短編7

ギフト(3)




「……そ」
 無意識のうちに一言を出してしまってから、口を噤んで続きを呑み込んだ。
 何を言おうとしたのか、圭介自身にもよく判らない。自分は一体、冬椿になんて言おうとしたのだろう。そんなのってない、か。それとも、そんなことはない、か。似たような響きなのに、まったく違う、二つの言葉。けれど、どちらも、目の前にいるこの少女には、なんの救いにもならないという意味では、おんなじだ。
 冬椿は目を伏せたまま、静かに続けた。
「わたしは、人の先は読めても、自分の先は読めぬ。この結婚は、果たして、吉に転じるのか、凶に転じるのか。……あるいは、今とさほど変わらない、のか」
 それだけは嫌じゃ、と独り言のように言葉を落とす。
 母にも姉妹にも、周りの女房達にも疎んじられ、唯一の心の拠り所でもあった父親にも遠ざけられようとしている現在。その状況を黙って受け入れるしかない自分。
「これがこの先も同じように続くのだとしたら、もっと悪くなっていくと考えた方がまだしも気が楽じゃ。けれど、どうなるかは、判らない。わたしにも、誰にも、判らない。それがたまらなく怖くて不安だ。とても──心細い」
 そう言って、冬椿はようやく顔を上げ、圭介と視線を合わせた。
 圭介よりも年下の愛らしい少女は、まだ幼さの残る顔のまま、大人びた悲しげな瞳をゆるりと細めて、微笑んだ。
「……圭介も、そうだったのであろ」
「…………」
 疑問でもなく、確認でもなかった。ただ事実を述べるように、淡い微笑を浮かべた冬椿に言われ、圭介は何も言葉を返せない。
 木のテーブルの上に置いた手を、拳にしてぎゅっと握る。
 頭上の満月に照らされて、こちらを見る冬椿の姿が白い光に包まれて輝いているようだった。目を逸らしたくてもそう出来ず、強張った顔で、圭介はそれを凝視する。
「俺は……でも」
 やっと、声を口から絞り出した。
「でも、俺なんか、別に……。ただ受験勉強が嫌で二浪の重みに耐えられなかったってだけで……それは、俺が弱かったってだけで、椿ちゃんとは違う」
 受験なんて、長い人生のうちの、ほんの一部の関門だ。誰だって、しんどいのを我慢して、それでもなんとかそこを乗り切って、前へと進んでいくのだ。それは、大人になるまでの、通過ゲートの一つに過ぎない。この先の人生には、もっと辛くて大変なことが数えきれないほど待ち構えている。
 なのに、その程度の困難にも打ち勝てなかったのは、ひたすら圭介の精神が脆くて弱かったという、それだけの話なのだ。圭介にとっては、このままじゃ今度の試験も失敗するかもしれないという恐怖より、こんなことも乗り越えられないという、自分自身の不甲斐なさに対する失望のほうがよほど大きかったし、ショックだった。逃げることばかりを考え続けていたのは、そういう自分を直視できなかったからだ。原因はすべて、圭介の甘さ弱さにある。
 ──冬椿とは、まったく違う。
「何が違う? 圭介も、つらかったのであろ。つらいことに、大きいも小さいもあるものか」
「でも、それは、俺がだらしないからってだけの」
「先が見えないことが、怖くて、不安で、心細かったのであろ。それは誰もが同じ、と言えばそうだが、だからといって、苦しさが軽くなるわけでもない。本人の痛みは、本人にしか判らぬものだからな」
 冬椿の落ち着いた声には、同情も憐憫も含まれてはいなかった。それが余計に胸を衝いて、圭介はぐっと歯を喰いしばり、下を向く。
「わたしとそなたは似た者同士じゃ。どちらも弱く、どちらも背中の重みに喘いでいた。その重みから、逃げたい、と心の底から願っていた。ここではないどこかへ。自分が息の出来る場所へ」

 ──もっと自由のある場所へ。
 ──何もせずとも血筋だけで将来が決まるような安楽な場所へ。

「同じことを強く願う、二つのその魂が共振し、遠く隔てた時と世界を、ほんの束の間、交わらせた。……この禍々しいほど美しい、満月の力で」
「…………」
 圭介は再び顔を上げた。冬椿に向かって、弱々しく笑いかける。
「……だから、椿ちゃんは、驚かなかったんだ? 俺が、君と同じことを考えてる人間だって、判ったから」
 きっと、冬椿にとって、それさえ判ればあとは些細な問題でしかなかったのだろう。圭介の説明を興味なさそうに聞き流していたのも、そのためだったのかと訊ねれば、少女は穏やかに笑って見せた。
「最初に見た時から、そなたはとても苦しそうな目をしていたからな。わたしも多分、こんな目をしているのだろうなと思った」
 そう言われて、圭介は、また少し笑った。我ながら、自嘲の混じった笑い方だと思う。口元が歪んで、笑うというよりは、まるで泣きそうだ。
「……じゃあさ」
 自分の声は、ずいぶんと、乾いて聞こえた。
「じゃあ、いっそホントに逃げようか、二人で。どっか遠くに行って、何もかもを忘れて馬鹿騒ぎでもしようか。椿ちゃんも、望まない結婚なんてすることはない。俺だって受験なんて忘れちまえばいい。このまま、電車に乗って、金の続く限り行ける場所まで行って、二人で何もかも放り投げて、遊びまわろうか」
 口に出したら、本気で実行したくてたまらなくなった。
 さっき考えた、何もかもが友人の仕組んだ芝居、という仮説に、今となっては縋りつきたい気分だった。冬椿のこの長ったらしい黒髪を短く切って、今どきの洋服を着せたらどんなに似合うだろう。手を繋いで、電車に乗ったり、街中を歩いたり、なんて、想像しただけでも楽しそうだった。冬椿の白っぽい頬が赤く染まって、明るい笑い声を立てるところを、どうしても見てみたい。
「な、そうしよう。行こうぜ、椿ちゃ──」
 座っていたベンチから出し抜けに立ち上がり、圭介は冬椿の手を取ろうと、自分の腕を伸ばした。

 ──しかしその腕は、あっけなく、冬椿の身体をすり抜けた。

「な」
 目を見開き、息を呑んだ。
 自分の手を見て、それから目の前にある冬椿を見る。冬椿のほうは、黙って圭介のその様子を眺めていた。
 おそるおそる、もう一度、冬椿に向かって手を伸ばしてみた。
 幾枚も重ねられた、重そうな着物。重量感も、質感もある。それは間違いなく、すぐ 「そこ」 にある。間違いなく、存在している。少なくとも、圭介には、そう見える。
 ──なのに。
 再度試してみても、結果はやはり同じだった。圭介の手は、冬椿の着物を通り抜け、空気を切る感触しかない。真っ直ぐに伸ばしてみても、阻むものが何もない。どころか、何かに触れることもない。向こう側へと一直線に、冬椿の身体を突き抜ける。
 まるで、ホログラムだ。すぐ間近にあるように見えるのに、実体はそこには存在していないのだ。
「…………」
 何も、言葉が出てこない。圭介は固い表情で再び自分の手の平を見たが、それは小刻みに震えているだけで、何も伝えてはこなかった。
 冬椿の柔らかさも、温かさも、何も。
「……まこと、儚い夢のような逢瀬じゃのう」
 歌うようにゆるやかな冬椿の声がする。手の平から外した視線を向けると、冴え冴えと輝く月の光を浴びて、少女がさびしそうに笑った。
 ──その姿が、さっきよりもずっと、薄くなっていた。


「……椿、ちゃん」
 自分の口から出る声が掠れている。冬椿はまだちゃんとそこにいるけれど、確実に、その姿はおぼろげになりかけていた。よくよく気がついたら、着物の端が、ゆらゆらと陽炎のように揺らめいていて、眩暈がした。
 月の魔力の時間切れ、ということか。
「椿ちゃん、待ってよ」
「待てと言われてもの。こればかりはおそらく、人の力でどうにかなるものではあるまいよ」
 冬椿はまるで子供に言い聞かせるような口調で、圭介に向かって言った。最初から変わらない、その動じなさが、なんだかやたらと憎たらしい。そりゃ確かに、この邂逅は、神様だかなんだか判らないけれど、人間の手には遠く及ばない存在のただの気紛れだったのかもしれない。満月が起こした、千年に一度の奇跡だったのかもしれない。でも──でも、だからって。
 圭介はまだ、冬椿に何も言ってやれていないのに。
「つば」
「そうじゃの、それでもこの出会いに、ひとつ、意味があるとしたら」
 焦って名を呼ぼうとした圭介の声を遮るように、冬椿がゆったりと言った。
「わたしはそなたに、わずかばかりの贈り物をしてやれると思うぞ」
「……は?」
 唐突な申し出に、圭介は困惑した。贈り物って何だ。お互いが幻のような存在でしかないこの状況で、物品のやり取りなんて出来るとは思えない。
「圭介」
 冬椿が、真っ直ぐに圭介を見て、目を細めた。

「──そなたには、ちゃんと、明るい未来がある」

「…………」
 圭介は言葉に詰まる。胸の中にいろんなことが溢れて、何かを言おうにも、喉の手前が塞がれてしまって無理だった。ただ、冬椿の澄んだ大きな瞳を見返すことしか出来なかった。
「圭介は、ずうっと走って走って、走り続けて、ちょっと疲れてしまったのだな。一度足を休めてしゃがみこんだら、周囲が真っ暗で、もう走れなくなってしまったのであろ。よいか圭介、とにかく、立て。立ち上がって、途方に暮れなくても大丈夫。わたしが道の先を示してやるゆえに、心配せずとも、そのまま進め。わたしの先見の力は確かだぞ」
 自分の先が見えなくて、怖くて、不安で、心細い。そう言ったその口で、冬椿は圭介の未来の保証をして、にこりと笑った。
「桜の蕾の下で、圭介が笑っているのが見える。大丈夫、努力は報われる。そなたは少々小うるさいが、優しくて、真がある。安心しろ、そなたの行く先には、ちゃんと、眩い光がある」

 ──それが、わたしからの贈り物だ、と。

 冬椿の身体が、白い月光に包まれる。今にも消えそうなほど、彼女の姿が薄くなっていることに気づいて、圭介は慌てた。
「冬椿!」
 名を叫んで呼び止めようとしたが、それは無理だと悟った。彼女をこの地に留めることは出来ない。圭介には圭介の人生があるように、冬椿には冬椿の、生きていく場所がある。
 どんなに逃げたいと願っても、そこで生きていくしかないのだ。自分も、冬椿も。
「冬椿──俺も、言ってなかったけど、俺も」
 思いきり伸ばした両手は、やっぱり冬椿の身体を通過していくだけだった。本当は、頭を撫でてやりたかったけど。自分よりもよっぽど大人びた、でもやっぱり自分よりも年下の、この女の子の手を握ってやりたかったけど。
「俺も、予知能力があるんだよ」
「…………」
 圭介の言葉に、冬椿はぱちりと一つ瞬きをしたが、疑問を差し挟むことはしなかった。驚くことも、困惑もしない。確認することも、問うこともしない。思えば、冬椿は、最初からずっとそうだった。圭介の言葉を、そのまま受け入れてくれていた。
 だから、冬椿はこの時も、ただ、「……そうか」 と、柔らかく微笑んだだけだった。
「俺にも未来が見える。椿ちゃんは、きっと、幸せになるよ。兵部卿の宮ってやつも、結婚を承諾したのは親父さんに言われたせいかもしれないけど、実際に会ったら、椿ちゃんのことを気に入って、好きになる。椿ちゃんはふてぶてしいところはあるけど、可愛いんだから。顔も、性格も、すごく可愛いよ。この世界の女の子だったら、俺、絶対に、付き合って、ってお願いしてるよ。だから、そいつだって、惚れるに決まってる。愛されて、大事にされて、邸に迎え入れられて、娘とも仲良くなって、自分もたくさん子供を産んでさ。優しい夫と、椿ちゃんのことが大好きな大勢の子供たちと一緒に、賑やかで幸福な家庭ってやつを築くんだ。絶対だよ」
 こんな早口で、きちんと冬椿に聞こえるだろうか。言っている内容は、彼女にちゃんと伝わるだろうか。自分の口が上手く廻らないことを、この時ほど悔しくもどかしく思ったことはなかった。
「絶対に、冬椿は幸せになるよ!」
 どうしても、それだけは言いたくて、念を押すように繰り返した。予知能力があるなんていう圭介の言葉を、冬椿が信じてくれるかどうかは判らない。実際、嘘だ。それでも圭介は、本当に心の底から、そう願っていたし、祈っていたし、自分がそう思っていることを、彼女に伝えずにはいられなかった。
「……そうか」
 冬椿は、またそう言った。
 その頬を、ぽろぽろと滴が落ちていった。月光に照らされて、真珠のように美しく輝く。
「──そなたが言うのなら、そうなのであろ」
 呟くようなその言葉と、嬉しそうな笑顔を残して、光の粒とともに、冬椿は消えた。


          ***


 それから、圭介はがむしゃらに受験勉強に取り組んだ。
 親も、予備校の講師も、友人たちも、圭介がまた立ち直ったことに安心して、ほっと息をついているようだったが、そんなことも頭になかった。立ち直る、というより、とにかく圭介は冬椿の言うように、とりあえず立っただけで、内容はやっぱり右から左へと抜けることが多かったし、やる気が出たわけでもなかった。
 正直、大学に合格するとか、そんなことさえ、どうでもよかった。
 ……ただ。
 ただ、圭介は、どうしても、冬椿の言葉を 「嘘」 にしたくはなかったのだ。彼女の言ったことが本当にならなければ、自分が彼女に言ったことも本当にはならないような、そんな気がしてならなかった。だから、まるで追い立てられるように、勉強にのめり込んだ。
 冬椿の 「先見の能力」 に、どの程度の信頼性があるのか。それとも、そもそもあの言葉は、圭介を立たせるために言ってくれただけのものなのか。そんなこともどうだってよかった。
 圭介は、自分のためではなく、冬椿のために、受験に立ち向かう決意をした。
 頭には入らなくても、時々吐きそうになっても、放り投げることはしなかった。そうやって、無理矢理にでも自分を奮い立たせて問題集に取り組んでいるうちに、いつの間にか、シャーペンを持つのが苦にならなくなっていた。ぽっかりと遅れてしまった分を取り戻すのは確かに少々きつかったが、勉強を放り出す前の状態まで持ち直すことが出来たら、あとはかえってそれまでよりも速いスピードで、問題の一つ一つを吸収していった。
 つまり、冬椿の言ったとおりだったのだ。圭介は疲れきってへたり込み、走り方を忘れてしまっていただけだった。一度立ってみれば、走り方は、脚が勝手に動きを覚えていた。
 ……そして、冬椿との出会いから数か月後。
 圭介は、大学に合格した。
 発表の日、桜の木には、ちらほらと蕾がついていた。


          ***


 受かったのは、もともと第一志望だったところよりも難関と言われていた大学だったので、両親は大喜びだったし、友達も散々小突きながら祝福してくれた。よかったよかったと本当に安心する彼らの姿を見て、圭介自身もようやく実感が湧いてほっとしたくらいだ。
 大学に入ってからは、それまでとは打って変わったように平穏で呑気な時間を過ごすようになった。
 楽しいこともあるし、それなりに大変なこともあるが、おおむね平和な学生生活だった。入ってみれば、大学というところには、浪人経験者はものすごくたくさんいた。圭介のように二浪して入学した人間だって、決して珍しくない。誰も、年齢差なんて気にしない。あの、暗くて重くて潰されそうだった浪人時代はなんだったんだ、と思うほどに、そこには気楽でのどやかな日常ばかりがあった。
 大学で新しく得た友人たちと、遊んで、ふざけて、笑って。時にはコンパで騒いだり、酒を飲んだり。
 ──そんな時間の合間に、圭介は、ふと、考える。

 冬椿は、あれからどうしただろう。

 圭介と別れて、婿取りをしただろう冬椿。逃げたいとは思っても、結局、逃げることの出来なかったあの女の子は、自分の力で、幸福を掴むことが出来ただろうか。
 時代が離れすぎていて、彼女の 「その後」 は、圭介には確認のしようがない。大学の図書館で、片っ端から平安時代の史料を漁ってみたけれど、当然のことながら、「冬椿」 なんて名前はどこにも出てはこなかった。そもそも、冬椿が過去に実在していた人間なのか、それとも並行して進んでいる、異なる世界の住人なのかだって、はっきりしていないわけだし。
 だから、判らない。判らないけれど、考えずにはいられない。どうしても。
 圭介が彼女の言葉で救われたように、圭介の言葉は、冬椿に救いをもたらしただろうか。
 少しは、立ち上がる力になっただろうか。逃げないで立ち向かう、勇気の糧になっただろうか。幸せになろうという意思を持てただろうか。
 笑えて、いるだろうか。
 ……冬椿から貰った贈り物に、圭介は、ちゃんと返してやることが出来ていただろうか。
「宗田君、何してんの? そんなところでぼーっと突っ立って」
 食堂に向かう途中、キャンパス内の歩道で青空を見上げて考えていたら、後ろから元気な声をかけられた。振り向くと、同じクラスの女の子が怪訝な顔でこちらを覗き込んでいた。
「……えーと」
 顔は判るが、名前が思い出せない。圭介が言葉を濁してまごついていると、女の子は気を悪くする様子もなく、あははと陽気に笑った。
「相川でっす。相川、椿」
「……え」
 息が止まりそうになった。
 別に、そんなに珍しい名前というわけでもないのに、胸に突き刺さるくらいの衝撃だった。
 今まで、まったく気にもしなかった同級生の顔を、穴が開くほど見つめる。そういや、けっこう可愛い子がいる、と友人たちがひそひそと囁くその視線の先にいた子ではないだろうか。圭介自身はちっとも興味が湧かなかったので、今までろくろく正面からその姿を目に入れることもしなかった。
「……椿ちゃん、っていうんだ?」
 そりゃ、もちろん、偶然に決まっているのだろうけど。
「え、いきなり名前呼びなの? まあ別にいいけどさ。椿って、けっこういい名前でしょ? 椿姫みたいで」
 大きな瞳、小さな顔。肩までしかない短い髪は、かすかに明るい色に染められている。見た目は大人しそうなのに、口を開くと、性格の能天気さと大雑把さが窺い知れた。
「……俺の名前とか、よく覚えてたね。今まで、話したことないと思うんだけど」
「うん、だって、一目見た時から、なんとなく気になってたもん。あ、これ、告白じゃないからね、全然」
 自分で言って、けたけたと笑う。
「なんていうの、勘、っていうの? あたし、昔から、そういうの冴えてるんだよねえー。この人とは気が合いそう、とか。この人と仲良くなったら楽しそうだな、とか」
「…………。なんとなく、いいことがありそう、とか?」
 圭介が少しだけ笑みを浮かべて訊ねると、そうそう、と椿はまた笑った。よく笑うやつだなあ、と圭介は呆れたが、その笑い方は、まったく不愉快なものではなかった。
 ──この出来事は、吉に転じるか、凶に転じるか、というくらいの、ぼんやりしたものだ。
 以前に聞いた声を、思い出した。


 ……たとえば、千年の昔。
 大納言の姫君が、意に染まぬ結婚を親に押し付けられて、やむなくそれに従った、という話があったとして。
 けれど、案外、その結婚は、上手くいったのかもしれない。
 夫となった男は十二歳も年上で、その上バツイチでコブ付きで、最初のうちは渋々のように新しく得た妻と接していたのかもしれないけど。
 でもそいつは、一緒に時間を過ごしていくうちに、若い奥さんの可愛さに気づいちゃったりしたのかもしれない。
 外見はその当時の美の基準にそぐってはいなくても、彼女の中にある素直さやいじらしさに気がついて、惚れちゃったりしたのかも。それで、真実の愛ってのに目覚めて、この上なく奥さんを大事にして、仲良く暮らしていったのかも。
 政治には関心のない男だから、彼女の能力を利用することもなく、なんとなく、結婚してから良いことばかりが続くなあ、なんて呑気に考えたりして、余計に可愛くなって。
 血の繋がらない娘にも慕われて、自分も子供をたくさん産んじゃって。
 そうやって、幸せに人生を終えることが出来た、のかもしれない。
 ──その血筋が、現代にまで伝わっていたとしたって、別に不思議はないんじゃないだろうか。
 千年、なんて、途方もない長い時間にも感じるけれど、圭介だって、誰だって、今ここに生きている人間は、そんな悠久の昔から、代々受け継がれた命の果てにこの場所に辿り着いて生まれ落ちた存在なんだから。
 いつだって、過去から未来へと、時間は続いているのだから。


「…………」
 少し、泣きそうになった。それを誤魔化すために、椿の方を向き、ことさら軽い調子で誘いをかけた。
「じゃあ椿ちゃん、とりあえず、今日の講義が終わったら、お茶でも飲みに行こうか」
「ええー、何、それ。ナンパ? 宗田君て、意外と軽いんだ」
「俺とお茶を飲むと、この先いいことがある。かもしれない」
 予言者のように、真面目くさった声で厳かにそう告げる圭介に、口を曲げていた椿が噴き出した。
 それから、
「──宗田君が言うのなら、そうなのかもねえ」
 と言って、にっこりと笑った。

Fin.



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