を変えた。やわらかく。
「……けど、やっぱりまひるさんじゃなきゃ、ダメだったんだ。おれにとって、まひるさんは、どうしても脇役になんかならなかった。全然」
「…………」
 花束が大きすぎるのも困りものだ。両手が塞がって、こぼれる涙を隠すことも拭うことも出来やしない。
 真也はそんな私を見て、優しく目を細めた。ああ、この顔も、やっぱり変わってない。
 ゆっくりと手を伸ばし、そっと頬に触れる。
「──会いたかった。ずっと」
 その言葉に、私は呟くように答えた。とても小さな声だったけれど、真也はちゃんと聞き取ったらしい。
 相好を崩して、大きな花束ごと、私を抱き締めた。

Fin.



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